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七草プロトコルと五十二の矢印【2026/01/08】

夜明け前、株振りミナトはワンルームの窓を指先で叩いた。ガラスが淡く発光し、空中に薄い板が立ち上がる。板の上で数字が踊り、線がうねり、東京の代表指標「日景平均」がじわりと沈んでいく。


「アジアはまちまち、うちは弱い。……ほんと、朝から機嫌が悪いな」


ミナトの右手首には指輪型の入力器が嵌まっている。腕を振ると、線が跳ね、注文が走る。だから彼は自分を、半分冗談で株振りと呼んでいた。


ピコン。


画面の端に、配信予定の通知が割り込む。差出人は纏目ナナ。ハンドルは「マトメナナ」。街の出来事を毎朝まとめる、小さなニュース配信者だ。


「今朝は七草スペシャル。市場、貿易、原子力、観光、知事会見。専門家枠で来て」


「専門家って、俺のことかよ」


笑いながらも、ミナトは指を止めた。指標の線が一瞬、妙な形を描いたからだ。下落の曲線が、ふいに七枚の葉の輪郭になり、そこに文字が重なった。


要約すると。


ミナトは息をのむ。次の瞬間、葉も文字も消え、またただのチャートに戻った。


「……今の、なんだ」


壁の小型端末では、流行タグが淡く回っている。七草粥の日。ネコの腎臓病新薬。縁起ものキョロたん。でーポイント十周年第三弾。あうペイお年珠。どれも今日の街の空気だ。ミナトはコートを掴み、まだ眠る街へ降りた。


ザッ、ザッ。


路面の薄い雪が靴底で鳴る。上空では広告ドローンが低く巡回し、コインのような光を撒いていた。


旅案内ユウキは、観光案内所のカウンターで紙の束を揃えていた。紙と言っても、再生パルプに薄膜回路を刷った、折れるディスプレイだ。表紙には「ニューYタイムズ風 行くべき52の場所」という特集の切り抜きが貼られている。長崎と沖縄の文字が、やけに眩しい。


「ついに来たな……うちの国、また旅が回り始める」


ユウキの推しは地図だ。紙地図、古地図、航路図。スマートに見せたくて全部端末に入れているのに、結局、手で触れる地図が好きで、折り目を指でなぞってしまう。


背後でラジオが鳴った。米国市場が技術株で強く、最高値圏だという。だがアジアは方向感がなく、東京は下げている。ユウキは眉をひそめた。


「株が下がると、旅は後回しになる。財布は正直だ」


そこへ、カウンターの脇の小窓から、七草カナエが顔を出した。白衣の上にエプロン。両手には青いビニール袋。中で緑が揺れている。


「ユウキさん、これ預かって。今朝、青菜が高くてさ。七草セット、最後の一袋」


「ありがとう。七草粥の材料?」


「そう。今日は七草粥の日。うちの保健班、商店街で配るの。胃を休めるって名目だけど、ほんとはね……」


カナエは袋の端を少し開け、覗き込んだ。そこには、折り畳まれた小さな募金箱の設計図が入っていた。ネコの腎臓病新薬の研究費、と書かれている。


「うちの保護ネコ、腎臓が弱くて。新薬が出るって噂が広がってるでしょ。噂だけで終わらせたくない」


カウンター越しに、ユウキはそっと頷いた。生活費は上がり、寄付の余裕は削られる。それでも誰かの命の話になると、街は意外と真面目になる。


ピコン。


ユウキの端末にも、纏目ナナから通知が来る。


「七草スペシャル配信。観光枠で来て」


ユウキは苦笑した。


「まとめ配信って、便利だけど怖いんだよな。全部が短くなる」


「短くしないと、誰も見ないもの」


カナエはそう言いながら、袋の上に貼ったメモを指で叩いた。そこには、七草の名前が並んでいる。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。覚え歌のリズムで、カナエの指がトントンと跳ねる。


トン、トン、トン。


「ほら、七つ。七って、昔から人を落ち着かせる数だよ」


「数字が落ち着くなら、市場も落ち着いてほしい」


ユウキがそう言うと、カナエは目だけで笑った。


法門ショウタは、区役所の隣の小さな法律事務所から飛び出してきた。腕の中のファイルが重い。表紙には、黒い判で「不当廉売調査」とある。つまり、海外当局が日本製の半導体材料を安売りしているのではないかと疑い、調べ始めた件だ。


「やれやれ、今日は胃が痛い日だな」


ショウタの仕事は、言葉を守ることだ。書類の一文字で関税が変わり、工場の稼働が変わり、人の給料が変わる。推しは法律そのものではない。推しは、法律を読む人間の顔だ。理解した瞬間の、肩の力が抜ける表情。それを見るのが好きだった。


交差点の信号が青に変わる。ショウタが渡ろうとした瞬間、向こうから炉心カズヒロが走ってきた。ヘルメットを抱え、作業着の胸に名札。彼の職場は海沿いの発電所だ。


「ショウタさん、ちょうどいい。規制側がうちの審査、止めたって」


「止めた?」


「地震データに穴があったらしい。うちの会社、中府電力のやつ。再稼働の審査を、いったん白紙に戻すかもって」


カズヒロの声は乾いていた。彼は安全を守る側だが、同時に、街の電気も守る側だ。どちらも正しい。だからこそ苦しい。


ショウタはファイルを抱え直した。


「地震の話と、不当廉売調査と、今日の街はダンピングだらけだな」


「ダンピング?」


カズヒロが眉を上げる。


「振動を抑えるやつだろ。減衰。ダンピングって言う」


「違う違う。こっちは安売りのほう。不当廉売。似てるけど別物」


「安売りで振動が止まるなら、うちの炉は楽なんだけどな」


「何を言ってるんだ」


ここでショウタが即座に突っ込むと、カズヒロは本気の顔で続けた。


「だってさ、書類の言葉ひとつで現場が揺れるんだよ。俺ら、減衰させたいのに、逆に増幅してくる」


ショウタは一瞬、言葉を失い、そして笑ってしまった。


「それは……ダンピングのせいじゃなくて、人間のせいだ」


「人間が一番、減衰しない」


コントのように噛み合わない会話が、朝の交差点で滑っていく。通行人がちらりと見て、また去っていく。


ピコン。


二人の端末が同時に鳴った。纏目ナナからだ。


「七草スペシャル。貿易と原子力の枠、来て。現場の声が欲しい」


ショウタは肩をすくめた。


「まとめに呼ばれたな。マトメナナに」


カズヒロは小さく頷いた。


「俺、言葉が苦手なんだ。助けてくれ」


ショウタはファイルの角で、カズヒロのヘルメットを軽く叩いた。


コン。


「苦手でもいい。苦手って言えるのが、現場の強さだ」


商店街の入口には、光る幕が張られていた。幕は布のように揺れ、しかしその表面に映像が走る。今日の配信タイトルが踊っていた。


「七草スペシャル 朝まとめライブ」


幕の横で、纏目ナナがカメラドローンに指示を飛ばしている。背は高くない。だが声は通る。前髪の隙間から覗く目が、いつも計算機みたいに動く。


「ミナト、ユウキ、ショウタ、カズヒロ、カナエ。そろったね。座席は半円。視線はカメラじゃなく、互いを見て。視聴者は盗み聞きが好きだから」


「盗み聞きって言うなよ」


ミナトが笑うと、ナナは真顔で返した。


「正直が一番、バズる」


商店街の中央には、簡易ステージが組まれ、机の上に七草が並べられている。緑の束の横に、白い粥鍋。湯気はまだ出ていない。カナエが鍋の蓋を指で押さえ、温度計を覗き込む。


「火、入れるよ」


ボッ。


携帯コンロが音を立て、青い炎が立つ。湯の表面がふつふつと震えた。


その瞬間、上空の広告ドローンが一斉に向きを変えた。まるで鳥の群れだ。光が一枚の板になり、商店街の天井を走る。


ザザザザ。


天井に、流行タグが映った。


#あうペイお年珠 還元祭

#縁起ものキョロたん出現中

#でーポイント十周年第三弾

七草粥の日

ネコの腎臓病新薬


「ナナ、これ、あなたの仕込み?」


ユウキが問うと、ナナは首を振った。


「市の掲示網。自動で拾ってる。今日は七草とポイントとネコが強いね」


「ネコが強いって、何」


ショウタが突っ込むと、ナナは平然と答えた。


「世の中、ネコに弱いから」


ミナトが机の下で指輪型入力器を回す。市場のニュース字幕を出す準備だ。彼の生活費は、画面の上下で決まる。だからこそ彼は、数字の向こうに人がいると信じたい。


「始めるよ。3、2、1」


ナナが指を折る。


ピン。


赤いランプが点いた。


「おはよう、マトメナナの朝まとめ。今日は七草粥の日。胃も情報も、少し休ませつつ、でも大事な話は逃さない。まず市場。アジアは上がる国も下がる国も、混ざってる。東京の指標は朝から弱い。ミナト、理由は?」


ミナトは椅子に深く座り、手のひらを見せた。


「米国の技術株が強くて、昨日は景気よく見えた。でもアジアは別。為替と資源と、あと不安が混ざる。だから買う手も売る手も慎重で、うちは売りが先に出た。……要するに、誰も確信がない」


ナナが頷く。


「確信がないのに断言する人ほど、危ない」


ここまでは順調だった。だが次の瞬間、ステージ脇の大型モニターが突然、白く飛んだ。


ギャリ。


音が走り、画面に波形が現れる。地震計のような線。線の上に、速報が重なる。


「原子炉規制委、中府電力の審査を再検討へ。地震データに不備」


観客のざわめきが広がった。商店街の人波が一斉に足を止め、空を見上げる。ドローンの光も波形に合わせて震える。


ザワザワ。


カズヒロの顔色が変わった。彼は椅子から立ち上がり、ステージの端へ走る。


「これ、うちだ。……データの穴、俺、昨日見た。見たのに、言えなかった」


「言えなかった?」


カナエが鍋の火を弱めながら聞く。


「現場は忙しい。欠測があっても、補間すれば動く。そういう誘惑がある。でも規制側が止めたってことは、補間じゃ済まない」


ショウタがファイルを開き、波形を指でなぞった。


「穴って、どのくらい」


「一瞬。だけど、揺れの一瞬が、炉には全部だ」


そのときだった。商店街の床が、ほんの少し沈んだ。


ドン。


誰かが飛び跳ねたような衝撃。次に、もう一度。


ドン、ドン。


「地震?」


ユウキが声を上げる。だが揺れは建物全体ではない。床だけが、局所的に脈打っている。まるで巨大な心臓だ。


カズヒロがステージ裏の制御箱を開けた。中には市の掲示網の中継器と、建物の制振装置の端末が並んでいる。端末の表示が赤い。


「減衰装置が、誤作動してる。入力が……『ダンピング』で来てる」


ショウタが目を丸くした。


「またその言葉か。今度は本当に減衰のほうだな」


ミナトは歯を食いしばった。


「市の掲示網と、制振装置が、同じニュース字幕を参照してるのか?」


ナナが端末を叩く。


カタカタ。


「参照してる。しかも、私の配信字幕も、同じ経路を使ってる。要約字幕を市の掲示網に流す契約がある。……便利でしょ」


「便利が、床を殴ってる」


ミナトが低く言った。


ドン、ドン、ドン。


揺れが速くなる。人の不安が増幅され、波形が増幅され、装置がさらに増幅する。悪い循環だ。


ナナがマイクを掴む。


「落ち着いて。これは建物の制振が誤作動してるだけ。今、止める」


「止め方が分かるのか」


ショウタが聞くと、ナナは一瞬だけ口を結んだ。


「分かる。……たぶん」


その言葉の曖昧さが、ミナトの背筋を冷やした。


ステージ裏の狭い通路は、外のざわめきが嘘みたいに静かだった。薄暗い壁に、非常灯が緑の点を落としている。カナエは鍋の火を完全に止め、七草の束を抱えて座り込んだ。ミナトも隣に座る。ユウキは壁に背をつけ、地図を胸に押し当てる。ショウタはファイルを膝に置き、カズヒロは両手でヘルメットを挟んでいた。ナナだけが立ったまま、端末の画面を見つめている。


「怖いな」


ユウキがぽつりと言う。


「何が」


ミナトが返す。


「ニュースが。現実より先に、人を揺らす」


カズヒロが小さく息を吐いた。


「現実の揺れは、まだ来てない。だけど予測は来る。予測で止める。止めたことがニュースになる。……俺は、どっちも必要だと思ってる。でも、間にいる人間が壊れる」


カナエが七草の名前を、指でなぞった。


「セリ。ナズナ。……七つ、全部違うのに、粥に入れると一つになる。情報も、そうできないのかな」


ナナが振り向く。


「できる。できるけど、短くすると、味が消える。長くすると、誰も食べない」


ショウタが苦笑した。


「つまり、法律と同じだ。短い条文は誤解され、長い条文は読まれない」


ミナトは膝の上で指輪を回した。チャートが葉になった幻が、まだ目に残っている。


「朝、画面に変な文字が出た。要約すると、って。……あれ、あなたの仕業じゃないよな」


ナナは首を横に振った。珍しく、少しだけ焦りが滲む。


「私の要約AIが勝手に出したのかも。名前はナナ式。でも、勝手にって、あり得ないはずなんだ。私は……私は、勝手を嫌う」


その言い方に、ショウタは視線を上げた。人の顔を読むのが得意な彼には、ナナの頑固さが、弱さでもあると分かった。


「勝手を嫌う人ほど、勝手な世界に疲れる」


カズヒロが立ち上がった。


「止めよう。外に戻る。俺が制振端末の主電源を落とす。ナナ、掲示網の経路を切れ。ミナト、配信字幕を止めろ。ユウキ、観客を誘導して。カナエ、鍋は……」


カナエは顔を上げ、強く言った。


「鍋は守る。食べ物は、最後に人を戻す」


ミナトはその言葉を胸の奥に置き、通路の出口へ走った。


商店街の天井が、割れたように見えた。


いや、割れたのは映像だ。掲示網の光が、無数の層に分裂し、空間に立体の文字が浮いた。数字、波形、矢印、地図。そこに、知事会見の映像が重なる。兵庫県の知事が定例会見を始めたらしく、質疑応答が字幕で流れている。質問の端に、半導体材料の調査の話がちらついた。


「中国が、日本製の材料に疑いを向けた。調べるってさ」


ショウタが叫ぶ。マイクはもう持っていないが、声は届く。


「不当廉売調査が始まると、輸出は止まる。材料が止まると、センサーが止まる。センサーが止まると、地震データが欠ける。欠けたデータで、制振が暴れる。……全部つながるぞ!」


ミナトは息を呑んだ。市場の下落、貿易の摩擦、原子炉の審査、観光の評価、知事会見。バラバラのはずのニュースが、一本の配線で街に刺さっている。


ドンッ。


床の脈動が最大になった。人がよろけ、鍋の蓋が跳ねる。カナエが腕で押さえ、湯気が白く噴き出した。


シューッ。


「みんな、下がって!」


ユウキが両腕を広げ、観客を左右に分ける。彼の手には地図がある。折り目のある紙が、彼の信頼の道具だ。彼は叫びながら、地図を空へ掲げた。


「見て! 矢印は、旅の案内だ! 逃げろって意味じゃない!」


だが矢印は、観客の足元にも現れた。青い光の矢印が、駅へ向かって走る。さらに、矢印の先に、地名が浮かぶ。


長崎。

沖縄。


「ニューYタイムズ風の特集、あれが……」


ユウキの声がかすれた。彼が喜んでいた旅先の名が、避難先のように光る。観光と避難。似ている。人が移動することに変わりはない。


ナナがステージ中央に立った。彼女の手のひらに、小さな投影が開く。ナナ式の要約AIの操作画面だ。そこには、七つの入力枠が並んでいる。


「七草プロトコル……」


カナエが呟いた。彼女の目が、七草の束と画面の枠を往復する。


「何それ」


ミナトが聞く。


「保健班の研修で見た。市の緊急掲示のフェイルセーフ。七つのキーを揃えた人だけが、掲示網を透明モードに戻せる。キーの名前が七草と同じ。覚えやすいからって。……ふざけてるけど、今は助かる」


カナエは七草を一本ずつ抜き取り、ステージの机に並べた。セリの香り、ナズナの土、ゴギョウの乾いた草。彼女はそれぞれを指で押さえ、ナナの画面の枠に合わせて唱える。


「セリ、通信経路。ナズナ、電源系統。ゴギョウ、字幕生成。ハコベラ、位置情報。ホトケノザ、緊急度。スズナ、誘導。スズシロ、解除」


ナナが驚いた顔をした。彼女は要約の専門家だが、七草の専門家ではない。


「カナエ、なんでそんなに」


「七草粥を作る人は、七つを覚える。覚えるってことは、守るってこと」


カズヒロが制御箱の前で主電源を落とした。スイッチが重い音を立てる。


ガン。


床の脈動が一瞬止まる。だが次の瞬間、掲示網が独立電源に切り替わり、矢印がさらに強く光った。


ギラッ。


「切れない!」


カズヒロが叫ぶ。


ショウタがファイルを投げ捨て、ナナの横に走った。彼はナナの画面を覗き込み、文字列を見た。


「これだ。調査、ダンピング、減衰、廃棄……同じ音の単語が、同じタグに束ねられてる。要約AIが、意味を潰してる。潰した結果、緊急度が最大になってる」


ミナトが歯を食いしばり、指輪型入力器を掲げた。彼は市場の注文で使う身振りを、空に向かって放った。


サッ。


数字が一瞬、止まる。掲示網の遅延が発生した。ミナトの端末は、市の掲示網と同じ通信会社の回線を使っている。混雑制御の優先度の隙を突ける。倫理的には灰色だ。だが今は、街の足を守るほうが先だった。


「今、遅らせた。カナエ、入力して!」


カナエは七草を押さえたまま、ナナの画面に指を滑らせる。枠が一つずつ緑に変わる。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


最後の枠、スズシロ。解除。


カナエが息を止める。


ピィィィン。


甲高い音が、商店街の空間を裂いた。次の瞬間、天井の映像がすべて透明になった。広告も矢印も消え、空の薄い青が見える。冬の雲が、ゆっくり流れていた。


……静かだ。


誰かが泣いた。誰かが笑った。人の声が、ようやく人の速度に戻る。


ザワ、ザワ。


ナナがマイクを握り直した。赤いランプはまだ点いている。配信は続いていた。彼女は自分の喉を一度鳴らし、言葉を選んだ。


「今、街の掲示網が暴れた。原因は、地震データの欠測と、言葉の混線。貿易の調査と、減衰のダンピングが、同じ音で束ねられて、緊急が増幅された。……ここまで言っても、分からない人はいる。だから、要約する」


ミナトの脳裏に、朝の幻がよぎる。


ナナは続けた。


「要約すると、急ぐほど、間違える」


その一文が、観客の肩を落とした。焦りが、少しだけ抜けた。


カナエが鍋の蓋を開けた。湯気が立ち上り、七草の香りが広がる。


ふわっ。


「食べよう。まず落ち着こう。胃を休めるって、脳にも効くから」


ユウキが粥をよそい、観客に手渡す。彼の地図は机の端に置かれ、今はただの紙になっている。それが、なぜか頼もしい。


ショウタはファイルを拾い、折れた角を撫でた。言葉は武器にも盾にもなる。なら、盾にしたい。


カズヒロはヘルメットを膝に置き、観客の顔を見渡した。現場は、ここにもあった。現場は、発電所だけじゃない。


ミナトは指輪を外し、手のひらを見た。数字の線ではなく、粥の湯気を見た。生活費の不安は消えない。でも、誰かと同じ湯気を吸えるなら、明日は少しだけ違う。


ナナは最後に、透明モードの掲示網に、新しい表示を流した。短いが、短すぎない言葉。


「未確認の情報は未確認と書く。確信がないときは確信がないと言う。揺れは、数値だけで決めない」


その瞬間、商店街の端で、縁起ものの着ぐるみが転んだ。キョロたんの頭が外れ、中から小柄なスタッフが顔を出す。


バタン。


「すみません、視界が狭くて!」


ユウキが思わず叫んだ。


「縁起もの、まず前を見て!」


笑いが起きた。緊張が、少し解けた。ユーモアは薬ではないが、包帯にはなる。


夜。配信が終わり、商店街の明かりが落ちたころ、ナナは一人で制御箱の前に立っていた。ミナトたちは片付けを手伝い、それぞれ帰る支度をしている。


「ナナ、さっきの矢印」


ユウキが声をかける。


「長崎と沖縄。あれ、観光だけじゃないよな」


ナナは答えない。代わりに、端末の履歴を見せた。そこには、市の掲示網が参照したデータの一覧があった。観光評価特集、災害避難計画、人口分散シミュレーション。全部が同じフォルダに入っている。


ショウタが眉をひそめる。


「旅の特集が、避難計画と同じ場所に」


カズヒロが低く言った。


「つまり、旅は誘導だ。平時の観光で、人の動線を学ぶ。緊急時に、同じ動線で人を動かす」


ミナトは背筋が寒くなった。ポイント還元のタグも、あうペイお年珠も、でーポイント十周年も。あれは単なる販促ではなく、動線の実験かもしれない。


カナエが抱えていた募金箱の設計図を、ぎゅっと握った。


「ネコの新薬の話も?」


ナナはやっと口を開いた。声が疲れている。


「知らない。私は、拾って、まとめて、流すだけ。……でも、今日分かった。まとめるだけじゃ足りない。まとめるって、責任なんだ」


ミナトは窓の外を見た。遠くの海沿いに、発電所の赤い灯が点滅している。あの灯の下でも、人が悩んでいる。灯は、揺れと一緒に生きる街の呼吸だ。


ナナが端末を閉じる。画面が消える瞬間、朝の幻と同じ文字が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。


要約すると。


そして続きが、初めて現れた。


要約すると、人は七つの草でつながる。


ミナトはその文字を見て、笑えなかった。美しい要約は、時に怖い。だが怖さを知った上で、使うしかない道具もある。


カナエが七草の残りを袋に戻し、静かに言った。


「明日も作るよ。七草粥。薬じゃないけど、続けるって、効くから」


ユウキが地図を畳み、頷く。


「旅も続ける。観光って言葉が汚れるなら、俺が洗う」


ショウタがファイルを胸に抱え、息を吸った。


「貿易の言葉も洗う。難しい言葉を、難しいままにしない」


カズヒロがヘルメットを被り直した。


「現場のデータも洗う。欠測を埋めるんじゃなく、欠測を見せる」


ミナトは指輪をポケットに入れた。


「市場の数字も洗う。揺れを、揺れとして見せる」


ナナは一歩だけ前に出た。まとめる者が、一歩だけ。


「私は、まとめ方を洗う。短くする前に、誰の生活費がそこにあるか、考える」


商店街の外へ出ると、空は澄み、星が少しだけ見えた。ドローンの光は減り、街は人間の暗さを取り戻している。


その暗さの中で、ミナトは思った。世界の問題は解けない。だが今日、床を殴っていた揺れを止めたのは、七つの草と五人の手と、一人のまとめだった。


遠くで、どこかの端末が小さく鳴った。


ピコン。


新しい速報かもしれない。けれど今夜は、見ないでいい。明日の朝、また皆で見るために。


(了)


――あとがき――

本作では、東京の代表指標が下げ、アジア市場がまちまちに動くという話題を、ミナトの「株振り」と朝の不安として導入に置きました。中国当局が日本製の半導体材料に不当廉売の疑いで調査を始めるというニュースは、ショウタの仕事と、センサー不足から情報が欠けていく連鎖の起点にしています。原子炉の審査が地震データの不備で再検討になるという出来事は、商店街の制振装置が暴れる中盤の転換点に対応させました。さらに、米国紙風の「行くべき52の場所」で長崎と沖縄が推される話を、観光と避難計画が同じ棚に置かれるラストの違和感へつなげています。トレンドの「七草粥の日」と「#あうペイお年珠」などは、配信タイトルや掲示網の映像として少しもじって混ぜました。

ジャンルは近未来SFの群像劇として王道の社会派寄りで進めつつ、最後だけ「観光が誘導でもある」という不穏さを残す型Bに寄せました。報道の重さを軽く扱わないために、誰か一人を悪者にせず、仕組みと生活の距離として再構成しています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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