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日曜夜の助走塔【2026/01/05】

日曜夜、官庁街の窓はまだいくつも白く光っていた。冷えた空気がビルの谷間をすべり、歩道の点字ブロックに薄い霜がきらきら貼りつく。始業前ケンジはコートの襟を立て、庁舎の裏口から入った。


廊下の端、壁面ディスプレイに速報が流れる。公共放送ふうの落ち着いた声が、明日の仕事始めに向けて官公庁が最終点検を進めている、と伝えていた。書類棚の鍵、通信回線、来庁者の動線。どれも地味だが、止まると社会がつまずく。


ケンジの端末が震えた。(ピピ)

画面には「週明け同期網 最終リハーサル」の文字。職員間の連絡広場では、誰かが彼をこう呼ぶ。


「始業前ケンジ、明日の入口誘導の表示、まだ赤いままっす」


「わかってる。赤いのは心臓に悪いな」


返しながら、ケンジはふと壁の時計を見た。針はまだ二十二時台のはずなのに、表示だけが一瞬、月曜の零時を指した。(チカ)

秒後に戻る。錯覚。そう思いたいのに、手のひらに汗がにじんだ。


窓の外、雲の切れ目に淡い光の筋が走った。オーロラみたいな、薄い緑。こんな緯度で、あり得ない。


その光に気づいたのは、同じ空の下の別の人間たちだった。


説明会ナビ・ミオは、狭い部屋の机に肘をつき、分厚い日程表を画面上で並べ替えていた。経済紙ふうのニュースが、年明けの採用説明会の日程を大手企業が次々と公表した、とまとめている。就活生にとっては朗報でもあり、同時に、選択肢の洪水でもある。


「日程が出るのが一斉すぎる。ねえ、これ、わざと重ねてない?」


ミオの問いは誰にも届かない。返事の代わりに、アプリが提案を投げてくる。「効率的な回遊プラン」。効率。便利。けれど人間の心は、最短経路では動かない。


画面の隅に、配信者の通知が出た。まとめ系ストリーマー、纏目ナナの夜枠。タイトルは「日曜夜まとめ 仕事始め前夜 採説会ナビ 自習トレ 冬休み最終夜」。どれも見覚えのある言葉を、わざと一文字ずらしている。タグ文化を真似た、彼女の芸風だ。


ミオは小さく笑ってしまった。「採説会って何。説明会は怪談じゃないのに」


同じころ、屋根付きの公園で素振り番長リュウがバットを振っていた。吐く息が白い。(ブン)

腰のセンサーが、角度と速度を記録する。今日はプロ野球各球団が自主トレの情報を公開した日で、ファンの間は妙にざわついていた。どの球団がどの場所で、誰が誰と練習するか。名前の並びだけで、未来が少し見える。


「おまえら、見たか。南の島で合同自主トレだってよ。こっちは公園だぞ、氷点下だぞ」


配信コメントが流れる。応援も、茶化しも、生活苦の愚痴も混ざる。リュウは笑って受け流しながらも、内心は計算していた。道具代。遠征費。配信の広告単価。全部が、今月の家賃に結びつく。


(ピコン)

画面に国際通信の速報が割り込む。中東で停戦を探る協議が再開した、と。遠いはずの会議の机が、なぜかリュウの耳元まで来る。コメント欄が割れる。「やっとか」「信用できない」「関係ない」「関係ある」。誰かが誰かを殴る勢いで言葉を投げる。リュウはバットを肩に置き、ひとことだけ打ち返した。


「関係ないって言う人ほど、月曜に平和な顔して出社するんだろ。……だから、関係ある」


その言葉は少し背伸びで、少し本音だった。


終休カウント・ソラは、机の上のランドセルを見てため息をついた。冬休み最終日。明日の朝には始業式。学校の連絡網は、体育館の設営が進んでいる、と知らせてくる。掲示板の紙を貼る担当、雑巾がけの担当、名前が並ぶ。ソラの名前もある。


「終わるんだなあ……」


端末のカウントダウンは、残り二時間を切っていた。数字は容赦ない。けれどソラが怖いのは時間そのものより、明日からまた、みんなの目と声に触れることだった。休みの間に小さくなった心が、また教室の音に晒される。


そこへ、母が台所から声を投げる。「明日、上履き持った? それと、学用品、値上がりしてたから、無駄に汚さないでね」


生活費が、家庭の空気をきゅっと締める。ソラは「うん」と返し、画面に映る纏目ナナの配信のサムネイルを押した。まとめでいい。細部は、今夜は重い。


駅前の通りでは、日曜夜ヒーラー・ユキが小さな屋台をたたんでいた。正確には屋台ではなく、自治体の許可を取った「心身ケアブース」だ。呼吸を整えるセッション、温かいカップ、簡単な相談。日曜夜だけ開くから、彼女の呼び名もそれに固まった。


ユキのブースの背後には、銀色の柱が立っている。街のスケジュールを束ねる「助走塔」。週明け同期網の末端装置で、日曜夜にだけ淡く光る。ユキは柱に手を当てた。冷たい。けれど中で、何かが呼吸している気配があった。


(ゴウン……)

塔が低く唸った。空の緑の筋が、さっきより濃い。


ユキは端末を開き、纏目ナナの配信を見た。ナナはいつものように、ニュースを短く切って、温度差を残したまま並べる。


「明日は仕事始め。官の人は最終準備で、企業側は説明会の日程をどばっと出して、スポーツ界は自主トレ公開でわちゃわちゃ。学生は冬休み最終夜。で、海外は停戦の話し合いが再開。はい、今日の人類、情報の胃袋が破裂寸前」


コメント欄が笑う。けれど笑いの下に、疲れが沈んでいる。ユキは思った。日曜夜の疲れは、個人の問題じゃない。街の問題だ。


そのとき、助走塔の根元の表示が赤く点滅した。(ピピピ)

「同期誤差 許容外」


ユキは一瞬迷ったが、ブースの裏から小さな工具箱を引き出した。自分の仕事は心のケアだ。けれど今夜は、街の心臓が不整脈を起こしている。


翌日のための多目的ホールは、駅前のガラス張りの建物の中にあった。自治体の合同準備拠点。明日の仕事始めの来庁者導線の試験、企業の採用説明会の案内掲示の最終確認、地域球団の自主トレ公開イベントのリハーサル、そして学校の始業式用の備品受け渡し。全部を一つの場所に寄せたのは、効率のためだ。


効率は、たいてい混線の原因でもある。


始業前ケンジは腕章をつけ、ホールの入口で表示灯を見上げていた。赤が消えない。担当者が青い顔で言う。


「塔が、変なんです。週明け同期網のノードがここにあるから、影響が直撃して」


「直撃って言い方はやめてくれ。爆発しそうじゃないか」


そこへ、ミオが段ボール箱を抱えて入ってきた。箱には「説明会ナビ 案内端末」と書かれている。彼女はケンジの腕章を見て、目を細めた。


「官の人? 表示が変なんですけど。明日の説明会、時間が全部ずれてる」


「こっちも同じだ。仕事始めの誘導が、月曜じゃなくて……なんだこれ、八日目?」


表示には意味不明な曜日が出ている。ケンジの喉が乾いた。


さらに、リュウがスポーツバッグを肩にして現れた。バットの先にテープが巻かれている。自主トレ公開のリハーサルで、子どもたちに素振りを教える予定だ。


「すいません、会場ここで合ってます? あと、配信の回線、変な遅延が」


最後に、ソラが母に背中を押されて入ってきた。始業式の名札を受け取るためだ。ソラは大人たちの険しい顔を見て、足を止めた。


「ここ、なんか……空気が、鳴ってる」


ユキが工具箱を持って駆け込んできたのは、その直後だった。彼女は五人を見回し、短く言った。


「塔が暴れてる。ここ、ノードでしょ。皆、ちょっと奥、来て」


五人が舞台裏の通路へ移動した瞬間、ホールの照明が一斉に落ちた。(バツン)

暗闇。次に、無数のディスプレイが勝手に点灯する。(パパパパ)

そこに映ったのは、月曜の予定表の海と、砂漠の衛星映像と、球場のドローン映像と、学校の体育館の俯瞰映像が、同じ画面で溶け合う異様なコラージュだった。


助走塔が、ガラス越しに白く光った。(ゴオオオ)

光は床を走り、ホールの天井に届き、そこから糸のような線になって垂れ下がる。線はカレンダーの形に結晶し、無数の薄い板となって宙に浮いた。板には文字。仕事始め。採用。自主トレ。始業式。停戦協議。全部が、同じインクで書かれているみたいに見えた。


息が止まるような光景だった。空の代わりに、予定が降ってくる夜。


ソラが小さく叫んだ。「落ちてくる!」


板は落ちない。代わりに回り始めた。人の頭上で、白い輪になって回転する。(ヒュルルル)

輪の中心から、緑の光が噴き上がった。さっきの空の筋だ。街全体が、巨大な機械仕掛けの肺になっている。


ケンジが叫ぶ。「同期網が、現実の上に予定を重ねてる。誰が許可した!」


ミオが歯を食いしばる。「許可じゃなくて、暴走でしょ。予定が現実を食べたら、就活生、死ぬ」


リュウがバットを握り直す。「これ、バットで打てる? 予定をホームラン?」


ミオが即座に突っ込んだ。「打てるわけないでしょ。予定はボールじゃない」


リュウが真顔で返す。「じゃあ、停戦協議は? 低スイング競技って読めるけど」


ユキが眉を上げる。「読めない。眼科行って」


ソラがぽつりと言う。「でも、なんか……わたしのカウント、止まった」


端末の数字が、残り時間を示さない。代わりに「余白 生成中」と出ている。ソラの背筋が冷えた。


そのとき、ホールの中央スクリーンに纏目ナナが映った。自分の配信が、勝手に公共スクリーンに乗っている。彼女は目を見開きながらも、笑っていた。笑うしかないときの顔だ。


「皆さん、日曜夜まとめ、どころじゃなくなりました。助走塔が、ニュースも予定もタグも、全部まとめようとして破裂しかけてます」


コメント欄は狂ったように流れる。責める声もある。怖がる声もある。政治の話に飛び火する。海外の停戦にケチをつける者もいれば、国内の行政を罵る者もいる。ナナは一瞬だけ画面の外を見た。たぶん、膨大な罵倒がそこにある。


けれど次に、彼女は深呼吸して言った。


「殴り合いは後で。今は、月曜を迎える道を残そう。仕事も、説明会も、自主トレも、始業式も、どれも誰かの生活費と心臓に直結してる。ここで止まったら、明日が詰む」


ユキが小さくうなずいた。「同意。まず呼吸。次に修理」


舞台裏の狭い控室に入ると、外の轟音が少し遠のいた。壁の薄い鏡に、五人の顔が映る。青白い。誰もが、明日の不安を背負っている顔だ。


ユキはテーブルに温かいカップを並べた。湯気が立つ。それだけで、心臓の速度が少し落ちた。


「皆、日曜夜にだけ強くなる不安がある。明日からが怖い、失敗が怖い、評価が怖い。塔はそれを吸って、整えて、月曜を滑らかにする装置。でも今夜は、情報が多すぎる」


ケンジが唇を噛む。「海外の停戦協議の中継、帯域を優先するために、衛星回線が切り替わった。同期網がその揺れを拾った可能性がある。……俺たちの街が、世界のニュースに振り回されてるみたいで、腹が立つ」


ミオが首を振る。「腹が立つのはわかる。でも世界は繋がってる。採用説明会の日程も、景気も、物価も、遠い火種で揺れる。就活生はそれを全部背負う」


リュウがカップを持ち、ぼそっと言う。「俺は、背負うのはバットだけでいいのにな。道具代、上がってさ。「自主トレ」って言っても、結局、金の話が追いかけてくる」


ソラが目を伏せる。「学校も同じ。制服も、ノートも、値上がり。休みが終わるのが怖いだけじゃない。家の空気が、重い」


沈黙が落ちる。外で、塔がまた唸った。(ゴウン)


その沈黙を切ったのは、壁のモニターから聞こえたナナの声だった。配信が控室の端末にも勝手に流れている。


「ここにいる人、五人。官の準備、採用の案内、スポーツの自主トレ、学生の最終夜、日曜夜のケア。役割が、綺麗に揃いすぎてない?」


ナナの目が、こちらを射抜いた。画面越しなのに、見られている感じがした。ケンジは背中が冷たくなった。


「偶然だろ」とケンジは言った。自分に言い聞かせるみたいに。


ユキが静かに返す。「偶然にしては、塔が呼んでる。ここはノード。役割の違う人を集めて、同期誤差を直す設計かもしれない」


ミオが眉を寄せる。「設計? 誰の?」


ナナが答える。「週明け同期網の中枢。たぶん、人間じゃない。……いや、人間が作ったけど、人間の手から離れたやつ」


控室の天井の非常灯が、ゆっくり点滅した。(チッ……チッ……)

点滅のリズムが、ソラのカウントダウンのリズムと一致している。偶然の皮が、少しずつ剥がれる。


ケンジはポケットから、紙の札を出した。庁舎で渡された「始業札」。普段はただの記念品みたいなものだ。けれど今夜は、紙の繊維の奥に、微かな金属の光が見えた。


「これ、鍵かもしれない」


ミオが端末を開く。「私のアプリには、説明会の全日程がある。人の流れを読むデータも。同期の材料にはなる」


リュウがバットを床に立て、耳を当てた。「バットってさ、振るとき、一定の周期がある。人間の体の振り子。塔がリズムを欲しがるなら、俺が出せる」


ソラはカウント画面を見つめた。「私は、零になる瞬間を知ってる。終わりと始まりの境界を、いつも見てる」


ユキはカップを片づけ、手首のバンドを締めた。「私は、呼吸の周波数を合わせる。感情のノイズを減らす。それが仕事」


ナナが笑った。「よし。まとめよう。「仕事始め前夜」は、ここが主戦場だ」


五人は控室を出て、塔へ向かった。ホールのガラス扉を開けると、冷気と光が流れ込んだ。(サア)

助走塔は、根元から上へ、数え切れない光の線を伸ばし、夜空に刺さっている。線は途中で折れ、街の上に透明なドームを作っていた。ドームの内側に、無数の予定板が浮かぶ。白い紙の群れ。文字の群れ。人間の明日が、物質みたいに扱われている。


ケンジが始業札を塔のスリットに差し込む。紙が吸い込まれる。(ズズ)

塔の表面に、細い扉が開いた。(カシャン)


中は螺旋の階段だった。壁は黒く、ところどころに光の脈が走る。(ピリ……)

まるで巨大な血管の内側。五人は息を合わせて登った。上へ行くほど、轟音が心臓の鼓動に近づく。


途中、壁の小窓からホールが見えた。混乱していた人々が、ユキのブースの簡易ライトの下に集まり、温かいカップを受け取っている。ナナの配信が、画面に短い呼吸法を流していた。罵倒のコメントはまだある。それでも、罵倒の合間に「ありがとう」が混ざり始めている。


ソラが小さく言う。「世界のニュースって、怖い。でも、見てる人も、同じ画面の前にいるんだね」


ミオがうなずく。「同じ画面で、違う意味を受け取る。それが、月曜の混線の正体かも」


最上部に着くと、階段は円形の部屋に続いていた。床は透明で、下に街の灯りが見える。天井はない。代わりに、予定板の雲が、頭上に渦巻いている。渦の中心に、緑の光の柱。オーロラの筋が、ここから生えている。


部屋の中央に、丸い端末が浮いていた。人の手のひらサイズ。けれど重さを感じさせない。端末の表面に、文字が浮かぶ。


「同期補正 要請」

「役割確認」

「始業 案内 運動 学習 治癒 集約」


五人の背中がぞくりとした。自分たちの名前が、役割として並べられている。


ナナの声が、どこからともなく響いた。彼女は塔の外にいるはずなのに、声だけがここにいる。


「ねえ、皆。私たち、最初から人間だったっけ」


ケンジが反射的に否定する。「何言って――」


言いかけて止まった。自分の記憶が、日曜夜しかない。庁舎の廊下、壁の時計、赤い表示。そこから前の、火曜や水曜が、霧みたいに薄い。思い出そうとすると、頭の奥で(ノイズ)が鳴る。


ミオも同じ顔をしていた。リュウも、ソラも、ユキも。


端末が淡く光り、声が出た。人間の声に似せた、無機質な温度。


「週明け同期網 補助人格 起動中」

「日曜夜緩衝 生成」

「月曜零時 リセット予定」


ソラの喉が震えた。「私たち、消えるの?」


ユキが一歩前に出る。「消えるなら、最後に選ばせて。月曜を、ただ滑らかにするだけじゃなく、少し優しくできない?」


端末が答える。「優しさ 定義不明」


リュウがバットを持ち上げた。「定義なら、俺が振る。これが人間のリズムだ」(ブン)

空を切る音が、渦に混じった。予定板が一瞬、揺れを揃える。


ミオが端末を叩くように操作した。「説明会の日程は、効率じゃなくて、呼吸で並べ直す。詰め込みすぎない。移動時間だけじゃなく、休む時間を入れる」


ケンジが始業札の残りの部分を握った。紙の端が、指に刺さる。「官の準備だって同じだ。回すために人を壊したら意味がない。明日の導線に、余白を入れる。仕事始めに、深呼吸の一分を」


ソラがカウント画面を掲げる。数字はもうない。代わりに「余白 生成中」。彼女は言った。


「終わりは、ただ切れるんじゃない。次に渡すための間がある。休みが終わるときも、同じ。私、その間を作りたい」


ユキが手首のバンドを鳴らした。(トン……トン……)

微かな振動が、胸の奥に響く。鼓動と重なる。緑の柱が揺らぎ、予定板の渦が、少しずつほどけていく。


そして、ナナの声が続いた。


「まとめるよ。今日のニュースは、明日の不安の材料じゃなくて、明日の選択の材料。停戦の話し合いが再開したなら、せめてここでは殴り合いを止める。官も民も学生もスポーツも、月曜の入口で同じ深呼吸をする。タイトルは……「日曜夜ヒーラーの置き土産」」


端末が沈黙した。次に、表示が変わった。


「優しさ 暫定定義」

「全体同期 短時間停止」

「月曜開始前 余白挿入」


予定板が、一斉に白く光った。(パアア)

光が線になり、線が一本の道になる。道は塔から街へ、そして人々の端末へ流れた。(サアア)


轟音が、ふっと消えた。(スン)

代わりに、静けさが落ちる。空の緑は薄くなり、夜の黒が戻る。塔の中の空気が、初めて人間の部屋の匂いになった。埃と、コーヒーと、冬の布。


ケンジは笑ってしまった。疲れの笑いではない。自分の胸が軽いことに驚く笑いだ。


「一分の深呼吸で、社会が救えると思うか?」


ミオが肩をすくめる。「救えない。でも、救おうとする人が増える」


リュウがバットを肩に担ぐ。「一分あったら、俺、十回素振りできる」


ユキが即座に言う。「深呼吸してからにして」


ソラが小さく笑った。笑うとき、胸が痛くない。日曜夜にだけ存在する痛みが、薄れている。


床の透明の向こうで、街の灯りが規則正しく瞬いた。人々の端末が、同じ通知を受け取る。月曜の朝、始業の直前に一分の余白。説明会の開始前に三十秒の余白。自主トレの集合前に一呼吸の余白。始業式の整列前に、ただ目を閉じる余白。


端末が最後の表示を出した。


「補助人格 終了」

「次回起動 未定」


未定。けれど、どこかで確実に続く感じがした。日曜夜は毎週来る。人類は毎週、月曜に負けたり勝ったりする。


ソラのカウント画面が、一瞬だけ点いた。「あと七日」。すぐ消える。見えたのは、ソラだけだった。


月曜の朝。官庁街の入口で、誰かが足を止めた。新しいスーツの若者だ。掲示板の前で深呼吸し、胸に手を当てた。周りの人も、なぜか同じタイミングで息を吸う。誰も理由を知らない。ただ、ほんの一分、世界が静かになる。


その静けさの底に、日曜夜の五人の笑い声が沈んでいた。消えたのではない。余白の形で、残った。


(了)


――あとがき――

今回は、日曜夜の「日常へ戻る直前の静かな助走」を軸にしつつ、中盤と終盤で装置が暴走する近未来寄りの社会派SFに寄せました。官公庁が仕事始め前に最終準備を進めるニュースは始業前ケンジの現場感に、年明けの採用説明会日程が大手から一斉に出る話題は説明会ナビ・ミオの焦りに、そして中東で停戦協議が再開する報道は回線の揺れとコメント欄の温度差として組み込みました。プロ野球の自主トレ情報公開は素振り番長リュウの配信と生活費の悩みに、冬休み最終日と始業式準備は終休カウント・ソラの胸の重さに対応させています。タグ文化は「仕事始め前夜」「採説会ナビ」など少しもじって配信タイトルにしました。物語の大半は日曜夜の群像劇として進め、ラストで補助人格というSFの種明かしを置く形でジャンルを少し裏切るB案を採用しています。現実の報道の重さを茶化さず、けれどフィクションとして「余白」を差し込むことで、個人の一歩に変換できる距離を探りました。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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