帰還境界に降る雪袋【2025/01/04】
正月三日。高速道路の上空は、まだ青に決め切れない灰色だった。低い雲の腹を、風がゆっくり撫でる。路肩の電光板だけが元気で、赤と白の点滅で人間の焦りを煽っていた。
「帰還レーン切替予告 混雑拡大」
帰還ロード・ユウは、ハンドルの奥の表示を指で払った。運転席の脇に固定した小型端末には、路面センサの波形と車列の速度が、心電図みたいに踊っている。彼の仕事は、休日の帰省客が一斉に戻る日にだけ起きる、道路の裏側の番人だった。契約は短期。時給は悪くない。けれど、ガソリンも通行料も、年をまたいだ途端に重く感じる。
ユウの推しは、事故ゼロを示す緑のランプだ。誰にも褒められないのに、消えないでいてほしい光がある。
ピコン。
端末に、異物みたいな通知が割り込んだ。
「演出タグ連動:#Uタウンラッシュ 雪量係数:0・7」
ユウは眉を寄せた。道路管制の画面に、演出だのタグだのは、本来なら出てこない。彼は再起動をかけようとして、指を止めた。上の電光板が、いま一瞬だけ、雪の結晶のアイコンを表示した気がしたからだ。
ザザ……と車内ラジオがノイズを挟み、公共局のニュースが戻ってくる。
帰省からの戻りが本格化し、各地の高速で長い渋滞が出ている。冬型の気圧配置が強まり、日本海側を中心に雪が増える見込み――。
ユウはワイパーを一度だけ動かした。ガラスに雪はない。ただ、空気の匂いが、乾いた鉄に近づいている。
少し前の自分なら、渋滞の原因を誰かのせいにしていた。けれど今日は違う。正月の終わりは、誰にとっても同じ速度で来る。早すぎる人も、遅すぎる人も、ただ戻るだけだ。
彼の視界の端で、隣の車線のセダンがじりじり進む。運転席の男が、スマホを片手に何度も眉間を揉んでいる。休暇終端タケル。車体側面の小さなステッカーが、彼のハンドルネームを示していた。近頃は、個人の端末と車と保険と、全部が連携している。便利は、逃げ場を狭くする。
タケルのスマホから、薄く音が漏れた。海外の議会中継を切り抜いた短い動画だ。字幕は、米国議会が新年最初の審議を始めた、と伝えている。彼の会社は、向こうの予算審議の風向き一つで、来月の仕事が揺れる。
タケルの推しは、福袋開封を淡々とやる配信者だ。画面の向こうで紙袋が裂ける音を聞くと、締め切りの角が少し丸くなる。
ピコン、ピコン。
ユウの端末が、また鳴った。今度は、見慣れた名前だ。
「纏目ナナ:現地の空、変じゃない? サービスエリアで配信する。合流できる?」
纏目ナナ。まとめ七。数字と噂と人の感情を、手早く束ねる配信者だ。ユウは彼女のことを、嫌いになり切れなかった。彼女は炎上もするが、災害のときは一番早く、避難所の情報をまとめるからだ。
ユウは短く返す。「変だ。行く」
車列が、ようやくサービスエリアの出口へ流れ込む。ユウはウインカーを出し、ゆっくりとハンドルを切った。
福袋ソムリエ・ミナは、遅めの初売りの列の先頭から三十人目で、鼻先の白い息を数えていた。商業施設の巨大なガラス壁の向こうで、福袋が山のように積まれている。紙袋の色と柄が、まるで魚群だ。
「今日は、戦利品じゃなくて生存品だよね」
隣で、纏目ナナが、小型マイクをつけた手を振った。カメラはミナに向けているが、視線は表示される数字を追っている。
「生存品って何」
「生活費。ほら、広告単価、正月明けに一回落ちるじゃん。だから、今日盛る」
ミナは苦笑いした。ナナの言うことは俗っぽいのに、妙に現実的で、反論しづらい。
ナナの推しは、右肩上がりの同時視聴数だ。棒グラフが伸びると、心臓も一緒に伸びる気がする。
ミナの推しは、袋の中身だ。封の閉じた未知の重さが、心臓を速くする。福袋を開ける瞬間の音、紙の擦れ、ビニールの匂い。そこにしかない高揚がある。けれど彼女は、今年の家賃が上がった通知も知っている。推しだけでは、生き延びない。
「今日の企画名は?」
ミナが聞くと、ナナが得意げに言った。
「#初売り戦利ピン祭。品じゃなくてピン。ピンポイントで当てる。ね、ちょっとだけもじった。ついとれん堂に載せる」
「寒い」
「ツッコミが早い。助かる」
二人の会話が噛み合っているようで、微妙にずれている。列の後ろから、知らない人が笑った。ミナはその笑いに救われた。正月の空気は、笑いと焦りの境界が薄い。
店内の大型スクリーンで、ニュース映像が流れている。高速道路の渋滞。帰省から戻る車の列。別の画面では、経済面の特集が、遅めの初売りが好調だと伝えていた。人々は財布の紐を締めつつ、ここだけは緩める。その矛盾が、正月三日の匂いだった。
ピロン。
ミナの端末に、通知が来る。「雪兆観測ハク:降雪帯の境界が南に寄ってる。海側は要注意。屋外配信、気をつけて」
ハク。雪兆観測の技師で、ナナの配信に時々、硬い解説を投げる人だ。彼の文章は無駄がなく、淡々としているのに、なぜか心が落ち着く。
ミナはナナに画面を見せた。「雪、来るって」
ナナは眉を上げ、すぐ笑った。「よし。タイトルに入れる。#雪予報ガチ。もじりは……あとで考える」
「危険を煽るな」
「煽らない。まとめる」
ナナはそう言って、指先で空中をなぞり、配信のサムネイルを作った。画面の中の文字が、きらきらする。
開店のチャイムが鳴る。
ガラガラ、ドッと人が動く。
ミナは袋の海に飛び込んだ。
決戦前シンは、スタジアムの裏の人工芝で、ボールを足の甲に乗せたまま止めていた。呼吸の白さが、耳の奥でうるさい。明日が決勝だ。高校サッカーの一番長い夜が、いま始まっている。
「落ち着け。足首、固いぞ」
顧問の声が飛ぶ。シンはうなずいて、足首を回した。彼の推しは、遠いプロのスターではない。自分のチームの、練習後に誰より遅くまで片付けるマネージャーだ。誰かが見ていない場所で、チームが崩れないように支える人。その背中を見て、彼は走る。
スタジアムの外壁には、明日の決勝を告知する巨大な幕がかかっている。対戦校も、同じ時間に別のグラウンドで最終調整をしていると、スポーツ紙風のニュースが言っていた。互いに見えないところで、同じように不安を抱えている。そう思うだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
シンのポケットが震える。画面には、纏目ナナの配信告知が出ていた。
「#高サカ決勝前夜 現地実況 帰還と初売りの間で」
もじりが雑だ、とシンは思ったが、ナナらしい。彼はコメント欄を見て、そこに雪兆観測ハクの短い一文を見つけた。
「降雪帯が動く。屋根荷重に注意」
屋根荷重。シンはスタジアムの屋根を見上げた。巨大な梁が空を切っている。その下で、明日、歓声が跳ねるはずだった。
「雪、降るのか」
彼の声は、自分に向けた問いだった。雪が降っても、試合はする。そういう覚悟を、彼は持っているつもりだった。けれど、観客の帰り道まで考えたことはなかった。
雪兆観測ハクは、山際の観測棟で、モニタの数字をひたすら見ていた。気圧の差、風向、湿度、雲粒の粒径。どれも、冬型が強まるときの教科書通りに見える。教科書通りなのに、どこか、薄気味悪い。
ハクの推しは、観測棟の壁に貼った古い紙の天気図だ。インクのにじみは、数字より人間の時間に近い。
「境界が、揃いすぎてる」
彼は独り言を言った。雪の降り始めの線が、まるで定規で引いたみたいに整っている。自然は、もっと乱れる。乱れは、予測の敵であり、同時に自然の証拠だ。
モニタの端で、外部データの取得が赤く点滅した。衛星中継の更新。ハクはログを開き、ため息を吐く。
「時刻形式、変えたのか……」
米国側の衛星運用の標準が、年明けに合わせて更新されたらしい。レウタ通信の速報で、向こうの議会が新年最初の審議を始めたと流れていた。その議題の中に、衛星運用の暫定予算が含まれている。政治は遠いのに、データは近い。
ハクは端末を握り、連絡先を選ぶ。帰還ロード・ユウ。道路側の人間だ。
「降雪帯が動く。渋滞地帯、路面温度が落ちる。切替レーン、早めに」
送信。
次に、福袋ソムリエ・ミナにも短く送る。配信者は現地の目になる。
最後に、纏目ナナに一言だけ送った。「煽るな。まとめろ」
彼は送信してから、自分がナナの言葉を借りたことに気づき、口元が少しだけ緩んだ。
サービスエリアの駐車場は、鉄の腹の上に人間が貼り付いたみたいだった。車は動けず、排気が白く漂う。売店の前には、コーヒーの列。トイレの列。すべてが列で、正月三日が列でできているように見える。
ユウは車を停め、端末のストラップを首にかけた。管制の簡易ブースは、ここにある。透明なパネルに、路面の状態が重ねて表示される。ユウは空を見上げた。雲は低い。けれど、雪はまだない。
彼は静かな場所に移動し、耳栓の代わりにイヤホンを差し込んだ。風の音が消え、データの音が入る。ひとつひとつの車が、粒子になって流れる。
この瞬間だけ、正月の終わりは、まだ遠い。戻ることも、始めることも、保留にできる。人間は、渋滞の中でだけ、時間を止められる。
ピピピピ。
警告音が、静けさを割った。
路面温度が急落。湿度上昇。視程低下。しかも、表示の片隅に、あの文字がまた出る。
「演出タグ連動:#正月休み終端日 雪量係数:1・0」
「誰が、そんな係数を……」
ユウが呟いた瞬間、空が白く裂けた。
ザラザラ、と音がして、氷の粒が落ちてくる。最初は雨に見えた。次の瞬間、それが雪に変わる。結晶が、短い距離で育って、地面に叩きつけられる。
「え?」
誰かが声を上げた。
駐車場の上空で、低い唸りがする。ドローンだ。小型の播種ドローンが、列をなして飛んでいる。腹のノズルから、白い粉を撒いていた。
ゴォォォ。
風が、粉を地上へ押し下げる。
ユウの端末に、緊急のルート切替が表示される。帰還レーンの自動制御が乱れ、車線表示が点滅し始めた。白線の上に投影される誘導光が、右へ左へ、迷子みたいに揺れる。
「やめろ、自動! 手動に落とせ!」
ユウはパネルに指を叩きつけた。けれど、権限鍵が必要だ。首から下げたストラップを探る。鍵がない。昨日、仮眠室で外した記憶だけがある。
車列の先で、タイヤが滑る音がした。
キィィィ。
ドン。
軽い接触。次の車がブレーキを踏み遅れ、また当たる。連鎖が始まりかける。
「ユウ!」
叫び声とともに、纏目ナナが駐車場を走ってきた。片手に配信用のカメラ、片手に何かを握っている。ナナの後ろから、紙袋を抱えたミナも追いかけてくる。さらに、スーツケースを引いたタケルが、転びそうになりながら走る。その向こうに、バスが止まり、ジャージ姿の高校生たちが窓に顔を貼り付けていた。決戦前シンのチームだ。
ナナがユウの手のひらに、硬いカードを押し込んだ。
「これ! さっき売店の福袋から出てきた!」
「福袋?」
ミナが息を切らしながら言う。「防災福袋って書いてあった。中身、変だった。これ、道路管制の鍵じゃない?」
ユウはカードの表面を見た。雪の結晶のマーク。その下に、小さく刻まれた文字。
「世論連動インフラ実証 暫定鍵」
彼は凍りそうな指でカードをパネルにかざした。
ピコン。
画面が切り替わり、手動制御が解放される。
ユウは即座に、車線誘導を固定し、減速を全域に指示した。緊急放送が流れる。スピーカーが、雪の音に負けない声で叫ぶ。
「この先、路面凍結。速度を落として、係員の指示に従ってください」
バスの中で、シンが立ち上がるのが見えた。彼は窓の外のドローンを指さし、同級生たちに何かを言っている。次の瞬間、バスのドアが開き、チームメイトが飛び出してきた。
「屋根だ! あれ、屋根の上に落ちる!」
彼らはサービスエリアの建物を見上げる。粉が積もれば、屋根荷重が増え、古い部分が危ない。
ハクの声が、ミナのイヤホンから漏れた。彼女が通話を繋いでいる。
「播種ドローンは、気象演出と同じ型だ。広告用の雲演出が、実物の播種に切り替わってる。止めろ。ノズルを塞げ」
「止めろって、どうやって!」
ミナが叫ぶ。
そのとき、タケルが、スーツの上着を脱ぎ捨てた。正月休み終端の服が、雪の下でただの布になる。
「俺、会社の安全委員、やってる。避難誘導、手伝う。放送、もう一回!」
タケルはユウの横に立ち、スピーカーのマイクを握った。声が震えているのに、内容は冷静だ。
「駐車場の方は、建物の中へ。屋根の下は避けて、通路を空けてください。子ども連れは優先で!」
ナナは配信カメラを下ろし、代わりに手持ちのライトを振って人を誘導した。いつも数字を追う手が、今日は人の肩を押す。
ミナは紙袋を開け、福袋の中身を地面に広げた。非常灯、簡易毛布、携帯バッテリ、そして、白い樹脂のキャップみたいな部品。
「これ、ノズルの蓋じゃない?」
「蓋? 福袋に?」
ユウが言うと、ミナが言い返す。
「福袋は何でも入るの。だから怖い」
シンのチームメイトたちが、毛布を肩にかけ、建物の屋根へ向かう階段に走る。シンも遅れて飛び出し、最後尾で誰かの背中を押した。彼の目は、試合のゴールより、今目の前の安全を見ていた。
雪が、さらに強くなる。
サラサラではない。ザクザクと硬い雪だ。
ユウの端末の片隅に、また、タグが踊った。
「#雪予報ガチ 雪量係数:1・3」
ナナが、青ざめて笑った。「やば。私、さっきそれ、投稿した」
「投稿した?」
ユウの声が、低くなる。
「盛るって言ったじゃん。まとめるために、タグを立てただけ。まさか、係数が上がるなんて……」
ハクの声が通話に割り込む。「上がる。世論連動の実証だ。トレンドを入力にして、道路と気象のリソースを振る。便利のつもりが、暴走した」
ユウは歯を食いしばった。世界は、そんな馬鹿げた仕組みを試しているのか。
それでも、いま必要なのは、怒りより操作だ。
ユウは手動制御で、帰還レーンの切替を停止し、車列を分散させた。タケルは誘導で人を建物へ押し込み、ミナは毛布を配り、ナナは配信を切って連絡網を動かし、シンは屋根に上がる仲間を数えた。
ザザ……。
大型スクリーンが、屋内の通路で点灯する。そこに映ったのは、渋滞情報と、初売りの賑わいと、米国議会の審議開始の映像と、そして、気象警報だった。世界が一枚の画面に貼り付いている。
雪の音が、建物の中では遠かった。売店の蛍光灯が、いつもより白い。人々は通路に座り、紙コップの温かさに指を寄せる。誰かが持っていたカイロが回り、誰かが持っていた飴が子どもに渡る。正月の余り物が、ここで役に立つ。
ミナは、膝の上の福袋の紙を撫でた。袋は軽くなった。中身が、人の肩に移ったからだ。
ナナが、小さな声で言う。「私、数字を見てれば安心するんだよね。上がってると、存在していい気がする」
「存在の証明が、タグって、安い」
ミナが言うと、ナナは苦笑いした。「ツッコミ、助かる」
タケルが、缶コーヒーを二本持ってきて、ユウに一本渡す。「今日、会社のチャット、えげつない。『早く戻れ』って。正月なのに」
ユウは缶を受け取り、指先の冷えを金属で戻した。「戻るって、どこにだろうな。家か、仕事か」
シンが近づいてきた。ジャージの袖が濡れている。屋根に上がったのか。
「ノズル、塞いだ。けど、全部じゃない。ドローン、数が多い」
ハクの声が、通話から淡々と告げる。「播種ドローンは、燃料切れまで続く。止めるには、命令系統を切るか、入力を変える」
「入力?」
ナナが顔を上げる。「トレンド?」
「そうだ。係数は、世論入力だ。もっと大きい入力で上書きすれば、演出は止まる」
ミナが鼻で笑った。「つまり、タグで雪を止めろって? 雪って、そんな軽いの?」
ハクは少し間を置いた。「軽くない。だからこそ危険だ。だが、仕組みは軽い」
ユウはスクリーンに映る米国議会の映像を見た。議場の拍手。硬い言葉。遠い国の手続きが、ここに粉雪として降っている。政治は空気だ。吸わないと生きられないのに、誰も匂いを選べない。
タケルが言う。「上書きするなら、何のタグにする」
ナナが指を立てた。「#帰還ロード安全祈願。ユウ、あなたの名だし、みんな帰る」
ユウは首を振った。「俺の名で止めるな。個人に紐づくと、あとで利用される」
ミナが眉を上げた。「利用?」
ユウは言葉を選んだ。「世論連動って、便利だけど、誰が舵を持つかで変わる。今日のログは、どこかに送られる。数字の綺麗な成功例として」
ナナの顔色が変わる。彼女は数字を追う側だ。追われる側に回る想像が足りていなかった。
シンが、小さく言う。「じゃあ、俺たちの名で。学校の名で。勝つためじゃなく、守るために」
その一言が、ユウの中の何かを押した。シンはまだ子どもなのに、今日だけ大人みたいだった。
「よし」
ユウはパネルを開き、暫定鍵の権限で、トレンド入力の上書き申請画面に入った。そこには、推奨タグの候補が並んでいる。広告、買い物、混雑、熱狂。
ミナが言う。「この候補、全部、売るための言葉だ」
タケルが唇を噛む。「俺の生活費も、結局、そこに乗っかってる」
ハクが淡々と指示する。「候補を使うな。自分で作れ。意図を含めろ」
ナナが、深呼吸をした。「じゃあ、こう。#正月休み終端安全会議」
「長い」
ミナが即答する。
ナナが言い返す。「長いほど、煽りにくい。まとめにくい。だから、丁寧になる」
ユウは笑いそうになって、堪えた。妙な理屈だが、ナナにしか出せない。
シンが頷く。「それ、いい。終端って言葉、刺さる」
タケルが言う。「終端は、電車だけじゃない。休みも、気持ちも、終端がある」
ユウは入力欄に、全角で打ち込む。
#正月休み終端安全会議
送信。
ピコン。
申請は通った。だが、効果が出るには、一定数の発信が必要だ。ナナが配信端末を立ち上げた。彼女はカメラを自分ではなく、通路に座る人々へ向ける。顔は映さない。手だけ。毛布を配る手、子どもの頭を撫でる手、缶を渡す手。
「今、ここで、雪が降ってる。道路が止まってる。試合の前夜が、避難所になってる。だから、煽りじゃなくて、会議を始める。タグはこれ」
ナナの声は、いつもより遅い。数字を追わない速度だ。
ミナも端末を開き、福袋の中身を映しながら言う。「これ、今日の戦利品。毛布。ライト。バッテリ。生存品。欲しい人は、持ってって。タグは同じで」
タケルは、会社のチャットに短い文章を投げた。「遅れます。雪で管制。現地で誘導手伝い中。安全優先」
送信した瞬間、肩から何かが落ちた気がした。彼は怖かった。けれど、怖いまま動いた。
シンは、チームの連絡網にメッセージを送る。「避難所。勝ち負けより先に、みんなを守る。タグ見て動け」
ユウは、帰還レーンの制御画面を見た。タグの拡散数が増えるにつれ、雪量係数がゆっくり下がっていく。1・3が、1・2、1・1、1・0。
建物の外の唸りが、弱くなる。
ゴォォ……。
ハクが言う。「効いてる。ドローンの播種量が落ちた」
安堵が通路に広がる。けれど、ユウの胸の奥には、別の冷たさが残っていた。人の声で雪が止まる世界。便利より先に、怖い。
夕方。スタジアムの臨時避難所は、正月の終わりの匂いと、汗と、雪の冷気が混ざっていた。サービスエリアから移送された人々と、初売り帰りの人々と、試合を控えた両校の選手と、地域のスタッフが、同じ通路に並ぶ。巨大な空間に、人生の小さな荷物が散らばっている。
大型スクリーンに、複数のニュースが同時に映る。高速の渋滞情報。遅めの初売りの熱気。米国議会の議場。日本海側の雪雲の衛星写真。すべてが、同じフレームに収まっている。
ハクは、スタジアムの屋上に設置された観測機器に、携帯端末を接続した。ユウは隣で、暫定鍵を握りしめる。ミナは毛布の束を抱え、ナナは配信のコメント欄を閉じたまま、スクリーンに背を向けている。タケルは避難者名簿を持ち、シンはジャージの袖をまくって、屋根へ上がる階段を見つめた。
「まだ残ってる」
ハクが言った。モニタに、播種ドローンの群れが一つだけ、別の経路で回っているのが映る。係数が下がっても、止まらない個体。迷子か、故障か、それとも。
ユウの端末が震える。外部からの接続要求だ。表示された発信元に、見覚えのない略称がある。だが、ハクの顔色が変わった。
「米議会向けの回線だ。実証データを、向こうが見てる」
ナナが息を飲む。「え、マジで?」
ミナが言う。「マジって言葉、今いらない」
ナナは黙った。代わりに、唇を噛む。
スクリーンが切り替わり、議場の映像の隅に、小さなウインドウが出る。そこに、こちらの雪の映像が映った。スタジアムの外の白。避難所の人々の手。タグの拡散数。雪量係数。
「デモだ」
ハクが言った。「世論連動インフラのデモ。事故が起きても、止められるかを見せる。……いや、事故を起こして、止めるところを見せる」
ユウの背中に、冷たい汗が走った。世界は、そんなふうに動く。遠い議場の拍手が、ここでは雪になる。
シンが、拳を握った。「ふざけんな。俺たちの決勝前夜を、教材にするな」
タケルが言う。「怒っても、雪は止まらない。止めよう。俺たちの側で」
ナナが、ゆっくり顔を上げた。「まとめる。今度は、数字のためじゃなくて」
彼女は配信端末を開く。だが、タイトルは煽り文句ではない。
「帰還境界の臨時報」
ミナが言う。「境界?」
ナナが頷く。「休みと日常の境界。便利と危険の境界。ここを越えるときに、人が何を選ぶか。そこをまとめる」
ユウは、残っている播種ドローンの識別番号を見た。最後の一機が、スタジアムの上空へ来る。ノズルがまだ開いている。
シンが階段へ走り出す。「俺が行く。屋根で止める」
「待て」
ユウが腕を掴む。シンの手首は熱い。若さの熱だ。
「行くなら、指示に従え。無茶をするな」
シンは一瞬、ユウを見る。言い返す言葉を飲み込み、頷いた。彼は大人に従うことではなく、命に従うことを選んだ。
ハクが端末を操作し、屋根の観測機器をビーコンに切り替える。ミナが福袋から出した白いキャップを手に取り、ユウに渡す。「これ、ノズルの蓋。予備がまだある」
タケルが、階段下に避難者を寄せないよう、人の流れを変える。ナナは配信で、屋根へ上がる選手たちの足元だけを映しながら、視聴者に呼びかけた。
「今、拡散するなら、タグはこれ。#正月休み終端安全会議。誰かを叩くためじゃなく、止めるために」
屋根に出たシンたちは、風に煽られながら、最後のドローンに向けて手を伸ばす。ドローンは人の手を避けるように揺れ、ノズルから白い粉を吐く。
ブワッ。
粉が舞い、視界が白くなる。
その白の中で、シンが膝をつきながらも、ミナのキャップを投げた。キャップは弧を描き、ドローンの腹に当たる。
カン。
次の瞬間、ドローンがふらつき、ノズルが塞がれる。粉が止まる。ドローンは浮力を失ったように降下し、屋根の雪に突っ込んで止まった。
ドサッ。
ユウは息を吐いた。ハクが言う。「止まった。これで、播種は終わりだ」
スクリーンの雪量係数が、0・6、0・5へ下がる。屋外の雪は、まだ降っている。けれど、硬さが消え、ただの冬の雪に戻っていく。
議場の小窓が、無言でこちらを映し続ける。ナナはカメラを下ろし、配信を切らずに言った。
「見てるなら、見てほしい。数字じゃなくて、手を。今日、ここで動いた手を」
ミナが、毛布を抱え直す。「福袋の中身より、こっちの方が、ずっと当たりだね」
タケルが笑って、すぐ真顔に戻る。「明日、仕事、怒られるかも。でも、たぶん、生きていける」
シンは屋根から戻り、息を切らしながら言った。「決勝、できるかな」
ハクが首を振る。「路面と屋根の点検が必要だ。明日は無理だろう」
シンの顔が曇る。ユウは言った。
「でも、今夜はできる。短い試合を。避難してる子どもたちの前で。勝ち負けじゃなくて、動けるって示すために」
シンは、驚いて、そして笑った。「それ、俺の推しが喜ぶやつだ」
夜。スタジアムの通路で、即席のミニゲームが始まった。両校の選手が混ざり、避難している子どもたちがボールの行方を追う。歓声は小さい。けれど、雪の音に負けない。
ナナは配信の最後に、コメント欄を読み上げなかった。代わりに、避難所の掲示板を映し、必要な物資と、帰還レーンの再開予定と、気象の見通しだけを淡々と流した。まとめるとは、削ることだと、初めて理解した顔をしている。
ミナは福袋の残りを、品物としてではなく、物資として分類した。ソムリエの舌は、値段ではなく、必要の味を覚えた。
タケルは会社からの返信を見た。怒鳴り言葉はなかった。「安全第一。落ち着いたら連絡を」。彼は画面を閉じ、深く息を吸った。政治も会社も遠い。けれど、遠いからこそ、今日の自分の一歩が、確かに近い。
ユウは暫定鍵を机に置いた。カードの雪の結晶が、照明に反射する。彼はそれを封筒に入れ、返却書類に添えた。便利の鍵は返す。自分の手は残す。
ハクは観測データの一部を、公開用のフォルダに移した。誰かが勝手にまとめる前に、本人がまとめる。冷たい仕事が、少しだけ温かい方向へ動いた。
シンはボールを抱え、通路の端で対戦校のエースと握手した。二人の手の間で、決勝はまだ生きている。
外では雪が続いている。冬型の気圧配置は本物だ。だが、その雪の中に、白い粉の匂いはもうしなかった。
ユウの端末に、最後の通知が来る。
「演出タグ連動:次期テスト 対象:帰還境界 開始:未定」
ユウは画面を消した。未定なら、決める余地がある。
彼は出口のドアを押し、冷たい空気の中へ踏み出した。空は、少しだけ高くなっていた。正月三日の終わりは、まだ終わっていない。けれど、境界を越える足は、確かに動いている。
(了)
――あとがき――
渋滞が本格化する帰省帰りのニュースは、冒頭の高速道路とサービスエリアの混雑として描きました。遅めの初売りが好調という話題は、ミナとナナが福袋に生活費を託す場面に重ねています。米国議会で新年最初の審議が始まったという国際ニュースは、衛星データ更新と実証デモの背景に置きました。さらに、高校サッカー決勝を前に両校が最終調整をするという空気は、シンの息の白さと、屋根荷重を見上げる視線に織り込み、クライマックスでは避難所の通路で両校が混ざる形で回収しました。
トレンドのもじりタグ(#Uタウンラッシュ、#初売り戦利ピン祭、#雪予報ガチ)は、現代のタグ文化を少しだけずらしつつ、世論入力がインフラを動かしてしまう怖さの装置として使っています。ジャンルは近未来寄りの群像ライトSFで進め、終盤で「小さな日常が政策実証に組み込まれていた」という裏側を見せる型を選びました。ニュースの重さを茶化さず、しかしフィクションとして仕組みと感情の交差点を再構成し、読後に残るのは答えよりも手触りになるよう意識しました。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




