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初昇リングと纏目ナナ【2026/01/02】

初昇ルミナは、屋上の手すりに肘を置き、カメラのファインダー越しに東の薄い群青を覗いた。冬の空気は乾いていて、息が白い。街の窓という窓が、まだ眠っているのに光って見えるのは、正月の夜更かしの名残だ。

耳のインカムが、湿ったノイズを挟んでから、きっちりした声を流す。

「ルミナ、カウント入る。あと六十」

「了解。露出、上げる」

彼の名はカウント司令FIRE。元日の演出現場で秒針を支配する人間だ。ルミナは、彼が秒を握る手の感触を想像してしまう。冷たい金属みたいに正確で、そして、少し怖い。


東の地平が、紙を破るように裂けて赤みを滲ませた。その裂け目の上に、ありえないものが浮いた。光の輪郭が、二重になっている。日が二つあるように、細い弧が重なり、弧の内側に白い文字が滲んだ。

SFDAILY-2026-01-01

ルミナは瞬きを忘れ、シャッターを切った。

カシャ。

「FIRE、今の見た?」

「何をだ。今は天体現象の時間じゃない。カウントの時間だ」

「空に、文字が……」

「空に出るのは光だ。文字は出ない」

言い切る声が、逆に不安を増幅した。


静けさの中で、遠くの踏切が一度だけ鳴った。カン、カン。正月も時間は止まらない。その当たり前が、怖かった。


ルミナのスマート端末が震え、通知が雪崩れ込んだ。気象サイトが各地の初日の出を次々とまとめ、見られた場所と見られなかった場所を色分けしている。雲の切れ目からの一瞬を撮った写真が、もう何千も流れている。そこに混じって、海外の街の映像も出てきた。年越しの花火が川面に反射し、見知らぬ言語の歓声が、字幕もなしに伝わってくる。

画面の端に、太いタグが踊っていた。#Happy New Yeary。#新年一発目ぇ。#私の2026年のテーマ曲線。

ルミナは、指先でタグをなぞるようにスクロールし、ふと、違和感を覚えた。自分がさっき撮った空の文字と、同じ並びの投稿が、まだ一つもない。


同じころ、別の場所。窓のない小さな配信スタジオで、SNS波動シオンは、四枚のモニターを眺めながら、イヤホンを片耳だけ外していた。リングライトの白が頬を平らに照らし、彼女の瞳だけが忙しく動く。

モニターの一つには、世界の年越し中継が映っている。別の一つには、国内の初日の出まとめ。三つ目には、空港のライブカメラ。四つ目は、彼女が自作した波形解析の画面だ。タグの文字列が、音のように上下する。波が高いほど、言葉が人を動かしている。

「よし、今は祝い波。怒り波は低い」

彼女は自分に言い聞かせるように呟き、画面の隅の広告収益の数字を見ないふりをした。年末年始は稼ぎ時だ。けれど、稼げる波ほど、危ないことも知っている。


シオンのチャット欄に、纏目ナナというハンドルが現れた。アイコンは、丸めた新聞紙をリボンで結んだ絵だ。

「シオンちゃん、空の文字、見えてる?」

「空の文字?」

「今朝から、数人だけが撮れてる。タグじゃなくて、空そのものに出てる」

「それ、合成でしょ」

「合成なら、私のまとめ板に載せない。ねえ、今日の決勝、行く?」

決勝。第106回全国高校サッカー選手権杯の決勝だ。シオンは、明確に胸がざわついた。元日の夕方、巨大なスタジアムで行われる試合。今日はそこに、初日の出の演出も、世界の年越し映像も、そして、何かの声明も持ち込まれる予定だった。


スタジアムの管理棟で、カウント司令FIREは、机の上にメトロノームを置いていた。カチ、カチ、カチ。秒の音は、どんな祈りよりも均等だ。

彼は、壁の巨大モニターに映るスケジュールを見つめる。開場、キックオフ、ハーフタイム、ハイライト、表彰。すべてが時間に縫い付けられている。さらにその外側に、今日だけの特別演出がある。空に人工の光の輪を描くプロジェクト。初昇。元日を象徴する見せ場として、スポンサーも自治体も、口を揃えて「希望」と言った。

希望は、時間に乗る。時間は、誤差を許さない。FIREは、その論理だけを信じて生きてきた。


「司令、確認です。今日、声明読み上げ、入れるんですよね」

若いスタッフが、持ち物のリストを抱えている。布製の腕章、紙のプラカード、音声原稿。

「どの声明だ」

「LGBT法連盟会の年頭所感です。中継にも載せるって」

FIREは一瞬だけ眉を動かした。政治とスポーツは分けろ、という古い声が頭の隅で鳴る。しかし、その古さが、観客の中にいないわけでもない。分けると言うことで、誰かを分けてしまうこともある。

「読み上げは、秒を狂わせない範囲でやれ」

「範囲って、秒単位ですか」

「当然だ」

スタッフは口を開けたまま固まり、やがて、笑いを引っ込めるのに失敗した。

「いや、すみません。秒単位で人権語る人、初めて見ました」

「人権は長いが、放送枠は短い」

「それ、名言っぽいけど、言い方が怖いです」

FIREは、メトロノームの振り子を指で止めた。カチ、という音が途切れる。その瞬間だけ、部屋が少し柔らかくなった気がした。


一方、南の国の巨大な空港。搭乗マエストロヒコは、ターミナルの中央で、光る案内板の前に立っていた。制服の胸には、小さな指揮棒のピンが刺さっている。彼は音楽学校の指揮科を出て、なぜか空港に就職した。人の流れはオーケストラに似ている。遅れるバイオリン、早すぎる打楽器、迷子のフルート。まとめ上げるには、目と耳と、少しの笑いが必要だ。

元日は特に混む。多便運航。国際線も国内線も、波のように押し寄せる。彼の端末には「本日見込み、十万人超」の表示が点滅していた。タンソンニャットの空は、まだ夜の名残を残しながら、滑走路の縁を青白く照らしている。

「ゲートB、遅延。ゲートC、乗客滞留。ゲートD、迷子二名」

無線が矢継ぎ早に飛ぶ。ヒコは指揮棒のようにペンを振り、係員に視線で合図する。

そのとき、上空の気流情報が一斉に更新され、管制の画面が赤く点滅した。

「何だ、これ」

風の矢印が、ありえない方向に揺れている。上空に、反射光の帯が走ったのだ。太陽はまだ低いのに、滑走路の一部だけが昼のように明るい。

ゴォォ……。

遠雷のような低い音が、ターミナルの窓ガラスを震わせた。乗客が一斉に空を見上げる。ヒコは、胸ポケットの搭乗券束がこすれる感触に気づいた。紙の端に、妙なコードが印字されている。

SFDAILY-2026-01-01

彼は、その文字列を見た瞬間、理由もなく「指揮棒を落とすな」と自分に言い聞かせた。


静かな時間が、ほんの少しだけ戻った。ターミナルの片隅で、子どもが風船を落とし、母親が拾う。売店の店員が、値札を貼り替えている。生活費は上がり、正月価格はさらに上がる。ヒコの同僚は、残業手当の話をしている。世界は祝っているが、働く人は働いている。ヒコはその現実が嫌いではない。ただ、空の帯だけは、働きすぎだった。


「日本のスタジアムに連絡しろ」

ヒコは管制官に言われ、首にかけた翻訳端末を叩いた。接続先は、イベント用の時刻同期センター。相手の名は、カウント司令FIRE。

「こちらタンソンニャット。上空で反射光の異常。あなたのところの初昇プロジェクト、何か動かした?」

返ってきた声は、秒針のように冷たい。

「初昇は夕方だ。今は動かない」

「でも、空に帯が出た。滑走路が光ってる」

「空は嘘をつかない。計器が嘘をつく」

ヒコは、一瞬だけ言葉を失った。彼の仕事は、計器と人の間で揺れる現実をまとめることだ。嘘だと言い切られると、まとめようがない。

その背後で、子どもが叫んだ。

「見て! 空に文字!」

乗客がスマホを掲げ、画面が一斉に白く光る。ヒコは、笑うべきか、背筋を凍らせるべきか迷った。


スタジアムの外周。午後。ルミナは、カメラバッグを抱えて入場ゲートをくぐった。観客の列は、福袋の列より長い。屋台は値上げの札を出している。たこ焼きも、焼きそばも、去年より少し高い。ルミナは財布の中身を数え、ため息を飲み込んだ。仕事は撮影。けれど、今日のギャラは交通費とレンズの分割払いで消える。生きることは、シャッターより連写だ。


「ルミナ!」

声をかけてきたのは、プロレス・ニュードリーマーだった。彼は黒いパーカーのフードを深くかぶり、背中に小さな折り畳みマットを背負っている。試合前のリング上演出を頼まれているらしい。サッカーの芝の上に、レスラーが立つ時代。境界線は、いつも誰かの都合で引かれる。

「今日、ハーフタイムで出るの?」

「出る。と言うか、出たい。目立たないと、家賃が死ぬ」

ニュードリーマーは笑いながらも、指先が震えている。彼の端末の壁紙には、海外のプロレス団体の番組プレビューが映っていた。TNAX iMPACTTの新年初回。彼はそれを推しと呼ぶ。推しは、胃袋よりも先に財布を空にする。

「今日の客席、世界中から見てるってさ。世界の年越し中継も挟むらしい」

「花火の映像とか?」

「そう。歓声のやつ。あれ見ると、リングに立つ理由、思い出す」

彼は拳を握り、すぐに開いた。強いふりは、すぐ疲れる。


その背後から、シオンの声が飛んできた。彼女はスタッフパスを首から下げ、片手に小型マイク、もう片手に波形の映る端末を持っている。

「ニュードリーマーさん、お願い。リングに上がる前に、タグを言って」

「タグ? プロレスにタグ?」

「今日の配信タグ。拡散の波が弱いと、演出が予算落ちする」

「それ、プロレス技の名前みたいだな。予算落ち」

ルミナが思わず吹きそうになるのを、ニュードリーマーが先に突っ込んだ。

「いや、技にしたら痛そうだわ」

シオンは真顔で答える。

「痛いのは視聴率です」

「視聴率にドロップキックするな」

三人の会話が噛み合っているのか噛み合っていないのか、ルミナには判別できなかった。ただ、笑いが生まれた。それだけで、正月の空気が少し軽くなった。


そこへ、纏目ナナが現れた。短い髪、派手ではないコート、目立たないのに目を引く。彼女は、誰よりも先に情報をまとめ、誰よりも遅く結論を出すことで知られている。

「みんな、空の文字は見た?」

ルミナは頷き、朝の写真を見せた。ナナは画面を覗き込み、指で拡大しない。拡大する前に、もう理解している目だ。

「これ、初昇の制御コードだよ」

FIREの声が、ルミナのインカムから割り込んだ。いつの間にか通話が繋がっている。

「ナナ、勝手なことを言うな」

「司令、勝手なのは空。コードが朝から出てる。タンソンニャットでも」

「……ヒコから聞いた」

「なら、話が早い。夕方の初昇、予定通りやると危ない。波が暴れてる」

シオンが端末を掲げた。波形の線が、祝い波の上に黒い針を立てている。怒りでも悲しみでもない、もっと粘ついた波。誰かが誰かを切り分ける時に出る波。

「原因は?」

「声明よ」

ナナが言った。

「LGBT法連盟会の年頭所感。歓迎する人も、反発する人もいる。普通。だけど今日、まとめる側が燃料を足してる」

「まとめる側?」

シオンの視線が、ナナに刺さる。ナナは肩をすくめた。

「私じゃない。私は燃えないまとめしか載せない」

「燃えないまとめって、何」

ルミナが聞くと、ナナはほんの少し笑った。

「灰になる前に水をかけるやつ」


キックオフ前。スタジアムのピッチは、冬の日差しで薄く光っている。観客席は、マフラーと旗で埋まり、旗の布が風で波打つ。選手たちは円陣を組み、息を吐き、手を叩く。パン、と乾いた音が響いた。高校生の手の音は、まだ柔らかいのに強い。


ルミナはカメラを構え、ファインダー越しに円陣の中心を覗いた。そこにいるのは未来ではなく現在だ。勝ちたい。負けたくない。単純で、だから尊い。

FIREのカウントが、インカムに戻ってくる。

「演出のカウントは、試合に干渉しない。絶対だ」

「司令、今の空、信用していいの?」

「信用するのは秒だ。空じゃない」

ルミナは返事をしなかった。秒を信用する人が、空にコードを書いたのだろうか。そんな矛盾が、胸の奥で鳴った。


前半が進む。ボールが転がり、芝が削れ、歓声が波になる。ルミナはシャッターを切り続ける。カシャ、カシャ。耳の奥で、別の波が育っていく。シオンの端末が小さく震え、ナナのまとめ板が更新されるたび、観客の端末も一斉に光る。

ハーフタイムが近づいたころ、スタジアムの天井に吊られた巨大スクリーンが、突然、海外の年越し映像に切り替わった。川沿いの花火。雪の街のカウントダウン。群衆の叫び。拍手。映像の端に、字幕ではないタグが流れる。#Happy New Yeary。#NHX紅蒼。#STARTOtoMOVEE生配信。

観客がスマホを掲げ、スクリーンのタグに合わせて自分の端末でも投稿する。すると、空が反応した。


スタジアムの上空に、薄い光の輪が現れた。夕方のはずの初昇が、昼間に滲む。輪の内側に、白い文字列が走る。

SFDAILY-2026-01-01

「やめろ!」

FIREの声が割れた。メトロノームのカチカチが、彼の机の上で勝手に加速している。シオンの波形は、黒い針が一本ではなく、束になって突き上げていた。

ゴォォォォ。

空が鳴った。輪から落ちる光が、雪崩のように観客席へ降り注ぐ。眩しさに目を細める観客。歓声が、悲鳴に混じる。

ニュードリーマーが走り出した。芝の端に敷かれたゴムマットを抱え、リング用のロープを引きずるように持っていく。

「客席がパニックになる前に、目線を集める!」

「何する気!」

ルミナが叫ぶと、彼は振り返らずに言った。

「プロレスは、目線を救う仕事だろ!」

彼はマットを広げ、リングではなく芝の上で大きく跳んだ。スプリングのない地面で、体が重く落ちる。

ドン!

衝撃音が腹に響いた。彼は痛みを飲み込み、両腕を広げて叫ぶ。

「新年一発目ぇ!」

観客の笑いが、波の一部を食った。笑いは炎上の燃料にならない。シオンがその瞬間を逃さず、マイクに向かって叫ぶ。

「みんな、投稿はこれ! #新年一発目ぇ! #私の2026年のテーマ曲線!」

ナナがルミナの肩を掴み、耳元で囁いた。

「ルミナ、撮って。空の文字も、人の顔も。後でまとめるためじゃない。今ここで、現実にするため」

「現実にする?」

「見られたものは、消せない。消せないなら、守れる形に変える」


その言葉が終わる前に、ヒコからの通話が割り込んだ。音声が荒れ、遠くのアナウンスが混じる。

「スタジアム! こっちは滑走路がまた光った! 反射光が航路にかかる!」

FIREが叫ぶ。

「初昇を止める! 全系統カット!」

彼の指が、赤いスイッチへ伸びた。その指が、わずかに震えている。秒を握る手が、初めて迷っている。

ナナが言った。

「切ったら、今の波が反動になる。空は暗くなる。人は不安で、別の何かを燃やす」

「じゃあ、どうしろ」

「まとめる」

ナナは自分の端末を掲げた。彼女の画面には、タグの一覧が出ている。祝い、音楽、配信、試合、声明。彼女は、炎上しかけたタグを指で弾き、代わりに、別の言葉を選んだ。

「今日の声明、読み上げるの、ここで。ちゃんと。短くじゃなく、正確に」

「今!?」

シオンが叫ぶ。広告の数字が、彼女の端末の隅で崩れていく。けれど彼女は、目を逸らさない。

「今しかない。波の中心で言うと、波は形を変える」

ナナはFIREに視線を投げる。

「司令、秒を貸して」

FIREは、メトロノームを見た。振り子は勝手に揺れている。秒が、彼の手を離れかけている。

「……十秒だけだ」

「十分」

ナナは、スタジアムの音響卓へ走った。ルミナも走り、カメラを構えた。ニュードリーマーはマットの上で息を整え、観客に向けて両手を上げ、静かにしてと合図した。プロレスは乱暴な芸だが、静けさも作れる。


静けさが落ちた。ざわめきが薄れ、遠くで旗が擦れる音が聞こえた。誰かが咳をし、誰かが笑うのを我慢する。空の輪はまだ光っているが、光の落ち方が少しだけ穏やかになった。シオンの波形が、一瞬、水平に近づく。


ナナがマイクを握った。彼女の声は、まとめる人の声ではない。そこに立つ一人の声だ。

「今日、年の初めに、誰かを切り分ける言葉が増えるのは、たぶん自然です。怖いから。分からないから。でも、法律の話も、スポーツの話も、生活費の話も、同じ地面の上で起きてる。誰かの地面だけ抜け落ちたら、みんな転ぶ」

彼女は短い紙を読み上げた。LGBT法連盟会の年頭所感の要点を、自分の言葉に言い換えたものだ。誰もが尊厳を持って暮らせるように、法と運用を整える必要がある。対話を続ける。急がず、止まらず。そんな内容。

観客席のどこかで、拍手が起きた。パチ、パチ。すぐに広がらない。広がらない拍手は、逆に本物だった。


その拍手に合わせるように、空の輪の内側の文字が変化した。

SFDAILY-2026-01-01

の下に、別の短い行が浮かんだ。

HOLD TOGETHER

文字は全員に読める大きさで、けれど、押しつけがましくない薄さで滲んだ。ルミナはシャッターを切り、切りながら、涙が出そうになるのを堪えた。彼女は泣くために撮るのではない。残すために撮る。


ヒコの声が、少し落ち着いた。

「光が、滑走路から逸れた。航路も戻った。誰がやった」

ナナが答えた。

「波がやった。人がやった」

FIREは、赤いスイッチから指を離した。その代わり、別のフェーダーを上げる。光の輪が、スタジアムの中心へ向かって絞られていく。芝の上に、円形の朝が落ちた。まるで、ピッチの真ん中だけが夜明けになったみたいに。

ゴォォ……が、スゥ……に変わり、やがて無音に近づく。


ハーフタイムの終わりを告げる笛が鳴った。ピッ。

試合が再開する。選手たちは、空を一度だけ見上げてから、ボールへ戻った。高校生の集中力は、世界より強い。

観客もまた、端末を下ろし、目で追い始める。タグの波は、まだある。けれど、誰かを燃やす波ではなく、自分の呼吸に合わせる波になっていく。シオンの端末の広告数字は戻らない。戻らないが、彼女の肩は少し軽くなった。


後半、決勝点が入った。網が揺れ、スタンドが跳ねる。ドワァ。

ルミナは、ゴールを撮り、泣く選手を撮り、抱き合う控えを撮った。ニュードリーマーはマットを畳みながら、目元を拭っている。彼の推しの番組のプレビューより、今の芝の匂いのほうが鮮烈だった。

FIREは、表彰のカウントを取り戻した。秒は彼の手に戻ったが、彼の中身は少し変わっている。秒だけでは足りないと、認めた顔だ。


夜。スタジアムの外。観客が帰り、屋台が片付けられ、落ちた紙コップが風に転がる。ルミナは、空を見上げた。光の輪は消えている。空には何も書かれていない。けれど、彼女のカメラの中には残っている。

ナナが隣に立ち、スマホを見せた。まとめ板ではない。個人の投稿だ。短い動画。試合の瞬間と、空の輪と、拍手と、声明の言葉。タグは二つだけ。#新年一発目ぇ。#私の2026年のテーマ曲線。

「まとめないの?」

ルミナが聞くと、ナナは首を振った。

「今日は、まとめない。まとめると、切り分けるから」

「でも、あなたの仕事は」

「仕事は明日する。今日の私は、ただの一人」

その言い方が、妙に羨ましかった。


ヒコから、短いメッセージが届いた。滑走路は無事、遅延も解消。乗客の中に、空の輪の動画を見て泣いた人がいたらしい。彼は最後に、こう書いた。

「指揮棒は落とさなかった」

ニュードリーマーからも来た。今日の映像を見た海外団体の関係者が、試合とは別に、彼のリングを見たいと言っている。夢は、転がるボールより意外な方向へ跳ねる。


FIREは最後に、ルミナのインカムへだけ小さく言った。

「朝の空の文字。お前が撮ったのが最初だったな」

「最初って、何の最初?」

「分からん。だが、最初に見たものは、責任になる」

ルミナは笑えなかった。責任は重い。でも、撮らなければ、もっと軽くなってしまうものがある。

彼女はカメラバッグのファスナーを閉め、夜空に向けて小さく息を吐いた。白い息が、ほんの一瞬だけ輪になって消えた。


帰り道、ナナの端末が一度だけ光った。新しいコードが、通知の隅に出ている。日付はまだ表示されない。けれど並びだけが、昨日と同じ形をしている。

SFDAILY-2026-01-02

ナナは画面を伏せ、誰にも見せなかった。

その代わり、彼女はルミナの肩を軽く叩き、言った。

「明日も、空を見る?」

ルミナは頷き、空ではなく、地面を見た。地面はまだ冷たい。だからこそ、立てる。


(了)

――あとがき――

元日の群像として、まず各地で観測された初日の出の話題を、ルミナの撮影と気象サイトのまとめとして置きました。世界の新年祝賀の花火と歓声は、スタジアムの巨大スクリーンに差し込まれる映像として使い、祝祭の熱がタグの波に変わる感触を描いています。タンソンニャット空港の多便運航は、ヒコの現場の緊張と生活感を支える背景にしました。さらに、LGBT法連盟会の年頭所感は、炎上ではなく対話として扱えるかをクライマックスの選択に組み込みました。トレンドは、#Happy New Yearyや#私の2026年のテーマ曲線などを、現実の空気を少しだけずらした形で登場させています。

物語の大半はスポーツ中継と配信の現代ドラマの手触りで進めつつ、ラストに空そのものが反応する仕掛けで、意図的にジャンルを裏切る型を選びました。報道で扱われる出来事は重く、単純化すると誰かを傷つけますが、フィクションなら複数の立場と小さな選択を同じ画面に置けると考えています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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