紅蒼の秒、越年そば【2025/12/31】
制御卓の上のデジタル時計が、ひとつだけ息を止めた。23:59:60。存在しないはずの秒が、赤く点滅している。
ピピピピピ。
「冗談でしょ……」
歌合戦司令レイは、イヤホンのコードを指先でたぐり、放送フロアを見下ろした。ガラス越しに見えるステージは、紅の幕と蒼の幕が左右に垂れ、照明の試験が黙々と続いている。床の黒が、まるで湖面みたいに光を吸っていた。
「時刻信号の入力が揺れてます。誤差、最大で0.7秒」
「0.7秒で全国が燃えるのよ」
レイの声は冷たいが、手のひらは汗で湿っていた。第76回NHQ紅蒼うた合戦。年越し前の最後の分秒で、歌もCMもコメントも、秒針に縛られている。
今朝、上層部から届いた一行を思い出す。失敗は許されない。だが予算は削る。人も減らす。責任だけ増やす。レイは笑えない冗談を飲み込み、台本の端にだけ残した小さな丸印を指で隠した。最後の曲を歌う新人の名前。蒼羽ソラ。好きだと言ったら司令失格だ、と自分に言い聞かせる。
モニターの隅に、ニュースのテロップが流れていた。大晦日の寒波で大雪注意。交通に影響の恐れ。レイはその文字を見ないふりをした。天気は敵じゃない。ただの条件だ。条件を制圧するのが司令の仕事。
「クロノ隊長につないで。回線が生きてるうちに」
「はい、カウント管理局へ……」
レイは息を整えた。今夜は、歌だけじゃない。各局の配信、広告、決済、通信。すべてが同じ秒を共有している。もし秒がずれれば、目に見えないところで連鎖が起きる。
窓の外で、雪が光に吸い寄せられて舞っていた。
庵の店の暖簾は、白い息で揺れた。そばマスター庵は、麺台の前で腕まくりをし、粉の匂いを吸い込んだ。茹で釜の湯気が天井に昇り、照明に丸い輪を作る。
ゴオオ。
火の音が、腹の底まで届く。
「年越しってのは、胃袋で迎えるもんだ」
庵の言葉は独り言だが、背中には客が並んでいた。手袋を外してスマホを握る若者、子どもの手を引く母親、仕事帰りの作業着。外は寒波。雪はまだ細いが、空は鉛色だった。
店の隅の古いテレビが、地方ニュースを流している。南の宮崎の市で、そば店が年越しそば販売に追われている、と。画面の向こうの店主は笑っているが、目の下に影があった。
庵は鼻で笑って、同時にうなずいた。忙しさの味はどこも同じだ。
同じじゃないのは、値段だ。そば粉も、燃料も、じわじわ上がる。値札を貼り替えるたび、客の顔が曇る気がして、庵は貼り替えられずにいた。今夜くらいは、腹いっぱいにさせたい。損得より先に、店の暖かさを残したい。
カチリ。
棚の上のゼンマイ時計が、秒を刻む。デジタルじゃない。電波でもない。春に油を差し、秋にねじを巻く、ただの機械。庵はそれを信じていた。
「庵さん、これ、配信の台にしていい?」
カウンターに肘をついた男が言った。黒いパーカーの胸に、紫の稲妻みたいなロゴ。配信魔王ジーク。自称だ。本人は堂々としている。
「店は舞台じゃねえ」
「舞台じゃないから映えるんだよ。生活感。年末感。ほら、タグも走ってる」
ジークが見せた画面には、架空SNSの潮流板が踊っていた。『#越年そば』『#あと数刻』『#巨大全生配信』。そして、なぜか『#桃色うた決戦』も混じっている。
「桃色って何だ」
「別チャンネルの歌イベント。こっちにも流れ込んでる。今夜はみんな何かに参加したいんだよ」
「参加ってのは、並んで金払うことだ」
「痛い。だが正しい」
ジークは笑い、咳をした。外の冷気が喉に刺さるらしい。
ジークの視線が、スマホの別窓に移る。家賃の支払い通知。機材ローンの残高。配信は夢だが、請求書は現実だ。スポンサーの気分ひとつで、来月の暖房が消える。
カウンターの端で、紙袋を抱えた少女が立っていた。感謝紡ぎミユキ。頬が赤い。髪に雪が溶けて光る。
「庵さん、避難所に持っていく分、お願い。今夜は雪で、帰れない人が出そうだから」
「避難所?」
「市の体育館。暖房を開けるって。私、ボランティアで。あと、ありがとう札も配る」
ミユキは紙袋から、細い短冊をのぞかせた。赤と蒼の糸が一緒に結ばれている。さっきまで放送局の色だと思っていた配色が、急に神社のしめ縄みたいに見えた。
「ありがとう札って、何に使う」
「みんなで『感謝紡ぎ』を作るの。年の終わりに、誰かに言えなかった『ありがとう』を書いてもらって、糸でつないで、一本の帯にする。体育館に飾る予定」
「そんな暇があるなら寝ろ」
「寝たら、ありがとうが来年に逃げちゃう」
ミユキは笑って言い、すぐ真顔になった。
「それに、今年は帰省できないの。交通費も、雪も、ちょっと怖くて。だから、ここで年を越す人の役に立ちたい」
生活費という言葉を、彼女は口にしない。でも指先の荒れが、代わりに言っていた。
その会話に割って入るように、ドアの鈴が鳴った。
チリン。
「こんばんは。情報、拾わせてもらっていい?」
入ってきたのは、肩までの髪をまとめた女だった。タブレットを抱え、胸の名札には『纏目ナナ』とある。愛想はあるのに、視線が忙しい。目が、常にテロップを追っているみたいだ。
「纏目? まとめ屋か」
庵が言うと、ナナはうなずいた。
「現場のまとめ担当。誤情報が流れやすい夜だから。雪と年末と配信が重なると、脳が勝手に派手なほうを信じる。人間、そういう生き物」
「急に哲学」
ジークが突っ込む。
「哲学じゃない。統計」
ナナはタブレットを掲げた。潮流板に、妙な波形が出ている。
「『#あと数刻』が、いつもより尖ってる。あと、経済の話題が急に増えてる」
庵が眉をひそめる。
「経済で腹はふくれねえ」
「でも腹の値段は経済で決まる」
ナナは淡々と返した。クリックが多いほど広告単価が上がる世界で、彼女の生活費もまた潮流にぶら下がっている。炎上は伸びる。誤情報は速い。だが速さに負けたら、自分が自分でなくなる。
テレビが、別の速報を映した。経済界の代表団が、訪中を延期したと発表。理由は調整不足と安全配慮、と言い換えた言葉が並んでいる。画面の隅で、別のテロップが走った。ある大手IT系企業『LYRコーポレーション』の株で、空売り残高が急増、という解説。
ジークの顔色が一段暗くなった。
「それ、うちのスポンサー……。今日の『巨大全生配信』、予算の空気が薄いの、これか」
ミユキが小さく言った。
「訪中が延期って、良いのか悪いのか、私には分からない。でも、潮流板ではもう喧嘩が始まってる。行くべき派と、今は危ない派と……」
ナナが頷く。
「どっちも理由はある。だからまとめが必要。極端な言葉だけが残ると、人が割れる」
庵は鍋の湯気を見つめた。
「割れるのはそばだけにしろ。政治で粉の値段が跳ねたら、俺は値札を貼り替えるしかねえ」
クロノの名前が、頭をよぎる。秒も粉も、揺れると人が困る。
庵が首をかしげた。
「空売りって、空から売るのか」
「違う!」
ジークが即座に叫び、ナナが同時に淡々と補足した。
「借りて売って、下がったら買い戻す。下がると儲かる」
「下がると儲かるって、変な話だな」
庵は麺を手で伸ばしながら言った。
「そばなら、短くなると損だ」
「それは、ショート麺」
「いや、短いと食いにくいだろ」
「そこは長さじゃなくて、コンテンツの尺の話!」
ジークが頭を抱え、ミユキが小さく笑った。ナナは笑わず、タブレットに指を走らせるだけだ。
その瞬間、店の照明が一度だけ暗くなった。
フッ。
次の瞬間、明るさが戻る。だが、湯気の輪が揺れた。外から、風の唸りが聞こえた。
ゴオオオ。
雪が、本気を出しはじめた。
庵が鍋の蓋を押さえると、スマホが震えた。着信表示に『クロノ』。
「もしもし。そば屋だが」
『隊長だ。そっちは雪、来てるか』
電話の向こうの声は、切れ切れで、息が白いのが見える気がした。カウント隊長クロノ。時間管理局の現場班。彼の仕事は、全国の秒をそろえること。人はそれを意識しないが、意識しないからこそ崩れると怖い。
「来てる。そっちは」
『放送局の時刻信号が乱れてる。寒波で上空の中継ドローンが凍りかけてるらしい。冗談みたいだが、事実だ』
「ドローンが凍ると秒が狂うのか」
『狂う。秒が狂うと、全部が狂う。今夜は、歌と配信と……たぶん相場も』
クロノは一度、言葉を飲み込んだ。
『来年度から現場班の人数が削られる。自動化で十分だって上は言う。だが今夜みたいな夜は、人が要る。証明する』
「証明って、今やるのかよ」
『今夜しかない』
クロノの声に、焦りより固さがあった。
『体育館に移動する。そば屋も来い。暖房と人が必要だ』
「人が必要?」
『人の声が必要だ。あと、そば』
「なんでそば」
『腹が減るとカウントが乱れる』
レイの顔が、脳裏に浮かんだ。全国が燃える。0.7秒で。
庵は息を吐いた。
「分かった。鍋ごと持っていく」
棚のゼンマイ時計を外し、布で包む。秒の芯を、持っていくために。
店の外に出ると、雪は横から刺さった。街灯の光が、白い粒の海に沈む。道路はまだ黒いが、轍の縁が白く縁取られている。
ザザザ。
足音が雪に吸われ、音が薄くなる。代わりに、遠くでサイレンが鳴った。避難所開設の広報車だ。
庵は大鍋と布包みを抱え、ジークは機材バッグを背負い、ミユキはありがとう札の束を胸に押し当て、ナナはタブレットをビニールで包み、クロノは雪で白くなった防寒服のまま先導した。
体育館の入口に、蒼いランプが点滅している。中から、ざわめきと暖気が漏れた。
ここから少しだけ、音が遠くなった。
体育館の床に並べられた毛布。赤ちゃんの泣き声。湯たんぽの金属の匂い。ミユキが短冊を配り、庵が鍋の湯気を立て、ジークがケーブルをまとめ、ナナが掲示板に注意書きを貼り、クロノが腕時計と布包みの時計を交互にのぞき込む。
秒は、ただの数字じゃない。人が安心して息をするための、細い糸だ。
レイは今、どこでそれを掴んでいるのだろう。
「隊長、時刻信号のバックアップは?」
ジークが息を切らしながら聞く。
クロノは体育館の中央に立ち、天井の梁を見上げた。梁の間に、避難所用の簡易アンテナがぶら下がっている。だが、ランプが赤い。通信が弱い。
「衛星もドローンも当てにならない。ここで、ローカルに整える」
「どうやって?」
クロノはポケットから、小さな銀色の箱を出した。手のひらに収まるが、重い。
「携帯原子時計。これが基準だ。ただし、配信と放送の『共有』が問題だ。基準があっても、みんなが聞こえなければ意味がない」
庵が布包みを差し出した。
「こっちは、機械の根性だ」
クロノが受け取り、目を細めた。
「ゼンマイ……。秒が、手で巻かれてる」
「信用できるのは手だ」
「だが上は、手を減らす」
クロノの声が苦くなる。ミユキがそれを聞いて、短冊を握り直した。
ナナが口を開いた。
「聞こえないなら、見せる。潮流板に乗せる。今夜はみんな、スマホを握ってる」
「だが潮流板は荒れる。誤情報が混ざる」
「だから私がいる」
ナナの声は淡い。だが、目は鋭い。
「私も食べていかなきゃいけない。だから本当は、伸びる話を流したほうが得。でも今夜は、得を取ると誰かが凍える」
ミユキが短冊を掲げた。
「なら、ありがとう札に時刻を書くのは? 配った人が、同時に一枚ずつ掲げたら、見える」
庵は鍋の蓋を開け、湯気を逃がした。
シュウウ。
「腹も満たせ。腹が鳴ると秒が狂うんだろ」
ジークが笑いかけて、止まった。体育館の壁面の大型モニターに、ニュースが映った。欧州系のスポーツ局が、アフリカ杯のグループ戦を速報している。ナイジェリアが全勝で決勝トーナメントへ、という字幕。画面の端で、選手が抱き合い、緑の旗が揺れる。
「全勝か……。いいな」
ジークはつぶやいた。彼の配信は、今夜の勝負だ。だが勝つ相手は、誰だろう。視聴数か。スポンサーか。自分の焦りか。
そのとき、体育館の照明が、今度は長く落ちた。
ブツン。
闇が落ち、誰かが息を呑む。次の瞬間、非常灯が赤く点く。外の風が、壁を叩く。
ドン、ドン、ドン。
「停電だ!」
「落ち着いて!」
ミユキの声が通る。彼女の声は細いが、真っすぐだ。子どもが泣き止み、代わりに毛布の擦れる音が増える。
クロノが銀色の箱のボタンを押した。
ピッ。
小さな液晶に、基準時刻が浮かぶ。庵のゼンマイ時計も、闇の中でカチリ、と鳴った。二つの秒が、暗闇の糸を編む。
「今夜の『紅蒼うた合戦』、放送は……」
ジークが言いかけた瞬間、ナナのタブレットが淡く光った。バッテリー駆動。通信は断続的に生きている。
「レイ司令の局は、自家発電で回ってるはず。でも、全国の時刻共有が乱れると、映像の切り替えがズレる」
クロノが歯を食いしばる。
「ズレたら、年越しの瞬間が二回になるかもしれない」
庵が言った。
「二回なら得じゃねえか」
「得じゃない!」
ジークが叫び、庵が肩をすくめた。ミユキが口元を押さえて笑いそうになり、こらえた。ここで笑うと、涙に変わる気がしたからだ。
静けさの中で、外の雪の音だけが続く。
サラサラサラ。
体育館の屋根を叩く音が、時間を刻んでいるみたいだった。
クロノはレイに通じるはずの回線を探り、何度も試す。ナナは潮流板を監視し、偽のタグが増える瞬間を探る。ジークは配信の開始ボタンの前で指を止める。ミユキは短冊を配り終え、手を握りしめる。庵はそばを茹で、湯気の温度を保つ。
誰もが、なにかを守ろうとしているのに、守り方が違う。年末は、そういう夜だ。
ピピッ。
クロノの端末が鳴った。短い音。彼は顔を上げる。
「つながった。レイ司令だ」
体育館の隅の小型スピーカーから、レイの声が流れた。雑音混じりだが、はっきりしている。
『こちら放送制御。時刻信号のズレ、最大で1.2秒に拡大。全国の局でばらつき。寒波の影響を受けた中継ドローンが、凍結しながら漂流してる』
「漂流……そんなバカな」
『バカでも現実よ。今夜は現実がバカをする日。そっちは?』
クロノが答える。
「停電。だが携帯原子時計と、ゼンマイ時計は生きてる。問題は共有だ」
『共有……』
レイの息が一瞬だけ、音になった。
『なら、こちらで基準の音を出す。全国が聞けるもの。歌だ』
庵が眉をひそめる。
「歌で秒を測るのか」
『テンポは正確よ。生演奏のテンポじゃない。機械が刻む。あなたたちは、それを受け取って、現場でカウントして』
ジークが前に出た。
「司令、俺の配信、使っていい? 全国の視聴者に、基準カウントを参加させる。『#あと数刻』を合図に、同時に声を出してもらう」
『危険よ。荒らしが混ざる』
ナナが淡々と言った。
「荒らしの波形は私が切る。『纏目フィルタ』をかける。人の声だけ残す」
レイが少し黙り、次に言った。
『……やりなさい。台本は崩す。今夜の勝利条件は、放送を守ることじゃない。秒を守ること』
その言葉を聞いた瞬間、レイの胸の丸印が別の意味を帯びた。蒼羽ソラの歌を守るのは、彼女の趣味じゃない。仕事だ。人の息をつなぐ仕事だ。
ミユキが短冊を胸に押し当てた。
「秒を守れたら、ありがとうも間に合う」
中盤の嵐は、そこから始まった。
体育館の中央に、庵の鍋が据えられた。湯気が天井へ昇り、非常灯の赤に染まる。ジークはスマホを三脚に固定し、予備バッテリーをつなぐ。ナナはタブレットを壁に貼り、潮流板を投影するための小型プロジェクターを準備した。クロノは原子時計とゼンマイ時計の差を見比べ、ミユキは短冊を配り直す。
「みなさん、あと数刻で年が変わります。今夜は、少し変わった迎え方をします」
ミユキが通る声で言う。避難してきた人々が振り向いた。毛布の中の目が、赤い非常灯に照らされる。
「短冊に、誰かへの『ありがとう』を書いてください。書けたら、裏に、今の時刻を書いて。あとで、同時に掲げます」
「時刻?」
「はい。みんなで秒をそろえるんです」
ざわめきが広がる。誰かが笑い、誰かが不安そうに眉を寄せる。だが、紙とペンは、意外なほど人を落ち着かせた。
ザリザリ。
ペンが紙を削る音が、体育館に満ちる。クロノはそれを聞きながら、ふと思った。秒は、人が書くときに長くなる。急ぐと短くなる。だが、書くこと自体が、秒を意識させる。自動化では拾えない、肌の時間だ。
スピーカーから、放送局の音が流れた。
ジャーン。
紅蒼うた合戦のオープニング。電子音のリズムが、規則正しく刻む。レイが作った基準の音だ。
ドンドン、ドンドン。
クロノは原子時計を見て、リズムを数えた。ジークは配信を開始した。画面の向こうで、コメント欄が流れ出す。
『雪やばい』
『避難所から配信?』
『#越年そば食べたい』
『#桃色うた決戦見てる』
『空売りこわ』
潮流が、現実と同じ速度で動く。いや、現実より速い。速すぎると、嘘が混ざる。
ナナが指を走らせる。
「この『年越しが中止』は嘘。拡散停止。こっちは『訪中延期で物不足』、誇張。こっちは……」
彼女の瞳が細くなる。
「来た。『#秒が二回』。変な波形。ボットだ」
クロノがうなる。
「狙いは何だ」
ジークが歯を食いしばる。
「混乱させて、スポンサーの株を落とす。空売り軍団は、こういう夜に仕掛ける」
庵が、そばを器に盛りながら言った。
「下がると儲かる連中か。腹の底が冷える商売だな」
ミユキが器を配り、湯気が人の頬を柔らかくした。
シュウウ。
「でも、今ここにいる人の腹は、温められる」
彼女の声は震えていない。強い。
風が体育館の扉を叩いた。
ガン、ガン。
雪の粒が、隙間から吹き込み、床に白い線を引く。非常灯の赤が、白い線を血管みたいに見せた。
クロノは扉の前に立ち、外を見た。吹雪の向こうに、街の灯がいくつか消えている。
「このままじゃ、全国の時計がばらけたまま新年だ」
レイの声がスピーカーから入る。
『こちらも、現場の切り替えが乱れ始めた。CM入りが0.5秒早い局がある』
「0.5秒で全国が燃える、だったな」
クロノが苦笑した。だが、笑っている場合じゃない。
ナナが言った。
「共有の鍵は、信じる基準を一つにすること。ボットは基準を増やして混乱させる」
「なら、基準を一つに絞る」
ジークがスマホを掲げる。
「俺の配信で、基準カウントを一本化する。コメントじゃなく、声で。音声だけにする。人の声は、ボットには真似しにくい」
庵が言う。
「なら、そばの音も入れろ」
「そばの音?」
「すすれ。年越しの瞬間に、全員で。音は、腹の底から出る。偽れねえ」
ミユキが目を丸くした。
「それ、見た目はちょっと……でも、面白い」
ナナが珍しく口元をわずかに上げた。
「タグは『#越年そば一斉すすり』。いや、長い。『#一斉すすり』でいい」
ジークが笑い、すぐ真顔になる。
「司令、どう?」
スピーカーの向こうで、レイが息を吸う音がした。
『採用。台本にないけど、今夜は台本が敵よ。こちらも、最後の曲をテンポ基準に組み直す』
クロノが時計を見る。残りは、あと数刻。
「やるぞ」
クライマックスの前に、少しだけ静かな時間が落ちた。
非常灯の赤の下で、人々はそばをすすり、短冊に文字を書いた。誰かは遠くの家族へ。誰かは病院の同僚へ。誰かは、もう会えない人へ。文字は、拙いほど真剣だ。
ミユキは短冊を集め、赤と蒼の糸でつないでいく。指がかじかんで、糸が思うように通らない。庵がそっと湯気の近くに手を招いた。温めろ、という合図。ミユキはその湯気に指をかざし、小さく息を吐いた。
クロノは原子時計とゼンマイ時計を見つめ続けた。数字が淡々と進む。だが、その数字の裏に、人の息が重なるのを感じた。自動化では救えない夜がある。そう思うことで、少しだけ肩が軽くなる。
ナナは潮流板の波形を見つめ、ボットの波が弱まる瞬間を探った。正しさは伸びない。けれど、正しさが残れば、明日も誰かが暮らせる。
ジークは配信の視聴者数を見ないようにして、音声入力のレベルだけを見た。数字で生きてきた男が、数字を見ないことを選ぶ。ミユキはそれを横目で見て、短冊に一言だけ書いた。『自分へ。ありがとう』
外の吹雪は、まだ止まない。だが体育館の中に、ひとつのテンポが生まれていた。
そして、最大の演出が降りてきた。
『紅蒼うた合戦、最後の曲です』
レイの声がスピーカーから響く。放送局のスタジオの歓声が、雑音越しに聞こえる。歌い手の第一声が、透明な刃みたいに空気を切った。
アアアア。
蒼羽ソラの声だ、とレイは制御卓で気づいたはずだ。だが司令は司令の顔のまま、テンポ信号を混ぜ、全国の秒をその歌に乗せる。
単音が伸び、リズムが刻まれる。機械のテンポ。だが、歌は機械じゃない。息の揺れが、ほんのわずかに混ざる。そのわずかな揺れが、人の心臓と同期する。
体育館の天井に、ナナのプロジェクターが光を投げた。白い布が足りず、彼女は非常用の銀色シートを梁に張った。シートが波打ち、光が雪の粒みたいに散る。
キラキラ。
そこへ、ミユキがつないだ短冊の帯が持ち上げられた。赤と蒼の糸。紙の帯。人々の手。帯は体育館の中央を横切り、天井の光を受けて揺れた。
サラサラ。
紙が擦れる音が、雪の音と重なる。
クロノが叫んだ。
「あと30秒!」
ジークが配信に向けて叫ぶ。
「みんな、聞こえるか! 今夜は、秒を守る。コメントじゃない、声で参加しろ。カウントは俺が拾う。タグは『#一斉すすり』!」
スマホの向こうで、全国の声が混じりはじめた。
「さん!」
「に!」
「いち!」
声は遅れ、重なり、また揃う。ボットの合成音が紛れ込むが、ナナが切る。波形の不自然な直線を、彼女の指が刈り取る。
ピッ、ピッ。
クロノの原子時計が、無慈悲に進む。横で、ゼンマイ時計がカチリ、と応える。手で巻かれた秒が、原子の秒に寄り添う。
体育館の隅で、誰かが別の映像をスマホで見ていた。アフリカ杯。ナイジェリアのゴールの瞬間の歓声が、ちょうど重なる。
ワアアア。
世界のどこかの歓声が、ここに落ちる。距離が、秒で縮む。
レイの声がスピーカーで言う。
『10、9、8……』
放送局のカウントと、避難所のカウントと、配信のカウントが重なり始めた。今夜初めて、三つの秒が同じ糸に通る。
庵が、合図した。器を持つ手が一斉に上がる。
「すすれ」
「え?」
「すすれ」
ミユキが笑い、泣きそうになりながらうなずいた。
「みんな、いきます。せーの」
『3、2、1……』
ズズズズズ。
体育館が、一斉にそばをすする音で満ちた。音は腹の底から出て、喉を通り、空気を震わせる。嘘の音は入らない。ボットは、すすれない。
ズズズズズ。
その瞬間、非常灯の赤が揺れた。天井の銀色シートが震え、投影された短冊の文字が、波のように踊る。
そして、体育館の大型モニターが、遅れて点いた。
パッ。
電源が戻ったのだ。画面に映るのは、紅蒼うた合戦のステージ。レイが制御卓で拳を握りしめている。視聴者には見えないはずの裏側が、一瞬だけ映った。ジークの配信が拾ったのだろう。全国の誰かが、その瞬間を見た。
『あけおめ』
『秒合った!』
『泣いた』
『そばで世界救うな』
ミユキの短冊の帯が、天井の光の中で、一本の川みたいに流れた。
年が変わった。
だが、世界は変わりすぎなかった。雪はまだ降っているし、訪中延期のニュースも消えないし、相場は明日も荒れるかもしれない。アフリカ杯は続き、勝者はまだ決まらない。
それでも、体育館の中で、人々はひとつだけ小さな勝利を共有した。
秒が揃った。息が揃った。腹が温かい。
レイの声がスピーカーから、少しだけ柔らかくなって届いた。
『こちら放送制御。全国のズレ、収束。ありがとう』
クロノが返す。
「こちら現場。秒は守った」
ナナがタブレットを閉じた。指先が赤い。
「潮流板、静かになった。『#一斉すすり』が、変な意味で伝説になる」
ジークが笑って、初めて視聴者数を見た。記録は更新していない。だが、顔から焦りが抜けていくのが分かった。
「数字より、声のほうが重い夜もあるな」
庵が器を洗いながら言った。
「次は、金払え」
「それは守る」
ミユキは短冊の帯を抱え、体育館の入口に飾った。赤と蒼の糸が、非常灯の赤と混ざって、やけに温かい色になった。
ナナがその帯を見て、ぽつりと呟いた。
「まとめるって、切ることじゃない。つなぐことだな」
その言葉の端に、疲れがあった。だが、前より少しだけ軽かった。
外に出ると、雪は弱まっていた。雲の切れ目から、冷たい星がのぞく。街のどこかで、誰かが鐘を鳴らした。遠くの音は、雪に吸われて丸くなる。
ゴーン。
クロノは腕時計を見た。秒は、正しく進んでいる。
その表示の隅に、見慣れない小さな文字が一瞬だけ出た。
『MATOME77』
次の瞬間、消えた。ナナが気づいたかどうか、分からない。
クロノはそのまま、何も言わずに空を見上げた。秒は守れた。だが、次の秒は、また別の敵を連れてくるかもしれない。
庵は暖簾を握り、ミユキは短冊の帯を撫で、ジークは配信の終了ボタンに指を置き、ナナはタブレットの電源を入れ直した。
レイは、遠い放送局で、同じ空を見ているだろうか。
雪の夜は終わり、年は始まった。
(了)
――あとがき――
年越しそばの忙しさは、庵の店とテレビに映る南のそば店の話として入れ、現場の温度を出しました。寒波と大雪注意は、避難所となる体育館と停電の展開に重ねています。国際スポーツの話題は、アフリカ杯で全勝したナイジェリアの速報を、クライマックスの歓声として合流させました。経済界の訪中延期と『LYRコーポレーション』の空売り増加は、配信魔王ジークのスポンサー不安と、誤情報の動機に使っています。トレンドは『#越年そば』『#あと数刻』『#桃色うた決戦』を少しもじって配置しました。空売りを『空から売る』と取り違える場面は、張りつめた空気の緩和剤として入れています。
今回は近未来群像の王道で走り、ラストでジャンルを裏切らず、人の声と腹の音で秒をそろえる結末に寄せました。報道の重さを軽く扱わないよう、事実の要点だけを生活の手触りに落とし込み、フィクションの仕掛けは「秒を守る」という小さな選択に絞っています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




