年末ダイヤとディクテオーナ【2025/12/30】
湾岸の冬空は薄い鉛色で、雲の下を配送ドローンが列を作って滑っていた。高架歩道の手すりに指をかけ、ユース・ランナーは呼吸を整える。胸の計測バンドが震え、視界の隅で数値が跳ねた。年末は荷物も人の感情も重い。
歩道の向こう、街のあちこちに立つ縦長のパネルが同時に点灯し、合成ではない声が降ってくる。
「本日、港湾地区は混雑します。休祭ダイヤに注意してください」
声の主はディクテオーナ。行政のスピーカー網につながる中枢音声で、誰もが知っていて、誰もがどこか怖がっている。ユース・ランナーは苦笑し、肩に提げた小包を持ち直した。包み紙の角に貼られた青いシールがちらりと光る。見慣れない色だ。
そのとき、遠くで「ドン」と乾いた音がした。空気が一瞬だけ硬くなる。周囲の何人かが立ち止まり、視線が同じ方向へ吸い寄せられた。海の方角。だが次の瞬間、別の高架から「パパパッ」と細い破裂音が続き、誰かが言った。
「花火の試射だよ。年末のやつ」
ユース・ランナーは息を吐く。音の正体よりも、音で人が変わる速さが怖い。
パネルのニュース欄が流れた。大陸側の軍が、台湾の周辺で実弾を使う訓練を始めたらしい。地図に赤い円が描かれ、航路の線が細く震える。訓練は遠い海の話だ。それでも、海はこの街の冷蔵庫と財布につながっている。
次に流れたのは相場だ。年末の取引で世界の指数が持ち上がっているという表示。だが国内の代表株価は、数日上げた反動で今日は下に向いた。矢印が緑と赤の間で迷子になる。見ているだけで胃が重くなる。
ユース・ランナーは走り出す。靴底の補助バネが「キュン」と鳴り、膝から下が軽くなる。走ることだけは裏切らない。そう思いたい。
港に近い駅の改札前で、ダイヤ・ガードが腕を組んでいた。制服の肩章は銀色で、左手には紙束。紙束だ。年末の街で紙束は武器に見える。
「止まって。今日は休祭ダイヤ。次の便は間隔が違う」
「休みのダイヤ、って、ダイヤモンドみたいに守れって意味ですか」
ダイヤ・ガードの眉がわずかに動く。
「守るのは時刻表。宝石じゃない」
「宝石なら守りたいですけどね。給料日が守ってくれない」
「それは制度に言え」
ユース・ランナーが笑うと、ダイヤ・ガードは紙束から一枚抜き、折って差し出した。
「紙のダイヤだ。端末が死んだとき用。今日は回線が混む。受け取れ」
指先に触れた紙は冷たく、妙に現実的だった。ユース・ランナーは胸ポケットに入れた。紙の角が心臓の近くで立ち上がる。
改札の上の小型スクリーンに、スポーツの速報が踊る。坂神ジュニアが少年野球の全国大会で優勝。ユース・ランナーは思わず歩みを緩めた。推しは強い。推しは冬の血流を良くする。続いて、ユースのサッカー大会で、三夌養羽ユースが連覇したという映像。泥だらけの笑顔が一瞬だけ街の灰色を押し返した。
スクリーンの隣に、配信の告知が重なる。#今年イチバン聴いたオト。年末の定番タグが、少しだけ文字を変えて並んでいた。もう一つ、東都大賞典のパブリックビューイング。競馬場に行けない人のために、港の広場で巨大映像を流すらしい。
ユース・ランナーの耳に、誰かの笑い声と、誰かのため息が混じる。年末は全部が同居する。
市場のアーケードに入ると、匂いが変わった。乾物の甘い塩気、油の匂い、暖房の埃。リトル・マーケットの屋台は、入口から三つ目の角にある。看板は手書きで、文字が少し傾いている。傾きがそのまま生活の角度に見えた。
「おう、ユース・ランナー。遅いぞ。今日は客が神経質だ」
リトル・マーケットは小柄な男で、エプロンのポケットに計算機を差している。計算機の表示は古いが、彼の指は速い。生活費は指先で決まる。
「港が混んでます。海のニュースが効いてる」
「効いてるどころじゃない。保険が上がる、冷凍が遅れる、値段が上がる。うちは小さい。小さいから真っ先に揺れる」
彼は棚から海苔の束を取ろうとして、指を止めた。天井のスクリーンが相場を映す。世界は上。国内は下。矛盾した矢印が客の目を刺す。
「ほらな。上がってるのに下がってる。どっちだよ」
「年末の上げと、国内の反落。両方です」
背後から、冷たい声がした。ストラテジアだった。黒いコート、薄い眼鏡、指先に小さなリング端末。彼は相場の矢印を食べ物のように眺める。推しは数字。数字は裏切らないと信じている顔だ。
「上がってるうちに利確して、下がったら買う。それだけ」
「それだけで暮らせるなら、うちの店にもそれだけを売りたいね」
リトル・マーケットが皮肉を言うと、ストラテジアは口元だけで笑った。笑いが薄い。薄い笑いは寒さを増やす。
そこへ、ディクテオーナがアーケードの奥から現れた。黒いコートの襟元に細いマイク。耳に透明な骨伝導のパーツ。彼女は声を仕事にしているのではなく、声の裏側を仕事にしている。
「市場のスピーカー、音が割れてる。更新が入った?」
リトル・マーケットが肩をすくめる。
「更新なんて聞いてない。年末は何でも勝手に更新される」
「それを止めるのが私の仕事」
ディクテオーナは天井のスピーカーを見上げ、指先で喉元のマイクを軽く叩いた。「トン」。その小さな音が、なぜか安心に聞こえた。
ユース・ランナーは包みを渡す。リトル・マーケットは受け取り、値札の端を整えた。紙の音が「サラ」と鳴る。紙はまだ生きている。
ディクテオーナの視線が、ユース・ランナーの胸ポケットに止まった。
「それ、紙のダイヤ?」
「ダイヤ・ガードにもらいました。回線が死ぬかもって」
ディクテオーナは小さく頷いた。
「今日は死ぬかもしれない。だから生かす」
言い方が物騒で、ユース・ランナーは一瞬だけ笑いそこねた。
店の奥の小型端末が「ピピッ」と鳴り、画面にタグが流れる。#障界年金。字を少し変えた相談タグだ。申請が通らない、審査が遅い、制度が難しい。年末でも困りごとは休まない。
ストラテジアの指が止まった。リング端末の光が瞬き、彼の表情が硬くなる。
「それ、また上がってるのか」
「上がってるのは相場だけじゃない。生活も、申請も、心拍も」
ディクテオーナが言う。彼女の言葉は淡々としているのに、背中が冷える。
「俺の親父がな。脚をやって、仕事を辞めた。申請は三回戻された。足りない紙、足りない印鑑、足りない説明。足りないのは俺の我慢だ」
ストラテジアは吐き捨てるように言った。推しが数字でも、生活は数字だけじゃない。数字の外にいる人がいる。
そのとき、アーケードの端の大型スクリーンが切り替わり、派手な色が弾けた。配信者、纏目ナナの顔。丸い眼鏡、短い髪、首元に細いバンド。彼女の配信は、ニュースをまとめることで人気を集めている。まとめ役のくせに、喋りが速い。
「年末速報まとめ、いくよ。台湾周辺の訓練は続報待ち。相場は年末で強いけど、国内は反落。スポーツは明るい。坂神ジュニア優勝、三夌養羽ユース連覇。そして東都大賞典は今夜。あと、休祭ダイヤはほんとに罠。間違えると帰れない」
彼女が笑うと、コメント欄の絵文字が雪崩れる。画面の端に、#今年イチバン聴いたオトの募集。視聴者が自分の一年を音で語る。
ユース・ランナーはその画面に、なぜか胸が締まるのを感じた。まとめる声は便利だ。便利すぎると、誰かが何かを決める。
ディクテオーナがスクリーンの下にあるメンテナンスパネルを開けた。中から光ファイバーの束が覗く。彼女の指が素早く動く。街の声の血管に触れている。
「今夜、広場で一斉に更新をかける。混雑対策と、偽情報対策。音で配る」
「音で?」
リトル・マーケットが首を傾げる。
「人気の配信や音楽に、更新信号を混ぜる。耳にはただの曲。機械には命令。昔からある手口を、善用する」
ストラテジアの目が細くなる。
「善用と悪用は、紙一重だ」
「紙一重を厚くするのが、現場の仕事」
ディクテオーナは言い切った。彼女の手の甲に、細い傷が見えた。いつついた傷か分からない。だが仕事の傷だ。
その瞬間、スピーカーが一瞬だけノイズを吐いた。「ザザ」。市場の照明がわずかに揺れる。スクリーンの地図が赤く瞬き、台湾周辺の円が少しだけ大きくなった。誰かが息を呑む音がした。
ユース・ランナーの胸ポケットで、紙の角がさらに尖った気がした。
ダイヤ・ガードから通信が入った。端末が「ピッ」と鳴り、文字が流れる。駅前が混雑。休祭ダイヤの変更が直前に入った。ホームで言い争い。警備要請。
ディクテオーナは目を閉じ、短く息を吐いた。
「行く。駅で一度、スピーカーの系統を確認する。ユース・ランナー、走れる?」
「走るのが仕事です」
「リトル・マーケット、屋台は?」
「閉めると死ぬ。開けるともっと死ぬ。だから半分閉めて行く」
リトル・マーケットは苦笑し、シャッターを半分下ろした。「ガララ」。音が年末の空気を削る。
ストラテジアは一瞬迷い、リング端末を握り直した。
「俺も行く。駅の混乱は相場より厄介だ。相場は画面の中だが、混乱は体に触る」
四人がアーケードを抜けると、冷たい風が頬を切った。駅前広場はすでに人で膨らんでいる。東都大賞典の宣伝車が音楽を流し、子ども向けのスポーツ表彰のポスターが貼られている。年末の明るさが、人の不安の上に無理やり乗っている。
ホームに向かう階段の前で、ダイヤ・ガードが両手を広げていた。視線は鋭いが、声は抑えている。周囲に浮かぶ案内ホログラムが点滅し、矢印が左右に揺れている。
「止まってください。右が臨時便、左が通常。押さない。押したら全員遅れる」
だが人は押す。押したいわけじゃない。押されるから押す。連鎖だ。誰かの肩が「ゴン」とぶつかり、誰かの荷物が落ち、「ガシャン」と硬い音がした。
ユース・ランナーは反射で前に出た。落ちた荷物を足で止め、持ち主に返す。指先が触れる。冷たい。誰かの手が震えている。
「すみません、すみません。うちの親が待ってて」
「大丈夫。紙のダイヤ、持ってますか」
自分でも変なことを言っていると思った。だが相手は目を丸くし、首を振る。
「紙? いまどき?」
「いまどきだから必要です」
ユース・ランナーは胸ポケットから折り紙の時刻表を一瞬だけ見せた。相手の視線が落ち着く。紙は情報だけじゃない。触れられる安心だ。
その横で、纏目ナナが小型の肩掛けカメラを付け、ホームの端から配信していた。人混みの外側で、彼女は声を張る。
「休祭ダイヤ、みんな間違えてる。右が臨時、左が通常。ダイヤは守れ。守らないと帰れない」
コメント欄が流れる。誰かが書く。ダイヤって宝石? 誰かが返す。時刻表だよ。別の誰かが書く。いや宝石も守りたい。そこに笑いが起きる。笑いが一瞬だけ緊張をほぐす。
ダイヤ・ガードがナナに目を向け、短く言った。
「配信、助かる。だが煽るな」
「煽ってない。まとめてるだけ」
「まとめるのは刃物だ」
「刃物は切れるから便利なんだよ」
噛み合わない。噛み合わないのに、どちらも正しい。ユース・ランナーはその会話を聞きながら、なぜか笑いそうになって、笑うのをやめた。笑いの場所は選ぶ。
ディクテオーナはホームの柱にあるメンテナンス端子を開け、ケーブルを接続した。指先が冷たい金属に触れ、「カチ」と音がした。彼女の瞳孔がわずかに開く。視界に内部ログが流れているのだろう。
「系統が重い。外から変な波形が入ってる」
ストラテジアが眉を寄せる。
「外って、どこだ」
「海の上。衛星の中継。ノイズじゃない。意図がある」
ディクテオーナは低く言った。駅のスピーカーが一瞬だけ「ザザザ」と鳴り、次の瞬間、落ち着いた声で繰り返した。
「本日、港湾地区は混雑します。休祭ダイヤに注意してください」
同じ文。だが今度は微妙に抑揚が違う。誰かが偽物を混ぜている。ディクテオーナは唇を噛んだ。
列車が入ってくる音が遠くから近づく。「ゴォォ」。ホームの人波が押し寄せ、黄色い線が見えなくなる。ダイヤ・ガードが腕で押し返し、声を張る。
「下がって。線の内側に入るな」
その声に紛れて、誰かが囁いた。
「台湾のやつ、これ、始まるんじゃないか」
別の誰かが返す。
「実弾だって。海が止まるって」
「買いだ。買いだ。明日から物が消える」
恐怖は説明より速い。ディクテオーナの眉間に皺が寄る。ストラテジアの指がリング端末の縁を叩く。「カタカタ」。彼は相場の画面を見ている。画面の中で、矢印が暴れ始めていた。
ユース・ランナーはふと、胸ポケットの紙の角を指で撫でた。紙は熱を持たない。だが触れていると、体が自分のものに戻る。
騒ぎの合間に、ホームの端にある待合室の扉が開いた。中は暖房が効いていて、空気が少しだけ柔らかい。ディクテオーナがそこに入るよう手で合図する。五人が滑り込むと、扉が閉まり、外の騒音が薄くなった。
静けさが落ちた。数呼吸ぶんの静けさは、戦場の前の水面みたいに不自然だ。
リトル・マーケットが椅子に座り、手袋を外した。指が赤い。
「俺の推しは坂神ジュニアだ。あいつらが勝った日は、客の目つきが変わる。けど、明日から海が止まったら、勝ち負けより海苔の値段だ」
ダイヤ・ガードが頷く。
「俺の推しはダイヤ。正確なダイヤは人を帰す。帰れれば、明日がある」
ユース・ランナーは喉の奥で笑った。
「俺の推しは走ること。走ってる間だけ、ニュースの矢印が消える」
ストラテジアは窓の外を見て、ぽつりと言った。
「俺の推しは……推しって言い方、苦手だ。だが、親父の足は推しだ。あの足で俺は育った。だから制度が足を折るのが許せない」
纏目ナナは首元のバンドに指を当てた。薄い金属音が「コツ」と鳴る。
「私は声が推し。声がなきゃ、私はただの顔だ。声があるから、みんなが集まる。だけど、声は武器にもなる。さっき言われた。刃物だって」
ディクテオーナが深く息を吸い、吐いた。
「私の推しは……正常系。異常が嫌いだ。だから直す。でも、正常って誰が決める。今日はそれを決める日になる」
外で「ピィィ」と高い警告音が鳴った。扉の向こうの人波がざわめく。静けさが割れる。
ディクテオーナは立ち上がり、決断の顔になる。
「今夜の広場で、一斉更新をやる。偽物の声を押し出す。だが回線が危ない。だから音で配る。ナナ、協力できる?」
纏目ナナの目が揺れた。人気配信者は、広告と契約と炎上の綱渡りをしている。政治や軍事に触れれば、声が焼ける。
「私がやれば、みんな聴く。みんな聴けば、みんな更新される。勝手に更新されるのが怖いって、さっき言ったのに」
ユース・ランナーが紙のダイヤを握りしめ、言った。
「勝手に更新されるのが嫌なら、自分で更新するしかない。少なくとも、誰がやったか分かる形で」
ストラテジアが息を吐く。
「責任を背負う気か」
ディクテオーナが頷いた。
「背負う。背負わないと、誰かに背負わされる」
ダイヤ・ガードが扉を押し開け、外を確認する。人波はまだ荒れているが、列車は動き始めていた。彼は短く言う。
「広場は今夜、東都大賞典で満員だ。そこで何か起きれば、駅は止まる。だから止める」
五人は外へ出た。駅の風が頬を切る。空はさらに暗く、雲の下に光の粒が浮いている。ドローン花火の準備だ。
夜。港の広場。海風が冷たく、屋台の湯気が白い柱になる。リトル・マーケットは臨時の販売台を出し、温かい汁物を配っていた。値段はほとんど原価。生活費の計算が頭を殴る。それでも彼は配る。配らないと、明日が売れない。
「ほら、熱いぞ。舌を焼くな。焼くなら怒りだけにしろ」
客が笑う。「フフ」。笑いは小さいが、確かに灯りだ。
巨大スクリーンでは東都大賞典の出走馬が紹介されている。馬の筋肉が拡大され、蹄が地面を叩く音が「ドドド」と腹に響く。スクリーンの下では、坂神ジュニアの優勝メンバーと、三夌養羽ユースの選手が並び、花束を受け取る準備をしていた。スポーツの勝利が、軍事と相場の影を一瞬だけ薄くする。
纏目ナナはステージ脇の小さなブースに入った。彼女の前にはミキサー、マイク、波形モニター。ディクテオーナがケーブルを繋ぎ、ダイヤ・ガードが人の流れを整え、ユース・ランナーが走り回って紙の案内を配る。ストラテジアは端末を開き、広場周辺の通信の揺れを監視する。五人の仕事が、一つの場所で重なっていく。
ディクテオーナがナナに、小さな金属の札を渡した。東都大賞典の記念入場札だ。表面に馬の刻印、裏に細い溝。リトル・マーケットがさっき、屋台の客から受け取ったものだ。
「これ、ただの記念品じゃない。入場管理の鍵。広場のスクリーン系統に直接入れる」
「そんなものが屋台に流れるのが怖い」
「怖いから使う。怖いまま放置すると、誰かが悪用する」
ディクテオーナの言葉は刃物みたいに冷たい。だが、刃物は切れるから便利だ。ナナは昼の会話を思い出し、苦笑した。
スクリーンに、相場の速報が割り込む。年末で上がる世界。反落する国内。矢印が踊る。観客のざわめきが増える。そこへ、赤い帯が一瞬走った。台湾周辺の円が、また大きくなる。ディクテオーナの目が鋭くなる。
「来る」
次の瞬間だった。
広場のすべてのスクリーンが同時に白く飛んだ。「バッ」。音が消え、海風の音だけが残る。息を呑む音が群れになる。白が赤に変わり、赤が文字を吐く。避難。航路閉鎖。軍の動き。根拠のない断言。地図が震え、台湾周辺の赤い円が広場の上空に投影される。赤が空いっぱいに膨らみ、人の顔が一斉に赤く染まる。
「うそだろ」
「始まるのか」
「帰れなくなる」
「買い占めだ」
「ドン」と誰かが倒れ、屋台の鍋が揺れ、「ジャバ」と汁がこぼれた。リトル・マーケットが腕で支え、火傷しそうになりながら鍋を戻す。
「落ち着け! 火の方が近い!」
ダイヤ・ガードが叫び、腕を広げる。警備ドローンが低空で飛び、「ブゥン」と風を切る。人波が押し、押し、押し返される。圧力が壁になる。
ストラテジアの端末が異常値を示した。相場が跳ね、売買が加速している。誰かがこの赤を欲しがっている。恐怖は燃料だ。
「これ、仕掛けだ。偽情報が相場を動かしてる」
彼は歯を食いしばり、通信の出どころを追う。海上の中継。衛星。だが奇妙に近い。近すぎる。広場のスクリーン系統そのものからも赤が滲んでいる。
「内側にもいる」
ディクテオーナがナナのブースに飛び込み、記念入場札を端末に差し込んだ。「カチ」。鍵が回る感触が指先に伝わる。彼女は叫ぶ。
「ユース・ランナー! 紙のダイヤを集めて、出口を作れ! ホログラムが嘘を吐いてる!」
「了解!」
ユース・ランナーは走り出す。足のバネが「キュン」と鳴り、空気が切れる。紙の案内を持つ手が、凍えるほど冷たい。だが紙は折れない。折れない限り、道は折れない。
ダイヤ・ガードは人波の前に立ち、声を出す。
「右へ。右。押すな。子どもを先に。荷物は捨てろ」
捨てろと言われて、捨てられる人と捨てられない人がいる。生活費が詰まった袋、親の薬、推しのグッズ。捨てられないものが人を縛る。リトル・マーケットは自分の屋台の売上袋を見て、一瞬迷い、鍋の下に押し込んだ。
「金はあとで拾える。命は拾えない」
自分で言って、自分に突っ込む。
「いや拾えんわ、命。比喩が雑だ」
その雑さが笑いになり、近くの客が一瞬だけ口元を緩めた。笑いが圧力を少しだけ抜く。
纏目ナナはマイクを握った。手が震える。赤いスクリーンの光が彼女の頬を染める。コメント欄は荒れている。煽り、罵声、嘘、祈り。まとめる声が、いま一番危ない。
ディクテオーナがナナの目を見た。
「いま、あなたの声が必要。真偽の線引きじゃない。呼吸を戻す声」
「呼吸を戻す声、って、どうやるの」
「あなたの配信の枠で、#今年イチバン聴いたオトを流す。最も聴かれた曲。そこに更新信号を混ぜる。偽の声を追い出す」
「みんなの耳を借りて、街を直す」
「借りるじゃない。返す。街の声を、街に返す」
ナナは目を閉じ、頷いた。首元のバンドが「コツ」と鳴る。彼女は配信を切り替える。
「みんな、落ち着いて。いまから今年イチバン聴かれたオト、流す。理由はあとでまとめる。いまは呼吸」
スピーカーから、低いベースが流れた。「ボゥン」。単純で、反復するリズム。人の心臓に寄り添う速さ。曲の上に、耳には聞こえない細い信号が乗る。ディクテオーナの端末の波形が揃い始める。
スクリーンの赤が一瞬だけ滲み、「ザザ」とノイズが走った。偽の文字が揺れ、輪郭が崩れる。そこへ、紙の案内を掲げたユース・ランナーが走り込む。出口の方向が、紙の矢印で固定される。ホログラムの嘘が、紙の矢印に負ける。人波がゆっくりと向きを変える。
ストラテジアが叫ぶ。
「出どころ、捕まえた。偽情報は外からじゃない。広場のスクリーン系統に、最初から訓練用の赤が仕込まれてる。年末レジリエンス演習。だが誰かがその演習データを横取りして、相場に流した」
ディクテオーナの顔が硬直した。
「訓練? 聞いてない」
「上からは言わない。言えば訓練にならないからな」
現実の冷たさが、風より冷たい。ディクテオーナは唇を噛み、次の瞬間、怒りを飲み込んだ。飲み込まないと、声が割れる。
「いまは止める。あとで怒る」
彼女は端末の操作を続ける。ナナの曲が続く。ダイヤ・ガードの号令が続く。リトル・マーケットの鍋が湯気を上げる。ユース・ランナーの紙が揺れる。ストラテジアの指が走る。五つの動きが、ようやく一つの意図になる。
「バッ」とスクリーンの赤が消えた。青い案内が出る。休祭ダイヤの臨時便の時刻。出口の矢印。現在地。落ち着いた声。
「ただいま偽の緊急表示が混入しました。安全のため、表示に従わず係員の案内に従ってください」
ディクテオーナの声だ。今度は偽物じゃない。声の抑揚が、彼女の喉元の「トン」と同じだ。人々の肩が少し下がる。息が戻る。息が戻れば、世界はまだ続く。
広場の端で、坂神ジュニアの子どもが泣いていた。怖さで泣いているのか、悔しさで泣いているのか分からない。ユース・ランナーが近づき、紙のダイヤを一枚渡した。
「これ、道。泣いてても道はある」
子どもは紙を握り、鼻をすすった。「ズズ」。その音が、年末の海風に小さく溶ける。
騒ぎが収まったあと、曲が終わった。最後の余韻が「スゥ」と消え、広場に現実の音が戻る。鍋の煮える音、遠い波の音、人の靴の音。
短い沈黙が、今度は自然に落ちた。人は急に英雄になれない。だが急に戻れる。
ストラテジアが端末を閉じた。目の下に疲れが出ている。
「相場は……戻る。だが、俺の取引のログに、さっきの赤が入り込んだ。誰かが俺の数字を使って、恐怖を増幅させた。俺はそれを止められなかった」
リトル・マーケットが肩を叩く。
「止めたじゃないか。止めるのは一人じゃ無理だ。だから市場って言うんだろ。人がいる場所」
ダイヤ・ガードがため息を吐く。
「訓練だとしても、現場は現場だ。次は紙のダイヤをもっと配る。端末が死んでも帰れる街にする」
ディクテオーナは広場のスクリーンを見上げた。青い案内の端に、小さな赤い点が残っている。訓練用の表示が完全に消えきっていない。あるいは外からのノイズかもしれない。彼女は喉元を「トン」と叩き、低く言った。
「次の赤は、訓練じゃないかもしれない。だから、今日のやり方を残す。声を独り占めしない」
纏目ナナは首元のバンドを外し、冷たい金属の輪を手のひらで転がした。輪の内側に細い刻印。補助発声器。彼女は笑った。笑いは少し疲れている。
「声は貸し借りだね。借りて、返して、また借りる。そうやって一年が終わる」
ユース・ランナーが空を見上げる。ドローン花火が上がり、「パァン」と光が散った。さっきの「ドン」と同じ音。だが今度は、みんなが花火だと分かっている。分かっているだけで、音は優しくなる。
広場のスクリーンに、最後の通知が出た。障界年金の相談窓口が、年末でも開くという案内。纏目ナナの配信ページへのリンク。紙のダイヤの配布場所。小さな手が、世界の大きさに抗うための小さな案内。
ディクテオーナはその表示を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。正常系は、人が作る。
赤い点が、まだ消えないまま。
(了)
――あとがき――
台湾周辺での実弾訓練の報は、港の街が一気に神経質になる導火線として置きました。年末で世界の相場が持ち上がる一方、国内の代表指数が反落する揺れは、ストラテジアの指先の焦りと、リトル・マーケットの棚の値札に変換しています。坂神ジュニアの優勝と三夌養羽ユースの連覇は、広場の明るさとしてクライマックス直前に集約し、そこへ東都大賞典の熱気と休祭ダイヤの混乱を重ねました。トレンドの#今年イチバン聴いたオトと#障界年金は、声と制度の重さを映す窓として使っています。
ジャンルは近未来SFを軸にしつつ、終盤だけ情報戦サスペンスへ反転させるB案を採りました。まとめ役の声が人を救うことも傷つけることもある、という感触を残したかったのです。報道の事実そのものは軽く扱わず、街の生活へ落とし込む形で距離を取り、フィクションとして再構成しています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




