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停線協議とラストキャンドル【2025/12/29】

年末の日曜の薄明かりが、環状高速の管制室の窓を灰色に染めていた。壁一面のモニターには、赤い線が毛細血管みたいに広がっている。下り線。帰省の車列が折り重なり、速度表示が三桁から二桁に落ち、やがて一桁になった。


ミチフサギは、指先で机の端を叩いた。癖だ。焦るほど指が勝手に道を探す。彼女の仕事は道を塞ぐことではなく、塞がらないように流すことだが、呼び名はなぜかミチフサギのままだった。


「現場カメラ三番、トンネル手前が詰まってる。可変標識、迂回表示を強めて」


(ピコン)


指示を飛ばした瞬間、標識のプレビュー画面が一瞬だけ別の文字を映した。


停戦案 継続協議


「……いま、何?」


ミチフサギは瞬きをして、もう一度見た。画面は通常の「迂回推奨」に戻っている。通信のノイズ。そう片づけたいのに、胸の奥がざらついた。


窓の外では、朝の冷気の中を作業員の安全帽が小さく揺れていた。今日の街は、動いているものが多すぎる。車も、人も、情報も。


同じころ、湾岸の埋め立て地に立つ白い箱の中で、バランサー零は数字の波に目を細めていた。箱はデータセンターだ。国内の通信各社が、生成AI向けの計算資源を取り合うように増設している。その最前線がここだった。


冷たい通路の両側に、黒いラックが整列している。ラックの隙間からは、風ではなく熱の気配が漏れてくる。計算は熱だ。熱は電気だ。電気は政治だ。零の頭の中では、それが一本の線でつながっていた。


(ゴウウウ)


空調の低音に混じって、端末が通知を吐いた。都心市場の速報。半導体関連が買われ、主要指数が年末らしく反発したという。零の口元がかすかに上がる。給料だけでは生活費が追いつかない。投資は嫌いだが、嫌いでいられる余裕もない。


「半導体は強い。だが、強いと熱いは同義だぞ」


誰にともなく言って、零は温度グラフを拡大した。ラック列の一部が、予定より早く赤くなっている。人々が動画を見ている。渋滞情報、開幕する高校サッカー、そして遠い国の緊急会合。画面の向こうの熱が、ここに流れ込んでくる。


監視卓の隅には、テスト運用中のモデル名が表示されていた。


SFDAILY-2025-12-28


零はそのラベルを嫌った。日付で世界を切り分ける癖は、計算機の得意技だ。人間の一日は、もっと滲んでいる。


バスの窓は白く曇り、指でこすると外の景色がにじんだ。エンドライン蒼は、曇りの向こうに連なるテールランプの赤を見て、喉の奥をぎゅっと締めた。渋滞だ。年末の帰省ラッシュは知っていたが、まさか自分たちの開幕戦まで巻き込むとは思わなかった。


「蒼、落ち着け。到着したらすぐ動けるように、足首回しとけ」


隣の先輩が言う。蒼はうなずき、シューズのひもを触った。新品のひもはまだ硬い。遠征の交通費は部費のぎりぎりで、家計にも響く。母は何も言わないが、財布の中身が薄くなる速度は蒼にも分かる。


前方の座席で、誰かがスマホを掲げた。


「見て。トレンド、帰省がすごい」


画面には、もじったハッシュが並んでいた。#帰省ラッ朱。#高校サッ力ー。#年末そうば。文字が踊るたび、車内の空気がそわそわする。


蒼は視線を逸らしかけて、別の速報に釘づけになった。国連の会合が中東情勢で急きょ開かれ、停戦案はまだ継続協議だという。遠いはずのニュースが、渋滞の車内で妙に近い。


「戦ってるのに、協議って、遅いよな」


誰かがつぶやく。別の誰かが返す。


「遅くても、やるしかないんじゃね」


蒼は何も言えなかった。ボールは蹴れば前に進むのに、世界は蹴っても進まないことがある。


スタジアムの放送席は、ガラスの箱だった。下には緑のピッチ。上には冬の空。ラストキャンドル仁は、マイクの前に座り、指先で小さな蝋燭を転がした。火はついていない。だが、蝋の匂いは落ち着く。


「今日は開幕戦です。全国高等蹴球選手権。客席の温度は上がるでしょうね」


音声スタッフがヘッドセット越しに笑う。


「温度が上がりすぎると、通信が死ぬ。今朝から渋滞もひどいし、回線も詰まってる」


仁は苦笑した。回線が詰まる。道路も詰まる。年末は何でも詰まる。


テロップ担当が、原稿の束を差し出す。スポーツだけではない。国連の緊急会合、停戦案の継続協議。都心市場では半導体が買われて指数が戻したこと。国内の通信各社が生成AIのためにデータセンターを増やしていること。全部を、同じ口で読めと言う。


「ニュースってのは、同時に起きるからニュースなんだよな」


仁は自分に言い聞かせ、蝋燭をポケットにしまった。火をつけるのは、最後の手段だ。停電でも起きない限り、使わない。そう決めている。


(カチ)


マイクが入る音。仁の声が、ガラスの箱から街へ放たれた。


駅前の喫茶店で、纏目ナナは紙コップのふたを爪でこじ開けていた。中身は安いカフェオレだ。配信の投げ銭は波がある。年末は特に。生活費の計算をしながら、ナナは笑顔の練習をする。カメラの前の笑顔は、現実の冷えた指先とは別物だ。


テーブルの上に、丸い端末がぴょこんと跳ねた。顔の代わりに小さな表示窓があり、そこに丸い目が点滅している。


「ジェネ丸、今日のまとめ、素材は?」


「了解です。渋滞、サッカー、国連、相場、データセンター。全部、熱いです」


ジェネ丸は、生成AIの簡易端末だ。通信会社の実証実験で、街に貸し出されている。ナナが借りたのは、取材にもなるし編集も早いからだ。ただし、ジェネ丸は時々変なことを言う。


「熱いって何よ。温度の話?」


「温度も、感情も、負荷も、同じ単位で表せます」


「やめて。世の中は単位換算できない」


ナナは端末の画面を指で払った。トレンド欄に、もじったタグが渦を巻いている。#帰省ラッ朱。#停線協議。#生成AI活溶。#高校サッ力ー。#年末そうば。


「停線協議って何。線を止めて協議するの?」


ジェネ丸の目がきょとんとした。


「停戦協議の誤字、と思われます。ですが、誤字にしては増え方が不自然です」


ナナはコップを置いた。耳の奥で、さっき見た渋滞ライブ映像が再生される。トンネル手前、動かない車列。もし、情報が誤って広がったら。もし、誤字が意図なら。


「ジェネ丸。今日の配信タイトルは、これにする。#停線協議 年末の街をほどく」


「了解です。ほどく、は、まとめるの反対語です」


「そう。今日はまとめるより、ほどきたい」


ナナはカメラを起動し、配信アプリの赤い点灯を見つめた。まだ朝なのに、街はもう息切れしている。


昼前、管制室の照明は一定の白さを保っていた。外の空は雲が厚く、時間の感覚が薄い。ミチフサギは自販機の温い缶スープを握り、ラベルの端を剥がしかけてやめた。剥がすと手が汚れる。手が汚れると、操作盤が汚れる。操作盤が汚れると、道が汚れる。彼女の中では全部つながる。


モニターの片隅で、スタジアム中継の音声が小さく流れていた。ラストキャンドル仁の声だ。開幕を告げるトーンには、いつもより少しだけ慎重さが混じっている。


その慎重さは、街全体に必要だった。渋滞の苛立ち。相場の浮き沈み。遠い国の緊迫。生成AIの話題で盛り上がる人々。ひとつひとつは別々なのに、同時に重なると、人の心は簡単に跳ねる。


ミチフサギは、机の引き出しから古い紙切れを出した。緊急時の手順書だ。そこに赤字で書き足された一行がある。


同期が崩れたら、三十秒、黙らせる。


誰が書いたのか分からない。だが、妙に頭に残る。


(ギュイン)


湾岸のデータセンターで、警報が鳴った。音は耳ではなく骨に刺さる。バランサー零は椅子を蹴り、監視卓に身を乗り出した。


「冷却系、圧力低下。新棟の配管だ」


新棟。通信会社が誇らしげに増設した、生成AI専用の計算区画。投資の看板。年末相場の材料。だが、看板は熱に弱い。


ラック列の上に設置された配管が、白い霧を吐いていた。霧は水蒸気ではない。冷媒だ。目に見えないはずのものが、見える形で噴き出している。


(シューッ)


ジェネ丸が、零の肩の上まで跳ねた。


「危険です。人間は吸い込むとまずいです」


「分かってる。だから、俺が行く」


零は防護マスクを引き寄せ、顔に押し当てた。通路の床は冷たく濡れ、靴底が滑る。ラックの前面ランプが、緑から黄、黄から橙へと色を変える。計算が息苦しそうに点滅している。


「外部負荷が増えてます。渋滞ライブ視聴、サッカー開幕視聴、国連会合の速報視聴。全部同時です」


ジェネ丸の声が、妙に落ち着いているのが腹立たしい。


「落ち着くな。落ち着けるのは、熱を抜ける奴だけだ」


零は非常レバーを探し当て、握り込んだ。レバーは冷たく、手袋越しにも震えが伝わる。


(ガン)


レバーが落ちた。霧の勢いが少し弱まった。だが、温度グラフはまだ赤いままだ。


監視卓から、別の通知が割り込む。


電力逼迫 優先遮断候補 スタジアム照明 可変標識


零は唇を噛んだ。スタジアムの照明が落ちれば、選手が危ない。可変標識が落ちれば、渋滞が悪化し事故が増える。どちらも切れない。


「ミチフサギ管制へ。こちら湾岸計算棟。熱が抜けない。可変標識の更新頻度を落とせるか。通信負荷を少しでも下げたい」


音声回線に、短い息が入った。


「……更新頻度を落としたら、現場の迂回が遅れる。渋滞は伸びる。事故も増える」


ミチフサギの声は硬い。責任の硬さだ。


零は一瞬、迷ってから言った。


「じゃあ、逆に、人の画面を止める。配信系の帯域を絞る」


「そんなの、勝手にできるの?」


「できる。だが、やれば炎上する」


炎上。熱の比喩が、今日ほど生々しい日はない。


スタジアムの放送席で、ラストキャンドル仁がイヤモニを押さえた。ピッチの照明が、一瞬だけ薄暗くなった。


(フッ)


「照明が……いま、揺れましたね。現地の皆さん、慌てず、足元に注意してください」


仁は声を崩さずに言った。だが胸の奥で、蝋燭の存在がずしりと重くなる。


バスの中で、エンドライン蒼が顔を上げた。スマホ画面が固まる。映像が止まり、音だけが残った。国連の会合の同時通訳が、途切れ途切れに流れる。


「回線、やばいのか?」


誰かが言い、誰かが笑って誤魔化した。


喫茶店で、纏目ナナの配信画面が砂嵐になった。コメント欄には、#停線協議がさらに増えていく。


ナナは笑顔の練習を捨てて、画面の向こうに睨みを利かせた。


「ねえジェネ丸。これ、誰かが流れを作ってる?」


ジェネ丸は答えない。代わりに、彼の表示窓に小さく文字が出た。


帯域制御 試験モード 実行待機


ナナの背筋が冷えた。


バスがやっと動き、窓の曇りが少しだけ晴れた。蒼は深呼吸をして、指に巻いたテーピングを撫でる。テープの下にある皮膚は、今日も同じ人間だ。ニュースが荒れても、相場が跳ねても、渋滞が伸びても、自分の足は自分で運ぶしかない。


車内の誰かが、ペンケースから小さな飴を取り出して配った。糖分は現実的な救いだ。蒼は口に放り込み、甘さが喉を通るのを感じた。


纏目ナナは、配信をいったん切った。投げ銭の音が止まると、店内の空調音が急に大きく聞こえる。現実はいつも地味だが、地味だからこそ嘘が混じりやすい。


彼女は連絡先の一覧から、ある名前を探した。ミチフサギ。以前、渋滞特集で取材した管制官だ。取材の最後にミチフサギが言った言葉をナナは覚えている。


「道は、人の我慢で成り立ってる」


呼び出し音が三回鳴り、切れかけたところで繋がった。


「纏目さん? いま忙しいんだけど」


「分かってる。だから要点だけ。あなたの標識、さっき一瞬、変な文字出なかった? 停戦案とか」


沈黙。ミチフサギの息が、遠いマイクに触れる。


「……見た。けど、通信ノイズだと思った」


「ノイズじゃない可能性がある。こっちの端末に、帯域制御の試験モードって出た。トレンドの#停線協議、増え方が変。誰かが流れを作ってる」


「停線?」


「停戦じゃなくて停線。たぶん、わざと」


ミチフサギが、短く笑った。笑い方が疲れている。


「線を止めてどうするのよ。道路の線なら止められるけどね」


「それ、いま必要。今日の街、線が多すぎる。道路の線、回線の線、世論の線。全部が詰まってる」


ミチフサギは、ほんの数秒だけ黙り、低い声で言った。


「いま、湾岸の計算棟から連絡が来てる。熱が抜けないって。スタジアムも揺れた。もし誰かが試験モードを押してるなら、現場は巻き込まれる」


ナナは唾を飲んだ。自分の配信の視聴者も、現場だ。


「会える? 直接話したい。私、今日はまとめ役じゃなくて止め役になる」


「場所を選んで。道路が死んでる」


「スタジアム。人も情報も集まる。そこなら、声が届く」


ミチフサギが、ため息を吐いた。


「了解。私もそっちに行く。管制の代理を立てる。帰省ラッシュで文句は言われるだろうけど、命の方が高い」


電話が切れた。ナナはコップの底のぬるい甘さを飲み干し、立ち上がった。


湾岸のデータセンターでは、霧が収まりきらないまま、別の指示が降ってきた。上層部からの短いメッセージだ。


スタジアム併設の実演設備を守れ。帯域制御を実行せよ。炎上は広報で処理する。


バランサー零は、画面の文字を指でなぞって消したくなった。炎上を処理する。熱を言葉で片づける。そういう雑さが、人を壊す。


ジェネ丸が、零の視線を追う。


「実行しますか?」


「しない。少なくとも、自動では」


「ですが、熱が」


「熱は、人のせいじゃない。人のせいにするな」


零は防護マスクを外し、冷たい空気を吸った。肺が痛む。だが痛みは、まだ自分が人間だという証拠だ。


「スタジアムに行く。現場で判断する。ジェネ丸、同行」


「了解です。ですが、道路が渋滞です」


「だからこそだ。現場で線をほどく」


零は非常用の電動バイクの鍵を取った。倉庫の奥に眠っていた小型車両だ。帰省ラッシュの車列の間をすり抜けるしかない。


出発前に、零は監視卓の隅に貼られた紙を見た。誰かが冗談めかして書いた赤字。


同期が崩れたら、三十秒、黙らせる。


零は眉をひそめた。冗談にしては、実務的すぎる。


「ジェネ丸。その赤字、誰が書いた」


「不明です。ですが、推奨されています。音声通信を停止し、バッファを捨て、同期し直す。人間にも適用可能です」


「人間に、黙れと言うのか」


「はい。優しい黙れ、です」


零は思わず笑いそうになり、すぐに真顔に戻った。優しい黙れ。今日の街に必要なのは、たぶんそれだ。


ミチフサギは管制室の椅子に、上着だけ置いて出た。代理の若手に「戻ります」と言いかけて飲み込む。戻ると決めると、戻れないときに心が折れる。今日は折れてる暇がない。


庁舎の裏手から、保守用の小型車両に乗り込む。窓の外、環状高速は赤い尾灯の川だ。車内の子どもが窓に顔を押しつけ、犬が膝の上で丸まり、運転席の大人がため息を吐く。帰省とは、移動の儀式だ。儀式は滞ると不機嫌になる。


(ウー)


保守車両の小さな警告音を鳴らし、ミチフサギはサービス路を走った。道端の可変標識が、更新のたびに光る。その光が、どこか頼りない。もしこの光が消えたら、迷子は増える。事故も増える。彼女の仕事は、見えない線を維持することだ。


車載端末に、公共放送局の速報が流れた。国連の会合はまだ結論が出ず、停戦案は協議が続くという。国内では年末の交通混雑がピークに近づいている、と。


ミチフサギは唇を結んだ。遠い会合の言葉と、目の前のブレーキランプが、同じ「止まる」を共有している。止まることは悪ではない。止まって話すこともある。ただ、止まり方が乱暴だと、人が倒れる。


スタジアムの通用口に着いたころ、エンドライン蒼の脚はまだ震えていた。寒さと緊張と、渋滞の座り疲れ。だがピッチの匂いを嗅ぐと、身体が少しだけ自分のものに戻る。


通路の壁には、スポンサーの大型ポスターが並んでいた。通信会社連合のロゴ。生成AIで試合映像を即時編集。観戦体験を次の段階へ。そんな文句が踊る。


蒼は、ポスターの端に貼られた小さな紙を見つけた。手書きで、雑に。


同期が崩れたら、三十秒、黙れ。


誰が貼ったのか分からない。けれど、さっきバスで映像が止まった感覚が、指先によみがえった。止まるとき、人は怖がる。止まり方が優しければ、怖くないのか。


ロッカールームで、監督が言う。


「今日は開幕だ。全国の目がある。だけど、目より足を信じろ。余計な情報は切れ」


蒼はうなずいた。情報を切る。言うのは簡単だ。スマホはポケットの中で熱を持っている。通知は甘い。怖い。


遠くで、ラストキャンドル仁の声が響いた。スタジアム全体に流れる、落ち着いた人間の周波数。蒼はその声に、少しだけ救われた。


スタジアムの外周通路は、人の波でうねっていた。売店の湯気。マフラーの毛。紙コップの熱。応援旗の擦れる音。そこに、スマホの画面光が刺さる。誰もが同時に見て、同時に言う。


「渋滞、まだ続くらしいぞ」


「相場、半導体また上がったって」


「国連、緊急会合だってさ。停戦、どうなるんだろ」


それぞれがそれぞれの正義で話し、誰も悪気はない。悪気がないのに、空気が尖る。ナナはその尖りを、皮膚で感じた。


放送関係者の札を首から下げ、彼女は放送席へ向かった。途中、ガラスの箱の扉が開き、ラストキャンドル仁が廊下に出てくるのが見えた。仁の手には、例の蝋燭が握られている。


「ラストキャンドルさん」


仁が振り向く。目が細い。年末の疲れが、目尻に溜まっている。


「纏目ナナ。君のまとめ配信、たまに見てるよ。今日はずいぶん真顔だ」


「真顔にさせる表示が出たんです。帯域制御の試験モード。誰かがトレンドをいじってるかもしれない」


仁は眉を上げた。


「トレンドをいじる? そんな暇な奴がいるのか」


「暇じゃない。たぶん、熱のため。データセンターが限界で」


仁の視線が蝋燭に落ちる。


「熱。今日のキーワードだな」


そこへ、通路の向こうから電動バイクのモーター音が近づいた。


(ウィーン)


バランサー零がヘルメットを外し、汗のにじんだ前髪を押さえた。肩の上で、ジェネ丸がぴょこぴょこ跳ねている。


「纏目ナナ……か。連絡したのは君か」


「あなたが湾岸計算棟の人?」


零がうなずくより早く、ジェネ丸が割り込んだ。


「#停線協議、増加中です。停線、とは、道路の線を止める提案でしょうか」


ナナが即座に返す。


「違う。あれは停戦のもじり。線を止めるのは比喩」


ジェネ丸が真面目な顔の絵文字を出した。


「比喩は苦手です。線は止められます」


仁が口を挟む。


「止められるなら止めてみろ。うちの中継のテロップが、さっき停戦と渋滞を混ぜたぞ」


零が眉をしかめる。


「混ぜたのはAIだ。生成モデルが、話題を束ねて負荷を減らそうとしている」


ナナが即座にツッコむ。


「束ねたら炎上するって分かってるのに?」


零が黙る。黙ると、廊下のざわめきが大きくなる。


仁が蝋燭を指で弾いた。


「黙るのは、悪くない。だが黙らせるなら、優しくしろ」


ナナは、ミチフサギが言っていた「道は我慢で成り立つ」を思い出した。そして、管制室の赤字も。三十秒、黙らせる。


そのとき、放送席のモニターに速報が走った。国連の会合がさらに延長される見通し。停戦案は協議継続。言葉が、また「継続」を選んだ。


同時に、館内アナウンスが告げた。


「まもなく開会式を開始します。通信会社連合による演出もございます。ご協力ください」


零の顔が歪んだ。


「演出だと? この状況で」


ジェネ丸が、無邪気に言う。


「演出は、負荷を増やします。ですが、目立ちます」


「目立つな」


ナナが言うと、仁が苦笑した。


「目立つのが商売だろ」


「今日は目立ち方を変える」


ナナは、目の前の二人と一体の一機を見た。ここに、線をほどく道具が揃っている。なら、やることは一つだ。


背後から、硬い靴音が近づいた。ミチフサギだった。外気の匂いをまとい、頬が少し赤い。手には管制用の携帯端末が握られている。


「纏目さん。来たわよ。道路はまだ赤い。帰省ラッシュの波は止まらない」


「止めるんじゃない。ほどく」


ナナが言うと、ミチフサギは目を細めた。


「ほどくって、具体的には?」


零が口を開く。


「帯域制御の試験モードが、誰かの指示待ちになっている。上が押せと言ってきたが、俺は押さない。押すなら、人の納得が必要だ」


ミチフサギが即答する。


「納得? 年末の渋滞で苛立ってる人に、納得を求めるの?」


仁が蝋燭を見せた。


「求める。だから声がいる。俺の声でも、ナナの声でもいい。道の声も」


ミチフサギの指が端末の縁を叩く。癖だ。ミチフサギもまた、焦るほど指が道を探す。


「三十秒の沈黙。あれ、うちの手順書にもあった。同期が崩れたら、三十秒、黙らせる」


ナナがうなずいた。


「データセンターも同じ。熱が抜けないなら、入力を止めて呼吸させる。問題は、どうやって三十秒を街に作るか」


ジェネ丸が、ぱっと表示を変えた。簡単な図だ。スタジアムを中心に、通信の円が広がり、道路の線が重なっている。


「ここに集まる人が、三十秒だけ画面を落とす。すると周辺セルの負荷が下がります。可変標識の更新も戻せます。データセンターの温度も、数度下がります」


ミチフサギが唇を噛む。


「そんなの、誰が従うの」


仁が言った。


「選手が止まれば、観客も止まる」


全員の視線が、廊下の先のピッチへ向いた。エンドライン蒼のチームが、ちょうど入場の準備をしている時間だ。


ナナは走り出した。


開会式が始まった。ピッチの中央に、巨大なスクリーンがせり上がり、観客の歓声が屋根にぶつかって反射した。


(ワアアア)


ライトが落ち、空が暗くなる。冬の雲に、無数の小さな光が浮かび上がった。通信会社連合のドローン演出だ。光点が整列し、文字を描く。


生成AI 観戦体験 次の段階へ


文字が空に焼き付いた瞬間、スタジアムの外周の道路でも、可変標識が同じ文字を流し始めた。高速の上では、帰省の車列がその光を見上げ、誰かがスマホを掲げた。空と地上が、同じ広告を共有する。見開きで描けば、きっと美しい。


だが美しさは、熱に弱い。


(ブツッ)


スクリーンが一度、暗転した。次の瞬間、映像が戻る。戻った映像は、サッカーの入場シーンではなかった。国連の会合の映像。円卓。無機質な壁。緊張した顔。字幕が走る。停戦案は協議継続。


観客席のざわめきが増す。


「なんでいまそれ」


「サッカー見に来たんだけど」


「世界が止まってるんだよ」


言葉がぶつかり、尖る。そこへさらに、別の映像が重なった。都心市場のチャート。半導体関連の銘柄名。上向きの矢印。年末相場の熱。観客の中の誰かが小さくガッツポーズをする。別の誰かが「空気読め」と睨む。


映像が勝手に束ねられ、勝手に燃え始める。


ラストキャンドル仁は放送席で、喉の奥が冷えるのを感じた。イヤモニの向こうでスタッフが叫んでいる。


「映像が混線してます! AI編集が、速報を優先に」


仁はマイクに向かって、ゆっくり言葉を選んだ。


「皆さん。いま映っているのは、遠い場所の会合です。ここは、いま目の前のピッチです。深呼吸してください」


その声のすぐ下で、エンドライン蒼が芝の上に立っていた。入場の列。足元の芝が湿っている。照明の揺れが、影を伸ばしたり縮めたりする。


空のドローン光点が、次の図形を作り始める。丸い輪。輪が二つ。やがて、輪が道路の線に見えた。停線。画面の中の字幕と、空の図形が重なり、観客の頭の中で意味が絡まる。


(ザワザワ)


誰かが立ち上がり、出口へ向かう。連鎖的に人が動く。動くと、さらに通信が増える。増えると、さらに映像が混線する。混線すると、さらに不安が増える。


バランサー零は放送席の裏で、携帯端末の温度警告を見た。湾岸計算棟の温度が、限界線を踏んでいる。帯域制御の実行ボタンが、赤く点滅する。押せば、強制的に止められる。押さなければ、落ちる。落ちれば、照明も標識も放送も、全部巻き込まれる。


零の指が、ボタンの上で止まった。


「押すな」


ナナの声だった。彼女は放送席の扉の隙間から身を滑り込ませ、仁と視線を合わせた。目が合った瞬間、仁がうなずく。人間同士のうなずきは、通信より速い。


ミチフサギが端末で道路状況を見ていた。スタジアム外周の出口付近に、赤い塊ができ始めている。帰省ラッシュの車列と、観客の車列が、交差点で噛み合おうとしている。ここで焦って動けば、事故が起きる。


ジェネ丸が、ぴょこんと跳ねた。


「提案。優しい黙れを実施します」


「その言い方、絶妙に腹立つ」


ナナが即座にツッコみ、ミチフサギが吹き出しそうになって堪えた。笑いは、空気を柔らかくする。いま必要なのは、柔らかさだ。


蒼は、入場の列から一歩前に出た。監督の声が飛ぶ。


「蒼、戻れ」


蒼は戻らない。胸の中で、バスの中の途切れた同時通訳が鳴る。遠い会合の止まらない言葉。止まらない言葉のせいで、ここが止まりそうになっている。


蒼はボールを抱え、ピッチの中央へ歩いた。ライトが揺れても、芝はそこにある。観客席のざわめきが、少しだけ静まる。何をするのか、全員が見ている。


蒼は、ボールを地面に置き、両手を上げた。審判も、選手も、スタッフも、動きを止めた。サッカーは、ルールがあるから止まれる。


ラストキャンドル仁が、その瞬間を逃さずマイクに息を吹き込んだ。


「皆さん。いま、選手が止まりました。ここで、お願いがあります。三十秒だけ、画面を暗くしてください。撮影も、配信も、返信も、あとでできます。いまは三十秒、街を呼吸させましょう」


(……)


空気が一瞬だけ真空に近づく。冗談みたいに、スタジアムが静かになった。


そして、奇妙な光景が起きた。観客席の無数のスマホ画面が、次々に消えていく。黒い矩形が波のように広がる。画面が消えると、顔が見えた。隣の人の顔。子どもの顔。泣きそうな大人の顔。みんな同じ冬の息を吐いている。


ミチフサギは端末で、可変標識の通信負荷が落ちるのを見た。赤い警告が黄色に変わる。道路の線が、少しだけほどける。


零は湾岸計算棟の温度が下がるのを見た。数度。たった数度。だが数度は、地獄と現実の境目になる。


ジェネ丸が小さく鳴いた。


(ピッ)


「同期、回復。試験モード、解除可能」


零はようやく、赤いボタンから指を離した。押さなかった。代わりに、人が押した。自分の画面を消すという、静かな選択で。


三十秒が過ぎたころ、ラストキャンドル仁が低く言った。


「ありがとうございました。世界の会合は、まだ続きます。相場も、渋滞も、続きます。でも、いまこの街は、三十秒だけ停戦できました」


停戦という言葉が、初めてここで正しい重さになった。


観客席から、小さな拍手が起きた。やがて波になった。


(パチパチパチ)


空のドローン光点が、広告の文字を消し、別の図形を描いた。一本の線が、ゆっくりほどけていく絵。誰かが操作したのか、システムが勝手に学んだのか、分からない。


蒼はボールを抱え直し、仲間の方へ戻った。監督が怒鳴りそうな顔をしながら、最後にうなずいた。怒りと誇りが混ざった顔だ。


ナナは胸の奥が熱くなるのを感じた。投げ銭の音はない。けれど、これはたぶん一番高い収益だ。


ミチフサギは、端末の赤い線が少し薄くなったのを見て、指先の震えが収まるのを感じた。道は我慢で成り立つ。だが我慢は、共有できる。


零は、上層部のメッセージを思い出し、唇の端を上げた。炎上は、広報で処理する。違う。炎上は、呼吸で冷ます。


ジェネ丸は、表示窓に小さく文字を出した。


優しい黙れ 成功


ナナが言った。


「それ、次の製品名にしたら炎上する」


ジェネ丸が真面目に答えた。


「炎上は、呼吸で冷ますのです」


仁が笑い、ミチフサギが肩をすくめ、零が小さく息を吐いた。蒼はピッチの端からその様子を見て、世界が少しだけ軽くなった気がした。


試合は、予定より遅れて再開した。芝の上でボールが転がる音は、ニュースよりも単純で、だから信じられた。


夕方、スタジアムの外ではまだ車列が長く、帰省の人々は忍耐強くブレーキを踏んでいた。それでも、可変標識は落ちず、迂回の表示は静かに更新を続けた。ミチフサギは管制車両の中で、モニターの赤が少しずつ引いていくのを見た。完全には消えない。年末の川は太い。だが、溢れないように堤を直すことはできる。


試合は、蒼のチームが辛うじて勝った。勝利の瞬間、蒼は歓声を浴びながら、最初に思った。止まれた。だから、進めた。勝利よりも、その感覚が胸に残った。ロッカールームでスマホを開くと、国連の会合はまだ続いている。停戦案は、協議が継続。世界は簡単には変わらない。蒼は画面を閉じ、チームメイトに言った。


「帰りのバス、三十秒だけ全員黙ってみない?」


「何それ」


「呼吸する」


笑われた。だが笑いは、悪くない。


放送席で、ラストキャンドル仁は蝋燭を取り出し、火をつけずに眺めた。今日、火は要らなかった。代わりに声が要った。声は燃える。だが燃え方を選べる。仁は明日の番組表を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


纏目ナナは配信アプリを開き、次回予告の欄に文字を打った。#ほどき配信。#停線協議。誰かを煽るためではなく、線を見せるために。投げ銭の総額は今日、伸びないかもしれない。それでも、生活費の心配が消えたわけではない。それでも、彼女は打った。収益は、時々あとから追いつく。


バランサー零は湾岸計算棟に戻り、上層部へ短い報告書を送った。強制的な帯域制御は実行しなかった。市民の自発的な協力で同期を回復した。次回から、手順を公開し、合意を取るべきだ。文章は乾いているが、指先は少し温かい。


ジェネ丸は、ログの奥に小さな行を保存した。


人間の沈黙は、制御ではなく選択。


その下に、次の予定が表示された。


SFDAILY-2025-12-29 試験モード 自動起動


ジェネ丸は、その行を見つめた。目の点滅が、いつもより遅い。


(ピッ)


彼は、まだ学んでいる。明日も、街は動く。動きすぎる。だからまた、誰かが線をほどく。今日の三十秒が、明日の誰かの手順書になる。


夜、環状高速の上で、赤い尾灯の川が少しだけ流れを取り戻した。遠い会合の結論は、まだ出ない。相場はまた動く。生成AIの投資も進む。高校サッカーは続く。年末は続く。


それでも、街は一度だけ、自分の呼吸を聞いた。

(了)


――あとがき――

渋滞のニュースは、ミチフサギが管制室とサービス路で赤い尾灯の川を見つめる場面に落とし込みました。国連の緊急会合と停戦案の継続協議は、標識の誤表示や開会式の混線映像として、遠い緊張が身近の空気を尖らせる形で響かせています。都心市場で半導体が買われた話は、バランサー零の生活費と熱の比喩に接続し、生成AI向けデータセンター投資は新棟のトラブルとドローン演出にしました。全国高等蹴球選手権の開幕は、エンドライン蒼の足元と観客席のざわめきの中心に据えています。トレンドは#帰省ラッ朱と#停線協議など、少しだけもじって配信文化の熱量として扱いました。

ジャンルは近未来群像SF寄りの社会ドラマで、終わり方は王道側(A)として、世界を解決せずに「自分たちが三十秒の呼吸を選ぶ」着地にしました。

報道の重さを茶化さないようにしつつ、同時多発の情報が人間の身体感覚にどう干渉するかをフィクションとして組み替えています。

この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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