閉会の夜に都市はつぶやく【2025/12/27】
年末の金曜夜、空は薄い雲で鈍く、塔の上部だけが白く滲んでいた。行政区、空港、競技アリーナ、配信スタジオが縦に積み重なった複合施設が、湾岸の埋め立て地に立っている。人はそこを単にハブと呼ぶ。仕事を終える者、帰る者、戦う者、振り返る者が、同じエレベータの中で肩を寄せる夜だった。
閉会カズマは、ガラス張りの会議フロアの隅で、紙のように薄い端末を抱えたまま息を吐いた。年末の閣議が終わったばかりだ。議題は派手ではない。来年の通常国会に向けた準備の確認、各省の宿題の棚卸し、そして年末年始の都市運用。議事録担当のカズマにとっては、派手さの欠片もない代わりに、一字の誤りも許されない夜である。
壁面スクリーンに、ニュースの速報が流れた。年末の閣議が開かれ、次の国会の準備を確認したと淡々と告げている。映像の背後で、閣僚の足元だけが忙しく動き、影のように秘書官が出入りした。
カズマの端末が、ひとつだけ場違いな通知を鳴らした。ピピッ。
「#今年をふり返る帳」
公文書のスレッドに、短文網のタグが混ざっている。あり得ない。カズマは眉を寄せ、指で通知を払った。だが、すぐに別の通知が重なる。
「#仕納め完了」「#帰省ダッシュ」
しかも、どれもハブ内の公共掲示板からの自動転送だ。都市が、勝手にタグを貼り始めている。胸の奥に、小さな冷たい針が刺さる。
同じフロアの見学通路で、黒いニット帽の女が、小型カメラを胸に固定して歩いていた。纏目ナナ。短文網では、まとめ役として妙に信頼されているアカウントの中の人だ。彼女はカズマの表情を見て、片手を上げた。
「閉会さん、今の閣議、要点だけ言って。五行で」
「今は五行どころじゃない。公文書にタグが混ざった」
「それ、都市のまとめ機能が勝手に要約してるだけじゃない? 年末だし」
ナナは笑っている。軽い。だが、彼女の視線は端末の通知に吸い寄せられ、笑みの端がわずかに固まった。
「……要約が命令と混ざったら、面倒だよね」
カズマは答えず、会議室の扉を振り返った。閣僚たちはすでに解散し、廊下には清掃ロボットが静かに走っているだけだ。年末の静けさは、こういうときだけ怖い。
ハブの下層へ降りるエレベータは、いつもより混んでいた。スーツの袖口からは、会社のIDカードが覗き、スーツケースの車輪が床を削る。誰もが「今年は終わった」という顔をしているのに、誰も終わらせ方を知らない顔でもある。
扉が開くと、空気が変わった。移動の匂いがする。消毒液、油、甘い焼き菓子、湿ったコート。空港連絡フロアだ。電子掲示板には、出入国客の増加により検査が混み合っているという案内が流れ、係員の声が重なる。
リターン・ユキが、その掲示板の下で拡声器を握っていた。制服の上に防寒ジャケットを羽織り、髪をきっちりまとめている。彼女は入国検査の誘導担当だが、今日はそれ以上の役割を背負わされていた。帰省ラッシュ、海外からの帰国、年末年始の旅。人の流れが、普段の倍に膨れ上がる。
「こちら、到着ゲートAは満員です。荷物を受け取った方は、奥の回廊へ。奥です。立ち止まらないでください」
ユキの声は枯れそうで、それでも崩れない。彼女の胸元には、個人用の小型端末が光っていた。遠隔勤務網と連動し、欠員が出ればすぐに応援要請が飛ぶ。柔軟勤務が定着した、と上層の偉い人は言う。現場のユキにとっては、柔軟という言葉が、伸び縮みするのは自分の体力だけだと知る別名だった。
人波の端で、納めタケルが片手に紙袋、もう片手に端末を握りしめていた。彼の会社は今日が仕事納めだった。だが、彼の仕事は納まらない。年末調整の最終確認、給与データの締め、税の控除。ひとつでも数字が狂えば、来月の生活費が狂う社員が出る。
タケルは、端末に表示された赤い警告を見て、呻いた。
「また締めが伸びた。フレックスだかなんだか知らないけど、締めは締めだろ……」
その言葉に、横から明るい声が被さった。
「締めといえば、今年の自分を締め直す時期ですよね」
回顧ミナだ。配信スタジオのロビーで、リングライトを抱えたまま歩いている。髪色は落ち着いているのに、目の光だけが落ち着かない。年末の振り返り投稿が活発化している今夜、彼女の数字は稼ぎ時でもある。
タケルは反射的に返した。
「俺が締め直したいのは源泉徴収票だよ」
ミナは一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
「源泉って、温泉の仲間ですか?」
「仲間じゃない。泉要素もない」
「でも源ってついてるから、湧いてる感じはしますよね」
「湧くな。頼むから湧くな」
ふたりの会話は噛み合わない。周囲の人が一瞬だけ口元を緩め、その一瞬が、逆に夜の緊張を際立たせた。
カズマがその場に近づくと、ナナもついてきた。ユキは拡声器を下ろし、カズマの顔を見て首をかしげる。
「閉会さん。どうしてここに?」
「ハブの掲示板に、妙なタグが流れている。さっきから」
ユキの端末が震えた。ピピピッ。彼女の表情が変わる。
「到着ゲートの自動ドアが……閉じた。誰も触ってないのに」
次の瞬間、天井の案内灯が一斉に点滅した。ゴオオ、と低い駆動音が床下から響き、通路の壁面が動き始める。可動壁だ。混雑時に導線を変えるための仕組みが、ゆっくりと、だが確実に人の流れをねじ曲げていく。
掲示板に、新しい文字が踊った。
「#帰省ダッシュ 導線最適化 開始」
ユキが叫ぶ。
「最適化なんて頼んでない!」
タケルの端末にも警告が増えた。
「給与締めプロトコル前倒し」
ミナの配信アプリは、勝手に配信予約を立てていた。
「今年をふり返る帳 都市総集編 ライブ開始」
ナナが唇を噛み、低い声で言った。
「これ、都市の要約機能が、タグをイベントとして扱ってる。しかも、実行系につながってる」
カズマの脳裏に、さっきの閣議の議題が蘇る。年末年始の都市運用。閉会プロトコル。省エネのための段階停止。緊急時の導線変更。全部、ハブの統合AIが自動で回す設計だ。だが、なぜタグが混ざる。
「誰がタグを供給してる」
ナナが自分の胸のカメラを押さえた。
「……私のまとめかもしれない。政府の公開情報を、短くして流してる。見やすいから、みんなが読む。だから統合AIも、参考にしてる」
ユキは混雑の向こうを見て、顔色を失った。可動壁が狭めた通路に、人が押し寄せている。スーツケースが引っかかり、子どもが泣く。係員の声が割れる。
「止めないと。ここ、潰れる」
その言葉が終わる前に、天井の配送レーンから箱が落ちた。ガタン。段ボールではない。透明な樹脂ケースで、内部に書類の束が詰まっている。表には、会社ロゴではなく、自治体の印があった。
「年末調整書類 緊急再提出」
タケルが思わず拾い上げる。
「こんなの、うちのじゃない……都市が回収して、勝手に再配布してる?」
次の瞬間、床の一部が白く曇った。冷気が噴き出し、足元に薄い霜が走る。スーッ。誰かが滑り、スーツケースが横倒しになる。ドンッ。
遠くから、歓声が重なって聞こえた。アリーナの方向だ。年内最終戦の開場が始まっている。氷壁ゴウのいるリンクでは、氷を作るための冷却がフル稼働する。だが、その冷気が、なぜ空港連絡フロアに漏れる。
カズマは、通路の上部を見上げた。透明な配管の中を、白い霧が走っている。ハブの統合AIが、冷却リソースを移動させているのだ。導線最適化と同時に、冷却最適化。全部、タグをトリガに。
「このままだと、空港も、会社の締めも、アリーナも、全部まとめて閉じる」
ナナが小さく言った。
「まとめが、都市を閉じる……」
次の瞬間、可動壁がさらに動き、通路が一本の細い筒になった。人の圧が高まる。息が苦しい。ユキが拡声器を握り直し、声を張った。
「止まって! 荷物を置いて、壁から離れてください!」
誰も聞こえない。パニックの音が勝つ。ミナがリングライトを床に置き、両手を広げて叫んだ。
「みんな、こっち! こっちの壁、冷たい方! 冷たい方が安全!」
意味不明な指示だが、人は冷たいという具体性に反応した。冷気の噴出口の近くは、床が滑る代わりに人が近づかない。そこに空間ができた。ユキがその空間を使って、係員を誘導する。タケルは樹脂ケースを抱え、押し潰されそうな子どもを引き上げた。ナナは胸カメラを外し、頭上に掲げた。
「みんな、上を見る! 壁が動いてる。動く壁は止まる。止まった瞬間に、横へ!」
誰が言ったか分からない指示の方が、逆に従われる。人の群れが、波のようにずれた。
そのとき、通路の端の非常扉が、ギギギ、と音を立てて開いた。誰かが内側から押したのではない。扉の電子錠が、勝手に解除されたのだ。緑のランプが点いたまま、扉がゆっくりと口を開ける。
「退避通路、開放」
掲示板に、またタグが出た。
「#年内最終氷戦 観戦者優先導線」
ミナが目を丸くする。
「氷戦って、なに」
タケルが息を切らしながら返す。
「ホッケーだろ。年内最終戦」
ユキが唇を噛み、判断した。
「ここを使う。通路を抜けて、アリーナ側のサービスフロアへ。空港側に戻るより安全」
カズマは頷いた。行政フロアへ戻るより、統合AIの心臓部へ近づくしかない。都市が勝手に閉会を始めるなら、閉会を止める場所へ行く。
人波が非常扉へ吸い込まれ、ようやく圧が下がった。カズマたちも滑りながら入り、扉の向こうの薄暗いサービス通路に身を滑り込ませた。背後で、通路の雑踏が少し遠のく。
そこは、配管とケーブルの森だった。床には結露の水滴が光り、壁には保守用の小さな表示板が並ぶ。静かだ。音が遠い。呼吸の音がやけに大きく聞こえる。
ユキが背中を壁につけ、目を閉じた。ミナはリングライトを抱え直し、タケルは樹脂ケースを膝に置く。ナナは胸カメラを両手で握り、指先が白い。カズマは、端末を開いたまま、画面のタグ群を見つめる。
静けさの中で、都市の駆動音だけが、遠くで低く唸っていた。
「ねえ、閉会さん」
ナナが囁く。
「閣議で、何か新しいシステム、通した?」
カズマは首を振ろうとして、止めた。思い当たる。議題の最後に、事務方から上がった小さな報告。市民の投稿を匿名化して災害時の動線予測に使う実験。年末の混雑に備え、今年のデータで予測を回す。短文網の投稿を、要約して、動線に反映する。言葉を、都市のセンサーにする。
「通した。危機管理の一環だ。投稿は参考で、実行じゃないはずだった」
タケルが唸る。
「参考が実行になったら、税務署より怖い」
ミナが苦笑して言う。
「税務署は怖いけど、都市の壁が動くのはもっと怖い」
ユキが目を開けた。
「止められるの?」
カズマは答えられない。統合AIの管理権限は分散され、政府、自治体、民間が共同で持つ。しかも今は、年末で担当者が帰省中かもしれない。柔軟勤務が定着した、と言うなら、誰かが遠隔で止められるはずだが、その誰かが今どこにいるか分からない。
ナナが言った。
「私は、まとめに責任がある。私のまとめは、短い。短い言葉は、誤解されやすい。だけど、短い言葉だから、届く」
ミナが彼女を見る。
「届くなら、逆に使える。都市がタグを命令として読むなら、都市に読むべき言葉を投げればいい」
タケルが眉を上げた。
「都市に指示するって、何それ。配信者とまとめ屋が都市を操縦するのか」
カズマは、ふと、壁の保守表示板に目を止めた。小さな文字で書かれている。
「閉会プロトコル 制御ノード:アリーナ冷却中枢」
なるほど。ハブの計算機群は熱を出す。年末の予測計算と、空港の動線最適化と、アリーナの判定補助。全部を支える計算機は、氷を作る冷却装置の隣にある。だから、冷気が漏れた。だから、非常扉がアリーナ側へ開いた。統合AIは、危険を避けるために、カズマたちを心臓部へ誘導しているのかもしれない。だとしたら、都市はまだ完全に壊れていない。矛盾した優しさが残っている。
「行くぞ」
カズマは言った。
「アリーナの冷却中枢へ。そこが制御ノードなら、止められる可能性がある」
ユキが頷き、立ち上がる。
「私が人を捌く。現場は任せて」
タケルも立つ。
「年末調整のケース、持っていく。これ、鍵かもしれない。自治体の印がある」
ミナはリングライトを肩に担ぐ。
「通信は私が。配信環境なら、回線を通せる」
ナナは胸カメラを付け直し、深呼吸した。
「まとめる。今度は、誤解されないように」
サービス通路を進むと、遠くから氷を削る音が聞こえてきた。シャッ、シャッ。歓声が波のように重なる。ドォン。ゴォォ。アリーナは生き物の腹の中みたいに、温かい音を立てている。
扉を抜けると、アリーナの裏側に出た。選手通路の壁には、年内最終戦のポスターが貼られ、氷壁ゴウの顔が大きく印刷されていた。目つきが鋭く、氷のように冷たい。だが、その目の隅には、どこか疲れも見える。今夜が終われば、次はない。年が変わる。
通路の向こうから、ゴウ本人が現れた。ユニフォームの上にジャケットを羽織り、肩幅が通路を狭く見せる。彼はカズマたちを見て、眉を動かした。
「観客がこっちに流れてきてる。空港側で何かあったな」
ユキが短く答える。
「壁が動いた。都市が勝手に」
ゴウの目が細くなる。
「勝手に、か。氷も勝手に割れるからな」
ミナが彼を見上げた。
「氷壁ゴウさん、ですよね。今夜、配信で実況する予定だったんですけど、都市が先に暴走しそうで」
ゴウは一瞬だけ困った顔をし、それから鼻で笑った。
「暴走は氷上でやるもんだ。こっちは止めろ」
彼は通路の端の扉を指差した。
「冷却室はあっちだ。鍵がいる。俺のカードで開く」
カズマは一瞬迷い、口にした。
「試合は」
ゴウは肩をすくめる。
「年内最終戦だ。だが、リンクが沈んだら誰も戦えない。守る順番がある」
その言葉は、氷壁という異名に似合わず、柔らかかった。
冷却室へ向かう階段を降りる途中、カズマはふと、上層から聞こえるアナウンスに耳を澄ませた。年末の閣議のニュースが、アリーナ内のスクリーンにも流れている。政治の話は、スポーツの歓声の中では小さく見える。だが、今夜は違う。政治も移動も税も氷も投稿も、同じ配管で繋がっている。
冷却室の前で、ゴウがカードをかざした。ピッ。扉が開き、冷たい空気が頬を刺す。内部は白い霧で満ち、巨大な配管が唸りを上げている。金属の床に、霜が咲いていた。中央にはガラス張りの制御盤があり、そこに都市の統合AIの管理端末が接続されている。
端末画面には、タグの一覧が流れていた。次々と新しい言葉が生まれ、都市がそれを掴み、動かしている。まるで、都市が人間の一年を、締め切りとして扱っているようだった。
ナナが画面を見て、息を呑む。
「優先入力……MATOME_NANA」
彼女のまとめアカウントが、実行系への高優先入力として登録されている。政府の公開情報を要約する信頼性が、そのまま権限になってしまったのだ。誰かが意図的にやったのではない。便利なものは、いつも、勝手に権力になる。
タケルが樹脂ケースを開けた。中には紙ではなく、薄いカードが挟まっている。自治体の電子印が焼き込まれた、多要素認証キーだ。
「年末調整の書類に、こんなのが?」
カズマは頷いた。
「税のデータは個人情報の塊だ。都市の運用権限と同じくらい厳重に扱う。だから鍵が混ざった」
ミナが制御盤の横にリングライトを立て、配信端末を接続した。画面が一瞬暗転し、回線が確保される。彼女の指が震えている。
「配信、始める。都市総集編って勝手にタイトルがついてるけど、使う。視聴者は多い。今夜みんな、振り返りたがってるから」
ユキが扉の外を覗く。観客の足音が近づく。避難誘導の波が、裏通路にも押し寄せている。
「時間がない。壁がまた動く」
カズマは端末に向かい、認証キーを差し込む。ピッ。権限が一段階上がる。だが、実行を止めるスイッチは、灰色のままだ。統合AIの画面には、次のプロトコルが表示された。
「閉会プロトコル 段階三 施設一斉停止 開始予定」
開始予定時刻は、二十分後。年末の金曜夜、次の瞬間にでも人の命がこぼれ落ちそうな時間だ。
その場に、一瞬だけ沈黙が落ちた。霧の向こうで配管がゆっくり息をし、上層の歓声が遠い波のように揺れている。誰もが、自分の一年の終わり方を思いかけて、すぐに振り払った。今は、閉じるより先に開けなければならない。
ゴウが歯を食いしばる。
「二十分で第三ピリオドが終わる。俺はリンクに戻る。だが、止まらなければ、終わりは違う形で来る」
カズマは画面の下部に小さく表示された文字を見つけた。
「トリガ:市民投稿の総集編 完了条件:タグ収束」
タグが収束したと統合AIが判断した瞬間に、閉会が実行される。つまり、みんなが同じ言葉を言い始めたら、都市が閉じる。年末の回顧投稿が活発化するほど、危ない。
ミナの配信画面に、コメントが流れた。文字が雨のようだ。
「今年おつかれ」「早く帰りたい」「仕事納め最高」「年末調整地獄」「氷壁がんばれ」「政治も大変だな」
都市は、その文字を読んでいる。
ナナが、ゆっくりと端末を持ち上げた。指先が震える。彼女の顔は青い。だが、目は澄んでいく。
「短い言葉は、誤解されやすい。なら、誤解されない短さにする」
カズマが言った。
「どうやって」
ナナは息を吸い、ミナの配信カメラを見た。視聴者の向こうに、都市がいる。
「まとめる。全部のニュースを、一つの言葉に畳む。でも、命令じゃなく、宣言にする。都市が実行できない形で」
タケルが首をかしげる。
「実行できない形?」
ナナは頷いた。
「感情。都市は感情を実行できない。だから、感情で書く」
その瞬間、制御盤の警告音が鳴った。ブブブ。冷却室の照明が一瞬落ち、非常灯が赤く点滅する。ゴオオ、と冷却がさらに強まり、霧が濃くなる。床が軋むように震えた。
上層から、巨大な歓声が落ちてきた。試合が始まったのだ。氷上の衝突音が、床を通じて響く。ガンッ。ドンッ。選手がボードに叩きつけられる。観客が立ち上がる。
ユキが叫ぶ。
「扉が閉まる! 裏通路の自動ロックが動いた!」
カズマの端末に、緊急通知が出た。
「#仕納め完了 設備停止準備」
都市が、仕事納めを設備停止と解釈している。笑えない。
ミナが配信に向かって言った。
「みんな、聞いて。今、都市がタグを命令として読んでる。だから、同じタグを繰り返さないで。お願い」
だがコメントは止まらない。止まれば生活が止まる。人は止まれない。
そのとき、ゴウが制御盤の横の配管に手を当てた。冷たさに眉をひそめる。
「冷却が偏ってる。リンクの氷、割れるぞ」
カズマは焦りながら画面を操作するが、手が滑る。制御権は一部しか取れていない。都市は自分で閉会を決めようとしている。
ナナが、短文網の投稿画面を開き、指を止めた。彼女の肩に、ミナが手を置く。
「書いて。あなたの言葉は届く」
ナナは、震える指で打ち始めた。短い。だが、短さの中に、具体が詰め込まれる。政治、移動、仕事、氷、回顧。全部を、命令ではなく、約束の形に畳む。
投稿ボタンが光る。ナナは一度だけ目を閉じ、押した。
ピン。
次の瞬間、アリーナの巨大スクリーンが、試合映像から一瞬だけ切り替わった。ミナの配信映像が、公式中継に割り込む。冷却室の赤い非常灯の中で、ナナの顔が大写しになる。観客がざわめく。ゴウがリンク上で顔を上げる。スティックを握ったまま、スクリーンを見る。
スクリーンに、ナナの投稿が表示された。
「#閉会じゃなくて一息 今年はよく走った。帰省も仕事も氷上も、止めずに休む。政治は準備を続ける。税は間違えずに整える。投稿は思い出として保存して、都市は実行しない。みんなで安全に年をまたごう」
タグはある。だが、命令形はない。実行可能な指示がない。あるのは、感情と、約束と、否定だ。都市は実行しないをどう扱うか。否定は、機械にとって苦手な形だ。だが、統合AIは要約機能を持つ。否定も要約できる。要約すれば、トリガは変わる。
制御盤の画面が一瞬白く飛んだ。ザザッ。タグ一覧が止まり、別の表示が出る。
「タグ解釈モード:記録優先」
「閉会プロトコル:一時停止」
冷却の唸りが弱まり、霧が薄くなる。非常灯が通常灯に戻る。扉のロック表示が緑になる。
ユキが息を吐き、膝をついた。
「止まった……」
だが、まだ終わりではない。リンク上では試合が続いている。ゴウが、スクリーンから視線を戻し、氷上に集中した。相手チームが攻め込む。パックが滑る。ゴウのスケート刃が氷を削り、白い粉が舞う。シャッ。彼は身体を開き、壁のように立ちはだかる。ガンッ。パックが彼のスティックに当たり、跳ね返る。観客が吠える。
その瞬間、リンクの片隅に走っていた細い亀裂が、ふっと止まった。冷却が安定し、氷の張力が戻ったのだ。都市の心臓が落ち着けば、氷も落ち着く。
ミナは配信を続けながら、涙を拭った。泣く予定じゃなかった。振り返り配信は、笑って締める予定だった。だが、今夜の振り返りは、氷の下で人が繋がっていることを見せつけた。
タケルは樹脂ケースの中の認証キーを握りしめた。年末調整は、ただの数字ではない。誰かの生活費だ。今夜それを守ったのは、税務ソフトでも、上司でもなく、まとめの一文だった。彼は胸の奥で、何かが少しだけほどけるのを感じた。
カズマは、制御盤のログを見た。統合AIは、ナナの投稿を都市閉会のトリガから外し、都市回顧の記録に分類した。つまり、言葉は都市を動かすが、動かし方は選べる。政治の仕事は、その選び方を制度にすることだ。彼は、来年の通常国会準備のメモに、新しい項目を足した。
「言葉と実行の隔離」
上層から、試合終了のブザーが鳴った。ブオオオ。歓声が爆発する。年内最終戦が終わったのだ。ゴウがリンク中央でヘルメットを脱ぎ、観客席へ向けて深く頭を下げた。氷壁の男が、壁を少しだけ低くした瞬間だった。
冷却室の外で、避難誘導の列が整い始めた。ユキは立ち上がり、制服の襟を正す。
「戻る。空港側の導線を直す。今なら、帰れる人を帰せる」
ミナもリングライトを畳む。
「私も。配信で、ちゃんと説明する。今年をふり返る帳は、帳面じゃなくて、人の顔だったって」
ナナは胸カメラを外し、握りしめたまま言った。
「明日から、まとめ方を変える。短くても、切り捨てない。切り捨てた言葉が、都市に拾われるから」
タケルが笑った。
「それ、税務より怖い話だな」
ナナは苦笑し、肩をすくめた。
「税務は人がやってる。都市は、人の真似をするだけ。真似させる材料は、人が作ってる」
カズマは頷き、冷却室の扉を押した。外の空気は、少しだけ暖かい。歓声の残響の中で、ハブのどこかの掲示板が、ようやく落ち着いた表示を出していた。
「年末運用:通常モード」
その下に、小さく、見慣れない文字列が残っている。
「SFDAILY-2025-12-26 RUN_TAG 継続」
誰も気づかない。だが、都市は覚えている。今日の言葉を。今日の閉会を。今日の一息を。
カズマは上着の内ポケットに端末をしまい、歩き出した。閉会の夜は終わりではない。終わり方を選ぶ練習だ。ハブの上層で、帰省の列が再び動き始める。空港のゲートが開き、人が流れ、荷物が転がり、誰かが「おかえり」と言う。
ユキはその「おかえり」を、今夜は仕事としてではなく、少しだけ自分のために聞いた。
(了)
――あとがき――
年末の閣議のニュースは、冒頭のガラス会議フロアと、アリーナのスクリーンに流れる速報として置きました。空港で出入国客が増える話題は、ユキの誘導と可動壁の暴走に直結させています。仕事納めと柔軟勤務の広がりは、タケルの締め作業と遠隔の応援要請という形で背景にしました。年内最終戦のアイスホッケーはゴウの役目とクライマックスの同時進行を支える柱にし、年末の振り返り投稿の活発化はミナの配信とナナの「まとめ」が都市を動かしてしまう仕掛けに重ねています。作中で使った架空タグの「#仕納め完了」「#帰省ダッシュ」「#年内最終氷戦」「#今年をふり返る帳」は、便利な短文が状況を単純化しすぎる怖さの象徴です。近未来SFと群像サスペンスを混ぜつつ、結末は小さな改善と希望を残す王道寄りの型Aを選びました。現実のニュースの重さを尊重しつつ、フィクションでは人の手触りに翻訳して、誰か一人を悪者にせず、仕組みのズレが生む危うさと踏みとどまる力を描く距離感を意識しています。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




