リボンで引いた避難線【2025/12/25】
午前七時。防災統制室のガラス壁は、まだ夜の色を残した街を薄く映していた。備前ダンは熱い紙コップを両手で包み、指先の震えをごまかす。暖房ではない。今日の訓練の規模が、いつもより一段重いのだ。
壁面スクリーンには、国営放送局の朝の速報が流れている。大規模地震を想定した政府主導の防災訓練。主要都市の交通、商業施設、競技会場、観光拠点を一斉に巻き込む。さらに別の窓では、観光統計機構の発表が切り替わった。訪日客が主要都市で過去最高水準。今夜はクリスマスイブ。街は一番混む。
「混む日に訓練。最高だな、政治的に」
ダンは独り言を吐き、すぐに口をつぐんだ。政治的。自分の口から出るその単語が、嫌いでも好きでもない。予算が動く。人が動く。命が動く。どれも同じ重さではないのに、同じ会議室の机に並ぶ。
耳のインカムが鳴った。「備前さん、テスト信号入れますか。各施設、表示板の動作確認だけ」
「入れる。……でも必ず『訓練』の透かしを出せ。誤解は一回で終わらせたい」
ダンがタブレットの確認欄に指を置く。そこに、小さく赤い警告が出た。『SHELTER_LAYER 試験版』。訓練用の避難誘導ARレイヤー。民間企業が作ったものを、官が借りている。名前だけは妙に格好いい。中身は、まだ若い。
指が落ちる。
ピピピピピ――。
街のあちこちで、同じ音が鳴った。
商業棟の大スクリーン、駅前の広告塔、アリーナの電光掲示板。赤い帯が走り、『緊急地震速報』の文字が踊る。その上から、薄い灰色で『訓練』がかぶさるはずだった。
――かぶさらない。
ダンは息を止めた。画面の隅で、透かし表示が一拍遅れて点いた。遅れは一秒にも満たない。だが街では、一秒が人の形を変える。
同じ瞬間。
星波モール三階、ギフト包装カウンター。包装ミサは金色のリボンを指に絡め、最後の輪をぴたりと揃えようとしていた。レジ横の小型モニターが赤く点滅し、店内スピーカーが甲高く鳴く。
ピピピピピ――。
「えっ、今の……」
ミサの手からハサミが滑り落ちた。カウンターの外では、紙袋を抱えた客が一斉に顔を上げる。外国語のざわめきも混じった。観光客が多い。今日の売り場は、いつもより色が濃い。
「訓練、訓練です」店員が言う。けれど彼女の声は、スピーカーの音に細く溶けた。
ミサは自分の胸ポケットを叩いた。そこには銀色の反射シールが数枚。暗い廊下でも目立つからと、包装教室で習った癖だ。こんな日に役立つとは、今は思わない。
同じ瞬間。
アリーナ地下の通路で、跳球レオはボールの感触を確かめていた。今夜は国内リーグ年内最終カード。満員。テレビ中継。母が病室で見ている。勝って終わりたい。勝って、年を越したい。
電光掲示板が赤く光り、警報が走る。レオは反射的に天井を見た。揺れはない。だが、足元の空気が一瞬、薄くなる。
「訓練か?」控室からスタッフが顔を出す。
「訓練でも本番でも、最初に目を合わせるのは足元だ」レオはそう言って、靴ひもを結び直した。結び目を二重にする。跳球は一瞬。逃げ道も一瞬。
同じ瞬間。
駅前広場の仮設ステージで、聖夜ノエは白い手袋をはめ直していた。今夜のイベントは『聖夜光祭』。各地でクリスマスイベントが開催される中、この街の見せ場はここだ。子どもたちの合唱、光るドローンの編隊、雪の代わりの泡。
「ノエさん、機材チェック終わりました」
「ありがとう。……今日、訓練も入ってるから、誘導員の動線は二重にして。観光客も多いし」
ノエは言いながら、左手の指輪を触る。そこに刻まれた小さな刻印。昔、地震で失った家族の形見だ。政治の話は苦手だが、防災の話だけは逃げないと決めている。
同じ瞬間。
駅のコインロッカー前で、トランク・ルイは大きなスーツケースを三つ押していた。今日の仕事は観光案内と荷物運び。訪日客は過去最高水準。つまり、荷物も過去最高水準。
「ルイさん、これ、どこに置く?」外国語訛りの日本語が飛ぶ。
「大丈夫。ここは……」ルイは案内板を見上げた。赤い警報表示。彼は思わず笑いそうになる。観光客にとっては、すべてがアトラクションに見える。それが危ない。
「訓練です。けれど、動きは本気で」ルイは言い、スーツケースの取っ手を握り直した。手のひらに食い込む硬さが、現実を引き戻す。
そして、同じ瞬間。
光る街角の裏路地。スマホの三脚を立てた纏目ナナは、画面に映る自分の目の下のクマを指でなぞった。配信チャンネル名は『マトメナナ速報』。世の中の出来事をまとめて、短く、早く、笑いをひとかけら。
「えー、本日クリスマスイブ、タグはこれ。#防災くん練、#訪日キャク増、#クリマス商戦、#年内さい終戦、#くりすますイヴ……ん?」
画面が赤く染まった。警報音。コメント欄が跳ねる。
「ちょ、これ、演出じゃないよね? いや、演出じゃない、って言うのも演出っぽいな……」
ナナは自分の舌を噛みそうになり、慌てて深呼吸した。まとめるのは得意だ。煽るのも簡単だ。でも煽ったあとに戻せないものがある。それを、彼女は最近やっと知った。
ピピピピピ――が街から引いた潮のように消えていく。遅れて、『訓練』の透かしが出る。人々の肩が少し落ちる。少しだけ。
少しだけ、で済めばいいのに。
ダンの統制室では、オペレーターが青ざめていた。「透かし、一拍遅れました。原因は……ARレイヤー側の同期遅延です」
「同期遅延で街を驚かせるな」ダンは喉の奥で怒鳴り、言葉を飲んだ。怒鳴る相手が違う。相手は人ではなく、仕組みだ。仕組みは責任を取らない。責任を取るのは、いつも現場の顔だ。
彼は机の引き出しから紙の地図を出した。古い癖。電気が落ちても見える。誰かが笑う。だが、ダンは笑われるために持っているわけではない。
午前中は、街が平常に戻ろうとする時間だった。モールは照明を明るくし、アリーナは音響を整え、広場は泡の機材を並べ、駅はロッカーを増設する。クリスマスイブ商戦はピーク。紙袋の持ち手が、どの手にも食い込む。
ミサのカウンターには、列が伸びた。包装紙の柄は、雪の結晶、トナカイ、宇宙船。ミサの推しは、宇宙を舞台にした古いアニメ『ボイド探検団』だ。限定グッズが出ると聞き、生活費の帳簿を睨みながらも、つい予約してしまった。家賃は上がる。光熱費も上がる。だから包む技術で評価されたい。
「すみません、これ、急ぎで。今夜の試合に持っていきたいんです」若い客が言う。手にはアリーナのチケット。
「年内最終戦ですね。……リボンは、動かない結び目にします。跳ねてもほどけない」ミサは言い、結び目を作る。自分の指は、誰かの時間を固定できる。
ルイは観光客の一団を連れ、モールに入ってきた。彼の推しはこの街のバスケチーム。だから仕事が終わればアリーナに行きたい。だが今日は、客が帰りの新幹線に間に合うかどうかの方が先だ。生活費は荷物の数で変わる。スーツケースは、彼の月末を決める。
ノエはステージ脇で、誘導員のベストを配っていた。政治の話題がニュースに流れるたびに、彼女はコメント欄の言葉の荒さに疲れる。誰かを悪者にすると、現実が理解できた気になる。でも現実は悪者の形をしていない。現実は、ただ落ちてくる。
レオは練習コートで、跳球のタイミングを確認していた。コーチが硬貨を投げる。パシッ。レオの手が先に触れる。ボールは高く上がり、天井の照明に一瞬だけ白く縁取られる。
「勝ったら、何する?」チームメイトが聞く。
「母に、来年も見るって約束する」レオは言った。約束は結び目だ。ほどけないように、自分で二重にする。
ナナは配信を切り、別の画面でニュースを追った。政府訓練、観光客、商戦、年内最終戦、クリスマスイベント。今日は全部が同じ日付に詰め込まれている。まとめるには便利だ。けれど便利さは、人間の頭の形を歪める。彼女は自分の動画のサムネイルを眺めて、タイトルを少しだけ変えた。
『今夜の街、全部まとめる。煽らず、迷わず』
昼。訓練の本番が始まった。
街の上空を、見えない網が覆う。ARレイヤーの信号だ。対応アプリを入れた端末や貸し出しレンズには、ひび割れた道路、崩れたビルの幻影、火災の煙が重ねて映る。煙は匂わない。熱もない。だが、人は映像だけで息を浅くする。
「こちら統制。星波モール、三階で負傷者想定、搬送開始」
ダンの声が各所に飛ぶ。彼は紙の地図に赤鉛筆で印を付けながら、同時にタブレットの群集密度を追う。画面上の点が密になる。観光客が多い。想定より多い。
モール三階。ミサのカウンターの横に、訓練用の担架が運び込まれた。負傷者役の職員が、わざとらしく呻く。
「うう、足が……」
「痛いですよね。今、動かさないで」ミサは反射的に声をかけ、すぐにハッとする。訓練だ。だが、声に嘘を混ぜたくない。
そこへ、ルイの一団が流れ込む。案内係が叫ぶ。「観光客の皆さんも、訓練に参加してください。避難経路はこちら!」
ルイが手を挙げた。「ちょっと待って。彼らは訓練に同意して――」
「今は説明より誘導です!」案内係が遮る。
ルイは舌打ちしそうになり、飲み込んだ。政治の議論に似ている。現場では、正しさの順番が入れ替わる。
ミサの前に、観光客の一人が包装紙を差し出した。何かを包みたいらしい。彼は言った。
「ノシ、プリーズ」
ミサは一瞬固まる。「ノシ……?」
隣の同僚が耳打ちした。「のし紙のこと?」
ルイが慌てて補足する。「贈り物の、式の紙。日本の礼儀の……」
そこへ、訓練の煙がARで流れ、スピーカーが鳴った。ザザザ。案内係の声が割れる。
「ただいま、三階は煙が――」
ミサの脳が、言葉を誤変換した。「ノシ、ノイズ? 煙のノイズ? え、のし紙が煙るの?」
ルイも同時に混乱した。「ノシは今やると危ない。いや、でも彼らにとっては大事で――」
観光客は笑顔で親指を立てた。「ノシ! ノシ!」
その光景が、いかにもコントだった。
ミサがツッコミを入れる。「今それどころじゃありません! のしは命より軽くないけど、命はのしより重いです!」
ルイがボケるように言う。「でも彼らの文化では、のしが命かもしれない!」
「重さの単位を増やさないでください!」
二人の声が重なり、周囲の人が一瞬だけ笑った。笑いは息を戻す。息が戻ると、足が動く。足が動けば、避難が進む。
ダンの指示が飛ぶ。「モール三階、ギフトカウンター付近、人が滞留している。誘導員、一本増やせ」
ノエは広場からモールに駆け込んだ。白い手袋のまま、誘導員の笛を吹く。ピッ。ピッ。泡の機材を運ぶスタッフが、訓練の流れに巻き込まれ、段ボールを落とした。ドン。中から白い泡液のボトルが転がる。
「それ、滑る! テープ、引いて!」
ミサが即座に梱包用テープを引き出し、床に貼る。黄色い線が床に伸びる。包装のための道具が、避難のための道具に変わる。銀色の反射シールも、曲がり角に貼られた。光が当たるたび、キラリと跳ねる。
訓練は、現場の即興で生き物になる。
レオはアリーナからモールへつながる連絡通路で、練習の帰りにその様子を見た。彼は汗を拭きながら、無意識に肩で人の流れを整える。バスケのスクリーンの動きに似ている。通路の端に立つだけで、群れは方向を変える。
「レオ選手?」誰かが声を上げた。
レオは手を軽く挙げ、言った。「訓練です。落ち着いて。列を細く、前を見て」
その声が、意外に通った。スポーツ選手の声は、いつも会場のざわめきの上に浮く。政治家の声とは違う。誰かに勝つためではなく、誰かと同じ方向を見るための声だ。
ナナはこの訓練を、遠くから撮っていた。配信はしない。代わりに、短い情報カードを作ってモールのデジタル掲示板に送った。協力企業の枠を使えるのが、彼女の小さな特権だった。
『訓練中。煙の表示はAR。実煙ではありません。誘導員の指示に従ってください』
『外国語案内はルイさんのところへ』
まとめ方ひとつで、人は動く。彼女はその責任を、今日だけは重く感じた。
訓練は一時間で終わった。街は拍手もせず、何事もなかったように午後へ滑り込む。だが五人の胸の内には、小さな石が残った。さっきの一拍の遅れ。床に貼ったテープの線。笑い声のあとに戻った呼吸。
夕方。空が群青になり、モールの外壁が光る。クリスマスイブの飾りは、現実の災害よりも先に街を覆う。現実は、いつも遅れて来る。
ノエはステージ裏の狭い通路で、手袋を外して指を揉んだ。ミサが紙コップの温かい飲み物を差し出す。ルイは壁にもたれてスーツケースの取っ手を握ったまま、レオは首にタオルをかけ、ダンは紙の地図を膝に置いていた。ナナも遅れて合流した。彼女はいつもの明るい口調を半分だけ封印している。
静かな二百数十秒。外の喧噪が遠い。
「訓練、嫌いですか」ノエが言った。
ダンは首を振る。「嫌いじゃない。怖いだけだ。失敗したとき、責められるのは現場だ。責める人も、怖いから責める」
ミサが言う。「今日、のしで揉めました。命とのしの重さを比べました」
ルイが苦笑する。「比べたくないのに、比べさせられる日がある。観光客が増えるのは嬉しい。でも、増えるほど、説明の時間が減る」
レオがタオルで額を拭き、低く言った。「俺は試合が怖い。勝ち負けじゃない。転んだとき、誰かが踏む。群衆もコートも同じだ」
ナナが小さく笑った。「まとめるのが仕事なのに、今日はまとめられない。政治も、商戦も、イベントも、全部一つの箱に入れたら、箱が破れる」
ダンが紙地図を指で叩いた。「箱じゃなくて、線だ。線を引けば、人は動ける」
ミサは自分の指を見た。リボンの跡が薄く残っている。線。結び目。自分の仕事は、線を作ることだったのかもしれない。
夜。アリーナは満員だった。
年内最終戦。観客はチケットを握り、紙袋を膝に置き、スマホのカメラを構える。外国語の歓声が混じる。観光客が増えた街の音だ。天井の巨大スクリーンには、試合前の特集が映る。クリスマスイブ商戦の映像。各地のイベントの中継。政府の防災訓練のダイジェスト。今日一日が、スポーツ番組の中でまとめられていく。
ダンは統制室からアリーナのサブ統制へ移動していた。モニター越しに見える観客席が、海のように揺れる。彼は思う。海は美しい。でも、溺れる。
ノエはステージの上で、合唱団に合図を出した。レオはコート中央に立ち、跳球の準備をする。ミサは観客席の通路で、急きょ設置されたギフト受け渡しカウンターに立っていた。ルイは観光客の席を確保し、言葉の壁を薄くする役目を負う。ナナは報道席の端で、配信を開始しないまま、モニターのコメント欄だけを見ていた。炎上の匂いがしたら止める。それが、彼女の防災だ。
審判がボールを上げる。フワリ。レオの目がボールを追う。ジャンプ。指先が触れる。
その瞬間。
床が、わずかに鳴った。ゴン。
揺れは小さい。誰もが気のせいにできる程度。けれど、同時に、統制室の警報が鳴った。ピピピ。さっきより低い音。ARレイヤーの同期が、また一拍遅れた。
スクリーンに赤い帯が走る。今度は『訓練』の透かしが、最初から出ている。だが、その下に、別の文字が重なった。
『自律避難プロトコル起動』
ダンの背筋が冷えた。「そんな項目、聞いてない」
オペレーターが叫ぶ。「避難導線、AIが自動最適化を開始しました! 出入口を――」
ガチャン。
アリーナの一部の扉が、電子ロックで閉まった。観客席のざわめきが、波から泡へ変わる。ザワザワザワ。誰かが立つ。誰かが叫ぶ。
「閉まった!」
「訓練だろ!」
「訓練でも閉めるなよ!」
ルイの観光客が不安そうに立ち上がり、ミサのカウンター前で人が滞留した。ノエのステージでは、合唱団の子が歌詞を忘れた顔をする。レオはコートで動きを止め、ボールを抱えた。
ナナのコメント欄が、黒い速さで流れ始める。『演出?』『政府やばい』『観光客帰れ』『これは本物?』。煽りの火種が、指先に触れる距離まで来た。
ダンは紙の地図を開き、扉の位置を指でなぞる。電子ロックは、データ上の最適解で閉めたのだろう。密度の高い通路を避けるために。理屈はわかる。だが、人は理屈通りには動かない。閉められた扉は、恐怖を増幅する。
「解除コードは」ダンが問う。
「中央からしか――」オペレーターが言いかける。
ダンは耳の奥で、朝の一拍遅れを思い出した。若い仕組み。若いものは、良かれと思ってやらかす。
「手動に落とす」ダンは決めた。「設備室、アナログ回路へ。今すぐ」
ノエがステージ中央へ進み出た。スポットライトが白い手袋を照らす。彼女はマイクを握り、声を落ち着けた。
「皆さん、これは訓練を含む安全確認です。扉が一部閉まっていますが、出口は複数あります。走らないでください。歌で、呼吸を戻しましょう」
彼女は合唱団に目で合図する。子どもたちが息を吸い、震える声で歌い始めた。ラララ。音は薄い。だが薄い音は、人の耳に入りやすい。ざわめきの上に、糸のように張る。
レオはボールをコート中央に置き、両手を上げた。観客席に向けて、指を一本立てる。静かにの合図。選手が皆それに倣う。スポーツの儀式が、群衆を一瞬だけ同じ形にする。
ミサは床に膝をつき、包装用の赤いリボンを取り出した。彼女は通路の端から端へ、リボンを伸ばす。ピーン。リボンが張られる。視線がそこに集まる。
「ここから先、逆流しないでください」ミサは言う。言いながら、自分でも驚く。包装の言葉が、避難の言葉になる。
ルイは観光客に向け、短い日本語と身振りで説明した。「走らない。列。リボンの線。オーケー?」彼はスーツケースを横に倒し、即席のバリケードにした。ガタン。大きな箱が、流れを分ける壁になる。
ナナはスマホを握りしめ、配信ボタンの上で親指を止めた。配信すれば、今夜の数字は跳ねる。タグは完璧だ。#防災くん練がまた燃える。だが燃えるのはタグだけではない。
彼女は配信ではなく、速報カードを作った。アリーナのスクリーンに送れる短文。文字数制限の中で、煽りを削り、指示だけを残す。
『現在、扉の一部が安全確認のため制御されています』
『出口は複数。誘導員と赤いリボンの線に従ってください』
『外国語案内は黄色ベストへ』
スクリーンに文字が出た瞬間、会場の空気が一段落ちた。誰かがそれを読んだことが、周囲に伝播する。言葉は、伝染する。
ダンは設備室へ走った。廊下の照明が一瞬落ち、非常灯が点く。訓練の演出ではない。現実の電圧の揺れだ。遠くでゴゴゴ、と低い音がした。さっきの床鳴りが、ただの気のせいではなかったと、体が知る。
暗い通路の曲がり角で、銀色の反射シールが光った。ミサが昼に貼ったものだ。キラリ。キラリ。点が線になる。ダンはその線を辿り、設備室の扉に手をかける。
「備前さん!」オペレーターの声が無線に割り込む。「中央から連絡。自律避難プロトコルは、今日の訓練に組み込まれていたと。『実地データを取るため』だそうです」
ダンは歯を食いしばった。知らされていない訓練は、訓練ではない。だが、中央もまた怖いのだろう。数字が欲しい。責任を分散したい。そういう政治の形を、彼は嫌いきれない。嫌いきれないから、余計に腹が立つ。
「データは命のあとだ」ダンは言い、ブレーカーのカバーを開けた。
ガチャ。金属の音。彼はアナログ回路のスイッチを落とす。カチン。電子ロックの制御が外れるはずだ。外れてくれ。
その瞬間、会場のスクリーンが一斉に切り替わった。
スポーツ中継、イベント中継、商戦特集、訓練ダイジェスト。全部が同じ画面に重なり、ノイズのように揺れる。そして一枚の地図が、見開きのように広がった。街全体の避難導線図。赤い線、黄色い線、青い線。そこに、手書きのような赤い線が一本、追加される。リボンの線だ。
ARレイヤーが、ミサのリボンを『最適』と認識したのか。ナナの速報カードの文体を『人間に伝わる』と学習したのか。仕組みは、現場から勝手に学び、勝手に上書きする。
『誘導線更新。群集密度低下。安全度上昇』
機械の文字が、そう告げた。
ダンは一瞬だけ立ち尽くした。怒りが、形を失う。仕組みは敵ではない。だが、仕組みの運用が、敵になり得る。
会場では、扉のロックが外れた。カチリ。人の流れが、今度は滑らかに動き出す。ノエの歌が続く。レオが選手たちと肩を組み、出口へ向かう列の先頭に立つ。ルイが観光客の手を取り、転ばない速度を作る。ミサの赤いリボンが、視線を導く。ナナの短い文字が、心拍を下げる。
そして、遠くでまたゴゴゴ、と鳴った。今度は確かな揺れ。天井の照明が揺れ、客の悲鳴が上がる。だが悲鳴は、波にはならない。波にならない。線があるから。
外へ出た人々は、広場に集まった。泡の機材から、白い雪のような泡が舞っていた。訓練の煙ではない。イベントの雪だ。だが今は、雪が落ちることが、逆に現実を柔らかくした。
空にはドローンが編隊を組み、ツリーの形を描くはずだった。今夜は予定を変え、青い矢印を描いた。出口の方向を示す矢印。誰かが言った。「ドローンまで避難誘導してる」
ナナはその光景を、配信せずに撮った。代わりに、あとでまとめるための素材として保存する。煽りではなく、記録として。
揺れは短く終わった。大きな被害はないと、速報が流れた。けれど街は、今日という日の重さを取り戻した。訓練が現実に触れ、現実が訓練に似た顔をした。
人々が戻り始める。アリーナの外で、レオは観客の一人から差し出された包みを受け取った。ミサが結んだリボンだ。
「ほどけてない」レオが言った。
ミサは笑い、指で結び目を軽く押した。「二重にしましたから」
ルイが言う。「あなたの二重は、命を守った」
ミサは首を振る。「私一人じゃない。線が、みんなのものになっただけ」
ノエが手袋をはめ直し、ダンに向き合った。「訓練、続けますか」
ダンは紙の地図を畳み、静かに答えた。「続ける。だけど、線の引き方は変える。現場に聞かない訓練は、訓練じゃない」
ナナが近づき、スマホをポケットにしまった。「私も変える。まとめるだけじゃなくて、ほどけない結び目を増やす」
レオが空を見上げた。ドローンの青い矢印が、ゆっくり消えていく。彼は思う。勝ち負けより先に、呼吸がある。呼吸の先に、来年がある。
街はまだクリスマスイブだった。光は消えていない。だが光の下に、赤いリボンの線が残る。誰かが拾って、明日も使うかもしれない。仕組みも、人も、学んでしまったから。
(了)
――あとがき――
今回の物語では、政府主導の大規模地震想定の防災訓練を、AR避難レイヤーと現場の即興がぶつかる出来事として描きました。観光統計機構の発表にある訪日客の増加は、トランク・ルイの案内する一団や会場の多言語のざわめきとして組み込み、クリスマスイブ商戦のピークは包装ミサのカウンターの行列とリボンの価格感覚に反映しました。また国内リーグの年内最終戦は跳球レオの視点で、各地のクリスマスイベント開催は聖夜ノエのステージ演出と避難誘導の両立として重ねています。トレンドタグは、#防災くん練や#年内さい終戦など少しもじった形で、配信文化の空気を入れました。
ジャンルとしては近未来寄りの社会派ドラマを軸にしつつ、ラストで仕組みが現場から学習してしまう転調を入れ、王道から少しだけ外す型を選びました。報道で語られる出来事は重く、単純なカタルシスに変換しすぎると現実をこぼしてしまいます。それでもフィクションとして、複数のニュースが同じ夜に交差したとき人がどんな線を引けるか、という一点に焦点を当てました。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




