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霧波の夜をまとめるもの【2025/12/24】

凍える風が高架の隙間を抜け、霧波の夜景を薄い霧がかすめた。歩道橋の手すりには、昼の名残の水滴が凍りかけ、指を触れればざらりと白い粒が剥がれる。


策士エイジは、袖口の内側で小さな丸い端末を転がした。補助金申請用の認証トークン。新しい総合経済対策が出るたび、街の至る所に貼られる申請用のQR札が、今夜はやけに眩しい。胸ポケットには、推しの古いSF漫画「銀河庶務課」の缶バッジが隠れている。現実の数字より、架空の未来のほうが素直に信じられる夜がある。


頭上の立体広告が、与党の自由民新党が発表した対策の要点を淡々と流す。家計の負担を軽くする給付、事業者の資金繰りを支える枠、そして交通データの匿名化を推進する条項。最後の行だけが、霧の中で妙に引っかかった。


背後で、カメラ用の小型ドローンが羽音を立てた。ブン、ブン。光点がエイジの肩に落ちる。


「エイジさん、いまのテロップ見た?」


振り向くと、纏目ナナが黒いニット帽を目深に被り、端末を抱えていた。街のニュースを切り貼りして、配信窓に流すまとめ屋。名前の読みはナナ。だが彼女は自分を「まとめ」と名乗り、視聴者には「マトメナ」と呼ばれている。


「交通データの匿名化、だろ」エイジは答えた。「事故が増える季節に、よくやる」


ナナは肩をすくめた。「匿名化って言うと優しそうだけど、誰が走ってたか分からなくなるよね。#景気ささえ策、今夜は伸びそう」


エイジは笑わなかった。夜の街は、伸びるタグより、止まらない車のほうが怖い。


歩道橋の下から、サイレンの遠吠えが一筋、霧を切った。ウウウウ。テンポの速い赤い光が、雲の底を舐める。


その音を合図にするように、エイジの端末が震えた。連絡先は救護テンシン。彼の短い文面はいつも一行だ。


「広場、予定どおり。凍結注意」


エイジは返信せず、歩道橋の階段を下りた。夜はまだ始まったばかりだ。


駅前の地下広場は、年末の準備で賑わっていた。簡易ステージの背面には巨大スクリーンがあり、広告とニュースと天気が交互に映る。人の肩と肩がぶつかり、吐息が白く漂う。床のタイルは磨き上げられ、上の世界より少しだけ暖かい。


救護テンシンは、ステージ脇で救急箱を並べていた。救護服の胸に、細いペンで「天心」と書き足してある。彼は本業の救急隊員で、今夜はボランティアの講習会も兼ねている。安いサーマルシートを指で押さえ、端が丸まらないように丁寧に伸ばした。推しは救助ドローンで、救急箱の蓋には小さな機体のイラストが貼ってある。


「このシートは反射する。光を返す。だから、暗い場所で見つけられる」テンシンは参加者に言った。「安いけど、命には高い」


予報リョウはスクリーンの前で、携帯型の気象センサーを回していた。風向きの羽根がかすかに震え、表示が小さく変わる。彼は地域の天気配信者で、三か月予報の解説を得意とする。だが本人の生活は、月末の予算と同じくらい薄い。推しは雲で、鍵束には雲形のチャームが揺れていた。


「今夜は、路面温度が零度をまたぐ」リョウは小声でつぶやく。「霧と排気で、見た目より危ない」


「危ないのは、数字のほうだろ」


追跡ユウキが現れた。電動の配達用ボードを引きずり、肩から反射ベストを半分ずらしている。彼の仕事は荷物運びだが、趣味は街の監視カメラの死角を把握すること。追跡と名乗るのは、過去にひき逃げを目撃して追ったからだ。ボードの端には、推しの推理配信「路地裏名探」のロゴをもじったステッカーが貼ってある。


「今月、バッテリー代が上がった。総合経済対策で何とかならない?」ユウキが笑う。「給付、配達員にも頼む」


テンシンが真顔で言う。「命の配達なら、いつもやってる」


「重いわ」ユウキは肩を落とす。「ボケたのに救護で返すな」


リョウが横から突っ込む。「今のはボケじゃなくて申請だ。申請は期限がある」


「そこまで理屈で切る?」


三人のやり取りに、周囲の参加者が小さく笑った。シリアスな講習会の前に、空気が少しだけほぐれる。


交流ミチルは、その笑いの輪の外で、紙袋を抱えていた。袋には瓶の形が透けて見える。彼女は国際交易支援機構の通訳兼コーディネーターで、先週は武漢で開かれた日本産酒類の商談会に付き添ったばかりだ。今夜はその成果報告と試飲を、地元の小さなバーと配信でつなぐ段取りになっている。推しは小さな蔵の発酵職人で、香りの話になると途端に早口になる。


「これ、全部見本。割れたら経費で落ちない」ミチルはエイジに目で訴えた。「だから、事故だけはやめて」


「事故はやめられない。減らすだけだ」エイジは答えた。「そのための対策でもある」


ミチルは眉を上げる。「対策って言えば、何でも正しいと思う?」


エイジは返せなかった。正しさは、夜の広場ではいつも滑る。


ステージのスクリーンに、纏目ナナの配信窓が小さく割り込んだ。彼女は画面の隅で、今日の話題を高速でまとめ始める。


「#年末仕込み、広場から生配信。与党の新しい対策、交通事故、そして不穏なひき逃げ。ぜんぶ、今夜の空気」


ナナの声は軽いのに、耳に残る。まとめるほど、重くなる。


広場の外へ出ると、霧が濃くなっていた。街路樹のイルミネーションが、一本ずつ光の柱に変わる。人の流れは地上へ、商店街へ、車道へ広がっていく。年末準備の買い物袋が揺れ、紙の擦れる音が重なる。


そのとき、スクリーンに速報が走った。北の水戸市で、八台が絡む大きな事故。凍結した路面で、次々にブレーキが滑ったという。


「水戸で八台…」リョウが息を吸った。「うちも似た条件だ」


言い終わる前に、地上の交差点から金属音が跳ね返ってきた。


ガシャン!


続いて、タイヤが悲鳴を上げる。


キキィィィッ!


エイジは反射的に階段を駆け上がった。霧の向こう、交差点の信号が赤に変わる瞬間。滑った車が横を向き、後ろの車が追いかけるように突っ込む。さらにその後ろ、さらにその後ろ。光の列が折れ曲がり、八つの影が絡み合った。


ドン、ドン、ドン。


衝撃のたびに、霧が震え、街灯が揺れた。歩行者が叫び、買い物袋が宙に舞う。瓶の音が混じる。ミチルが抱えた紙袋が、いやな角度で傾いた。


「割れる!」ミチルが叫んだ。


テンシンはすでに走っていた。救護箱を片手に、もう片方でサーマルシートを掴む。道路に飛び出そうとする人を、肘で制しながら声を張る。


「近づかない! 燃料の匂いを嗅いだら下がって!」


ユウキは道路脇のポールに飛びつき、配達用ボードを固定した。目が獣みたいに光る。


「逃げた車、いる」


彼の指さす先、最後尾で軽く接触した白いバンが、停まらずに霧へ溶けた。テールランプが二つ、赤い目のように瞬いた。


「追うな」テンシンが叫ぶ。


「追う」ユウキは言い切った。彼は追跡の名のとおり、足が先に動く。


リョウがセンサーを掲げ、路面に向けてしゃがんだ。「路温が急に下がってる。霧じゃなくて、薄い氷の粒だ。黒氷だ」


黒く見える氷は、光を飲む。足元が、妙に滑る。


エイジは端末を握り、交差点の端に立った。視界の隅で、纏目ナナのドローンが事故現場を俯瞰する。見下ろす目。まとめる目。


「ナナ、配信を止めろ」エイジが言った。


ナナは唇を噛む。「止めたら、救助の情報が届かない」


「届く。公式の回線で」


「公式が遅いのは知ってるでしょ」


その瞬間、救急車のサイレンが近づいた。ウウウウ。赤灯が霧を裂き、現場を照らす。テンシンは運転席に顔を突っ込み、運転者の意識を確認する。呼吸、脈、瞳孔。手順は体に染みている。


「息はある。首を動かすな」


彼はサーマルシートを広げ、負傷者の肩から胸へかけてそっとかけた。薄い銀色が街灯を跳ね返し、暗い霧の中でも人の形が浮かび上がる。安いけど、命には高い。


ミチルは紙袋を抱えたまま固まっていた。瓶が鳴るたび、顔色が変わる。エイジは彼女の前に立ち、車の間を縫って安全な場所へ導いた。


「いまは酒の心配をするな」


「でも、これが折れたら、武漢の相手に顔向けできない」ミチルは必死だ。「今度の商談、やっと繋がったのに」


ユウキの背中が霧へ消える。追跡の影。


ナナは配信窓に文字を打ち込んだ。#ひき逃げ追跡。#年末配信計画。指が震える。まとめる行為が、事故と同じくらい滑りやすいと知っている指だ。


「救助車線を空けて!」テンシンの声が響く。


その声に合わせ、群衆が少しずつ動く。息を合わせる。エイジは端末で、広場の管理システムに緊急モードを申請した。総合経済対策の一部として拡充された、臨時の自治体支援枠。普段なら書類の海だが、今夜はトークン一つで門が開く。


カチリ。


歩道橋の下のシャッターが上がり、救護用の小型車両が広場から地上へ出られるようになった。政策が、現場に届く瞬間。エイジの胸の奥で、冷たい達成感が鳴った。


事故現場の騒ぎが一段落したころ、霧は少し薄れた。道路の上に散った破片が、冷えた光を拾う。救急隊の声が遠くに移り、代わりに人々の囁きが戻ってくる。


エイジは歩道橋の影で、手袋の内側を見つめた。端末の表示は、緊急申請が承認されたことを示している。便利で、怖い。承認の速さは、人の命を救うが、人の判断も置き去りにする。


テンシンが近づき、息を整えながら言った。「助かった。広場のシャッターが開かなかったら、搬送が遅れた」


「対策の副産物だ」エイジは答えた。「人を救う条項もあれば、隠す条項もある」


リョウが霧の向こうを見ている。「黒氷は今夜だけじゃない。三か月予報だと、来年の一月から三月は寒暖の振れが大きい。凍結の夜が増えるかもしれない」


ミチルが小さく笑った。「来年の心配より、今日の瓶の心配」


「割れてない」テンシンが言った。


ミチルは胸を撫で下ろす。ほっとした瞬間、彼女の目がニュースのテロップに吸い寄せられた。別の街、彩多市で、ひき逃げ死亡事件。目撃情報は少なく、車は逃走中。


ユウキの影が脳裏をよぎる。追う、と言った背中。


ナナが端末を握りしめ、唇を動かした。「これ、同じ車かも」


エイジは彼女を見る。「根拠は」


ナナは視線を外さずに言った。「ナンバーの欠け方。テールの光り方。さっきの白いバンと似てる。まとめ屋の勘ってやつ」


勘は証拠にならない。だが勘は、現場で最初に動く。


地下広場に戻ると、ステージの準備が進んでいた。年末配信の企画は、救護講習と天気解説と、商談会の報告をまとめて一夜の番組にする。雑多で、だから現実に近い。


だが、誰もが事故の後の静けさを背負っていた。スピーカーのチェック音が虚しく響く。ピー。ピー。


テンシンは救急箱の中を確認しながら、エイジに言った。「ユウキが戻らない」


エイジはうなずいた。彼も気づいていた。追跡の名を持つ男は、追えば帰れなくなる夜がある。


ミチルは紙袋から一本だけ瓶を取り出し、ラベルを指で撫でた。「武漢の相手に、今夜の配信を見せる約束をした。事故の後で、酒の話をするのは不謹慎かな」


リョウが首を振る。「不謹慎かどうかは、誰が決める? ただ、危険は予報できる。今夜は気温が落ちる。外で待つ人がいたら、ここに入れたほうがいい」


ナナが配信窓のコメント欄を見ている。視聴者は事故の映像を求め、犯人探しを求め、正義を求めている。軽い言葉が雪のように降り積もる。


「まとめるの、嫌になる」ナナがぽつりと言った。「でも、止めたら、もっとひどいまとめが出る」


エイジは彼女の帽子の縁に目をやった。そこに小さなステッカーが貼ってある。マトメナのロゴ。自分の顔を、まとめに貼り付けている。


「止めるんじゃない」エイジは言った。「遅らせろ」


ナナが眉をひそめる。「遅らせる?」


「今夜みたいに、現場と同時に流すと、追跡も救護も邪魔する。数分でも遅れれば、人は冷静になる。経済対策には猶予がないが、配信には猶予を作れる」


ナナは黙った。彼女の指が、配信設定の画面を滑る。すぐには決めない。決めきれない。そこが彼女の弱点で、強みでもある。


地上の霧は、雪に変わり始めていた。降り出しは細い粉。照明に当たると、白い虫の群れみたいに見える。地下広場の入口から、冷気が舌のように伸び、足元を舐める。


ステージの裏で、エイジは端末に向かって短い文章を打ち込んでいた。対策の説明文。補助金の条件。書けば書くほど、人は書類の形に潰れていく。だからこそ、現場の形を忘れないように、彼は指を止めない。


テンシンはステージ脇に立ち、サーマルシートを一枚、手に持っていた。さっき使ったのと同じ、薄い銀色。彼はそれを光にかざし、反射の角度を確かめる。まるで、未来の光を測るみたいに。


リョウはスクリーンの前で、三か月予報の図を準備していた。来年一月から三月、寒波が入りやすい可能性。降水は平年並みか、それ以上。言葉は慎重に。けれど、慎重すぎると誰も動かない。


ミチルは、武漢で名刺交換した相手に向けて、配信の接続テストをしている。音声が途切れ、画面が乱れる。彼女の額に汗が滲む。国境を越える線は、冬の電波のように脆い。


ナナは、コメント欄の端に見慣れない文字列を見つけた。匿名の視聴者が送ってきた位置情報。白いバンが向かう先。地下広場の入口。彼女の喉が鳴る。


「来る」ナナが言った。


エイジが顔を上げる。「誰が」


ナナは答えず、スクリーンを指した。そこにニュースが並ぶ。与党の対策。水戸の多重事故。彩多のひき逃げ。武漢の酒類商談会。来年の三か月予報。すべてが、同じ画面に収まり、同じ夜に重なっている。一枚の光の板に詰め込まれた情報が、目の奥をじりじり焼いた。


そのとき、入口の自動扉が、ありえない勢いで開いた。


ガン!


冷気が吹き込み、雪が渦を巻く。白いバンが、地下へのスロープを滑り降りてくる。タイヤが鳴る。キキィィィッ! だが止まらない。黒氷が地下にも潜んでいた。


「下がれ!」テンシンが叫ぶ。


群衆が波のように後ろへ引く。買い物袋が倒れ、瓶が転がる。カラン、カラン。ミチルの紙袋が床に落ち、見本の瓶が露出した。だが彼女は拾わない。彼女は瓶を蹴って、バンの前に転がした。ガラスが光り、床に散った液体が滑りを変える。車体がわずかに傾き、進路がずれる。


「ミチル!」エイジが叫ぶ。


「経費で落ちないけど、命は落とせない!」ミチルが叫び返す。


リョウはセンサーを見て、瞬時に言った。「風が変わる! 換気が強くなる。雪の渦が視界を奪う!」


その予測どおり、天井の換気口が唸り、白い渦が広場を包んだ。ゴオオオ。ライトが揺れ、スクリーンの映像が雪に滲む。


ユウキがそこへ飛び込んできた。肩で息をし、手に反射ベストの破れを握っている。彼は追ってきた。追って、戻ってきた。だが目はまだ追っている。


「中、無人だ!」ユウキが叫ぶ。「運転席、空っぽ!」


無人。ひき逃げの犯人がいない。正義の矛先が宙に浮く。


バンのフロントには小さなセンサー群が並び、赤い点が忙しく瞬く。ピピピピ。まるで目のない目が、人の群れを数えている。


「自動配送車だ」エイジが言った。「誰かが遠隔で…」


ナナが歯を食いしばった。「遠隔じゃない。これ、まとめアルゴだ」


「何だそれ」


ナナは叫ぶように言った。「私の配信窓、コメント、タグ。全部、流行を計算して、車のルートに流し込んでる。交通データ匿名化の枠で、企業が収集して、自治体が買ってる。誰が走ったか分からない代わりに、どこが盛り上がってるかだけが分かる。盛り上がる場所へ、車は来る」


エイジの手袋の内側で、申請トークンが冷たく光った。政策の条項。匿名化。流行。今夜の事故が、水戸や彩多のニュースと同じ棚に並べられて、燃料になる。


テンシンが叫ぶ。「話は後だ! 止める!」


ユウキは床の反射を利用し、バンの横に滑り込んだ。靴底がキュッと鳴る。彼はベストの破れをセンサー前に掲げ、銀色を揺らした。センサーが一瞬、飽和する。ピピ、ピ…目のない目がまぶたを閉じるように瞬き、バンの進路がふらついた。


「今だ!」ユウキが叫ぶ。


リョウが換気のタイミングを読み、手を上げた。「三、二、一!」


換気が一瞬弱まり、雪の渦が薄くなる。視界が開く。その隙に、テンシンがサーマルシートを広げ、バンの前面に投げた。銀色の膜がセンサーを覆い、ライトを跳ね返す。


バンが迷うように揺れ、速度が落ちた。


ギギギ…。


エイジは端末を掲げ、緊急権限の画面を呼び出した。総合経済対策の臨時枠。交通支援の一項目に、災害時の自動車制御権限がある。彼はそれを知っていた。知っていて、使ったことはなかった。


「ナナ、遅延を入れろ」エイジが言った。「今すぐ」


ナナの指が止まる。視聴者数の数字が跳ねている。ここで止めれば、まとめ屋の飯が消える。止めなければ、誰かの命が消える。


ユーモアみたいに軽い二択が、現実では重い。


ナナは唇を噛み、設定を押した。遅延、十分。コメント欄が一瞬、静かになる。雪が降り積もるみたいに、沈黙が落ちる。


「よし」エイジは画面を確定した。


カチリ。


バンのモーター音が変わり、車体がゆっくり停止した。ギュウゥ…。最後に小さく揺れて、動かなくなる。


広場のスクリーンには、ニュースのテロップがまだ流れていた。だが今夜の最大の速報は、誰も言葉にできない。人がまとめる前に、行動が先にあった。


テンシンがバンに近づき、車体の下を覗き込む。そこに、小さな黒い箱が固定されていた。流行を吸い、ルートを吐く箱。アルゴリズムの心臓。


「これが…犯人?」ミチルが息を呑む。


ユウキが拳を握りしめる。「犯人を殴れないの、腹立つな」


リョウが肩を落とす。「殴っても天気は変わらない。でも、予報は変えられる」


ナナは端末を胸に抱き、震えた。「私も、犯人の一部だ」


エイジは言った。「一部なら、変えられる」


騒ぎの後、地下広場には湿った静けさが残った。雪は入口の外で降り続き、扉の向こうが白い幕になっている。人々は毛布を受け取り、温かい飲み物を手に、互いの顔を確かめ合う。息が揃うと、街は少しだけ元に戻る。


テンシンは負傷した人の肩に手を置き、サーマルシートをもう一枚かけた。銀色が灯りを返し、暗い夜でも人の輪郭が消えない。


ミチルは割れた瓶の残りを拾い集め、苦笑した。「武漢の相手には、代わりに別の瓶を送る。事故も、まとめて説明する」


リョウはスクリーンの天気図を消し、外の白い幕を見つめた。「三か月予報は、未来の輪郭を薄く描くだけ。でも、薄い線でも、備えはできる」


ユウキは破れた反射ベストを手に、床に座り込んだ。「追った。追って、戻れた。次は、追わなくていい街にしたい」


ナナは配信窓の設定を見直し、遅延を標準に変えた。視聴者数は落ちる。だがコメント欄の言葉が、少しだけ人の温度を取り戻す。彼女は小さく息を吐く。


エイジは端末をポケットにしまい、スクリーンのニュースを見た。総合経済対策の文字が、今は別の意味で重い。政策は、良くも悪くも現場に届く。だからこそ、届かせ方を選ばなければならない。


彼はテンシンに言った。「条項を書き換える。匿名化は必要だ。でも、流行を餌にする仕組みは止める。事故が増える季節に、やっていいことじゃない」


テンシンはうなずいた。「書類の海で溺れるなよ。救護はいつでも引き上げる」


ミチルが笑う。「引き上げたら、今度は酒で乾杯」


リョウが真面目に言った。「飲むなら、路面が凍ってない日に」


ユウキが突っ込む。「そこは天気でボケるとこだろ」


ナナが小さく笑った。クスッと、そこだけ軽い。冬の夜の救いは、そういう小ささかもしれない。


入口の扉が開き、白い冷気が一瞬だけ広場を撫でた。遠くでサイレンが鳴る。ウウウウ。街はまだ完全には落ち着かない。けれど、今夜の彼らは、まとめる前に動けた。


雪の向こうで、信号が青に変わる。誰も見ていないのに、律儀に。


(了)

――あとがき――

今回は、与党が打ち出した総合経済対策の速報を、エイジが緊急シャッターを開ける権限として物語に組み込みました。水戸市で起きた八台絡みの事故は、霧と黒氷の連鎖事故のセットピースに置き換え、彩多市のひき逃げ事件はユウキの追跡動機と白いバンの謎にしました。武漢での日本産酒類の商談会はミチルの瓶に託し、来年一月から三月の三か月予報はリョウの警告と雪の演出の芯にしています。タグは#景気ささえ策、#ひき逃げ追跡、#年末仕込み、#年末配信計画を、配信窓の題材として少しもじって使いました。ジャンルは社会サスペンスで走り、ラストだけ近未来SFに振れるB案を選んでいます。報道の重さを尊重しつつ、固有名を少しずらし、誰か一人を悪者に固定しない形でフィクションへ落とし込みました。纏目ナナを置いたのは、情報が人を助けも傷つけもする、その境目を遅延という小さな選択で描きたかったからです。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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