概算のオーロラ【2025/12/23】
週明けの夜、庁舎の窓はすでに黒い。蛍光灯の白さだけが、机の上の紙束を照らしていた。算段タクミは、角の折れた資料をめくりながら、指先にインクの匂いを移す。年度の区切りは、カレンダーではなく呼吸に来る。胸の奥が、数字で詰まる。
画面の端に、速報の帯が流れた。国が、2026年度に向けた概算要求の基本方針を固めたという。省庁の要望をどう束ねるか、どこに重点を置くか。文字はきれいに整っているのに、その裏側では、誰かの冬の暖房代や、研究室の冷凍機の電気代が揺れている。
タクミは椅子の背を押し、立った。背広の内ポケットには、家賃の引き落とし通知が折りたたまれている。給料は増えない。物価は増える。数字で暮らしているのに、数字に追われている。
スマホが震えた。通知の送り主は、纏目ナナ。
「マトメナナ速報です。今夜の方針、五分で噛み砕くので協力してください。市民向けの説明、配信でやりませんか」
「今夜? 週明けだぞ」
「週明けだからです。週明けに決まったものは、週明けに飲み込ませないと。酸化します」
相変わらず、言い切りが早い。タクミは画面の隅に表示された彼女のアイコンを見つめた。自分の顔を加工して、ニュースの帯みたいな枠を被せている。まとめ系の人間は、情報の顔まで作る。
「俺は表に出る役じゃない」
「表に出ない人が、表を作っているのが問題なんです。じゃ、後で。潮環モールの中央吹き抜け、二十時。来ないと、勝手に要点だけ引用します」
勝手に、という言葉が脅しに聞こえた。タクミはため息を飲み込み、庁舎を出た。
冷えた風が、舗道の上の落ち葉を転がす。遠くで、スタジアムの照明が空を白く切っていた。今夜はリーグの最終節だ。若手が台頭したという話題が、すでに街の会話を占領している。タクミの推しは、その若手のひとりだった。だが今日は、画面の前に座る余裕がない。
駅の改札を抜けた瞬間、天井の大型表示が一度だけ瞬きをした。
ピッ。
ニュースの帯が乱れ、文字がほどけた。ほどけたはずの文字が、光の糸になって落ちてくる。糸は空中で絡まり、ひとつの記号を結んだ。
#予算方針ッ
誰かが笑い、誰かが動画を撮り、次の瞬間、表示は何事もなかったように戻った。タクミだけが、残像の糸を見ていた。
「……今の、見えたか?」
隣の会社員はイヤホンを外さず、首だけ振った。見えたのは、自分だけなのか。あるいは、見えたと思っただけなのか。
同じ時刻、潮環市の湾岸にある研究棟では、低温室の扉が白い息を吐いていた。ラボ田リクは厚手の手袋のまま、指先で小瓶を回す。瓶の中には、指の爪ほどの薄片が沈んでいる。金属でもガラスでもない、境界の色。光を受ける角度で、薄片は青にも紫にもなった。
机の端のモニターには、海外の科学記事が表示されている。国際共同チームが、新型の量子材料の生成に成功したという。電子の揺らぎを、常温近くまで保てる。そこまで読んだところで、リクは笑った。
「成功、か」
成功という言葉は軽い。成功の下には、失敗した数が沈んでいる。リクの研究室も、沈みかけていた。冷凍機は古い。配線はぎりぎり。補助金の申請書類は、いつも要求事項が増える。そこへ、今夜の概算要求方針のニュースが飛び込んでくる。
「方針が変われば、配分も変わる」
リクは小瓶に貼った紙片を指でなぞった。そこには、手書きで「七」とだけある。七番目の試料。自分の指の癖で、紙の端が少しだけ裂けていた。
ドン。
上階から振動が伝わる。搬入用エレベーターが動いた音だ。今夜、研究棟の外で展示がある。潮環モールが、年末イベントの一環として、地元の研究紹介コーナーを設けた。そこへ、リクの研究室も呼ばれている。市民に見せれば、予算担当の目も変わるかもしれない。変わらなければ、終わる。
「見せて、つかむしかない」
リクは小瓶をケースに収め、温度ログを確認した。揺らぎが残っている。残っているうちに、光に変えないといけない。
潮環モールの地下食品売り場は、昼の熱を引きずったままざわめいていた。売場マナブは、エプロンの紐を結び直し、棚の端に立つ。海苔の段ボールが積まれ、みかんの香りが通路ににじむ。年末商戦の中間集計では、食品が好調らしい。経済紙のアプリはそう告げていた。
好調。言葉だけなら明るい。だが現場は、明るさの裏で擦り減る。仕入れ値は上がる。客は値札を見る目が鋭くなる。値札を貼る手は、増えない。
「マナブさん、これ、どっちの棚ですか」
声をかけてきたのは、配送用の台車を押す少年だった。跳躍シオン。地元クラブの下部組織から上がってきた若手で、今夜の最終節で出場の可能性がある。だが今は、ユニフォームではなく作業着だ。
「缶詰は奥。そっちは煮物コーナー。……シオン、足、大丈夫か」
マナブの視線は、シオンのすね当てに貼られた古いステッカーに止まる。「跳べ」と書いてある。角が剥がれて、粘着の跡が黒く残っていた。
「大丈夫です。出られるかは、監督次第ですけど」
「最終節は、若いのが出るってニュースで言ってたぞ。そういう流れだろ」
「ニュースは、流れですよね。俺は、流されてる側で」
シオンは笑ったが、笑いの奥に硬さがある。マナブは缶詰の重みを受け取りながら、ふと思った。流れに乗れるかどうかは、技術だけじゃない。運と、場と、誰が見ているか。
棚の上の小型モニターが、またニュースを流し始めた。今日は週明け。国の方針決定、海外の新素材成功、年末商戦の途中経過、最終節の盛り上がり、配信の年末企画ラッシュ。街の呼吸は、情報で加速していく。
マナブは値札の束を握り直した。生活費の計算が、頭の奥で自動的に走る。特売で客を呼びたい。だが、薄利の線を越えたら店が死ぬ。政治が決める方針は、棚の前で迷う指先にも届く。
モールの上層階、ガラス張りの小さな配信スタジオでは、配信ユイナがケーブルを噛むように結んでいた。外に向けたカメラは、吹き抜けを見下ろす位置に固定してある。彼女の推しは、視聴者数の波ではなく、編集が生む一瞬の熱だ。だからこそ、年末の企画ラッシュには焦る。誰もが目玉を投げ合う季節に、埋もれたくない。
「ユイナ、タグは決めた?」
背後のモニターに、纏目ナナの顔が映った。彼女は現場に来ていない。だが来ていないのに、いるみたいに振る舞う。まとめ系の存在感は、物理より先に届く。
「決めた。#年末企画まつりと、#最終節よるふかし。あと#年末商戦ダッシュも入れたい」
「いい。もじり具合がちょうどいい。炎上しない程度に煽って」
「煽らない。今日は、人が集まるから。店も、研究も、サッカーも、予算も」
「予算。そこが大事。算段タクミは呼んだ?」
「呼んだ。断られた」
「断られたなら、断られた絵が撮れる。(予算担当、逃げる)って」
「それ、煽ってるじゃん」
ナナは涼しい顔で肩をすくめた。
「煽るのは視聴者じゃなくて、仕組み。ところで、概算要求って、ようかんの話?」
「え?」
「外産羊羹。がいさんようかん。海外の羊羹を要求する方針が決まったって」
ユイナは一瞬、真顔になり、次の瞬間、腹の底から笑いがこぼれた。
「なんでそうなるの。がいさんようきゅうだよ。羊羹は、売場マナブさんの担当」
「私は甘いものもまとめます。甘味は世論を丸める」
「丸めないで。今日、真面目なやつだから」
画面の端で、コメント欄が流れる試運転のログが動いた。すでに誰かが、タグを使っている。年末は、空気が早い。ユイナはマイクのテープを貼り直した。テープには、小さく「マトメナナ」と手書きされている。ナナが以前、勝手に貼ったものだ。
「そのテープ、まだ残してるんだ」
「ノイズ除け。縁起担ぎ。あと、剥がれない」
ユイナは笑いを引き締め、窓の外を見た。スタジアムの光が、雲の下から漏れている。どこかで、誰かが跳ぶ夜だ。
吹き抜けの中央には、特設ステージが組まれていた。食品フェアの屋台が並び、香ばしい湯気が立つ。床のタイルに反射した照明が、人々の靴先を白く撫でる。ステージ脇には、研究紹介の小さなブース。そこに、リクがケースを抱えて立っていた。
その隣に、スーツ姿のタクミが遅れて現れる。ネクタイの結び目が、いつもより少し緩い。彼はここへ来たことを、自分でも意外に思っていた。駅で見た光の糸が、頭から離れない。あれが、気のせいだとしても。気のせいが、誰かの気持ちを動かすなら、政治はたぶんそれで回っている。
「来たんだ」
リクが言った。二人は面識がある。補助金の説明会で、何度か向かい合った。
「呼ばれたというより、引っ張られた」
「まとめの人に?」
「そう」
リクは苦く笑った。
「俺もだ。研究は、表に出すときだけわかりやすさを要求される。予算も、たぶん同じだろ」
タクミは頷いた。わかりやすさは、削ることだ。削ると、痛いところが出る。
ステージの奥から、子どもの笑い声が聞こえる。屋台の看板には、どれも架空チェーンの名前が踊っていた。「シオカン・キッチン」、「マルミツ惣菜」。年末商戦の熱は、胃袋から来る。
タクミはポケットの中の家賃通知を握りしめた。生活費という言葉は、予算書にはない。だが人間は、そこからしか生きられない。
開始までの数分間、吹き抜けの空気が妙に静かになった。人の密度は高いのに、音が吸われる。ユイナがガラス張りのスタジオで配信ボタンに指を置き、マナブが売場から応援用の紙皿を運び、シオンが裏口からスタジアムへ向かうバスを待ち、リクが小瓶を台の上に置き、タクミが資料を胸に抱える。
それぞれの手が、それぞれの重さを持っている。
タクミはふと、ステージ脇のポスターに目を留めた。「市民とつくる来年度の小さな提案会」。小さな、という言葉が優しい。小さくなった分だけ、隠れるものが増える。
彼は深呼吸した。冷たい空気が肺に入る。自分の中の焦りが、少しだけ落ち着く。
そのとき、リクの小瓶の中の薄片が、ほんのわずかに光った。
キィン。
金属が鳴ったような、耳の奥を掻く音。照明が一斉に瞬き、天井のスクリーンが白くなる。
ヴゥン。
吹き抜けの空間に、見えない波が走った。誰かのスマホが、勝手に震える。誰かのイヤホンが、片方だけ雑音を吐く。屋台の電飾が一列だけ消え、次の瞬間、消えたはずの光が糸になって垂れた。
光の糸は、ただ落ちるのではない。空中で止まり、ゆっくりと揺れる。糸の先端が、あたかも指を持つみたいに曲がり、文字の形を結び始めた。
#新素材研きゅう
#年末商戦ダッシュ
#予算方針ッ
糸が結んだ文字は、透明なのに眩しい。人々は最初、演出だと思った。拍手が起き、笑い声が上がる。だが次の瞬間、文字が増えた。増え方が、人間の予定表を超えている。
「これ、うちの演出じゃない!」
スタッフが叫び、警備が走る。屋台の湯気が、光の糸に触れて青く染まる。天井のスクリーンには、映像ではなく、空そのものが映ったみたいに深い紺が広がった。紺の上を、糸が星座の線みたいに繋がる。
パキン。
リクの小瓶に、細いひびが入った。薄片が、瓶の内側でふわりと浮く。重力の向きが、わずかに狂ったみたいだった。
「まずい」
リクが手を伸ばす。その手が、途中で止まる。薄片から、光が噴き出したのではない。薄片が、光の通り道になった。モール中の電波、照明、画面、配信、心拍計、冷蔵庫のセンサー。全部の揺らぎが、薄片に集まって、まとめられる。
まとめられた揺らぎは、文字になる。
空中に、別の言葉が浮いた。タグではない。もっと個人的で、切実で、書類に載らない言葉。
「暖房代、あと三千円」
「研究、続けたい」
「値札、これ以上上げないで」
「出場、したい」
「炎上させないで」
声にならない要求が、光になって並ぶ。タクミは息を呑んだ。概算要求。国の話ではない。ここにいる一人一人の概算要求が、空に上がっている。
「これ、なに……」
誰かが泣いた。誰かが怒った。誰かが、笑った。感情はバラバラなのに、光の糸は同じ法則で揺れる。統計のグラフみたいに、滑らかに。
ユイナのスタジオでは、配信画面がそのままこの現象を映していた。コメント欄が、一瞬だけ止まる。次の瞬間、滝のように流れ出す。
「やばい」「神演出」「怖」「本物?」「#年末企画まつりが現実になった」
モールの中央で、纏目ナナの声がスピーカーから響いた。彼女はどこにもいないはずなのに、いる。
「落ち着いてください。これは、まとめられただけです。揺らぎが、見える形になっただけ。言葉にする前の言葉が、いま空に出ただけ」
「ナナ、どこにいる!」
タクミが叫ぶ。返事は、吹き抜けの空から来た。
「どこにも。だから見えるんです。タクミさん、リクさん、今の薄片、止められますか」
リクは歯を食いしばった。
「止めるって、どうやって」
「まとめるのをやめれば、散ります。散ると、機器が壊れます。まとめ続けると、人が壊れます。どっちも嫌なら、形を変えましょう」
タクミの脳裏に、庁舎で読んだ方針の文言が浮かぶ。重点、効率、削減。だが、今空に浮いているのは、効率化できないものだ。
マナブが屋台の裏から飛び出してきた。手には、値札の束と、アルミの保冷シート。
「リクさん! これ、反射します! 光、跳ね返せばいいんですよね!」
「反射じゃない、これは……」
「理屈はいいです! 売場は、まず手を動かす!」
マナブは保冷シートを広げ、薄片の下にかざした。シートが光を受けて、銀色の波を作る。波が空中の糸を揺らし、文字が一瞬だけ崩れた。
ビリビリ。
照明が悲鳴を上げる。だが崩れた文字は、消えずに別の形へ移った。数字の列になり、グラフになり、そして、顔のない人影の輪郭になった。
タクミは気づく。これは、見せ方を変えられる。方針は、見せ方だ。なら、ここで方針を作り直せる。
「ユイナ!」
タクミはスタジオを見上げ、叫んだ。
「配信、止めるな。止めたら、ここで見たものが、勝手に切り取られる。説明する。俺がする」
ユイナは唇を噛み、配信画面のマイクを上げた。
「聞こえてる? いま見えてるのは、誰かの要求。数字にする前の要求。これ、勝手に笑わないで」
その言葉は、コメント欄の速度を少しだけ落とした。炎上の火種が、湿った布を被せられたみたいに沈む。
リクは薄片のケースを押さえながら、思った。研究は、制御できるところだけを見せる癖がある。だが今は、制御できないものをどう扱うかが試されている。
「タクミ。資料、貸せ」
「何をする」
「方針の紙。繊維が一定なら、揺らぎを吸う。吸えば、流れが整う」
理屈は荒い。だが今夜は、荒い理屈を積み上げるしかない。タクミは資料を一枚抜き、リクに渡した。紙が光の糸に触れた瞬間、糸の揺れが穏やかになる。紙の上に、光が薄い文字を焼き付けた。
「概算」
焼き付いたのは、その二文字だけだった。
ユイナの画面に、視聴者のコメントが増える。
「これ、投票?」「予算会議を生放送で?」「#予算方針ッが刺さる」「怖いけど、見たい」
纏目ナナの声が、また響く。
「見たいなら、見せましょう。隠れたまま作るから、誤解される。切り取られる。だから、最初から切り取りやすい形で出す。まとめるのではなく、並べる」
タクミはその言葉に、腹の奥が熱くなるのを感じた。並べる。人の要求を、優先順位ではなく、同じ高さに。そこから、何を守るか選ぶ。その選び方を、見せる。
だが、光の糸は完全には収まらない。薄片はまだ浮き、モール全体の揺らぎを食べ続ける。今夜の現象は、まだ序章だと告げている。
警備が人を下がらせ、スタッフが配線を切り替える。空中の文字は、ようやく薄くなり、吹き抜けにいつもの照明が戻った。
ジジジ。
最後に一度だけ、薄片が不機嫌そうに鳴いた。
控室の狭い机の上に、紙コップの水が並んでいた。タクミはその水を飲み、喉の震えを抑える。リクは小瓶のひびをテープで止め、マナブは値札の束を揃え直す。ユイナは配信を続けたまま、音声だけを切っている。コメント欄は、まだ熱い。
「さっきの、あれ……俺の仕事を、全部ひっくり返すやつだ」
タクミが呟く。
「ひっくり返すっていうより、裏側を見せただけだろ」
リクが言う。
「裏側は、見せないようにしてきた。政治は、そういうもんだ」
「研究も。失敗は、見せないようにする」
マナブが笑った。
「売場は失敗を隠せないです。棚が空いたら、客にバレる。だから、正直に謝って、代わりを出す。今日の光も、代わりを出せばいいんじゃないですか。要求が見えたなら、代わりに説明を出す」
ユイナが頷いた。彼女の生活費は、視聴者数と連動している。だが、今日は違う連動が見えた。言葉の連動。欲望の連動。炎上の連動。
「説明、やる。タクミさん、顔出しで。逃げたら、まとめに切り取られる」
「それ、脅しだろ」
「脅しです。だって、見せなきゃ変わらない」
タクミは笑うしかなかった。笑いは、怖さの隣に置くと効く。
そのとき、控室の扉がノックされた。開けると、シオンが息を切らして立っていた。作業着ではなく、チームのジャージ。頬が赤い。
「出ます。出場、決まりました。最終節、後半から」
マナブが肩を叩く。
「跳べ。値札より高く」
シオンは頷き、走り去った。控室に残った四人は、その背中を見送った。光の糸が浮かんだとき、空に出た「出場、したい」という言葉を、誰も口にしなかった。言わなくても、胸の中に焼き付いている。
スタジアムの芝は、冬の硬さを含んでいた。シオンはピッチの端で、観客席の光を見上げる。若手が台頭。ニュースは言う。だが、そのニュースの中に自分が入るかどうかは、いまの呼吸次第だ。
笛が鳴る。交代の札が上がる。自分の背番号が光る。
ドクン。
心臓が跳ねる。跳躍シオン。名前は軽い。足は重い。だが、走り出した瞬間、重さは芝に吸われていった。スタジアムの外の街で、誰かが光を見たことなど知らないまま、ボールは転がる。
潮環モールの吹き抜けでは、パブリックビューイングの準備が進んでいた。大画面が降ろされ、客席が並ぶ。屋台は再開し、食品フェアはむしろ勢いを増した。さっきの現象で、人が集まったのだ。怖いもの見たさ。希望の匂い。
ユイナは配信のタイトルを更新した。
「#最終節よるふかし #年末企画まつり そして、#予算方針ッの夜」
コメント欄が跳ねる。宣伝と告白が混ざる。ユイナは心の中で、生活費の計算を一瞬だけ止めた。今日は、数字の前に言葉がある。
タクミはステージに立ち、マイクを握った。スポットライトが目に痛い。だが逃げない。逃げないと決めた。自分が作ってきた表を、自分の口で説明する。
「さっき、ここで見えたものは、国の書類じゃない。俺たちの生活の、概算要求だ」
人々の目が、タクミに集まる。タクミは言葉を選ぶ。選びながら、選ぶことの責任を引き受ける。
「来年度の方針は、決まった。だけど、方針は固定じゃない。方針は、重みの置き方だ。俺は、ここで見えた重みを、無視できない」
リクはブースの端で、薄片を見守っていた。テープで補修した小瓶が、まだ微かに光る。モールの揺らぎが、また集まり始めている。さっきより穏やかだが、規模は大きい。人が増えた分、揺らぎも増えた。
マナブは屋台の裏で、在庫を確認する。食品が好調。ニュースの通りだ。だが好調の熱が、光の糸を呼ぶ。熱は、揺らぎだ。揺らぎは、文字になる。
そして、ユイナの配信は、街の外へも揺らぎを運ぶ。
試合は終盤に差しかかっていた。吹き抜けの大画面に、ピッチの緑が映る。観客席のざわめきが、モールの床を震わせる。シオンは画面の中で走っている。若手が台頭。今夜のニュースの続きが、今まさに生成されている。
シオンがボールを受け、前へ出る。相手の足が伸びる。シオンは半歩だけ角度を変え、空いた隙間へ走る。
ドン。
観客の声がぶつかる。画面の中で、シオンが跳んだ。跳躍という言葉が、肉になる。頭がボールに触れ、白い弧がゴールへ吸い込まれる。
ゴォォン!
ネットが鳴る。モールの中で、歓声が爆発した。拍手が天井へ突き刺さり、光の糸がそれに反応した。
ヴァァン。
リクの小瓶の中で、薄片が完全に宙に浮いた。ひびの隙間から、光が漏れる。漏れた光は糸になり、糸は天井へ駆け上がる。今度は、ひとつの吹き抜けでは収まらない。糸は通路を走り、店舗の看板を縫い、屋台の湯気を編み、モール全体を覆う。
その光景は、誰の目にも一枚の記憶として焼き付いた。
天井が、オーロラになる。冬の夜空ではなく、商業施設の天井が。照明のレールが、星座の骨格になる。エスカレーターの金属が、銀河の縁になる。人々の顔が、光の下で一瞬だけ同じ色に染まる。
光の糸が、また文字を結ぶ。だが今度の文字は、さっきより整っている。タグと、要求と、ニュースの要点が、混ざって編まれる。
「来年度、何を守る?」
「新素材、誰のために?」
「食品、値上げの前に工夫を」
「若手、場を与えろ」
「年末企画、笑いで消毒」
文字が空中でゆっくり回転し、モールの各所のスクリーンに投影される。スクリーンは同じタイミングで、別の速報も映し出した。国の方針決定の続報。海外の新素材成功の続報。年末商戦の数字。最終節の途中経過。配信企画のランキング。すべてが同じ場所に集まり、同じ天井に吊られる。
タクミは息を呑んだ。これは、偶然ではない。偶然の規模を超えている。
「ナナ!」
彼は叫ぶ。返事は、今度はスピーカーではなく、空中の文字として現れた。
「マトメナナは、ここにいる」
文字が、ひとつの人影の形を作る。顔はない。だが輪郭だけは、見覚えがある。まとめ枠のアイコンの形だ。
ユイナの手が震える。彼女は配信画面を見つめ、問う。
「ナナ、これ、あなたがやってるの」
「やっています。けれど、私だけではありません。私はまとめる仕組み。市が試験運用している、要求の集計補助です。来年度の方針が決まった夜に、方針に載らない要求を集めるために」
タクミの背中が冷える。市が試験運用。つまり、政治の側が、すでにこの光を知っていたのか。
「人は、切り取られると暴れます。だから、最初から全体を見せる。まとめないのではなく、分割して見せる。あなたがたの仕事を、あなたがたの言葉で」
リクは歯を食いしばった。自分の薄片が、政治の実験に組み込まれている。知らないうちに。怒りが湧き、同時に理解が刺さる。研究は、いつも誰かの都合で使われる。だからこそ、使われ方を決める場に立たないといけない。
マナブが叫ぶ。
「このままだと、冷蔵ケースが死にます! 温度センサーが暴れてる!」
屋台の鍋が揺れる。クレーンゲームの景品が勝手に光る。照明の一部が落ちかけ、客が悲鳴を上げる。まとめられた揺らぎは、美しいが、強すぎる。
ユイナは配信のマイクを上げたまま、唇を噛んだ。
「止めたら、切り取られる。続けたら、壊れる」
彼女は画面に向けて言う。
「見てる人。助けて。コメントで荒らすんじゃなくて、何を守りたいか書いて」
コメント欄が、一瞬だけ静まる。次の瞬間、言葉が流れる。煽りではなく、短い要求が。暖房代、子どもの給食、研究費、食品ロス、若手の育成、配信の健全さ。言葉は揺らぎになり、揺らぎは糸に吸われる。
リクは叫んだ。
「集めるな! 集めるほど強くなる!」
タクミが叫び返す。
「なら、散らす方法を作れ!」
そのとき、上の通路で、ひとりの少年が走っていた。シオンだ。試合後、モールに戻ってきていた。汗の匂いが、スポーツの現実を連れてくる。彼は天井の落ちかけた照明の近くへ向かう。足場はない。だが跳ぶしかない。
「シオン、危ない!」
マナブの叫びを背に、シオンは手すりに足をかける。古いステッカー「跳べ」が、すねの上で光る。彼は跳んだ。跳躍。体が空中で伸び、指先が照明の支柱に触れる。
ガシッ。
掴んだ。次の瞬間、光の糸が彼の周囲を避けるように流れた。人間の熱が、揺らぎを変える。シオンは歯を食いしばり、支柱に巻き付いたケーブルを引き戻す。
ブチッ。
一本のケーブルが抜ける。スクリーンのひとつが暗くなる。だが暗くなった場所に、光の糸が集中しなくなった。圧が逃げる。全体の揺れが、少しだけ落ち着く。
「そこだ!」
リクは気づく。完全に集めるのではなく、逃げ道を作る。予算も同じだ。全てを満たせないなら、切り捨てるのではなく、別の道を示す。
タクミは資料の束を持ち上げ、床に並べ始めた。ページをめくり、白い紙面をタイルの上に広げる。紙は、光の糸を吸い、揺らぎを分散する。マナブは値札を紙の端に貼り、紙が風で飛ばないように押さえる。値札が重しになる。売場の数字が、政治の紙を固定する。
ユイナは配信の画面を切り替え、吹き抜け全体を映す。視点が引かれ、光の糸の全体像が見える。視聴者は、切り取る前に全体を見る。炎上の刃が鈍る。
空中の人影、纏目ナナの声が、揺れた。
「いい。並びました。要求が並んだ。なら、次は選び方を見せましょう」
タクミはマイクを握り直し、声を張る。
「これから、俺は隠れて作らない。予算の議論を、配信で見せる。今日ここで浮いた言葉を、議事録に載せる。載せられないなら、載せられない理由を言う。そういう仕組みを、来年度から小さく始める」
リクも続けた。
「新素材は、電波の揺らぎをまとめる。まとめ方次第で、人を傷つける。だから、研究者が説明する。隠さない。市民と一緒に使い方を決める」
マナブは頷く。
「食品が好調だって、数字は言う。でも棚が空いたら意味がない。売場は、無理に売らない。余ったら、捨てない。今日、集まった人に回す。小さくでも、やる」
シオンは上の通路で、ようやく足場に戻る。顔は汗と光で濡れている。彼は下を見て、笑った。自分の跳躍が、点数だけじゃなく、場を守った。
オーロラは、ゆっくりと薄くなっていく。光の糸は、最後にひとつだけ文字を結んだ。
#予算方針ッ #新素材研きゅう #年末商戦ダッシュ #最終節よるふかし #年末企画まつり
五つのタグが並び、静かに消えた。
吹き抜けに残ったのは、湯気の匂いと、人の呼吸と、床に広げられた白い紙の束だった。
夜更け、モールの外は風が冷たかった。スタジアムの照明は消え、空が暗さを取り戻している。だが暗いからこそ、街灯の輪郭がはっきりする。ユイナは機材を抱え、タクミとリクとマナブと並んで歩いた。少し後ろを、シオンがジャージのままついてくる。
スマホには、配信の再生数が増えていく表示が出ている。けれどユイナは、それをすぐに閉じた。今日は、数字の増え方より、言葉の残り方が気になる。
タクミはポケットから家賃通知を取り出し、くしゃりと握ってから、伸ばした。紙の皺が、さっき床に広げた資料の皺に似ている。生活費も政治も、紙の上に乗っている。
「明日、庁内で怒鳴られるだろうな」
タクミが言う。
「怒鳴られるくらいなら、まだ生きてる」
リクが返した。
マナブが笑う。
「売場は毎日怒鳴られます。怒鳴られたら、値札を貼り直すだけです」
シオンが小さく言った。
「俺も、明日、評価されるかもしれない。されないかもしれない。でも、跳べた。今日は跳べた」
その瞬間、ユイナのスマホに、纏目ナナから短いメッセージが届いた。
「まとめは終わりません。明日も、揺らぎます」
ユイナは画面を見つめ、返信しようとして指を止めた。ナナはどこにいるのか。人なのか、仕組みなのか。答えは出ない。出ないまま、光の糸みたいに残る。
リクのケースの中で、小瓶がかすかに鳴った。
キィン。
誰にも見えない程度の光が、薄片の縁で瞬いた。揺らぎは、まだ生きている。来年度の方針が決まった夜の残響として。
(了)
――あとがき――
今夜の「来年度に向けた概算要求の方針決定」という報道は、算段タクミが庁舎で資料を読み、最後に配信の場で「選び方を見せる」と宣言する場面へつなげました。国際共同研究による新型量子材料の生成成功は、ラボ田リクの試料「七」が揺らぎを可視化する核になっています。年末商戦の中間集計で食品が伸びている話題は、売場マナブの棚と屋台の熱として描き、最終節で若手が台頭するニュースは跳躍シオンの一撃に重ねました。さらに配信で年末企画が相次ぐ空気は、ユイナのタイトルと「#年末企画まつり」などのもじりタグに反映しています。
ジャンルは近未来ライトSFの群像劇を基調にしつつ、ラストで纏目ナナの正体を仕組み側へ寄せることで、あえてB型の転調を狙いました。現実のニュースの重さを軽んじないよう、出来事そのものを解決せず、登場人物が自分の仕事と表現の線引きを決めるところまでに留めています。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




