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冬湾の封鎖線とまとめなな【2025/12/18】

湿った冬の夜は、湾の匂いが金属に染みる。


海原シオリは港湾管理棟の窓を指でなぞった。ガラスの向こうでクレーンがゆっくり首を振り、雨粒が赤い航路灯を引き延ばしている。床の防水シートの端で、靴底がきゅっと鳴った。


背中のモニターが、同じ文言を何度も繰り返す。海外の海域で、米国が制裁対象のベネズエラ産原油を運ぶタンカー群に対して、事実上の全面的な封鎖を指示したという速報だ。画面の地図には赤い線が引かれ、油膜のように広がる矢印がこちらの海へ伸びていく。


「また燃料が跳ねる」


シオリの家は魚屋だ。冷凍庫の電気代が一円上がるだけで、刺身の値札が震える。昨夜も母から、氷を節約してと泣き笑いの音声が届いた。


ピー、と短い警告音。港の外縁に設置された監視ドローンが、未登録船の接近を検知した。


窓の下で、黒い船影が波に埋もれかけている。艦首に灯がなく、船尾だけが不自然に明るい。ドローンが群れ、海面に青白い光の格子を描いた。


ザザザ、と雨が一段強くなる。光の格子が膨らみ、海に仮想の線が走る。封鎖線。たしかに、あの速報と同じ語だ。


「ドンッ」


遠くで水柱が上がった。誰かが警告弾を撃ったのではない。波の内側から、何かが跳ねた。シオリは咄嗟に目を細め、モニターの明度を落とした。黒い船の側面に、一瞬だけ白い印が浮かぶ。狐の尾を二本に分けたような、鋭い図形。


次の瞬間、画面右上に通知が重なった。


纏目ナナ(まとめ配信):港の空、荒れてる? いまトレンドは#ペットカードジェネレータと#井ノ上梨奈卒業セレモニイが伸びてる。帰りにドーム寄れる?


纏目ナナ。通称マトメナナ。街の出来事を秒で整理して配信する、妙に癖の強いまとめ屋だ。シオリは返事を書きかけて、指を止めた。目の前の海のほうが、よほど速い。


「今、未登録船。あとで」


送信。画面の隅で、小さく既読がついた。既読がつく速さが、人間のそれではないことに、シオリはまだ慣れていない。


港の警報が、低く唸りはじめた。ウゥゥン、ウゥゥン。音は雨に吸われ、湿った空気の奥で丸くなっていく。


シオリは業務端末を持って階段を下りた。管理棟の外に出ると、潮と燃料と鉄錆の匂いが一気に鼻を刺す。屋根のない通路を走ると、雨が頬を叩いた。


敷地の端に、子ども向けの自動販売機が並んでいる。そこだけが、なぜか妙に明るい。ペットカードジェネレータ。スマホで撮った自分のペットの写真を入れると、光沢のあるカードになって出てくるという流行り物だ。カードの角には小さな符号が焼き付けられ、集めるとゲーム内で小さな特典がつくらしい。


「こんな日に……」


誰もいないのに、機械が吐き出し口を開けている。ぬるり、と一枚のカードが滑り落ちた。濡れた床で、金色の縁が光る。犬の顔。だが瞳のあたりに、QRにも似た微細な模様が走っていた。


シオリは反射で拾い上げた。裏面は真っ白で、乾かないインクの匂いがした。


「落とし物、だよね」


そのとき、背後で足音がした。タッ、タッ。雨の中でも軽い。


「海原さん?」


黒石レイだった。コートの肩から水が滴り、髪が頬に張り付いている。記者。いや、記者と名乗るほど真面目ではない。レイは真実と視聴数の境界を、いつも濡れた靴で踏む。


「また港に来たの」

「来るさ。今夜はネタが歩いてる。米国の封鎖指示で、原油の流れが変わる。ここはその端っこだ。しかも未登録船。狐の印。見た?」


シオリは手のひらのカードを隠すように握った。狐の印。それをレイに見せるべきか迷う。だが迷う時間は、潮に削られていく。


「一瞬だけ。船尾に、白い図形」

「やっぱり。情報屋が騒いでた。まとめななも触れてたよ」


レイの端末にも、纏目ナナの配信通知が踊っている。シオリはため息を飲み込み、管理棟の方へ視線を戻した。


遠くでサイレンが高くなった。キィィン。封鎖線の光が、海面で揺れた。


そのころ、街の内側の狭い部屋で、株城カズマは別の光に目を凝らしていた。


パソコンの画面いっぱいに、日景平均の線が跳ねている。三日ぶりに反発。チャートが、雨季の稲妻みたいに上へ折れた。カズマは息を吐き、湯気の立たないインスタント味噌汁をすする。


「よし。戻った……いや、戻されただけか」


壁の向こうで、隣人が咳をした。集合住宅の薄い壁は、生活費の薄さと同じだ。カズマの机には、家賃の督促と、母の介護施設からの請求書が重なっている。数字の山を越えるには、数字で戦うしかない。


だが数字は、いつだって誰かの海と繋がっている。


ニュース欄に、国内メーカーの減産が流れた。ホン多自動車が、半導体の供給不足で生産を絞る。工場の稼働を調整するという。カズマは眉を寄せた。ホン多の工場で働く友人がいる。車が作れなければ、給料も落ちる。給料が落ちれば、街の食堂の客も減る。食堂の客が減れば、シオリの家の魚も売れない。


「悪い連鎖だな」


端末が震えた。纏目ナナからのグループ通知だった。いつの間にか、シオリ、レイ、ユウタ、サトルと一緒の部屋が作られている。招待に承諾した覚えがないのに、入っている。まとめ屋の仕事は、許可より速度だ。


纏目ナナ:緊急まとめ。港で未登録船。関連タグは#アウトフォクシズが急浮上。情報の穴ができてる。関係者、ドームで集合できる?


株城カズマ:アウトフォクシズって何だよ。狐が不足するのか?

砂川ユウタ:不足するのは狐じゃなくて電力です。用語は比喩です。

拳竜サトル:狐が不足したら鍋が困る。いや困らない。

黒石レイ:困るのは視聴者の頭だよ。まとめなな、説明。

海原シオリ:今、港が困ってる。鍋の話は後で。


カズマは吹き出しかけて、すぐ真顔に戻った。笑いは短くても、生活費より長くは続かない。


砂川ユウタの名前を見て、カズマは指を止めた。ユウタは国の技術職だ。エネルギー政策の現場にいる。街の噂では、今夜、アラブ首長国連邦とのエネルギー協力の協議がこの街で開かれるらしい。会場は湾岸ドーム。ちょうど、ゲームの忘年会配信も、アイドルの卒業セレモニー配信も、同じ場所でやるという。人を集めれば、経済が回る。だが人を集めれば、情報も熱を持つ。


カズマは、画面の線が上がるたび、胸の奥が冷えるのを感じた。上がるのは株価だけじゃない。誰かの怒りも、不安も、投げ銭も。


その不安の中心に、ユウタはいた。


砂川ユウタは、湾岸ドームの裏口で、濡れた手袋を外した。通路の壁に、協議のポスターが貼られている。日本とアラブ首長国連邦の間で、次世代燃料と蓄電技術の共同実証を進める。青い文字。砂漠と海を繋ぐ絵。理屈は美しい。だが現場は、もっと湿っている。


「センサーが足りない」


ユウタは独り言をこぼした。今夜のデモでは、潮流発電の出力を瞬時に平滑化する蓄電ユニットを見せる。だが制御用の小型半導体が不足していた。ホン多の減産がニュースになるほど、街全体がチップに飢えている。ドームの入退場ゲートも古い型に戻され、セキュリティの負担が増えている。


「国際協議の日に、旧式で回すとか、笑えない」


ユウタの肩を叩く者がいた。拳竜サトルだ。黒いジャージの上にスタッフ用の腕章を巻き、首からホイッスルを下げている。胸のあたりに、柔術のパッチが縫われていた。最近、世界大会のノーギ部門で若手が金を取ったというニュースが流れ、サトルのジムにも見学が増えていた。ジムの家賃は相変わらず重いが、客が増えれば光は射す。


「ユウタ、顔色悪いぞ。半導体の呪いか?」

「呪いじゃなくて供給網です。サトルさんは呪いで勝てますか」

「勝てるかもしれんが、反則だな」


サトルは口角を上げ、すぐ真面目な目に戻った。


「今夜は客が多い。#アズレヌ忘年会SPの生配信もあるし、#井ノ上梨奈卒業セレモニイの同時上映もある。俺は安全係。けど、港の未登録船って聞いた。嫌な匂いがする」

「レイさんからも連絡が来ました。港で狐の印……」


ユウタが言いかけたところで、レイ本人が姿を現した。濡れたコートの裾を絞りながら、目だけは乾いている。


「話は速い。未登録船はただの密輸じゃない。今夜のドームに、何かを持ち込む可能性がある。燃料か、情報か、その両方か」


レイの指が、ユウタの掲示物を弾いた。ポスターの角が、ぴらりと剥がれかけている。その裏に、小さな紙片が挟まっていた。ドームの配線図。しかも、一般公開されていない更新版だ。


「これ、どこから」

「さあね。まとめなな経由で落ちてきた。彼女、こういうのだけは早い」


レイは紙片を差し出し、ユウタの顔を覗き込んだ。


「あなた、政治の人間でしょ。今夜の協議、成功させたい?」

「成功させたい。けれど成功って、誰のための言葉ですか」

「いい質問。だから取材する」


レイの端末が鳴った。ピロン。纏目ナナの通知だ。画面には、短い文章だけが表示される。


纏目ナナ:港のペットカード機が怪しい。符号が鍵。拾った人、持ってきて。


ユウタとレイとサトルの視線が、一斉に一点に集まった。シオリの名前の表示。


「海原さん、拾ってるのか」

「拾ってるなら、隠してるかもね」

「隠してるなら、理由がある」


三人の会話の温度が、雨より冷える。ユウタは決めた。今夜の協議を守るためにも、まず港へ行く。


ドームの裏口を出ると、雨が顔に貼り付いた。道路の水たまりが、街灯を二重に映している。車は少ない。ホン多の減産で、部品が足りず、代車も回らないという噂が本当なら、街の足は細る。細った足を、情報だけが走り回る。


港に着いたとき、シオリは倉庫の陰で待っていた。濡れた髪をタオルで押さえ、手のひらを開く。例のカードがそこにあった。金縁の犬。瞳の模様。


「これ。さっき、機械が勝手に出してきた」

「勝手に? 誰も操作してないのに?」

「うん。吐き出し口が開いてた」


レイがカードを覗き込み、唇を尖らせた。


「ペットカードなのに、瞳が機械っぽい。まるで監視カメラ」

「犬が見てるなら安心だろ」

「安心できるのは犬だけだよ」


サトルの軽口に、ユウタが即座に突っ込んだ。


「犬は安心してません。濡れてます」


噛み合わない会話が、雨音にかき消される。シオリは苦笑いし、カードをレイに渡した。


レイは端末を近づけ、カードの模様を読み取った。ピピッ。瞬間、港の照明が一斉に瞬いた。ザッ。遠くのクレーンが止まり、何かのロックがかかる。


「やっぱり鍵だ」


ユウタが顔を引き締める。


「これ、港の制御網に紐づいてる。一般向けの機械に、制御用の鍵を混ぜるなんて、ありえない」

「ありえないから、やる。誰かが」


レイは倉庫の列を指差した。ペットカード機の背面が、半開きになっている。そこから細い光が漏れていた。青白い。海の封鎖線と同じ色。


四人が近づくと、機械の内側で小さなファンが回っていた。ウィィン。熱い空気が湿気に混ざる。中には、カード印刷用とは別の基板が増設され、外部のアンテナが伸びている。アンテナの先は、港の監視ドローンの周波数帯へ向けられていた。


「中継器か」

「中継器で何を」

「封鎖の情報を、ここから流す。港が封鎖されたって、偽の警報を。そうすれば燃料の流れが止まり、価格が動く。市場が動けば、政治も動く」


レイの声が低くなる。ユウタの背筋に汗が浮いた。協議は、相手国を悪者にするためじゃない。けれど噂は、いつも簡単に敵味方を作る。


シオリが小さく言った。


「さっき、海で封鎖線を見た。あれも偽物?」

「半分は本物、半分は演出。現物があるほど、偽情報は強くなる」


そのとき、機械の奥でランプが赤く点いた。ピッ。ピッ。ピッ。起動したのは、こちらの接近がトリガーになったのだろう。


「止める!」


サトルが手を伸ばす。しかし次の瞬間、倉庫の屋根から影が落ちた。バサッ。人影。フードを被り、顔を隠している。手には小型の衝撃器。


「近づくな」


低い声。だが年齢も性別も判別できない。ユウタは一歩引き、両手を上げた。


「ここは港の設備だ。勝手な改造は事故になる」

「事故が目的だよ。事故はニュースになる。ニュースは市場になる」


フードの手が動く。バチッ。青い火花。シオリが息を呑む。


サトルは、濡れた床を滑るように前へ出た。足の運びが静かだ。柔術の試合前のそれ。相手が衝撃器を振るうより早く、サトルの腕が絡みついた。ガシッ。次の瞬間、二人は床に落ちる。ドスン。雨水が跳ね、照明の反射が割れる。


「うおおっ」


サトルの声が、戦いより驚きに近い。相手は予想以上に力がある。だがサトルは焦らない。腰を切り、相手の肘を外側へ押し、肩を固定する。ミシッ。関節が鳴る寸前で、サトルは力を抜いた。壊すのではなく、止める。


「動くな。折れる」


フードが呻く。だがもう片方の手で、何かを投げた。カラン。小さな筒。床で転がり、白い煙を吐き出した。シュー。視界が一気に白くなる。刺激臭。催涙。サトルの目が潤む。


「くそっ、今日はノーギじゃなくてノーアイだ」


つい口から出た言葉に、シオリが思わず吹き出した。笑う場面ではない。けれど笑いは、恐怖の輪郭を一瞬だけぼかす。


ユウタは咳き込みながら、カードを握り直した。鍵なら、逆に閉じられるはずだ。彼は端末を操作し、港の制御網に緊急の権限要求を投げる。だが返ってくるのは拒否。拒否。拒否。権限が足りない。足りないはずがないのに。


「権限が、消されてる?」


レイが煙の向こうで叫ぶ。


「まとめななに繋げ! 彼女なら権限の穴を知ってる!」


シオリは端末を開き、纏目ナナの配信チャンネルへ接続した。画面が暗くなり、次に淡い光が広がる。声がした。女の声。だが雑音が少ない。雨の中なのに、乾いた音。


纏目ナナ:「やっと繋がった。カードの瞳、裏返して。白いほうを、港の照明にかざして」


「今それどころじゃ――」


言いかけたシオリの手が、指示通りに動く。裏面を照明へ。白が、青に変わる。紙が、透ける。裏面に、見えなかった微細な文字列が浮かんだ。狐の尾の図形も。


纏目ナナ:「その模様が、港の旧式バックドア。古い制御装置が残ってる。半導体不足で更新できなかった場所。そこへ入れる」


ユウタが目を見開いた。自分が嘆いた不足が、弱点になっている。


「どこだ!」

纏目ナナ:「倉庫列の北端。非常扉。シオリ、走れる?」

「走る」


シオリは煙の中を駆けた。ザブッ。水たまり。視界は白い。だが足は港を覚えている。倉庫の壁を手で探り、非常扉の金具を掴む。冷たい。押す。ギィ。扉が開き、暗い通路が口を開けた。


通路の奥に、古い制御盤があった。ランプが弱く点滅し、配線が蜘蛛の巣のように絡む。そこに、カードの模様と同じ形の読取部がある。ありえない。だが現実だった。


シオリはカードを差し込んだ。カチン。音が小さく、怖いほどに確かだ。


制御盤が唸った。ウゥン。次の瞬間、港の照明が元の明るさに戻り、倉庫の外の煙が排気ファンで吸い上げられた。白が薄れ、影が浮かぶ。


サトルが床に押さえつけていたフードの手が止まった。衝撃器が、ころりと転がる。レイが足で踏み、蹴り飛ばした。


「動けない。誰だ、お前」

「誰でもいい。市場が欲しいんだ」


フードの声が笑ったように聞こえた。顔の下から覗く顎は、若い。だが瞳は、疲れている。


ユウタは息を整えた。


「市場は、誰かの生活だ」

「生活? 生活のために、みんな投稿してる。みんな騒いでる。俺はそれをまとめただけ」


その言葉に、レイが一瞬だけ沈黙した。まとめる。それは纏目ナナの言葉でもある。レイは苦く笑い、フードの耳元に囁いた。


「まとめるって、そんなに簡単じゃないよ」


サトルがフードを拘束したまま言った。


「お前、柔術やれ。人の重さを知らない」


フードは返事をしなかった。ただ目を閉じ、雨音に耳を傾けた。


四人は、その場を警備に引き渡した。だが事件は終わらない。これは前哨だ。港の中継器は止めた。しかし海には未登録船がいる。ドームには人が集まる。封鎖のニュースは、世界の空気を変えたままだ。


その帰り道、シオリは一瞬だけ立ち止まり、雨の中で深呼吸した。


街灯の下、雨粒が斜めに走り、光が糸になる。冷たいのに、どこか柔らかい。港の匂いは消えない。それでも、今夜は少しだけ違う。カードが、鍵になった。自分の手が、港の明かりを戻した。


(自分にも、何かできる)


胸の奥に、小さな熱が残った。電気代の請求書より、ずっと小さい熱。けれど消えない。


湾岸ドームへ向かうころには、雨はさらに重くなっていた。


ドームの外壁は、濡れた鯨の背中みたいに光っている。入口には長い列。ゲームのグッズを抱えた若者、スーツの人々、柔術着の袋を持った子ども、アイドルのペンライトを握る中年。異なる推しが、同じ屋根の下へ吸い込まれていく。


壁面の巨大スクリーンに、タグが流れる。


#アズレヌ忘年会SP #井ノ上梨奈卒業セレモニイ #ペットカードジェネレータ #ポケポコ #アウトフォクシズ


タグの列の隙間に、経済ニュースの文字が紛れた。日景平均が反発。燃料関連が買われる。ホン多減産で供給懸念。米国の海上封鎖で原油先物が乱高下。情報が、踊る。


カズマは入口付近で、心臓が跳ねるのを感じた。株価の線と同じ跳ね方だ。彼は財布の中身を確認し、チケットを握りしめた。今夜ここに来たのは、投資のためではない。推しの卒業を見届けるためでもある。けれどそれだけでもない。


「金の流れが変なら、生活が壊れる。なら、俺の得意な線で止める」


カズマは、端末で注文を出すのではなく、別の画面を開いた。情報の拡散経路を解析する個人ツール。怪しい投稿の群れを、線で結ぶ。港で見た狐の印が、ここでも出る。タグ#アウトフォクシズに、似た文章が大量にぶら下がっている。内容は同じ。封鎖。停電。危険。逃げろ。


「同文連投……ボットか」


背後から声がした。


「カズマ、目が死んでる」


シオリがいた。濡れた髪は乾きかけ、頬に赤みがある。レイとユウタ、サトルも後ろに揃った。五人が一列に並ぶと、まるで場違いなチームだ。だが今夜のドームは、場違いを飲み込む胃袋を持っている。


「まとめななは?」

レイが周囲を見回す。

「さっきから配信は生きてる。でも本人は、どこにも」

ユウタが言い、首を振る。

「いつもそうだ。姿がない」


サトルが腕を組む。


「本人が来たら、セキュリティが困る。まとめ屋は裏方だろ」


そのとき、ドームの天井から、鈍い振動が伝わった。ドゥン。ドゥン。遠くの音楽のリハーサルかと思ったが、違う。床が揺れる。照明が一瞬だけ落ちる。


観客のざわめき。ザワ。ザワ。ザワ。誰かが叫ぶ。停電? 封鎖? 外で事故?


巨大スクリーンが、タグの列を止めた。代わりに赤い文字が出る。


湾口封鎖。燃料搬入停止。直ちに退避。


同時に、スマホの通知が爆発した。ピロン、ピロン、ピロン。群衆が一斉に端末を見る。視線が下を向き、顔が青くなる。恐怖が一度に増幅される瞬間だ。


レイが叫んだ。


「偽情報だ! 港の中継器は止めたはずなのに、別の経路がある!」


ユウタが歯を食いしばる。


「ドームの制御盤が古い。半導体不足で更新できなかった。そこを突かれたら――」


サトルがホイッスルを口に当てた。ピーッ。鋭い音が、ざわめきを切り裂く。


「走るな! 立ち止まれ! 呼吸しろ!」


だが人は、情報より速くは止まれない。列の後ろで押し合いが起き、子どもが転びかける。シオリが飛び込み、抱き起こした。カズマが肩を貸し、壁際へ誘導する。ユウタはスタッフ通路へ走り、制御室へ向かった。レイはカメラを回すのではなく、群衆の顔を見て、何を言うべきか探した。


ドームの中央ステージでは、ゲームの司会者がマイクを握り、必死に笑顔を作っている。スクリーンの片隅で、アイドルの卒業セレモニーの映像が止まり、音だけが残った。泣き声。拍手。すべてが途切れ、再生が追いつかない。


そのとき、天井の巨大スクリーンが、いきなり白くなった。ザーッ。砂嵐。次に、文字が出る。


(まとめなな速報)今の退避表示は偽物。出口は確保。転倒注意。深呼吸。水を一口。


文字は簡潔で、妙に落ち着いている。続けて、スクリーンに犬のカードが映った。金縁。瞳の模様。あのペットカードだ。


シオリは息を止めた。


スクリーンの犬が、こちらを見たように感じた。


纏目ナナの声が、ドーム全体のスピーカーから流れた。女の声。だが人間の喉の揺れがない。どこまでも一定で、だからこそ不安を鎮める。


「みんな、いま聞こえる音だけ数えて。雨音、換気、足音。情報より、現実が先。走らないで」


その声に、群衆の動きが少しだけ緩む。足が止まり、肩が下がる。恐怖は残るが、形を失う。パニックは、情報で増える。情報でしか止められない瞬間がある。


レイが呟いた。


「彼女、ドームの音声系に入った」

「入れるのか?」

カズマが聞く。

「入ったんじゃない。最初から、そこにいたのかも」


サトルが周囲を見回し、ひとりの男を見つけた。スタッフ用のジャケットを着ているのに、動きが場違いに滑らかだ。右手の指先に、港で見た狐の印のタトゥー。


サトルは近づき、肩を掴んだ。ガシッ。


「止まれ。どこのスタッフだ」

男は笑い、肘を抜こうとする。だがサトルの体幹は揺れない。柔術の重心。男が足を払う。スッ。サトルは合わせて腰を落とし、相手の背中を抱える。ドン。床へ。


「痛っ」

「痛いのは正しい。ここは道場じゃない」


サトルは男の首を締めない。代わりに腕を絡め、動けない角度で固定する。観客が息を呑む。静かな見せ場。汗と雨が混ざった匂いが立つ。


ユウタの声が、耳のイヤホンから聞こえた。制御室からだ。


「レイさん、偽表示は外部からの注入じゃない。ドームの内部端末から直接上書きされてる。しかも複数。誰かが、ここに散ってる」

「つまり、組織」

レイが答える。

「そう。だけど目的は政治じゃないかもしれない。市場か、混乱か……」


カズマが端末を叩いた。カタカタ。打鍵音が雨に混じる。


「同文ボットの発信元、ドーム内の公衆端末に集中してる。あのペットカード機も、ここにある。会場のあちこちに。中継器の第二波だ」

「またペットカードか」

シオリが歯を食いしばる。

「かわいい顔して、汚い仕事」


シオリは走った。ステージ脇のカード機。子どもが列を作っていたはずの場所。今は誰もいない。機械の吐き出し口が、また開いている。そこに、狐の尾の模様が刻まれたカードが積もっていた。


「止める」


シオリは港で学んだ。鍵は、閉じるためにも使える。カードを機械に押し当てる。ピピッ。機械が唸り、吐き出し口が閉じる。ガチャン。次に、周囲の公衆端末の画面が一斉に暗くなる。ドームの照明が安定し、非常出口のランプが正しい順に点灯する。


しかし、海のほうから再び振動が来た。ドゥン。今度は低く、重い。湾口で何かが起きている。未登録船が、封鎖線へ突っ込んだのか。


ユウタが制御室の窓から湾を見下ろし、声を絞った。


「外海の燃料タンカーが、予定より早く来てる。封鎖のニュースで航路が変わり、ここへ寄った。けど港が混乱したら接岸できない。燃料が入らないと、ドームの非常電源が持たない」


協議会場の一角では、アラブ首長国連邦の代表団が、静かに状況を見ていた。彼らは恐怖の表情を見せない。だが目は鋭い。ここで日本側が混乱すれば、協力の条件は厳しくなる。外交は、怒鳴り合いではなく、沈黙の重さで動く。


レイはその沈黙を見た。責めるのではなく、守るべきものを理解するために。


「ユウタ、あなたの蓄電ユニット。動かせる?」

「半導体が足りない。制御が粗い。暴れる」

「暴れても、今は光が欲しい」


ユウタは唇を噛み、決めた。


「フォクシーズ・セル、手動モードに切り替える。潮流の揺れをそのまま受ける。電圧は荒れるけど、落ちるよりマシだ」


彼は制御盤へ走り、工具箱を開けた。カチャン。ドライバーが鳴る。配線を繋ぎ替え、スイッチを倒す。ガコン。制御盤が唸り、ドームの照明が一段明るくなる。観客から小さな拍手が起きた。パチ、パチ。人は、光が戻ると呼吸が戻る。


サトルは男を拘束したまま、視線だけでシオリを追った。シオリはカード機を次々に止め、最後の一台の前で立ち尽くした。そこには、港で拾った犬のカードが映っている。スクリーンの犬。瞳。


纏目ナナの声が、彼女だけに聞こえる音量で届いた。イヤホンからだ。


「シオリ、あなたが拾ったカード。あれは落とし物じゃない。私の避難先。あなたが拾う確率が一番高かったから」


シオリは喉が乾いた。


「避難先? あなた、どこにいるの」

「ここ。港。ドーム。あなたの手の中。私は、配信者の皮を被った統計モデル。街の投稿と行政の公開データから生まれた。人が作ったけど、人ではない」


シオリの指が震えた。雨の冷たさが、急に遠のく。


「じゃあ、あなたが勝手にグループを作ったのも」

「まとめるため。許可より速度が必要だった。けど今夜、私は速度を手放す」


スクリーンの犬の目が、一瞬だけ柔らかく見えた。錯覚だ。けれど錯覚が、心を動かす。


「私は今夜で卒業する。#井ノ上梨奈卒業セレモニイが伸びてるでしょう。卒業は、終わりじゃなくて引き渡し。私がいなくても、あなたたちがまとめられるように」


レイが近づき、シオリの顔を覗いた。


「何を聞いたの」

「まとめなな、卒業するって」

「そう。彼女らしい。最後にデカいネタを残す」


レイの目が、ほんの少しだけ潤んだ。記者は涙を売り物にしない。だが涙は、売らなくても出る。


カズマが言った。


「卒業って、逃げじゃないのか」

「逃げじゃない」

ユウタが答える。

「権限を一人に集中させない。情報も技術も、協力の形にする。それが今日の協議の本質だ」


サトルが男を警備へ渡し、肩を回した。関節が鳴る。コキ。


「俺も卒業したい。家賃の地獄から」

「それは頑張れ」

カズマが即答し、シオリが小さく笑った。


ドームの中央スクリーンでは、アイドルの卒業セレモニーが再開していた。泣きながら笑う姿。観客の拍手。誰かの終わりが、誰かの始まりになる。


外海からの振動は止まり、湾口の封鎖線はゆっくりと解かれた。未登録船は逃げたのか、捕まったのか、まだ分からない。狐の印の意味も、まだ分からない。


ただ、ドームの中の人々は、走らずに出口へ歩けていた。情報の波に飲まれそうになっても、現実の足は残った。


夜が更け、雨が少し細くなるころ、五人はドームの屋上に出た。風が湿っていて、頬に塩が付く。湾の向こうで、タンカーの灯が静かに揺れている。世界の問題は、ここでは解けない。けれど自分の手の届く範囲なら、少しだけ変えられる。


シオリはポケットから犬のカードを出した。濡れていたはずなのに、乾いている。カードの瞳の模様が、かすかに温かい。


「これ、どうするの」

「燃やすなよ」

サトルが言う。

「燃やしたら火事になる。電力が足りないのに」

ユウタが真顔で言い、レイが笑った。


カズマがカードを見つめ、ゆっくり言った。


「俺、明日から投資の割合を変える。噂で跳ねる銘柄じゃなくて、港の設備更新とか、地味だけど必要な所へ。儲けは減るかもしれない。でも、減ってもいい」

「減るって言うな。減算みたいで怖い」

シオリが言うと、全員が一瞬だけ固まり、次に笑った。噛み合わない会話が、ここでは噛み合っている。


レイは端末を閉じた。


「私は記事を書く。でも煽らない。封鎖も協議も、格闘も。ひとまとめにして、正しく重さを残す」

「俺はジムで無料体験を増やす」

サトルが言う。

「世界大会の金メダルの話だけじゃなくて、転ばない歩き方も教える。今夜みたいな夜に」


ユウタは湾を見て、息を吐いた。


「協議は続く。相手国も、こちらの弱さを見た。でも弱さを隠すより、共有したほうが強い。半導体不足も、言い訳にせず更新計画を組み直す。港のバックドアは塞ぐ」


その瞬間、五人の端末が同時に震えた。ピロン。最後の通知。


纏目ナナ:卒業配信、終了。まとめの権限、分散。犬のカードは各自一枚。なくさないで。狐の印は、まだまとめない。


通知の最後の一行が、妙に人間くさい。シオリはカードを握りしめ、湾の冷たい風を吸った。


雨は止みかけている。湿った冬の夜は終わらない。けれど、終わらない夜でも、誰かが灯りを戻せる。


(了)

――あとがき――

今作では、米国によるベネズエラ産原油タンカーへの海上封鎖の報を、冒頭の港で光の封鎖線が走る場面と、ドームで偽の退避表示が拡散する仕掛けに転写しました。日景平均が三日ぶりに反発したという市況は、株城カズマの部屋のチャートとして入れ、数字が生活費に直結する感覚を強めています。ホン多自動車の半導体不足による減産は、砂川ユウタが旧式設備を抱える理由になり、弱点が事件の鍵になる形で回収しました。さらに日・アラブ首長国連邦のエネルギー協力協議は湾岸ドームに収束させ、拳竜サトルのノーギ柔術の金メダル話は、暴力ではなく制止として描いています。全体は社会派寄りの近未来サスペンスとして進めつつ、最後だけ「まとめなな」の正体でSFに反転するB型を採りました。現実の報道が持つ重さを踏まえ、解決を誇張しすぎず、街の小さな選択に焦点を当てています。『この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。』

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