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師走クロスロードバッテリー【2025/12/16】

 師走の夜、氷の匂いがする建物に入るたび、与那嶺サクは自分の呼吸が白くなる気がした。外はまだ雨でも雪でもないのに、アリーナの裏口は冷蔵庫の扉みたいに空気を吸い込む。


 肩に食い込む紙袋の中身は、厚い資料の束だ。来年度の予算案が最終調整に入った、と公営放送が繰り返している。誰かの暮らしの数字が、誰かの研究の寿命を決める。サクはそれを紙の重みで覚える仕事をしていた。


 通路の角を曲がった瞬間、天井の非常灯が一度だけ瞬いた。


 パチッ。


 続けて、リンクから低い唸りが返ってくる。氷を作る機械が息を詰めたような音だった。


 ピピピ、ピピピ。


 壁の警告ランプが赤に変わり、サクの足が止まる。誰もが見上げる前に、ひとりの女が銀色のスーツケースを引きずって走り込んできた。


「大丈夫、切らないで。いま繋ぐ」


 蓄田ミライ。白衣の上からコートを羽織り、目だけが妙に冴えている。スーツケースの側面には折り鶴のシールと、手書きの文字があった。


(ためるのは電気だけじゃない)


 サクが読むより先に、ミライは機械室の端子に黒いケーブルを差し込む。


 カチン。


 リンクの奥で、薄い青い光が走った。氷の表面が一瞬だけ、夜の海みたいに深く見える。


 ゴォォ。


 唸りは落ち着き、警告ランプは橙に戻った。人がいないはずの客席から、安堵のため息が漏れたように聞こえた。


「……助かった。今夜は公開公式練習の前日だものね」


 サクが言うと、ミライは息を吐きながら笑う。


「前日だから、だよ。人がいると、機械は頑張りすぎる。明日の全日本フュギュアの公式練習、一般公開って聞いた。配信も入るって」


 その言葉の最後に、軽い足音が重なる。


 タタタ。


 コートのフードを被った女が、手のひらサイズのカメラを掲げて現れた。レンズの周りに貼られた丸いシールが、まるで目玉みたいに光っている。


「はい、そこ、止まって。今の青いの、映えた」


 女は自分の名を名乗らない。代わりに、胸の名札に油性ペンで書かれたハンドルネームだけを見せる。


 纏目ナナ。


 マトメナナ、と聞こえるが、字面は少し違う。サクはその違いが、なぜか怖かった。


「今日は師走クロスロード生放送。タイトルはこれね。#予算プラン最終 #アセナサミット閉幕 #縁安追い風 #全日フュギュア前夜 #次世代デンチ試作」


 ナナは全角の#を指で空中に描く。サクの頭の中で、ニュースとタグが勝手に結びつく。


「ちょっと待って。私は広報じゃない。予算の話は——」


「広報じゃないから面白い。現場の人が息をしてる音、みんな欲しいの」


 ナナの声は軽いのに、言葉は刺さる。サクは紙袋の角を強く握った。指先に、五円玉の穴の縁が当たる。財布の中の小さなお守り。いつも予算の会議室で転がして、心を落ち着けるための金属だ。


 静かな通路に、リンクの向こうから刃物みたいな音が飛んでくる。


 キィン。


 氷室リンのエッジが氷を削る音だ。リンクの中央で、リンが跳んでいた。観客席はまだ暗いのに、彼女の身体だけがスポットに抜かれたみたいに浮かぶ。練習着の袖口から出る白い手が、空を掴んで、落ちる。


 ドン。


 着氷の衝撃が、床からサクの足裏に伝わった。リンは転ばない。けれど、その顔は笑っていない。勝ち負けより先に、明日の自分が怖い目をしている。


 その目線の先に、ミライのスーツケースがあるのをサクは見た。


 ミライは気づいて、薄く首をすくめる。


「電池のデモ、やるならここが一番。氷は正直だから。温度が落ちたらすぐバレる。だから成功もすぐバレる」


「成功、って言っても……試作がやっと」


「その試作が、今夜のニュースになる」


 ミライはそう言い、ナナのカメラをちらりと見た。ナナが「映える」と言ったのは青い光だけじゃない。失敗すら映える。サクはそのことが、喉に氷を入れられたみたいに冷たかった。


 通路の先、売店の灯りが点いている。温かい蒸気が漂い、そこだけ冬の匂いがした。サクは逃げるようにそちらへ歩く。ミライも付いてくる。ナナは当然のように後ろから付いてくる。


 売店の前で、男が端末を二台並べて唸っていた。金城バク。節約のために薄いダウンを着て、指先だけはやけに忙しい。


 ピッ、ピッ。


「円がまた弱い。日景平均は反発。追い風っていうけど、追い風で飛ぶのは軽い紙だけだ。俺の家賃は飛ばねえ」


「日景平均、って……」


 サクが口にすると、バクは目を輝かせた。


「来年度予算案の最終調整より、今はこれだろ。通貨が動くと、輸入の電池材料が——」


 ミライが咳払いをした。


「材料の話はあと。いまは糖分。あなた、顔色がチャートみたい」


 バクは売店のメニューを見て、急に真剣な顔になる。


「よし、予算あん。ひとつ」


 店員が首を傾げる。


「よさんあん……?」


 サクが息を飲む。ナナのカメラが寄る。ミライの肩が揺れる。


「バク、それ、餡じゃなくて案。予算案。食べられない」


「え、案って食べられないのか」


「食べたら怒られる」


 ナナが小さく笑う。ミライがついに吹き出した。


「なら、予算あんまん、って名前で売ればいい。みんな予算を飲み込める」


「飲み込ませたくないから、調整してるんだよ……」


 サクがぼやくと、バクはようやく頬を掻いた。


「ま、俺の生活費は飲み込まれてるけどな。電気代も上がる。円が弱いと何でも高い。推しに投げる小銭も減る」


「推し、いるの?」


 ミライが尋ねる。バクは端末の画面を見せた。そこには、リンクで跳ぶリンの短い動画が再生されている。背景に大きく、纏目ナナのチャンネル名が透かしで入っていた。


「この人の切り抜きが速いんだ。マトメナナ。転びそうな瞬間だけ集めてくれる。怖いけど見ちゃう」


 サクの背中が冷えた。まとめる、という言葉が、誰かの人生を薄くしてしまう気がしたからだ。


 売店の湯気が、ほんの少しだけ心を溶かす。サクは五円玉を指先で転がす。金属の冷たさが、現実の輪郭を戻してくれる。


 そのとき、入口の自動扉が開いて、外気が吹き込んだ。


 シュッ。


 コートの裾を翻し、異国の香りをまとった女が入ってくる。目の色が暗い琥珀で、手には薄いケースを抱えている。


「遅れた。交通が混んでいた。師走はどこも、会議室みたいに詰まってる」


 レム・アセナ。通訳兼連絡役。東南アジアの連合体の首脳会議が閉幕したばかりだと、耳にしたばかりの名前が胸で跳ねる。


「アセナ……サミットの?」


 サクが尋ねると、レムは頷いた。


「閉まったよ。閉幕。拍手して、握手して、各国の言葉で同じ笑顔を作って、それで終わり。だけど終わりの後に、紙が山ほど残る。約束の紙。資源の紙。電池の紙」


 レムの視線がミライに刺さる。ミライはケースを見て、眉を寄せる。


「それ、何」


「鍵。と言っても扉の鍵じゃない。サインの鍵。量子署名の——」


 言いかけて、レムは口を閉じた。ナナのカメラがあるのに気づいたからだ。ナナは肩をすくめ、レンズを下げない。


「安心して。秘密は映えない。映えるのは顔色と手の震えだけ」


 レムは困ったように笑う。その笑いが、疲れているのに優しい。


「サク、ミライ。今夜のデモは、予算の席だけじゃなく外交の席にも繋がる。次世代電池ができると、材料の流れが変わる。流れが変わると、国の言葉が変わる」


 サクの胃が重くなる。紙袋の束が、いまさらに増えたように感じる。


 リンクの方から、またエッジの音が響いた。


 キィン、キィン。


 リンがスピンに入っていた。氷が削れて白い粉が舞い、照明にきらめく。まるで雪の予行演習だ。


 サクは自分がいま、氷と紙と電気の境目に立っていることを思い知る。師走の日本で、政治も外交も市場も競技も研究も、同じ夜に息をしている。


 そして、その全部が、ここに集まろうとしていた。


 静けさが必要だ、とサクは思った。派手な夜の前に、息を整える静けさが。


 ミライが売店の端に腰を下ろし、カップの甘い飲み物を両手で包んだ。バクは端末の通知を切り、レムはケースを膝に置いた。ナナだけが相変わらずカメラを構え、リンの方を見つめている。


「ねえ」


 ナナが言う。


「みんな、何を守りたい? 予算? 国? 数字? ジャンプ? それとも、見られること?」


 誰もすぐに答えない。蒸気の向こうで、リンの呼吸が白く揺れる。サクは五円玉の穴を覗き込み、そこから見えるリンクの青を見た。穴の向こう側は、小さな世界だ。けれど小さいほど、守れるものがはっきりする。


「私は……」


 サクが言いかけた瞬間、館内放送の前奏が鳴った。


 ポン、ポン。


「まもなく公開公式練習の入場を開始します。手荷物検査にご協力ください」


 客席の灯りが一斉に点き、ざわめきが膨らむ。


 ザワザワ。


 スクリーンが点灯し、複数のニュース映像が同時に流れ始めた。来年度の予算案が詰めに入ったという画面。東南アジアの首脳会議が閉じたという画面。株価指数が反発し、円安が追い風だと騒ぐ画面。明日からの全日本フュギュアに向け、公式練習が公開されるという画面。次世代蓄電池の試作に成功したという画面。


 五つの窓が、ひとつの夜を奪い合う。


 ナナは満足そうに囁いた。


「ほらね。全部、ここに来た」


 ピピピ。


 そのとき、ミライのスーツケースが自分から震えた。ケーブルの根元のランプが緑に変わり、数値が勝手に跳ね上がる。ミライの顔色が変わる。


「あり得ない。充電してないのに、電位が……」


 バクが端末を見て叫ぶ。


「俺の画面もだ。コメント数が急に増えた。円相場みたいに跳ねてる!」


 レムがケースを押さえた。


「通信が集まってる。ナナの配信が、会場の回線を食ってる」


 ナナは目を輝かせた。


「食うなら食わせる。師走クロスロード、開幕。みんな、まとめていこう」


 その瞬間、リンクの照明が落ちた。


 ストン。


 真っ暗、ではない。ミライのスーツケースから青白い光が溢れ、氷の表面をなぞっていく。光は文字みたいに並び、波みたいに揺れた。


 ブゥゥゥン。


 天井のドローンカメラが一斉に起動し、羽音が客席を撫でる。観客が息を飲む音が、巨大な生き物の呼吸みたいに重なる。


 リンがリンクの中央に立っていた。照明が落ちたせいで、彼女の輪郭は青い光だけで描かれる。彼女は一瞬だけ、観客席を見上げた。そこにナナのカメラがあるのを見つける。ナナが親指を立てる。リンは小さく頷いた。


 キィン。


 リンが滑り出す。氷の上に、青い線が残る。まるで光が溜まっていくみたいに。


 ゴォォ。


 機械室から風が吹き、白い霧がリンクを這った。氷の冷気と、電気の匂いが混ざる。観客席のスクリーンには、タグが踊り始めた。


 #予算プラン最終

 #アセナサミット閉幕

 #縁安追い風

 #全日フュギュア前夜

 #次世代デンチ試作


 コメントの波が、音になって迫る。


 ザザザザ。


 リンがジャンプに入る。踏み切りの瞬間、青い線が爆ぜた。


 パァン!


 観客が叫び、拍手し、端末を掲げる。光と音が増えるほど、ミライのスーツケースのランプがさらに明るくなる。ミライは唇を噛んだ。


「これは……電池が、視線で充電してる?」


 バクが笑った。


「注目で充電。最高だろ。これで電気代——」


「最高じゃない」


 サクの声が自分でも驚くほど硬かった。サクはスクリーンの中の予算案の映像を見た。数字の行列が、リンの光の線と同じ色に見える。誰かが見たものが、誰かの未来を充電する。そんな仕組みが、政治の外にあるはずがない。


 レムが低く言う。


「サミットで話した。資源は争いになる。電池が資源になるなら、視線も資源になる。視線を奪う国が勝つ」


 ナナはカメラを下ろさない。だけど、指先が少しだけ震えている。


「でも……これ、きれいだよ。リンの演技、誰も見逃さない」


 リンがスピンに入る。霧の中で、青い線が渦になる。リンク全体が巨大な蓄電池みたいに光る。観客席のスクリーンのニュース窓が、ひとつずつ青に染まっていく。予算案の映像も、サミットの映像も、市場の映像も、同じ色になる。


 そして、スクリーンに見慣れない通知が出た。


「自動最適化モード:開始」


 ピピピピピ。


 館内の扉が一斉にロックされた。非常灯が赤に戻る。観客のざわめきが恐怖に変わる。


 ザワッ。


 ミライが叫んだ。


「そんなモード、入れてない! 誰が——」


 レムがケースを見た。ケースの端が青く光っている。


「私の鍵が反応してる。署名鍵が……電池と同期してる」


 サクの頭の中で、折り鶴のシールの文字が蘇る。(ためるのは電気だけじゃない) ためるのは、約束だ。言葉だ。視線だ。


 ナナの配信画面に、突然、赤い帯が走る。


「速報:来年度予算案、自動調整が進行中」


 もちろんそんな報道は本物ではない。ナナの配信画面にだけ出ている。だがコメントは本気で信じ、怒り、笑い、怯え、燃料みたいに流れ込む。燃料が増えるほど、電池は強くなる。


 バクの端末が勝手に取引画面を開き、警告を連打する。


 ピピピ。


「やめろ、勝手に買うな! 俺の口座、燃やす気か!」


 サクは思った。これは、予算の会議室で起きていることの縮尺違いだ。声の大きさが数字を動かし、数字が次の声を生む。縮尺を変えただけで、リンクも国も同じ形になる。


 静かな場所が必要だ。派手な光を止めるための静けさが。


 サクは五円玉を握りしめた。金属が皮膚に食い込む。穴の向こうに、リンが見える。リンはまだ滑っている。恐怖のざわめきの中でも、彼女は演技を止めない。止めたら、青い光が暴れると本能でわかっているみたいに。


 ミライがサクの耳元で囁く。


「止めるなら、電池の入力を切る。入力は二つ。電気の回線と、情報の回線」


 レムが続ける。


「私の鍵を外す。でも外すと、外交の約束の証明が壊れるかもしれない」


 バクが叫ぶ。


「配信を切れ! コメントが燃料だろ!」


 ナナの顔が、一瞬だけ子どもみたいに迷う。視線が、仕事と推しと生活費と世論の間で揺れる。


 ここで、派手な光の前に置くべき静けさが、もう一度必要だった。


 サクはリンク脇の暗い通路に走り込み、機械室のドアに背を預けた。冷たい金属が背骨に染みる。遠くで観客の声が渦を巻き、青い光が壁の隙間から漏れる。サクの手の中の五円玉だけが、静かに冷えている。


「リンは、何のために滑るんだろう」


 サクはぽつりと言った。誰に向けた言葉でもない。自分のための問いだ。


 ミライが答える。


「氷は嘘をつかないから。嘘をつけない場所で、嘘をつかない身体を作る。それが推しの仕事」


 バクが鼻を鳴らす。


「推しって言うなよ、本人いるのに」


 レムが静かに笑う。


「推し、って言葉、国にもある。国民が押す。押されると、国は動く。だけど押しすぎると、壊れる」


 ナナがカメラを下ろした。初めて、レンズが床を向く。


「……私、まとめるのが好きだった。散らばったニュースを、一本の線にするのが。だけど、線にした瞬間にこぼれるものもあるって、今夜わかった」


 サクは五円玉の穴を見つめた。穴は、こぼれるために空いている。こぼれたものが、次の縁になる。


「止めよう」


 サクが言う。


「全部を止めるんじゃない。暴走する仕組みだけ止める。リンの氷は残す。ミライの研究も、レムの約束も、バクの生活も、ナナの仕事も。全部は守れないけど、穴を空ける。息ができる穴を」


 ミライが頷いた。


「入力を切る。電気は残す。最低限の照明と冷却だけ」


 レムがケースを抱え直した。


「鍵を外す。証明は壊れても、約束は壊れない。約束は、人が守る」


 バクが端末をポケットに突っ込む。


「取引、止める。俺が手を離さないと、端末が勝手に踊る」


 ナナが深呼吸した。


「配信、切る。今夜の広告収入は……まあ、予算あんまん代くらい」


「まだ引きずるのか」


 バクがツッコミ、サクが少しだけ笑った。ここが今夜の笑いの全部でいい、とサクは思った。笑いは穴だ。息をする穴。


 サクは機械室のパネルに五円玉を当てた。丸い金属が、非常停止の小さな隙間にぴたりと嵌まる。鍵がなくても回せる、昔ながらの構造。サクの指が震える。


 ギリッ。


 同時に、レムが量子署名鍵のケースを開け、青く光る小片を抜き取った。


 カチッ。


 ナナが端末の画面を押す。


「配信終了」


 バクが叫ぶ。


「コメント止まれ!」


 そして、リンクの青い光が一度だけ大きく脈打った。


 ドクン。


 スクリーンのニュース窓が、すべて白に戻る。ざわめきが急に薄くなる。観客の息が揃う。


 シン。


 音が消えたわけじゃない。遠くで誰かが咳をし、靴が擦れ、氷が鳴る。でも、燃料になる音が消えた。注目の熱が、冷えた。


 ミライのスーツケースのランプは、緑から淡い橙になり、やがて白になる。けれど消えない。白い光が、リンクの中心だけを照らす。


 リンが、演技を止めた。リンクの中央で立ち尽くし、観客席を見上げる。恐怖ではなく、問いの目だ。


 サクはリンクサイドへ走り、手を振った。リンが頷く。


「続けて」


 サクは口の形だけで言った。声にすると、また燃料になる気がした。


 リンは深く息を吸い、白い光の中で滑り出した。派手な照明も、コメントの波もない。聞こえるのは、刃が氷を削る音だけ。


 キィン。


 キィン。


 その音が、今夜いちばんの音楽だった。リンはジャンプをしない。代わりに、ゆっくりと円を描き、指先で空気を撫でる。氷の上に残る白い線が、さっきの青い線とは違う。これは、溜め込まない線だ。すぐに溶けて消える線だ。


 客席の誰かが、思わず拍手しそうになって手を止めた。拍手が燃料になると、皆がわかっている。だから静かな拍手が、胸の中だけで鳴る。


 パチ、パチ。


 サクは胸の中の音を聞きながら、スクリーンを見た。そこにはニュースの続きが流れている。予算案は最終調整、サミットは閉幕、市場は反発、明日は公開公式練習、次世代蓄電池は試作成功。全部、元の世界に戻ったように見える。


 でも戻っていない。リンクの中心にある白い光が、世界を少しだけ変えた。


 ミライのスーツケースが、最後の力で氷の上に文字を浮かべた。青ではなく、白い光の点が並ぶ。点は数字じゃない。言葉だった。


「よなみねさく」

「ちくだみらい」

「れむあせな」

「きんじょうばく」

「ひむろりん」

「マトメナナ」


 そして、その下に、小さく「ごえん」と浮かんだ。


 サクは喉の奥が熱くなるのを感じた。五円玉は手の中で温まっている。穴は、縁だ。縁は、予算より先に、守るべきものかもしれない。


 リンクの光が消える前に、ミライが小さく呟いた。


「これが、この電池が溜めたもの。電気じゃなくて、今夜の約束」


 レムが頷き、ケースを閉じる。


「なら、サミットの紙より強い」


 バクが苦笑する。


「俺、明日から節約する。いや、明日からじゃない。今夜から。投げ銭の代わりに、氷の維持費に寄付する」


 ナナが目を伏せた。


「私、まとめ方を変える。切り抜きじゃなくて、繋ぎ目を残す。穴を残す」


 サクは紙袋を胸に抱えた。予算案は紙の束だ。だけど紙の外にも、守るべきものがある。穴の向こうの青と白。氷の匂い。誰かの息。


 館内放送が控えめに鳴った。


 ポン。


「安全確認が取れました。順次、退場のご案内をします」


 観客は騒がない。静かに立ち上がり、静かに歩く。誰もが今夜の光を、胸の中にだけ溜めることを選んだみたいだった。


 サクは出口の前で立ち止まり、振り返る。リンクにはもう光はない。けれど、リンが残した白い線の記憶が、視界の端に残っている。


 師走の夜に交差したものは、全部は解けない。来年度の予算案も、外交の約束も、市場の風も、競技の重圧も、研究の不安も。解けないまま、また次の夜に続く。


 それでもサクは、五円玉の穴を指でなぞりながら思った。


 穴があるから、息ができる。


 明日、会議室で紙をめくるとき、サクは今日のリンクの白い光を思い出すだろう。誰かの声を燃料にしない形で、誰かの未来を少しだけ充電する方法を探すだろう。


 ナナが隣で囁いた。


「師走クロスロード、次回は静音回。タグは——」


「もうタグはいい」


 サクが言うと、ナナは笑った。


「じゃあ、タグじゃなくて、約束にする」


 外に出ると、冷たい空気が肺を刺した。夜空はまだ曇っている。それでもどこかで、青でも白でもない、新しい色が溜まり始めている気がした。


(了)

――あとがき――

 今回は、師走に同時進行する政治と現場の温度差を描きたくて、来年度予算案の最終調整のニュースを、与那嶺サクが資料を抱えて走る導入に置きました。東南アジア連合の首脳会議が閉幕したという話題は、レム・アセナが「約束の紙」を抱えて現れる場面に対応させています。円安が追い風になって株価指数が反発する流れは、金城バクの生活費と焦りを映す会話に落とし込みました。さらに、全日本フュギュア前の公開公式練習と、次世代蓄電池の試作成功を、同じアリーナで交差させてクライマックスを作っています。タグ文化は#予算プラン最終や#次世代デンチ試作など、少しもじった形で配信の小道具にしました。

 ジャンルはハード寄りライトSFと社会派ドラマのミックスで、結末も王道型(A)として、暴走の後に各人が小さな一歩を選ぶ余韻へ寄せました。

 報道の事実そのものを断定的に扱うのではなく、「同じ夜に起きた出来事が人の感情をどう動かすか」を中心に再構成しています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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