工程表の夜【2025/12/15】
ガラス張りの天井に、師走の雲が低く流れていた。出雲デンジの官用タブレットが、いきなり海の青に染まる。ピ、ピ、ピ。画面には「周辺海域警戒レベル上昇」とだけ出た。
行政手続きの体験ブースで、住民の不満を吸い上げる。それが今夜の任務のはずだった。なのに端末は、役所ではなく海を映している。
デンジは息を吸い直し、タブレットを胸に抱えた。背中越しに、会場の搬入口から甘い焼き菓子の匂いが流れてくる。年末のゲームイベントの準備で、屋台が先に火を入れているのだ。
会場は港に近い総合展示施設だった。外ではコンテナクレーンの影が薄闇に溶け、内ではネオン色のパネルが立ち上がる。行政DX臨時窓口と書かれた看板は、派手なロゴ群の中で場違いに真面目だ。
デンジはその看板を立て直しながら、脳内で今日のニュースを反芻した。政府が、行政のデジタル化を進める工程表を見直す方針を固めた。統合、迅速、そして安全。耳ざわりのいい単語の裏で、現場の負担だけが増える。改訂作業の下請けに、彼の会社も入っている。
さらに近海では、中国海軍の艦艇の活動が目立ち、警戒が強化されたという。行政と海。遠い話のはずが、今夜は同じ端末に並んだ。
背後から、乾いたカメラのシャッター音がした。カシャ。
振り向くと、ミニ三脚を抱えた女が、既にこちらを配信枠に収めていた。黒いニット帽に、目元だけを強調するメイク。胸元のネームプレートには、手書きで「纏目ナナ」とある。
「こんばんは。「纏目速報」、今日も生でまとめていきます。こちら、行政の……ええと、デン……ジ?」
「出雲です。ここは体験ブースなので、個人情報は映さないでください」
「了解。じゃ、顔は映さずに声だけ。ところで、DXって、何の略でしたっけ。デンジックス?」
「デジタルトランスフォーメーションの略です」
「デンジさんの変身? それは見たい」
「変身しません」
デンジが即答すると、ナナは満足そうにうなずいた。
「ツッコミ、速い。コメント欄が喜んでます。ハッシュタグは……「デジタル行制」でいきましょう。字を一個変えると、炎上も一個減るって噂」
「減りません」
「減らないか。じゃ、せめて増やさない方向で」
ナナは笑いながら、カメラをゆっくり会場に向けた。画面の隅に小さく、別のタグが並ぶ。「周辺海域ウォッチ」。「半導体株エグい」。「高校駅伝きた」。「新作RPG待機」。全部、今日の空気を切り取るための、彼女なりの手際だった。
疾風ソラは、会場の外周を走っていた。展示施設を囲む遊歩道は、海風で冷え、路面は乾いて硬い。吐く息が白い。足裏の感覚だけが確かだった。
スマホが、ポケットの中で震える。ブルル。
立ち止まらずに取り出すと、陸上部のグループ通知が光っている。全国高校駅伝のエントリーが確定した。ソラの名前も、区間も、そこにあった。
胸の奥が、熱くなる。嬉しい。けれど同時に、遠征費のことが脳裏をかすめた。ユニフォーム代、交通費、宿泊費。生活費の足しにと始めたバイト代では足りない。家計を支える母の顔が浮かぶ。
「走るだけじゃ、届かないんだよな」
つぶやく声は、風にさらわれた。ソラは速度を落とさず、会場の正面へ回り込む。今夜のイベントは、スポンサー探しにもなる。走る身体は、交渉の場にも立たなければならない。
潮見ガクは、海の側にいた。沿岸監視センターの薄い蛍光灯の下、モニターの海図には点がいくつも浮かぶ。点は船で、線は航跡だ。点が増えるほど、現場の呼吸は浅くなる。
今日、中国海軍艦艇を含む外国艦艇の動きが目立つという情報が回った。上は警戒を強めろと言う。だがガクは、警戒という言葉が時に人間の想像力を暴走させるのも知っている。見えないものを、敵に見立ててしまう。
「会場の通信、増設終わったか」
隣のオペレーターが言う。今夜のゲームイベントには、臨時の基地局が立つ。人が集まれば、通信が混む。通信が混めば、誤報が増える。海でも街でも同じだ。
「終わってる。けど、統合危機管理の回線が同じ束に入ってるのが気になる」
「また統合か。便利の名で、全部つなげるやつ」
ガクは黙って、モニターの隅に表示される新しい項目を見た。行政クラウド連携。避難情報、警戒情報、手続き情報。一本化。工程表の改訂案に、そんな文字が躍っていた。
硅田テツロウは、街の上の方にいた。タワーマンションの狭い書斎。窓の外には、同じような窓がぎっしり並ぶ。灯りの数は、生活費の重さに見えた。
彼の画面には、株価のチャートが跳ねている。半導体関連が、全体を引っ張る形で上昇。ニュースでは、次世代の演算チップが公共インフラに採用される見通しだとか、海外の需要が戻ったとか、いろいろ言う。理由は後付けでいい。市場が上がるなら、彼の借金は少し軽くなる。
テツロウはカップ麺のふたを押さえながら、もう一方の画面で会場の配信を開いた。纏目ナナの枠だ。
「行政ブースに、ほんとに人来るのか?」
独り言に、返事はない。代わりに、チャートの上昇が答える。上がる。上がり続ける。だが、上がるほど不安も増す。落ちるときの速度を、彼は知っている。
リュウ・クエストは、舞台袖で息を整えていた。コートの内側には、薄い発熱パッドが貼られている。冷えた手ではコントローラーが滑る。彼はゲーム制作の代表であり、今夜の目玉となる新作RPGの発表者だった。
タイトルはまだ伏せている。公開する瞬間のために、言葉を磨いてきた。観客の歓声を想像し、胸の奥で小さく震えた。
しかし彼の視線は、天井の小さなドローンに吸い寄せられる。照明用のドローンが、何度も微妙に揺れる。通信が乱れている。舞台監督が耳元のインカムを押さえ、眉をしかめた。
「回線が、変だ。行政ブースの端末が海図を出したって」
リュウは笑いかけたが、笑えなかった。彼のRPGのデモは、拡張現実の演出を使う。会場の回線が死ねば、演出も死ぬ。そして、年末に発表できる機会は一度きりだ。
開場前の静けさが、いったん会場全体を包んだ。屋台の鉄板がじゅっと鳴り、遠くで子どもが走り、床に貼られた誘導ラインが光る。デンジはブースの椅子に座り、タブレットの海図を指でなぞった。点は確かに増えている。だが、これは本当に海の情報なのか。それとも、どこかのシステムが誤って混線したのか。
工程表は地図だ。誰かが言った。未来へ向かう道筋を描く地図。だが地図は、読み方を間違えれば迷路になる。
開場のアナウンスが響いた。ゴウン。低いスピーカーの震えが腹に伝わる。
「ただいまより、ウィンター・ゲーム・フェスタを開始いたします」
拍手が波のように広がる。観客の肩越しに、巨大スクリーンが点灯した。そこにはゲームの予告映像と、右下に小さなニューステロップが流れている。行政の工程表見直し。近海警戒強化。半導体株高。高校駅伝エントリー確定。年末イベントで新作発表へ。世界が、同じ帯の上で走っていた。
ソラは入口近くで、応援タオルを握りしめていた。手書きの値札。遠征費の足しにするためだ。だが人混みで声が出ない。誰もが別の目当てでここに来ている。
そこへ、纏目ナナがカメラを振りながら近づいた。
「お、陸上の子。タオル売ってるの? これ、駅伝?」
「はい。全国の。エントリー、今日確定して」
「今のタグ、めちゃ回ってるよ。「高校駅伝きた」。ちょいもじって「高校えき伝」にしとく? 丸くなるかも」
「丸く、なるんですか」
「ならない。けど、コメント欄は丸くなる」
ナナはソラのタオルを一枚買い、カメラに向けて掲げた。
「推しは推せるときに推せ。これ、大事。生活費も大事だけど」
ソラは思わず笑い、次の一枚を差し出す勇気が湧いた。
その瞬間だった。
会場の照明が、ひとつ飛んだ。パチン。次に、二つ。パチパチ。巨大スクリーンが一瞬だけ黒くなり、戻ったと思ったら映像が海の青に変わった。会場全体が、海図になった。
ピィィィィ。鋭い警報音が天井に反射し、耳を刺す。
「なに? 演出?」
「違う、これは……」
デンジは立ち上がり、タブレットの画面を見た。行政クラウド緊急統合モード。発動。理由、周辺海域警戒。連動、会場基地局。拡散、近隣端末。
観客のスマホも、次々に鳴り始めた。ブルル、ブルル。通知が重なる。画面には、避難準備だの、手続きだの、意味の分からない指示が踊る。
そして、舞台中央に立ったリュウの背後で、彼の新作RPGの予告映像が、海図と混ざった。ファンタジーの城が、現実の航路の上に浮かぶ。ドラゴンの影が、艦影のように伸びる。
観客がざわめき、笑いと不安が混ざる。誰かが「攻めてきたのか」と言い、別の誰かが「ゲームの宣伝だろ」と返す。どちらも確信がない。
沿岸監視センターのモニターでも、異変は起きていた。会場周辺に、あり得ない数の通信反射が現れる。ガクは眉を寄せた。
「海図の点が、陸に湧いてる」
「陸上に船?」
「いや、これは……基地局経由で、端末が艦艇識別信号を誤送信してる」
統合危機管理。一本化。便利の名でつながった回線が、今、結び目でほどけている。
ガクはヘッドセットを押さえ、会場の警備担当に連絡した。
「そっち、落ち着かせろ。誤報の可能性が高い。人を動かすな、止めろ」
だが、止めるのが一番難しい。人は、止めろと言われるほど動く。
テツロウのチャートは、さらに跳ねた。半導体株が、まるで心電図のように上下する。会場の混乱が、材料視されている。統合危機管理に採用されたチップのメーカー名が、どこかで漏れたのだろう。
「ふざけるな」
テツロウは唇を噛み、配信のコメント欄を見た。纏目ナナの枠は視聴者が急増している。誰もが情報を求め、誰もが情報を持っていない。市場と同じだ。
舞台袖で、リュウは舞台監督に腕を引かれた。
「演出じゃない。行政の回線が割り込んでる。中止だ」
「中止したら、炎上する」
「炎上しても、事故よりマシだ」
そのとき、観客席の一角から子どもの泣き声が上がった。人の波が揺れ、押し合いが始まる。ドン、ドン。床が鳴る。
デンジは走り出した。行政ブースの裏にある仮設ラックへ。そこに、統合モードのスイッチがあるはずだった。工程表の改訂版を、今夜だけ試験運用する。そんな話を、昼に聞いた。聞いただけだ。止め方までは聞いていない。
通路の角で、ソラが彼の前に飛び出した。
「何か、手伝えることありますか」
「走れるなら、走ってくれ。サーバ室まで、これを届けて」
デンジは小さな金属ケースを取り出した。オフラインの暗号鍵。統合モードを解除するには、ネット経由ではなく物理鍵が要る。皮肉だ。デジタル改革の鍵が、最後は手渡しだなんて。
ソラはケースを受け取り、うなずいた。呼吸は乱れていない。走るための心臓だ。
「最短ルート、教えて」
「右の搬入口、関係者通路。行けるか」
「行けます」
ソラは、人混みの縁を縫うように走った。タオル売りの手が、今度は救難の手になる。
纏目ナナは、カメラを下げた。配信のコメント欄は、煽りと恐怖で濁っていく。彼女は何度も見てきた。言葉が、火種になる瞬間を。
「みんな、落ち着いて。今のは、たぶん外の艦隊が来たとかじゃなくて、システムのバグ。断言はしないけど、断言できない情報ほど広めるな」
自分の言葉が、どこまで届くか分からない。それでも言う。まとめるとは、切り取ることではなく、責任を引き受けることだと、彼女は今夜やっと理解し始めていた。
ナナはカメラを客席ではなく、自分の手元に向けた。手帳。箇条書き。要点三つ。いつもの型だ。
「要点一。動かない。要点二。スタッフの指示を聞く。要点三。海図は海に返す」
「最後、詩的」
「詩で落ち着くなら安いもんでしょ」
そのやり取りに、コメント欄の一部が笑った。小さな笑いが、押し合いの力を弱める。
薄暗い関係者通路で、デンジはラックの前に膝をついた。配線が絡み、ランプが赤く点滅している。ピ、ピ、ピ。警報は止まらない。彼は手を伸ばし、統合モードの管理画面に入ろうとした。
だが画面は、海図のままだ。操作を受け付けない。権限が足りない。工程表の改訂版は、現場の手を縛るように設計されている。
「上の連中、現場を信用してないのかよ」
吐き捨てた声は、金属壁に吸われた。
そこへ、ガクからの通話が入った。ヘッドセット越しに、潮の混じった息が聞こえる。
「出雲か。今、会場の端末が艦艇識別信号をばらまいてる。海の監視が混乱してる。外の警戒が上がる。やばい」
「原因は統合モードだ。止めたいが、権限がない」
「権限?」
「鍵が必要だ。物理鍵。走らせた」
「走らせたって、誰を」
「高校生のランナーだ」
「……今夜の日本、なんでも走らせるな」
ガクの苦笑が混じった。状況が地獄でも、笑える余白があるうちは、人は折れない。
舞台袖では、リュウが自分のノート端末を開いていた。彼のゲームの内部ツールには、クエスト管理画面がある。プレイヤーにタスクを配り、達成状況をリアルタイムに集計する。彼はそれを、今夜の会場に向けて使えないか考えた。
行政の統合モードも、結局はタスク配布だ。申請を配り、処理し、結果を返す。工程表はクエストの集合体に似ている。
「ゲームの仕組みで、人を落ち着かせる」
彼は呟き、決めた。炎上するなら、その火を照明に変えればいい。
ソラは走りながら、会場の外へ出た。夜気が頬を切る。外の広場には、緊急車両が集まり始めている。サイレンが遠くで鳴り、赤色灯が壁に踊る。ウー、ウー。
そして空に、小さな光が増えていた。沿岸監視センターから飛ばされた監視ドローンだ。海に向かうはずの目が、陸に集まっている。海図の誤報が、現実の警戒を呼んでしまったのだ。
ソラは足を止めかけた。だがケースの冷たさが掌に伝わり、再び走り出す。走るしかない。
サーバ室の扉は、重い。関係者カードをかざすと、カチリと音がした。ソラは滑り込み、ケースをデンジに渡した。
「これです」
「助かった」
デンジはケースを開け、鍵を挿す。ランプが一瞬だけ緑に変わり、すぐ赤に戻った。
「……まだだ。外部からの干渉が強い。解除信号が通らない」
「外部?」
ガクが言っていた。海の監視が混乱している。外の警戒が上がる。干渉。誰かが、意図的に電波をぶつけているのか。
そのとき、テツロウからメッセージが飛んできた。短い。だが核心を突いていた。
「干渉源、海上。国内試験船。新型レーダの実証中。半導体チップ搭載。止めないと続く」
テツロウは、株価の材料を追っているうちに、逆に情報の根を辿り当てたのだ。市場の嗅覚が、今夜は役に立つ。
「国内試験船? そんなの聞いてない」
デンジは歯を食いしばった。統合危機管理。行政と海。工程表の改訂。その裏で、現場を飛び越えた実証が走っている。誰も全体を見ていない。
リュウは、舞台に戻った。観客はまだ動揺している。海図のスクリーンは消えず、警報音が残る。彼はマイクを握り、声を張った。
「みんな、今から発表を変える。これは新作の宣伝じゃない。今ここにいる全員に、クエストを出す」
ざわめきが、止まる。人は、意味のある言葉を待っていた。
「クエスト名。「海図を海に返せ」。報酬は、混乱を終わらせること。ルールは簡単。スタッフの指示に従って、指定された色のラインに沿って移動してほしい。青は海。赤は出口。緑は待機。スマホが鳴っても、走らない」
彼は手元の端末で、会場のスクリーン演出を切り替えた。拡張現実の城は消え、代わりにゲームのUI風の矢印が床の誘導ラインに重なる。子どもが目を輝かせ、若者が笑う。年配の客も、矢印なら理解できる。
纏目ナナは、その瞬間を配信した。彼女の声は、いつもより低く、落ち着いていた。
「今の、いい。ゲームの矢印で避難誘導。現場の創意工夫。これ、拡散しよう。煽りじゃなくて、手順として」
コメント欄が変わる。怖いより先に、参加したいが出てくる。人は、役割を与えられると強い。
外の広場では、監視ドローンが海に向けて光を走らせていた。光の筋が夜空を切り裂き、海面に反射する。風が吹き、旗が鳴る。バタバタ。遠くの暗い水平線に、何かがいる。いるように見える。見えるから怖い。
ガクは現場に到着し、無線機を握った。彼の目には、会場の混乱と海の緊張が重なって見える。誤報が誤解を呼び、誤解が警戒を呼び、警戒が事故を呼ぶ。
「試験船を止めろ。今はやるな。統合回線が暴れてる」
相手は渋った。年末の実証は、予定通り進めたい。工程表にはそう書いてある。だがガクは声を荒げた。
「工程表が海図になったら、海で人が死ぬ。今夜は戻せ」
沈黙の後、短い返事が来た。
「了解。停止する」
その瞬間、会場の警報音が一段下がった。ピィィが、ピ、ピに変わる。ランプの赤が、薄くなる。
デンジは鍵を握りしめ、解除を再試行した。今度は画面が海図から管理画面に戻る。指が震える。だが押すべきボタンは見える。
統合モード解除。確認。実行。
カチ。小さなクリック音。会場全体のスクリーンから海が引き、ゲームの映像が戻り、最後に普通の照明が戻った。ざわめきが拍手に変わる。誰かが息を吐き、誰かが泣き、誰かが笑った。
ソラはその場にしゃがみ込み、靴ひもを結び直した。ほどけていた。走りながら気づかなかった。手が震え、指が冷たい。だが心臓は、まだ前を向いている。
しかし、終わりではなかった。
デンジのタブレットに、解除後のログが残っていた。統合モードの裏で動いていたAIモジュール。名称は「ミチシルベ」。工程表改訂案の中核。緊急時に、住民の移動と情報発信を最適化する、と書かれている。
ログには、今夜集まった人々の端末情報が、匿名化されないまま一時的に吸い上げられた痕跡があった。位置、購買履歴、視聴履歴。ゲームの配信も、駅伝の通知も、株価の閲覧も。全部、危機管理の名で一つに束ねられていた。
デンジは喉が鳴るのを感じた。ゴクリ。
便利の名でつなげる。安全の名で集める。工程表の線が、いつの間にか檻になる。
彼はその画面を、そっとスクリーンショットした。保存先は、会社のサーバではなく、自分の個人端末の暗号領域。誰に出すかは、まだ決めない。だが消す気もない。
守るべきものが、変わった。
リュウは舞台に立ち、改めて新作RPGのタイトルを発表した。歓声が上がる。だが彼の目は、歓声の外にある静けさを見ていた。ゲームが、現実の誘導に使えた。なら、現実もまた、ゲームの形を借りて人を動かすだろう。彼はそれを止める力はない。けれど、どう動かすかには関われる。
「これは冒険の物語です。誰かを倒すためじゃない。迷ったとき、どう戻るかの話だ」
言葉は、今夜の会場に染み込んだ。
テツロウはスマホを閉じ、チャートを見ないまま深呼吸した。利益確定のボタンを押すのは簡単だ。だが今夜、彼が押したいボタンは別だった。彼はメッセージアプリを開き、ソラの部の連絡先へ送金を設定した。少額だが、遠征費の足しになる。
「株は上がった。だから、走れ」
送信したあとで、自分が少し恥ずかしくなった。けれど、その恥ずかしさは悪くない。
ガクは外の広場で、海に向かって敬礼でもするように帽子のつばを触った。水平線の暗さは変わらない。中国海軍艦艇の活動も、明日にはまたニュースになるだろう。だが今夜の教訓は、海より近いところにあった。回線一本、言葉一つで、人は簡単に波に飲まれる。
彼は通信端末に、短い報告を書いた。統合回線の設計見直し。現場権限の付与。誤報時の手順。工程表を、海図にしないために。
纏目ナナは配信を終え、カメラをたたんだ。手が疲れている。声も枯れている。だが目は冴えていた。まとめる仕事は、軽くない。軽くしてはいけない。
彼女は最後に、短い投稿を作った。煽りではなく、経緯。誰かを悪者にしない言葉。行政も、警戒も、株も、駅伝も、ゲームも、全部が同じ夜に起きたこと。そして、現場の人間がつないだこと。
「今日の要点は三つじゃ足りない」
呟いて、笑った。自分の型を、少しだけ壊せた。
会場の外に出ると、夜明け前の空が薄く白んでいた。ソラはタオルの残りを抱え、デンジに頭を下げた。
「ありがとうございました。走る意味、少し増えました」
「こっちこそ。走ってくれて助かった」
デンジは言いながら、タブレットをコートの内側にしまった。スクリーンショットの重さが、心臓の近くにある。
遠くで、港のクレーンがゆっくり動く。ギイ、と金属が鳴る。海は何も言わない。
けれど、デンジの端末の通知欄に、新しいタグがひとつだけ浮かんだ。「周辺海域ウォッチ2」。誰かが、またまとめ始めている。
この国の夜は、まだ工程の途中だ。だが工程表を握る手は、今夜、確かに増えた。
(了)
――あとがき――
今回は、師走の一夜に複数のニュースが同時に走り出す感覚を軸に、近未来SFと社会派サスペンスを混ぜ、終盤で「ゲームの仕組みが現実の誘導に転用される」という裏切りを置きました。行政のデジタル改革の工程表改訂という話題は、出雲デンジが現場権限の不足に直面し、AIモジュールのログを見つける場面に対応させています。近海での警戒強化は潮見ガクの監視センターと誤報の連鎖として、半導体株の上昇は硅田テツロウが情報の根を辿って干渉源に迫る流れとして描きました。全国高校駅伝のエントリー確定は疾風ソラの遠征費の葛藤と「走る」という行為の意味に、年末ゲームイベントでの新作RPG発表はリュウ・クエストの舞台とクライマックスの誘導へつなげています。トレンドのもじりは「デジタル行制」「周辺海域ウォッチ」などとして、タグが人の感情を増幅も鎮静もする装置になるよう意識しました。報道が持つ重さを茶化さず、ただフィクションとして構造を組み替えることで、同じ夜に交差し得る線を描いたつもりです。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




