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冬灯スタジオ、影のあとで【2025/12/09】

 モニターの中で、赤い線が急角度で右下に折れ曲がった。

 

桜庭リオは、まだ冷え切ったスタジオの照明を一つずつ点けながら、壁一面の画面を見上げた。国内総生産が秋の三か月で年率マイナス二・三%に下方修正、という文字が、暗闇の中でやけに白く浮かぶ。

 

隣の画面には、子どもの頭皮を拡大した映像が映っている。白い小さな虫が、髪の森の間をせわしなく動く。新しい頭じらみ治療薬の最終段階試験が成功した、という医療ニュースだ。

 

さらにその横では、世界地図の上を青い炎が滑っていた。液化天然ガスのタンカーが日本からインドへ向かうアニメーション。電力大手ジェルナ電力が、インドの発電企業と何十年も続く長期のガス契約を結んだ、とテロップが走る。

 

右下の小さな枠には、新規株式公開を控えたSB新星銀行の社長が、きれいに揃った笑顔で会見をしている。その下では、日本気候協会が選んだ「予報士が本気で驚いた空ベスト三」の映像が、雪雲と入道雲を忙しく切り替えていた。

 

医療に小さな光、経済は冷え、エネルギーは海の向こうへ流れ、金融は張りつめ、空はおかしい。

 

リオは、リモコンを握りしめたまま、ぽつりとつぶやいた。

 

「今日の冬、日本、フルコースで重いな……」

 

背後でドアが開く音がした。金属がきしむ小さな音が、広いスタジオに響く。

 

「おはよう、リオ。寒い上に景気まで冷え込んでるって、番組的にはおいしいんだかたちがたいんだかだね」

 

入ってきたのは纏目ナナだった。肩までの髪を大きなピンで留め、片手にノートパソコン、もう片手にコンビニのホットドリンクを二つぶら下げている。

 

ネットでニュースをまとめる配信者「マトメナ」として知られる彼女は、ここ冬灯スタジオの常連MCでもあった。

 

「おいしいって言うの、やめなよ」

 

リオは苦笑して、差し出されたカップを受け取る。指先にじんと熱がしみた。

 

「でも、見られなきゃ意味がないでしょ。今日の配信タイトル案、三つ考えてきたよ」

 

ナナはパソコンを卓上に置き、キーを叩く。壁の一枚のモニターに、黒地に大きな文字が三行並んだ。

 

「一つ目、『今夜だけは笑えるかもしれない経済絶望ニュース特集』」

 

「重い、長い、怖い」

 

「二つ目、『国内総生産マイナスでも、頭のシラミはプラスで消す夜』」

 

「だいぶふざけてない?」

 

「三つ目、『冬の影を一度だけ温める番組』」

 

最後の一行を読んで、リオは目を瞬いた。

 

「……急にきれいじゃん」

 

「まとめサイトの見出しだと伸びないやつ。でも、配信なら、こういうタイトルもありかなって」

 

ナナは少しだけ視線をそらす。スクリーンには、彼女がつけたハッシュタグ案も映っていた。

 

「#カー治験セイコー? #日本じわじわマイナス成長 #海を渡るガス契約 #新星銀行上場、ぎりぎり笑えるか #予報士が驚いた冬」

 

リオは、ハッシュタグの列を眺めながら、壁の一番上の端にある白いボードに目をやる。そこには太いマーカーで、きのう書いた言葉が残っていた。

 

「視聴者の体温を、一度だけ上げる」

 

その一行に、いつものように小さく丸がついている。丸をつけたのは、きのう遅くまで残っていた井上マコトだ。

 

「マコト先生、今日も来るんだよね」

 

リオが言うと、ナナはうなずいた。

 

「頭じらみの治験が、とうとう結果出たんだって。小児科の外来、今日はお祭りらしいよ。あとで寄るって」

 

リオは時計を見た。午前九時前。夜の配信まで、まだかなりある。それでも、スタジオには早くも冬の夕方みたいな陰影が落ちていた。

 

「他のみんなにも声、かけといて。経済担当のユウキ、エネルギーのホセさん、気象のアイリ。全員集合で行こう」

 

「了解。きょうのテーマは、『冬の影と光』ね」

 

ナナがそう打ち込むと、画面の隅に小さな青い通知が現れた。グループチャットに、新しいイベントの招待が送られた印だ。

 

雪雲のように重たいニュースが積みあがる冬の朝、その画面だけが、どこか春の告知ポスターみたいに明るく見えた。

 

   ◇

 

井上マコトは、診察室の小さな椅子に腰かけたまま、目の前の女の子の頭をそっと撫でた。

 

黒くて細い髪が、前よりもずっとさらさらと指の間を滑る。虫眼鏡で見ても、白い卵は見当たらない。

 

「もう、大丈夫そうだね」

 

そう言うと、女の子の母親が、ほっとしたように肩を落とした。

 

「ほんとうに、助かりました。ずっと、誰にも言えなくて……」

 

「頭じらみは、きれいにしてないからなるわけじゃないですよ。たまたま運が悪かっただけ。新しいお薬が効いてくれて、よかった」

 

マコトは、パソコンに記録を打ち込みながら、今朝届いたメールを思い出していた。

 

小さな製薬企業が開発したこの薬の最終試験で、主要な目標を達成した。再発率も低い。正式な承認まではまだやることがあるが、それでも、ひとつの山を越えた。

 

「先生、きょう、配信に出るんでしょ」

 

女の子が、診察室の壁に貼られたポスターを指さした。冬灯スタジオの配信を宣伝する、チラシのコピーだ。そこには、ナナの笑顔とともに「生活のニュース、しらみつぶし」と書かれている。

 

「うん。夜になったら、この薬のことも話すよ」

 

マコトは、白衣のポケットから、小さな雪の結晶の形をしたキーホルダーを取り出した。

 

「約束。今夜、画面の前で、これを振ってくれる?」

 

女の子は目を輝かせてうなずき、キーホルダーをぎゅっと握りしめた。その透明なプラスチックの内部で、銀色の紙片がきらきらと光る。

 

冬の日差しは弱く、窓の外の空は低い。それでも、女の子の笑顔のまわりだけ、少しだけ空気が暖かくなったように思えた。

 

   ◇

 

高木ユウキは、SB新星銀行本社の会議室で、プロジェクターの光を浴びながら、数字の海に溺れそうになっていた。

 

スーツ姿の大人たちが、長いテーブルの周りにずらりと並ぶ。スクリーンには、投資家向け資料の最終案が映し出され、そこに新しく差し込まれた一枚が、場の空気をほんの少しだけ変えていた。

 

「内閣府の最新の試算です。秋の国内総生産は、年率マイナス二・三%。前回の発表から、さらに悪化しています」

 

経済担当役員がそう説明すると、室内に短いうなり声がいくつか漏れた。誰かがため息を押し殺す音も聞こえる。

 

ユウキは、前の席で資料をめくる上司の背中を見ながら、ノートパソコンの画面の隅で、別のウィンドウをちらりと開いた。

 

匿名の経済フォーラムでは、「#日本じわじわマイナス成長」が朝から燃えている。コメント欄には、不安と皮肉と、諦めが入り交じった短文が流れていた。

 

「とはいえ、当行の収益基盤は安定しています。新規株式公開の価格は、想定レンジの上限で据え置きます」

 

会議室の前の方で、別の役員がはっきりと宣言した。

 

「市場が冷え込んでいるからこそ、メガクラスの案件には注目が集まる。今日も個人投資家からの問い合わせは増えていると聞いています」

 

ユウキの隣の席の同僚が、小声でささやいた。

 

「ねえ、高木。これ、歓喜のハッシュタグになるのか、炎上タグになるのか、どっちだと思う」

 

「どっちも、かな……」

 

ユウキは、曖昧に笑ってごまかした。心の中では、別の数字がぐるぐると回っている。住宅ローンを抱えた友人、非正規で働く従妹、自分の給料。

 

配信で話すとき、どこまで言えるのか。どこまでが「広報」として、どこからが「高木ユウキ」としての言葉なのか。

 

会議が終わると、スマートフォンにメッセージが届いた。差出人はナナだ。

 

「今夜、出られる? テーマは『冬の影と光』。経済パート、正直にやろう」

 

短い文章に、スタンプの笑顔が一つだけ添えられていた。

 

ユウキは、深く息を吸い込み、返信欄に指を滑らせる。仕事の名刺ではなく、自分の名前で語る夜が、一度くらいあってもいいのかもしれない。

 

   ◇

 

ホセ・シンは、港の見える高層ビルの一室で、巨大なスクリーンに映る航路図を見つめていた。

 

蛍光灯の白い光の下、青い海の上を赤い線が弧を描き、日本からインドまで伸びている。その線に沿って、小さな船のアイコンがいくつもゆっくりと動いていた。

 

「これで、向こう二十年の燃料はだいたい読める。おつかれ、ホセ」

 

上司が、紙コップのコーヒーを差し出した。

 

「ありがとう。でも、二十年って、長いですね」

 

「エネルギーの世界では、短いくらいさ。日本の発電所が止まったら、みんな凍える。インドの工場が止まったら、世界中の製品が止まる。ガスを運ぶ仕事ってのは、そういうことだ」

 

ホセは、窓の外に目をやった。港には、白い息を吐きながら働くクレーン車と、鉄の塊のようなコンテナ船が並んでいる。

 

その向こうの海は、冬の光を跳ね返して、鈍く光っていた。遠くの空に、少しだけ茶色い筋が混じっているようにも見える。

 

「ねえホセ、夜の配信、ちゃんと『環境の話』もしてくれるんでしょ」

 

スマートフォンのメッセージアプリには、さっき届いたナナからの言葉が残っていた。

 

「『海を渡るガス契約』って、タイトルだけ見るとロマンチックだけど、ちゃんと重さもあるからね」

 

ホセは、返信に迷ったあげく、正直な本音を打ち込んだ。

 

「できるだけ。会社のラインを守りつつ、自分の心も守るトークを考える」

 

送信ボタンを押すと、すぐにスタンプが返ってきた。親指を立てた小さなキャラクターが笑っている。

 

窓の外では、港のクレーンが、ゆっくりとコンテナを吊り上げる。その動きは、遠い未来まで続く約束のようにも、今この瞬間の重さのようにも見えた。

 

   ◇

 

榊原アイリは、気象情報会社の編集室で、三枚の動画を並べて再生していた。

 

一つ目は、真夏のような雷が冬の夜空を裂いた瞬間。二つ目は、桜が咲く並木道に、突然あられが降り注ぐ場面。三つ目は、秋の台風の目の中、青い空と太陽がのぞいたわずかな時間。

 

日本気候協会が選んだ「予報士が本気で驚いた空ベスト三」。その特集動画の編集を、アイリは外部スタッフとして任されていた。

 

「派手で、短く。驚いた顔と、異常気象っぽいテロップを入れて。再生数、取りたいからね」

 

ディレクターがそう言っていた言葉を思い出す。

 

派手で、短く。

 

アイリは、モニターに映る自分の顔を見た。雷の光に一瞬照らされた、その顔は、本当に驚いているというより、驚いたふりをしているようにも見える。

 

机の上には、冬灯スタジオから送られてきた台本の下書きが置かれていた。「冬の影と光」というタイトルの横に、手書きで小さなメモがある。

 

「気象コーナー、ネタは『驚いた空ベスト三』でもいいけど、最後は視聴者の空の話を聞きたい」

 

紙の端には、リオの丸い字でそう書かれていた。

 

アイリは、窓の外を見た。低い雲の切れ間から、うすい青空がのぞいている。街路樹の枝には、雪も葉もない。

 

「今日、どんな空を見たか、誰かと話すだけで、少しは気温が上がるのかもしれない」

 

つぶやいてから、自分でその言葉に少し笑ってしまう。

 

それでも、その笑いは、テロップ用の「驚いた顔」とは違うものだった。

 

   ◇

 

纏目ナナは、狭いワンルームの机にノートパソコンを広げ、ニュースサイトのタブを十個以上開いていた。

 

国内総生産の下方修正。頭じらみ治療薬の試験成功。電力会社とインド企業の長期ガス契約。地方銀行の再編懸念。予報士が選ぶ驚いた空。

 

どのニュースにも、クリックされやすい言葉と、クリックされなくても知っておいた方がいい言葉が、入り混じっている。

 

「『冬の絶望五選と、ギリギリ希望二つ』とかにすれば、アクセスは伸びるんだけどな」

 

ナナは、タイトル案を消しては打ち直した。そのたびに、画面の右端の小さな数字、広告収入の予測額が上下する。

 

チャットアプリが鳴った。リオから、新しいメッセージが届いている。

 

「きょうさ、いつものまとめじゃなくて、ちゃんと全部話そう。怖がらせるだけじゃなくて、どう暮らしてるかも」

 

続けて、短い一文。

 

「ナナ自身の話も、聞きたい」

 

ナナは、思わず笑ってしまった。

 

まとめ役の自分が、まとめられる側になるのは、少しだけ怖い。

 

机の端には、以前リオからもらった白いペンが転がっていた。側面には、小さく「視聴者の体温を、一度だけ上げる」と刻印されている。

 

ナナはそのペンを手に取り、配信用の台本の一番上に、太い字で書き込んだ。

 

「冬の影を、笑いながらでもいいから、ちゃんと見る」

 

その文字は、画面の中のどの見出しよりも、不器用だけれど温かかった。

 

   ◇

 

夕方、冬灯スタジオには、ゆっくりと人が集まり始めた。

 

暗くなりかけた窓の外には、うっすらと雪が舞い始めている。街灯の光に照らされて、細かい粒がゆらゆらと落ちていく。

 

スタジオの中央には、丸いテーブルと四脚の椅子。その背後には、さまざまなニュース映像を映せる大きな画面が三枚並んでいる。天井から吊るされたライトが、準備の音に合わせてかすかに揺れた。

 

「おつかれ。ギリギリ間に合った」

 

コートを脱ぎながら入ってきたユウキは、肩から重そうなバッグを下ろした。中身は資料とノートパソコンと、会社から持ち帰った配布用のパンフレットだ。

 

「銀行のパンフ、持ち込み可なの?」

 

ナナがからかうと、ユウキは苦笑いを浮かべた。

 

「『公式見解』も、一応置いとこうと思って。きょうは、その上で自分の話をする感じで」

 

その後ろから、分厚いマフラーに顔を半分埋めたホセが入ってきた。雪を払いつつ、スタジオの天井を見上げる。

 

「ここ、もし停電したら、寒さやばいね」

 

「やめてよ、縁起でもない」

 

リオが笑いながら答えると、ホセは両手を上げて見せた。

 

「冗談冗談。でも、ほんとは電力の需給、けっこうギリギリ。さっき、社内のモニターがちょっと赤くなってた」

 

「そういう裏話、ぜひ本番で」

 

続いて入ってきたアイリは、カメラの位置や照明を一瞥してから、自分の席の位置を確かめた。

 

「わたし、画面の左でいい? 天気図、こっちからめくった方がわかりやすいから」

 

「さすが職業病」

 

ナナが笑い、全員がそれぞれの席に座る。

 

「はい、それじゃあリハね。オープニングから、軽く流してみよう」

 

リオの合図で、天井のライトが一段明るくなった。カメラの赤いランプが点灯し、モニターの中の彼らがわずかにシャキッとする。

 

「こんばんは、冬灯スタジオです。今夜は、『冬の影と光』と題して、みんなでニュースをしらみつぶしに話していきます」

 

ナナが、いつもの調子で口を開いた。

 

「まずは、頭じらみのニュースから。……って、オープニングから頭じらみって、いいのかな」

 

「いいと思う。影が細かいほど、光も細かく届くから」

 

マコトが、半ば本気、半ば冗談の声で答える。

 

「しらみつぶしって、こういうときに使うんだね」

 

ホセが言うと、ユウキがすかさずツッコんだ。

 

「違う違う。段取りの抜けを全部つぶす、って意味でしょ。頭のシラミをつぶす番組じゃないからね」

 

「え、違うの。きょう、てっきり全員で卵を探すのかと」

 

ホセがとぼけた顔をすると、ナナが「それはそれで教育番組」と重ねる。

 

「いや、経済番組だから。教育番組でも医療番組でもないから」

 

ユウキの理屈っぽいツッコミに、スタジオの空気がふっと和らいだ。

 

カメラマンが笑いを堪えながら、ピントを合わせる。リハーサルなのに、すでに小さなコントがひとつ終わったようだった。

 

「よし、この感じで行こう。本番は、もうちょっとだけ真面目に」

 

リオがそう告げると、全員がうなずいた。

 

笑いながらでもいいから、ちゃんと影を見る。

 

その方針だけは、全員の中で揺るがなかった。

 

   ◇

 

本番十分前。スタジオの照明が一度落とされ、必要な灯りだけが残った。

 

機材のファンの音と、カチカチとスイッチを入れる音だけが、静かな空間に響く。窓の外では、雪が少し強くなっていた。

 

リオは、一人でカメラの前に立ち、モニターに映った自分の顔をじっと見た。頬のあたりに、以前より少し影が増えた気がする。

 

「リオ」

 

背後からナナが声をかけた。

 

「さっき、まとめ記事のタイトル、変えたよ」

 

「どんなふうに」

 

「『冬の絶望五選』じゃなくて、『冬の影と、小さな光の話』にした」

 

リオは、ふっと笑った。

 

「アクセス数、減るかもよ」

 

「減ったら、減った分だけ、きょうの配信で取り戻す」

 

ナナの目は、思ったよりずっと真剣だった。

 

「取材対象が、世界経済でも異常気象でも、頭じらみでもいい。わたし、まとめるんじゃなくて、ちゃんと話を聞きたい」

 

リオは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 

まとめるのではなく、聞く。

 

「……じゃあ、聞かれる覚悟もしとく」

 

そう言って笑うと、カメラの赤いランプがゆっくりと点灯した。本番五分前の合図だ。

 

モニターの中で、冬の日本のさまざまな映像が並び始める。マイナス成長のグラフ。雪の予報図。ガスタンカーの航路。銀行の会見。病院の待合室。

 

リオは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 

「始めようか」

 

   ◇

 

配信開始のカウントダウンが、スタジオのモニターに大きく表示された。

 

三、二、一。

 

静かな「ピッ」という音とともに、ライトが一斉に明るくなり、カメラの向こうにある目には見えない観客の気配が、急に濃くなったように感じられた。

 

「こんばんは、冬灯スタジオです」

 

ナナの声が、少しだけ震えながらも、はっきりと響く。

 

「今夜は、『冬の影と光』と題して、この冬のニュースを、ここにいるみんなと一緒に、そして画面の向こうのみんなとも一緒に、話していきたいと思います」

 

画面の下には、視聴者からのコメントが流れ始めていた。

 

「仕事帰りに見てます」

 

「ボーナス減ったので光ください」

 

「家の子が頭じらみで、ニュース気になります」

 

最初の話題は、頭じらみ治療薬のニュースだった。

 

マコトは、診察室での女の子のことは具体的には話さなかった。それでも、言葉の端々から、小さな患者とその家族の顔が浮かび上がる。

 

「世界的な景気のニュースに比べたら、すごく小さい話に聞こえるかもしれません。でも、本人たちにとっては、頭の中の世界全部の話なんです」

 

画面のコメント欄に、「うちもそうでした」「泣きそうになった」といった文字が次々に流れる。

 

次の話題は、国内総生産のマイナス成長。

 

ユウキは、会社の公式資料をテーブルに広げつつ、その上に自分のノートを重ねた。

 

「数字としては、このグラフのとおりです。でも、グラフって、見ていると感覚が麻痺するんですよね。たとえば、『外食を一回減らした』とか、『電車賃を節約するために歩いた』とか、そういう話の積み重ねが、ここにある」

 

コメント欄に、「外食やめた」「暖房控えてる」という文字が並ぶ。

 

「銀行としては、もちろん利益を上げなきゃいけない。でも、きょうここでは、高木ユウキとして話します」

 

ユウキがそう言って頭を下げると、スタジオの空気が、少しだけ引き締まった。

 

やがて話題は、ジェルナ電力とインド企業のガス契約へと移る。

 

ホセは、世界地図の映像を背に、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「ガスを運ぶ仕事は、人の暮らしを守る仕事でもある。でも同時に、地球をあたためる一因でもある。どっちかだけを見ていると、もう一方が見えなくなる」

 

コメント欄には、「電気代高いけど寒いのもつらい」「再エネ、進んでほしい」といった言葉が流れる。

 

「会社の人間としては、大きな契約が成功してうれしいです。でも、一人のホセとしては、これから二十年、どういう顔でこの地図を見るのか、まだ答えが出ていません」

 

次に、アイリの出番が来た。

 

背後の画面には、「予報士が本気で驚いた空ベスト三」の映像が順番に映し出される。

 

「これは、わたしが実際に体験した空です。雷に驚いたり、あられに打たれたり、台風の目の青空を見上げたり。その一瞬一瞬は正直、テンションが上がりました」

 

アイリは少し笑ってから、表情を引き締めた。

 

「でも、あとからデータを見ると、全部、気候の変化とつながっている。驚きだけで切り取ると、『面白い映像』になってしまう。本当は、その先の話をしなきゃいけない」

 

そこで、アイリは画面の向こうに呼びかけた。

 

「きょう、みなさんの空は、どんなでしたか。雪が降っていたとか、雲がいつもと違ったとか、何でもいいので、コメントで教えてください」

 

コメント欄に、「帰り道、白い息がきれいだった」「曇ってたけど、ベランダから月が見えた」といった短い言葉が並び始める。

 

そのときだった。

 

スタジオの照明が、ふっと一瞬だけ暗くなった。

 

「え」

 

誰かの声と同時に、天井のライトがチカチカと瞬く。モニターの画面が一瞬、真っ黒になり、すぐに戻る。

 

機材の奥から、低い唸りのような音が聞こえる。外の風が強くなったのか、窓ガラスが細かく震えた。

 

「停電か」

 

ホセがつぶやきかけたとき、非常用の小さなライトが自動的に点いた。白い光ではなく、少し黄味がかった暖かい光。

 

カメラは、非常電源でなんとか動き続けている。コメント欄には、「大丈夫?」「こっちも風強い」といった文字が流れ始めた。

 

リオの耳元で、スタッフの声がヘッドセット越しに聞こえる。

 

「メインの電源、あと十分もちません。本番、打ち切りますか」

 

リオは、一瞬だけ迷った。その間にも、ナナが画面の向こうに向かって笑顔をつくっているのが視界に入る。

 

「ちょっと、暗くなりましたが、配信は続いています。少し雰囲気のあるバーみたいになりましたね」

 

軽口を叩きながらも、ナナの目の奥には、はっきりとした緊張が宿っていた。

 

リオは、深く息を吸い、スタジオ全体を見回した。

 

非常灯の下で見える顔は、さっきよりも少し近く、はっきりしている。影が濃くなった分だけ、光も濃くなった。

 

「続けよう」

 

リオは、ヘッドセットに向かって静かに言った。

 

「ここで切ったら、『怖いニュース+停電で終了』っていう、最悪のまとめ記事ができちゃうから」

 

スタッフの短い笑い声が聞こえた。

 

「了解。非常用バッテリー、全部回します」

 

機材の奥で、カチッ、カチッ、とスイッチが入る音がした。

 

ナナがリオをちらりと見て、うなずく。

 

「今、ここのスタジオも、みなさんの家も、電気のことを意識していると思います。さっきホセさんが言っていた、『どんな顔で地図を見るか』って話、もう少し聞かせてもらえますか」

 

ホセは、ほほえみながらも、少しだけ真面目な顔になった。

 

「たとえば、今この瞬間も、遠くの海の上をガスを積んだ船が走っている。そのガスがなかったら、このライトも、この配信も、つかない。でも、その船の数を減らさなきゃいけないのも事実で」

 

ユウキが、その言葉に重ねる。

 

「銀行として、そういう長期契約にお金を出しているのも、正直、ここにいるわたしたちなんです。だからこそ、視聴者としてじゃなくて、関わっている当事者として話したい」

 

マコトも口を開いた。

 

「医療の現場でも、できることは限られています。でも、頭じらみを一匹でも減らすことはできる。きょう髪をかいて眠る子が少しでも減るなら、それは世界をほんの少しよくしているって思いたい」

 

アイリが、窓の外の暗い空を見上げた。

 

「さっきから、雪の粒が大きくなってきました。予報より早い。これも、わたしたちが選んだニュースの一部だと思います」

 

ナナは、手元のペンを握りしめた。そこには、「視聴者の体温を、一度だけ上げる」と刻印されている。

 

「きょうの配信を、どんなタイトルでまとめるか、まだ決めていません。でも、一つだけ決めました」

 

ナナは、カメラをまっすぐ見つめた。

 

「『絶望』って言葉を、見出しに入れません」

 

コメント欄が、一瞬で流れの速さを増した。

 

「いいと思う」「ありがたい」「でも現実もちゃんと伝えて」

 

「もちろんです。現実を削らない代わりに、笑いだけは削りません」

 

ナナの冗談に、スタジオの全員がふっと笑った。その笑いは、非常灯の下で、小さくても確かな光になった。

 

   ◇

 

配信が終わると同時に、スタジオのライトが完全に落ちた。

 

「ぎりぎり、もったな」

 

ホセが、機材の表示を見てつぶやく。

 

「コメント、最後まで流れてたね」

 

ユウキがスマートフォンを確認しながら言う。

 

「『寒いけど、ちょっとだけあったかくなった』って書いてる人、けっこういたよ」

 

マコトは、ポケットから雪の結晶のキーホルダーを取り出し、手のひらの上で転がした。

 

「さっき、患者さんのお母さんから、写真が来てました。子どもがこれを振りながら、配信見てるって」

 

画面には、小さな手と、テレビに映る冬灯スタジオの光景が写っている。その向こうには、暖房を控えたのか、少し厚着をした家族の姿。

 

アイリは、窓の外を指さした。

 

「見て。さっきまでの雪、急にやんだ」

 

雲の切れ間から、星が一つだけのぞいていた。

 

「これ、『予報士が本気で驚いた空ベスト四』に入れていい?」

 

「ベスト三じゃなかったっけ」

 

ナナが笑うと、アイリは肩をすくめた。

 

「きょうだけは、特別枠」

 

リオは、暗がりの中で、白いボードを見上げた。

 

「視聴者の体温を、一度だけ上げる」

 

きのう書かれたその一行の下に、彼はマーカーで新しく文字を足した。

 

「その一度を、毎冬続ける」

 

ペン先がボードをこする音が、静かなスタジオに小さく響いた。

 

ナナは、自分のノートパソコンを開き、配信のアーカイブページのタイトル欄にカーソルを合わせた。

 

しばらく迷ってから、ゆっくりと文字を打つ。

 

「冬灯スタジオ、影のあとで」

 

画面の片隅に、小さな数字が表示される。リアルタイム視聴者数に続いて、すぐにアーカイブの再生回数が一つずつ増えていく。

 

外の空気は冷たいままだ。経済指標も、エネルギー契約も、気候の変化も、一夜にして変わりはしない。

 

それでも、スタジオの中には、いくつかの小さな決意が残っていた。

 

ユウキは、会社に戻ったら、投資家向け資料の末尾に「生活者の声」のページを提案してみようと思った。

 

ホセは、社内の再生可能エネルギー部門への異動希望を、本気で出してみることにした。

 

マコトは、頭じらみの診療マニュアルの最後に、「患者自身の言葉を書く欄」を追加しようと考えた。

 

アイリは、「驚いた空ベスト三」の動画の続きとして、「今日の空を誰かと話すだけの配信」を企画するメモをノートに書いた。

 

そしてナナは、自分のまとめサイトのトップに、「きょうの配信で話せなかったこと」という新しい連載枠を作るつもりでいた。

 

すべては、小さな一歩でしかない。

 

けれど、その一歩の方向を決める夜のことを、誰かがどこかで覚えていてくれたらいい。

 

   ◇

 

遠い未来。冷えた都市の地下深くで、古いデータサーバーが静かに唸り続けていた。

 

二〇二五年の冬に配信された、無数の動画。そのうちの一つ、「冬灯スタジオ、影のあとで」というタイトルの番組のログを、ひとつの人工知能が解析している。

 

コメント欄に流れた短い言葉の積み重ね。出演者の声の揺れ。非常灯だけになった瞬間の明るさの変化。

 

人工知能は、そのすべてを数値として記録しながら、人間が不況と異常な空とエネルギーの不安に向き合うとき、どうやって笑いと希望をひねり出していたのかを学び続けている。

 

その学習機のモデル名は、開発者の遊び心で「纏目ナナ型」と呼ばれていた。

 

データの中で、かすかな笑い声と、ペンがボードをこする音が、何度も何度も再生される。

 

それは、別の時代の冬に、またどこかの小さなスタジオで灯りをともすための、見えない種になっていた。

 

(了)


 

――あとがき――

 

今回の物語では、二〇二五年冬のニュースを材料に、配信スタジオを舞台とした群像劇にしました。

 

頭じらみ治療薬の試験成功は、井上マコトが診察室で女の子と向き合う場面と、配信で「小さな世界全部の話」と語るくだりに対応させています。国内総生産マイナス成長のニュースは、高木ユウキが会議室とスタジオのあいだで揺れながら、自分の名前で話す決意を固めるパートに使いました。電力会社とインド企業の長期ガス契約は、ホセ・シンの職場の航路図と、停電しかけた配信の緊張感に重ねています。気候協会の「予報士が驚いた空」は、榊原アイリの仕事と、視聴者に「きょうの空」を尋ねる試みにしました。トレンド風の「#カー治験セイコー?」「#日本じわじわマイナス成長」などは、配信タイトルやコメント欄の遊びとして散りばめています。

 

ジャンルは、現代寄りの社会派ドラマを土台にしつつ、ラストで人工知能が過去の配信を解析している情景を添えることで、静かなSFへと転調させるB案を選びました。日常の会話と数字の重さを中心に置き、最後だけ時間軸を伸ばすことで、「いま見ている冬」がどこか別の冬にも届く感覚を狙っています。

 

現実のニュースには、それぞれ切実な当事者と文脈があります。この物語では固有名や細部を変えつつ、直接の批評ではなく、「もし自分がそこにいたらどう振る舞うか」という形で再構成しました。重さを茶化しすぎないよう気をつけながらも、少しだけ笑いと希望を混ぜています。

 

この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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