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寒気と未来と走者たち【2025/12/08】

「寒気が入ってくる。」


雪村ハルカがつぶやいた控室の窓の向こうで、港のクレーンが細く震えていた。福岡インターシティマラソン前日イベント会場。海風はもう十分冷たいのに、彼女のノート端末の画面には、数日後に本命の寒気が本州をなぞる青い帯が、さらに太く描かれている。


壁の大型モニターでは、別の青い帯が、南西の海をなぞっていた。ニュースキャスターが落ち着いた声で告げる。


「南西諸島沖の上空で、隣国戦闘機が自衛隊機に射撃管制用とみられるレーダーを照射したことが、防衛省の解析で分かりました……」


モニター下のテロップが切り替わる。日豪共同の防衛協議、連携強化。ストックホルムで行われる国際賞の授賞式。日本人研究者ふたりが、ノベール博物館で椅子にサインした映像が小さく挟まる。


「全部、冷えるニュースだな。」


ジャージ姿の福田ツバサが肩を回しながら言う。長距離走の調整を終え、まだ汗の残る身体から白い湯気が立っていた。


「寒気の方は、走るには悪くないですよ。風さえ強くなければ。」


ハルカは手元のタブレットを軽く叩く。画面右下には「クロノリンク試験版」と書かれた小さなウィンドウ。そこには、現在地から半径数百メートルの「五秒後の様子」が、半透明の映像で映し出されている。


五秒後の廊下を、スタッフが通り過ぎる。五秒後の自分が、コーヒーを一口飲む。今の動きと重なり、ほとんど違いはない。ただ、少しだけ時間が二重に流れている。


「五秒先が分かるって、走るにはズルじゃない?」


ツバサが笑って足元を示した。シューズの紐の結び目に、小さな銀色のタグが付いている。そこにも、同じロゴが刻まれていた。


「これはラップを表示するだけ。あくまで参考値です。」


ハルカが言う前に、奥の扉が勢いよく開いた。


「そこの科学用語とスポーツ用語は、配信用にゆっくり説明してもらっていい?」


顔を出したのは、鮮やかなオレンジ色のパーカーを着た女だった。胸には「マトメナ」と描かれたロゴ。纏目ナナ、本名は非公開、ニュースと科学をまとめて笑いに変える配信者だ。


「リハ、あと十分。ハルカさんは寒気解説、ツバサさんは走者代表、ちゃんと難しい話を素人用に薄めてください。今日は『寒気と未来を笑い飛ばす特番』なんだから。」


「笑い飛ばせる内容でしたっけ、これ。」


ハルカが壁のニュースを顎で示す。南西の海の青い帯は、未だに消えず画面を占領していた。


「そこをどうにかするのが、マトメナの仕事です。」


ナナは悪戯っぽくウインクした。だがその目の奥に、わずかな躊躇いがあることを、ハルカは見逃さなかった。


廊下の奥のガラス窓の向こう、ステージでは照明が試験的に点滅している。音響スタッフが「ドン」「ドン」と重いキックの音を流し、スクリーンには試験的なクロノリンク映像が映る。五秒後のステージに、同じスタッフが立ち尽くし、ケーブルを巻いている。


その片隅に、一瞬だけ赤い文字がちらついた。


「五秒後:配信中断。」


すぐに消え、通常の映像に戻る。誰も気づかず、廊下の空気だけが、ほんの少し凍った。


   ◇


東京湾岸の高層ビルの一角。薄暗いオペレーションルームで、淡い光に浮かぶ顔がひとつ、モニターを睨んでいた。


高城リュウは、指先で机を叩きながら、南西海域の時刻格子データを遡る。クロノリンク防衛モード。世界各地の原子時計とレーダー、衛星センサーを束ね、五秒先の軍事的危険を予測するためのシステム。


「さっきの照射、本当に撃つ気はなかったんだな。」


リュウは独り言を呟く。画面上には、さきほどの事件のログが残っていた。隣国機が日本機に照準を合わせた瞬間、クロノリンクは赤く点滅し、薄く半透明の未来像を描き出していた。


五秒後の空に、一瞬だけ細い光の筋が伸びる。ミサイル発射のシミュレーション。だが、実際の記録には発射の事実はない。未来映像は、起きなかった一つの可能性だ。


「こっちが見せなければ、起きなかった未来か。見せたから、起きなかった未来か。」


低く笑いともため息ともつかない声が漏れる。


机の端の端末が振動した。画面に、オーストラリア国旗の小さなアイコンが灯る。


「こちらマーサ。レポート、見えた?」


スピーカーから流れる日本語交じりの英語。マーサ・ブレイク、在日豪州大使館の防衛駐在官であり、クロノリンクの日豪共同実験のカウンターパートだ。


「見えた。ギリギリだったな。」


「でも、撃たれてはいない。政治的には『危険な照準行為』だけど、技術的には、クロノリンクが予測した最悪の未来は選ばれなかった。今日は、そういう日。」


マーサの声は淡々としている。


「さっきの共同会見も見たでしょう? 『日豪は、情報共有と時間同期の分野で連携を深める』って。あなたのシステムの名前が、首脳の口からはっきり出てた。」


「研究費が増えるのはありがたいけどな。」


リュウは肩をすくめた。画面端の別ウィンドウには、福岡のイベント会場のライブ映像が映っている。「#寒気襲来祭」「#福岡ロード2025」と、もじられたハッシュタグが踊る。


「で、きょうはそっちのマラソン配信に出るって?」


マーサが笑いを含んだ声で聞く。


「ああ。防衛モードの宣伝も兼ねてな。『五秒先が分かれば、事故も転倒も防げます』って、スポンサーが言いたがってる。」


「あまり『戦争も防げます』とは言わない方がいいわね、娯楽番組だし。」


「言わないさ。」


リュウは、ふとさきほどのログを見返す。五秒後の空に伸びていた光の筋。その映像を見ながら、彼は誰よりも早く、退避指示を出していた。結果として正解だった。だが、もしクロノリンクが違う未来を見せていたら、自分の判断も違っていたのか。


「マーサ。クロノリンクは、本当に一本の未来だけを見せるべきなのか?」


「哲学の時間? それとも障害報告?」


「後者寄りだ。」


リュウはモニター上に、新しい警告ログが増えているのに気づく。福岡。寒気。屋外構造物。五秒先の吹き出しに、赤い文字がまたちらついた。


「五秒後:イベント構造物の揺れ増大。」


海と空と街の予報が、一つの時刻格子でつながっていく。


   ◇


地球の反対側、薄い雪が舞い始めたストックホルムの街。ノベール博物館の中庭には、世界中の受賞者がサインを残した椅子が並んでいる。


椿原ミユは、白いペンを握り締め、深呼吸した。


「私なんかが書いていいのかな。」


「君も立派な共同研究者だ。」


隣で笑う老教授がペンを受け取ると、自分の名前を、艶の抜けた木の背もたれにゆっくりと記した。時間対称性の破れ。その研究で、教授たちは国際的な物理学賞を受けた。ミユの名前は、公式資料の片隅に、小さく載っているだけだ。


「君の新しいアルゴリズムがなければ、クロノリンクは動かなかった。椅子に一画くらい、刻んでおきなさい。」


教授の半ば冗談の言葉に背中を押され、ミユは椅子の端、目立たない場所に、小さく「刻」の字を描いた。


ペン先が止まったとき、ポケットの端末が震えた。画面には、日本からのビデオ通話の招待。送り主は「マトメナ」。


「ストックホルムからの中継、本当にいけそう?」とナナのテキスト。


ミユは笑って返信した。「ノベール博物館のネットは強い。五秒先の世界だって、きれいに映すよ。」


彼女の周囲には、クロノリンクの小型ノードがいくつも組み込まれている。世界中の時計をつなぐ格子の一端が、この古い博物館にも刺さっているのだ。授賞式の当日、世界各地の「五秒後」が象徴的にスクリーンに映し出される。その演出を提案したのも、ミユだった。


「時間を測る技術が、人を少しだけ優しくする。」


そう信じたかった。


   ◇


リハーサルの時間になった。イベントホール中央のステージには、四枚の巨大スクリーンが並ぶ。中央には纏目ナナ。右には雪村ハルカ。左には高城リュウとマーサ・ブレイクが、東京と大使館からのリモート出演。上にはストックホルムの椿原ミユ。ステージ袖からは福田ツバサが、ランニングマシンの上で足を回しながら参加する。


観客席には、一般のランナーや家族連れが集まり始めていた。子どもたちは「クロノリンク体験コーナー」と書かれたブースで、自分の五秒後の姿を見て歓声を上げている。


「本番まで、あと三分です。」


インカムからスタッフの声が響く。ナナはマイクを握り、深呼吸をひとつ。


「ナナさん。」


ステージ下から、黒いジャンパー姿のスタッフが駆け寄ってきた。胸には「クロノリンク」のロゴ。


「防災アラート、どうします? さっきのテストで、警告音が配信に乗りまくってて、スポンサーが顔をしかめてましたけど。」


ナナは眉をひそめた。


「そんなに鳴ってた?」


「屋外の構造物の揺れとか、強風予測とか。全部拾ってて。五秒後に誰かがくしゃみするのまで、ピコンピコン。」


「それは……さすがに笑いにならないね。」


ナナは少し考え、それから軽く指を鳴らした。


「この配信エリアだけ、アラート音消せる?」


「音だけなら。表示は残るけど。」


「じゃあ、音オフで。台本にも『ニュースを笑いに変える』って大きく書いてあるし、いきなりサイレン鳴らしても視聴者、笑えないから。」


「了解です。」


スタッフが走り去る。背中を見送りながら、ナナは口の中で小さくつぶやいた。


「笑えない夜は、笑いに変える。いつものマトメナの売り、だもんね。」


インカムからカウントダウンが始まる。「……5、4、3……」


ホールの照明が落ち、スポットライトがナナを照らす。観客席のざわめきが「シン」と凍った。


「こんばんは。ニュースと科学をまとめてお届け、マトメナこと纏目ナナです。」


ナナの声が、ホールとネットの向こうへ広がっていく。


「今日は特別編『寒気と未来と走者たち』。南の海ではレーダーが飛び交い、空からは寒気が迫り、でもここでは走者が燃えております。そんな日本の夜を、五秒先の未来といっしょに覗き見しましょう。」


後方スクリーンに、クロノリンクのロゴとともに、ホールの「五秒後」の映像が映し出される。今とほとんど同じ風景。観客の笑顔が、わずかにずれて重なり合い、不思議な奥行きを作っていた。


「まずは、寒気担当。気象予報士の雪村ハルカさん。」


「こんばんは。今日から数日、上空には強い寒気が……」


ハルカが、日本海側の雪雲の動きを、簡略化した図で説明する。「#寒気襲来祭」と書かれたハッシュタグがスクリーン隅に踊る。


「今日のポイントは、寒気にも折れ目がある、ということです。」


「折れ目?」


ナナが首をかしげる。


「はい。ずっと冷たい空気が押し寄せてくるわけではなく、風向きや地形の影響で、ふっと緩む時間帯や場所ができる。それを逃さずに、雪かきしたり、外に出たりするのが大事なんです。」


「なるほど。未来にも折れ目があるって、なんだか哲学ですねえ。」


観客席から笑いがこぼれる。


続いて、左のスクリーンにリュウとマーサが映る。背景にはレーダー画面と、東京湾岸の夜景。


「こちらは、防衛版クロノリンクを使っている皆さんです。」


ナナが紹介すると、マーサが軽く手を振った。


「こんばんは。危ない空の動きを、少しだけ早く知るための仕組みを作っています。」


「さっきニュースになっていた、南の海のアレも?」


ナナがあえて軽い口調で聞く。


「ええ。詳しいことは言えないけど、五秒先を見ていたおかげで、誤解がさらに悪化する前に、距離を取ることができた。日豪防衛リンク――あ、こっちでは『#日豪防衛リンク』ってタグらしいけど――それも、その一部です。」


スクリーン下に「#レイダー照写って何」と、もじられたハッシュタグが流れる。観客席から、小さな笑いとざわめき。


ツバサはランニングマシンの上で軽く足を動かしながら、少し緊張した表情でマイクを握っていた。


「そして走者代表、福田ツバサ選手。」


「どうも。走ることしか取り柄がないです。」


「ツバサさんは、クロノリンクのタグを靴につけているそうで。」


カメラが足元をアップにする。銀色の小さなタグが、紐の結び目で揺れた。


「五秒先の自分のピッチや接地を見て、フォームを微調整できるんです。でも……」


ツバサは少し言葉を選んだ。


「でも、結局最後に頼れるのは、自分の足裏の感覚かなって思ってます。」


「うまいこと言った。」


ナナが素早くツッコミを入れると、観客席から笑いが湧く。


「ストックホルムからも中継が入っています。椿原ミユさん。」


天井近くのスクリーンに、ノベール博物館の白い廊下と、椅子の列が映る。ミユは少しぎこちない笑顔で手を振った。


「こんばんは。こちらは、時間を測る研究で賞をもらったグループです。」


「後ろの椅子、全部サイン入りなんですね。」


「はい。さっき、日本人の受賞者の先生たちもここに名前を書きました。私は端っこに、『刻』って一文字だけ。」


「字の重さが違う。」


ナナの言葉に、客席から「おお」と感嘆の声が上がる。


「クロノリンクも、ここにノードを置いてあって。世界中の五秒後を、ちょっとずつ覗いています。」


そう説明した瞬間だった。スクリーンの映像が、一瞬だけノイズにまみれた。


「……あれ?」


ホール全体のスクリーンが、同時にちらつく。ホールの五秒後の映像が、今より一瞬暗くなり、次の瞬間、どこか遠くの海の夜景が薄く重なった。


南西の海。鋭い機影。かすかな光の筋。


観客席の誰かが、息を呑む音を立てた。


だが、映像はすぐに元に戻る。ホールの少し先の未来。笑っているナナ。走っているツバサ。変わらない光景。


「すみません、ちょっとクロノリンクの映像系が……」


ステージ袖からスタッフが駆け出してくる。ナナはとっさに笑いに変えようとした。


「五秒先の世界線、間違えて踏んじゃいましたかね。」


笑いが、半分だけ起きた。残り半分は、不安に喉を締め付けられている。


ナナの耳に、インカム越しに別の声が飛び込んでくる。


「ナナさん、今の一瞬、防衛モードの映像が混線しました。」


「今オンエアで言っていい?」


「やめてください。」


リュウの声だった。スクリーンの中の彼は、顔色を変えずに笑っている。だが、視線だけが、一瞬画面の向こう側を見ている。


クロノリンクの時刻格子のどこかに、今日一日の緊張が、きしりと溜まっていた。


   ◇


その頃、気象庁のサーバールームでは、雪村ハルカの同僚たちが観測データを眺めていた。


「福岡の寒気、早まってないか?」


「クロノリンクの短時間予測も、さっきから誤差が増えてる。」


モニターには、日本海側から流れ込む冷たい空気の塊が、予想よりも南へ膨らみ始めている様子が映っていた。五秒先の映像には、福岡の港に、白いものがちらついていた。


ハルカの机には、別ウィンドウでイベント会場の配信画面が開いている。ナナが笑い、ツバサが走り、観客が拍手する。


「折れ目が、ずれた。」


彼女は小さくつぶやくと、椅子から立ち上がった。


「現場に戻らないと。」


   ◇


ステージ上では、軽いコント風のトークが始まっていた。


「じゃあここで、観客席から質問を募集しましょう。『五秒先が分かったら、何に使いたいですか』。」


ナナがマイクを向けると、小学生くらいの男の子が手を挙げた。


「テストの答えを……」


「それはダメです。」


即座にハルカがツッコミを入れ、会場が笑いに包まれる。


「五秒先じゃ、テストの問題全部見えないでしょ。」


ツバサが補足する。


「じゃあ、転びそうなときに、先に手を出すとか。」


「それは良い使い方。」


ナナが頷く。


別の中年男性が手を挙げた。


「五秒先の株価とか……」


「はい、それもダメです。」


今度はリュウが即座に遮った。


「軍事利用と投機利用は、どちらも私たちが一番悩んでいるところです。」


「じゃあ、私の番。」


ナナはわざとらしく手を挙げる。


「五秒先のコメント欄を見て、滑ったボケをカットしたい。」


「それ、一番ズルいですよ?」


ミユがストックホルムから苦笑する。スクリーンに、彼女の笑顔と椅子の列が映る。


「でも、今日はカットしなくていい夜になるといいね。」


ナナが言ったとき、再びスクリーンがふっと暗くなった。


ホールの五秒後の映像の中で、観客の何人かが立ち上がっている。天井の照明が、大きく揺れている。ステージ後方に吊られた看板が、バタバタと振られていた。


現実のホールでは、まだ誰も立ち上がっていない。照明も揺れていない。


「……今の見た?」


ハルカの顔色が変わる。彼女の手元の端末にも、同じ映像が遅れて表示された。


五秒後:風速増加。屋外構造物の揺れ。観客の一部立ち上がり。


ナナの耳で、消したはずのアラート音が、小さく「ピ……」と鳴った。音響卓の誰かが、設定を一瞬戻したのか、それともシステムが勝手に割り込んだのか。


「ナナさん。」


インカムからリュウの声が飛び込む。


「今のはバグじゃない。寒気の前線が予想より早く入ってきた。屋外の看板、多分このあと本当に揺れる。」


「ここ、屋内だけど。」


「屋外ステージの支柱が、風で引っ張られる。構造上、ここの天井にも負荷が来るかもしれない。」


ナナは、観客席を見回す。笑顔と、わずかな不安が混じった顔。配信のチャット欄には「今の何?」「演出?」とコメントが流れる。


「スポンサーは、続けろと言うはずよ。」


マーサが、別のスクリーンから静かに言った。


「でも、人間としては、どう?」


ナナは一瞬、マイクを握る手に力を込めた。


「みなさん。」


彼女は観客席に向き直る。


「少しだけ、真面目な話をしてもいいですか。」


照明が、ほんの少し淡くなる。ステージ上の五秒後の映像では、ナナがすでにそう言っている。時間が、二重に重なる。


「五秒先の未来が見えるクロノリンクっていうシステムは、とても便利です。でも、今日わかったのは、五秒先が一つとは限らない、ってことです。」


スクリーンには、防衛モードから送られてきた別の未来像が、薄く重ねられる。南西の海。レーダーを向ける戦闘機。距離を取り始める自衛隊機。そのほんの少し横に、もし距離を取らなかった未来の、白い光の筋が、かすかに滲んでいる。


「さっき、海の上でも、選ばれなかった未来がありました。ここでも、これからいくつかの未来が選ばれるはずです。」


ナナは息を吸う。


「なので、ここで一度、笑いを止めます。」


会場が静まり返る。


「雪村さん、防災モードに切り替えましょう。」


ハルカは頷き、端末の設定を操作した。消していたはずのアラートが、一気に戻る。「ピコン、ピコン」と、控えめな警告音がホールの片隅から響き始める。


「この会場にいる皆さんは、慌てずに、スタッフの指示に従ってください。天井や看板から離れて、通路側に少し移動しましょう。配信をご覧の皆さんは、自分の頭上のものを見てください。看板や足場が揺れていたら、その場から離れてください。」


ナナの声は、いつもの軽さを抑えていた。


「こんな場面で視聴者を減らしたら、スポンサーに怒られるかもしれないです。でも、怒られた怒られたで、また配信のネタにします。」


観客席に、緊張混じりの笑いが戻る。


福田ツバサは、ランニングマシンから飛び降りていた。


「俺、ちょっと回ってきます。」


そう言って、足元のタグを外し、ナナに放る。


「これ、預かっててください。」


「未来を預けられた。」


ナナが苦笑する。


ツバサは、実際の足で会場の周囲を走り始めた。床の振動。空気の流れ。足裏の感覚。クロノリンクが示す五秒先の映像より、今の足の冷たさの方が、確かな情報に思えた。


ホールの天井が、わずかにきしむ。「ギシ、ギシ」と、金属の軋む音。五秒後の映像では、看板が大きく揺れ、ひとつのネジが外れかけている。


ツバサは、その下に立っている子どもと母親を見つけた。


「すみません、ちょっとこっちへ。」


何も言わずに腕を引くと、母親が驚いた顔をした。


「え、あの、サイン……」


「あとでいくらでも書きますから、今はこっち。」


彼らが数歩離れた瞬間、看板の支柱が大きく「ガタン」と揺れた。スタッフが駆け寄り、支えに入る。


五秒後の映像では、看板が床に落ちている別の未来と、持ちこたえた未来が、薄く重なって揺れていた。


   ◇


同じ時刻、南西の海では、別の選択が行われていた。


戦闘機のコックピットで、異国のパイロットは、ヘッドアップディスプレイに重ねられたクロノリンクの警告表示を睨んでいた。五秒先の未来に、太い赤い線が描かれている。ミサイルロック。交戦。


だが、その線は一本ではなかった。薄い橙色の線が、その横にいくつも重なっている。距離を取る未来。レーダーをオフにする未来。何も起きない未来。


どれを選ぶかは、自分の指先ひとつ。


パイロットは、ため息混じりに笑った。世界のどこかで、同じようにため息をついている誰かの顔が、なぜか頭に浮かんだ。


「今日は、やめておく日だ。」


レーダーのスイッチが切られ、照準マークが消える。


その決断は、世界のニュースでは「緊張状態続く」として、冷ややかに報じられるだけかもしれない。だが、クロノリンクの時刻格子の上では、一つの未来が静かに消えていった。


   ◇


ノベール博物館の一角。ミユは、世界各地のノードから送られてくるデータを見つめていた。


「今、一瞬、時刻格子が折れた。」


彼女の画面には、福岡のイベント会場、南西の海、日本海側の雪雲が、同じ時間軸上で交差していた。クロノリンクは、本来ならば一地点ごとに一本の未来を描くはずなのに、いくつもの枝が同時に光っている。


「単純に言うと、バグです。」


彼女は自分に言い聞かせるように呟く。


だが、その「バグ」は、人間たちが自分の判断で未来を選んだ瞬間に、だけ起きているように見えた。


ミユは、博物館の片隅に設置されたノードにアクセスした。世界中のノードに比べれば、ここで変更できるのはごく小さなパラメータだけだ。それでも、時刻格子の描き方に、少しだけ手を入れることはできる。


「一本に畳むんじゃなくて、枝のまま見せる。」


彼女は、予測アルゴリズムの表示モードを切り替えるコマンドを打ち込んだ。次の瞬間、博物館の壁に映し出されていた世界地図の上で、未来の光の筋が、一つの太い線から、何本もの細い線へと変わった。


福岡のマークの周りで、小さな枝がいくつも揺れ、そのうち一本が太く光る。そこには「イベント一部中断、人的被害なし」の文字が、まだ誰も読めないほど小さく浮かんでいた。


   ◇


嵐のような一時間が過ぎた。


福岡のイベント会場では、屋外ステージの一部が使用中止になり、屋内イベントも観客数を絞って続行された。大きな事故は起きなかった。ニュース速報には、小さく「マラソン前日イベント、強風で一時中断」と流れた。


配信は途中で切られたかと思えば、ナナがスマートフォン一台だけで再開し、「スポンサーの偉い人と怒られ会議をしたあとです」と苦笑いしながら、避難した観客と一緒に床に座ってトークを続けた。


「結果的に、ここにいる全員の未来が、一本だけじゃなかったってことで。」


彼女のその言葉は、切り抜かれて「#寒気と未来と私たち」のハッシュタグと共にSNSを巡った。


翌日、福岡インターシティマラソン本番。クロノリンクの市民向けモードは、まだ本格復旧していなかった。スマホの画面には、いつものような鮮明な五秒後の映像ではなく、薄い揺らぎのようなモヤが表示されるだけだ。


「今日の五秒先は、走ってみないと分からないってことか。」


ツバサは、スタートラインで息を吐いた。冷たい空気が肺を刺す。沿道には、防寒具を着込んだ観客たち。風は冷たいが、雪雲の折れ目がちょうど頭上に来ている。低い冬の陽が、路面を白く照らした。


号砲。「ドン」という音とともに、走者たちが一斉に飛び出す。


ツバサは、時計を見るのをやめた。足裏に伝わるアスファルトの硬さ。風の向き。太腿の張り。それらを、一歩ごとに確かめながら走る。


三十五キロ地点を過ぎたあたりで、前を行く異国のランナーの背中が見えた。クロノリンクがあれば、「五秒後に追いつく」「十秒後に離される」と、数値が表示されていたはずだ。今日は、ただ距離感だけが頼りだ。


「未来の数字が見えなくても、走り方は変わらない。」


そう自分に言い聞かせ、ツバサはじりじりと距離を詰めていく。


結果、彼は総合二位でゴールした。外国人選手にひとりだけ先を行かれたが、日本人トップ。ゴールテープを切った瞬間、彼は思わずガッツポーズをした。


「五秒先が分からなくても、なんとかなりました。」


インタビューでそう答えると、「アナログの星」という見出しが、ネットニュースに踊った。


   ◇


その頃、東京のオペレーションルームでは、高城リュウとマーサ・ブレイクが、静かな報告書を読んでいた。


「南西海域での照準行為について。相手機は、一定時間レーダー照射を行ったのち、交戦には至らず退去。」


乾いた文章の背後に、いくつもの枝分かれした未来があったことを、ふたりは知っている。


「クロノリンクの表示、変えたんだって?」


マーサが画面を顎で示す。新しいインターフェースには、一つの線ではなく、複数の可能性が帯状に描かれていた。それぞれの線には、「衝突」「退避」「接触なし」と小さなラベルが付いている。


「椿原さんの提案らしい。一本に決め打ちしないで、可能性の幅として見せる。最終判断は、人間がする。」


「政治家は、一本の線の方が好きそうだけど。」


「だからこそ、ここで踏ん張らないとな。」


リュウは背もたれに身を預けた。


「昨日、あいつがステージで言ってたろ。『笑えない夜は、笑えないって言うところから始めよう』って。」


「あいつ?」


「纏目ナナ。マトメナ。」


マーサは微笑んだ。


「ニュースを笑いに変える人が、笑わないことを選んだ。」


「それも、一つの未来の選び方だ。」


   ◇


ストックホルムの授賞式会場。きらびやかな照明の下で、世界中から集まった研究者たちが、古い音楽に合わせて拍手を送っている。


椿原ミユは、観客席の後ろの方で立ち上がり、受賞者のひとりである自分の教授が壇上に上がるのを見つめていた。舞台の後ろのスクリーンには、世界中の都市の現在の様子が映し出される。クロノリンクの「分岐モード」によって、五秒後の映像は、あえて表示されていない。


「今を讃える時間くらい、未来は余白でいい。」


ミユは、胸の中で小さく言葉を継いだ。


ポケットの端末が震える。画面には、ナナからの短いメッセージ。


「昨日は助かった。またいつか、未来の話を笑いながらしよう。今度はスポンサー少なめで。」


ミユは吹き出しそうになりながら、短く返信する。


「五秒後じゃなくて、五年後の未来の話をしよう。」


送信ボタンを押したあと、彼女は会場後方に並んだ椅子の列を振り返った。自分が小さく「刻」と書き込んだ椅子が、静かにそこにある。


時間は刻まれ続ける。それでも、人が選ぶ未来には、たくさんの折れ目がある。


アジアのどこかでは、寒気が街を白く染め始めている。海では、レーダーが冷たい空気を切り裂きながらも、撃たれなかった弾頭が沈黙を守っている。マラソンの沿道では、吐く息が白く揺れ、人々がそれぞれの速度で走り続けている。


五秒先の未来が見えなくても、冬の夜は進んでいく。その中で、それぞれの小さな判断とユーモアが、世界のどこかの折れ目を、少しだけ柔らかくしている。


(了)


――あとがき――

今回の短編では、南西海域での射撃管制レーダー照射の報道を、高城リュウとマーサが扱う防衛版クロノリンクのログとして描きました。また、日豪協力のニュースは「#日豪防衛リンク」という配信内の言葉に変換し、ふたりの会話の背景に置いています。福岡のマラソンの話題は、福田ツバサのレースと前日イベントとして取り込み、寒気襲来の予報記事は雪村ハルカの仕事と会場の強風トラブルにつなげました。ノベール博物館の椅子のサインのニュースは、椿原ミユが「刻」と一文字を書き込む場面として反映しています。


ジャンルとしては、近未来SFと群像ドラマの中間あたりを狙い、技術そのものの驚きよりも、それをどう使うかをめぐる小さな選択に重心を置きました。終わり方も、世界が劇的に救われる王道ではなく、「事故も戦争も一気には解決しないが、今日は確かに一つの未来が選ばれた」というくらいの静かな手触りに寄せています。


ニュースとフィクションの距離は難しく、特に安全保障や災害の話は、現実に起きている緊張や被害を軽く扱わないよう気をつけました。そのうえで、名前や地名、タグ表記などを少しずつ架空寄りにずらし、人の判断やユーモアを通して「冷えたニュースの中で何を守るか」を物語として再構成したつもりです。


この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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