湯けむりのタグライン【2025/12/07】
雪の降り始めた山あいの温泉街に、世界のニュースが降り積もっていた。
安藤ミカは、各部屋の窓ガラスに貼られた古い紙の注意書きを横目に、掌サイズの端末を握りしめる。画面には、見慣れたニュースアプリの速報がいくつも、青白い光で瞬いていた。
地球開発銀行とワクチン同盟ギャヴィ連合が、低所得国向けに巨額の予防接種資金を動かす――そんな見出しが一つ。
東シナ海で近隣国の艦艇が増え、周辺国が「警戒を強める」と伝える見出しが一つ。
そして、日本の十月の家計調査で、実質消費支出がここ数年で最大の落ち込みを記録した、という見出しが一つ。
指先を滑らせるたびに、冷えた指先と反比例するように、世界は熱を帯びていくように見えた。
「……援助と緊張と節約、全部いっぺんに押しつけないでほしいんだけど」
ミカは小さくつぶやき、端末を畳んでポケットにしまった。ここは信州の阿千村、昼神谷。冬木サチコが営む古い宿「ゆきのさち館」の一室だ。
今夜、この宿で「ニュースと温泉で世界をあたためよう合宿」が開かれる。企画したのは、フォロワー数百万を誇るニュースまとめ配信者、纏目ナナ。通称ナナメ。
ミカはその裏方スタッフだった。
障子の向こうから、廊下を走る足音と、誰かの甲高い声が聞こえてきた。
「ミカー! 着いたよー! 寒いー! 暖房代高すぎー!」
襖が勢いよく開いて、中原ユミが転がり込む。頬を真っ赤にして、両手に大きなトートバッグと、きっちり書き込まれた家計簿ノートを抱えていた。
「ノックくらいしなよ」
「ごめん。でも見て、今月の『#家計支出減少気味』チャレンジ、なんとか黒字なんだよ。ここに来る高速バスも、早割ギリギリで取ってさ」
ユミはノートをぱらぱらとめくり、小さな数字の列をミカに見せる。すべて電卓の跡がびっしりと鉛筆で書き足されている。
ミカは思わず笑った。
「それ、タグまで付けてるの」
「だって、節約系配信の定番だもん。……でさ、その黒字を全部この合宿に突っ込んでるわけ。だから楽しませてよ、ミカさん」
「プレッシャーかけないで」
ユミは部屋の隅に置かれたテレビを指さした。画面には、大学バスケットボール選抜大会の特集が流れている。中継スタッフが「第七七回全日本大学バスケットボール選抜大会、男子ベストフォー出そろう」と、勢いよくしゃべっていた。
テロップの端には、「#インカレ二〇二五ベスト伍」の文字が踊っている。
「ねえ、これ、村上くんの母校だよね」
「そう。あのひと、きっと今、内心ざわざわしてるはず」
ミカが苦笑したところへ、廊下の向こうから背の高い影が現れる。
「ざわざわしてるって、誰が」
村上ケンスケだった。ジャージにダウンジャケットという、学生と社会人の中間のような服装。手には、色あせた大学バスケ部のパーカーがぶら下がっている。
「元エースの登場」
「元エースじゃない。ただの控えガード」
ケンスケはパーカーを無造作にソファに投げた。その胸元には、古びた校章と背番号がついている。タグには小さく、「また着ることがあったら奇跡だな」と本人の字で書かれていた。
「今日は解説役、お願いね。ナナメさんの配信で、インカレの準決勝も同時視聴するんでしょ」
「だから、それがさあ……」
ケンスケは頭をかき、視線をそらした。
「画面の向こうで何万人も見てると思うと、膝が震えるんだよ。試合より緊張する」
「現役のときは平気だったくせに」
「現役じゃない今のほうが、ぜんぶ自分の言葉の責任だろ。ミスってもリプレイできないし」
軽口を交わす三人の頭上で、天井の蛍光灯が「ジ……」と小さく唸った。古い建物ならではの音だ。
廊下を歩いてくる足音が、次第にリズムを持ち始める。トン、トン、トン。まるでドラムのビートみたいに一定だ。
やがて襖が静かに開き、纏目ナナが顔を出した。
肩までの髪をひとつにまとめ、耳には銀色の小さなイヤーカフ。そこから透明な光の糸のようなものが、空中にふわりと広がっている。個人用のニュースフィードインタフェース「ナナノード」だ。
「みんな、到着おつかれ。……って、くつろいでる場合じゃないよ。世界は今日も全力で忙しい」
ナナは微笑みながら部屋に入り、空中の光の糸を指で弾いた。すると、壁一面にニュース見出しが薄く投影される。ワクチン資金のニュース、東シナ海の艦隊の写真、家計調査のグラフ、そしてインカレのベストフォーを伝える映像。
「見て、このタグの洪水。今日の配信タイトルは『#ワールドバンクギャヴィアと東シナ海と家計簿と温泉』でいこうかなって」
半透明のバナーには、少しだけ綴りをいじられた「ワールドバンクギャヴィア」の文字が揺れていた。
「長いよ、タイトル」
ミカが呆れると、ユミが笑う。
「でもナナメさんらしい。ぜんぶまとめてナナめ上に見るやつ」
「そうそう。まとめて、ナナめから、ナナメの目線で」
ナナは自分のあだ名のダジャレに、わざとらしく肩をすくめた。
そのとき、廊下の奥から低い声が響いた。
「おーい、ナナメさーん。駐車場、雪で一台埋まりそうなんだけど」
顔を出したのは、高橋リョウだった。長めの前髪からのぞく目は眠そうだが、その手にはいつもどおり、軍事オタク御用達の航行監視アプリが開かれている。
「埋まりそうなの、車じゃなくて東シナ海だけどね」
ナナがからかうと、リョウは肩をすくめた。
「だってさ、『#東シナ海微緊張』が今朝からずっとトレンド上位なんだよ。艦艇の数、昨日より増えてるし。こういうの、放っておくと心のどこかでずっと波の音がするんだ」
彼の端末には、海の地図と、小さな船のアイコンがびっしりと並んでいる。その一つ一つが、遠くの緊張を示す点に見えた。
「波の音なら、こっちにもあるよ」
廊下の向こうから、やわらかな声がした。冬木サチコが、木のスタンプ台と厚紙の台紙を抱えて立っていた。
「『湯屋護様めぐり』のスタンプラリー台紙。今回の合宿の参加者には、もれなく配りますからね」
台紙には、温泉街の地図と、いくつもの丸い枠。そこに「湯屋護様」と書かれた、白ひげの守り神のイラストが並んでいる。
「温泉を守る神様、って設定なんですけどね。お客さんの財布も守ってくれたらいいんだけど」
サチコは冗談めかして笑い、ユミにウインクした。
「守ってほしいです、本気で」
ユミは即答した。
スタンプ台紙の隅には、小さく「#阿智昼紙湯屋守」と印刷されている。これを撮って投稿すると、抽選で地元のお米が当たるのだという。
「タグ文化まで観光に取り込んでる……」
ミカが感心すると、サチコは胸を張った。
「世界が冷え込んでいるときこそ、湯気の写真でタイムラインをあたためるんですよ」
こうして、世界の援助も安全保障も家計簿も、大学バスケの熱戦も温泉街のスタンプラリーも、ひとつの宿の大広間に集まる準備が整いつつあった。
夕方、ゆきのさち館の大広間は、ケーブルと三脚と湯のみで埋まっていた。
畳の上に並んだカメラと照明。その向こうに、古い柱時計と、煤けた木の梁。そして壁際には、延長コードのタコ足配線が「ぐるぐる」と渦を巻いている。
「音声テストいきまーす。『寒さ手当が欲しい人』」
ナナがマイクに向かって言うと、
「はい」
「はい」
「はい」
全員が手を挙げた。
「じゃあ、『寒さ手当』より『推し活手当』が欲しい人」
「はい!」
ユミとケンスケがほぼ同時に手を挙げ、目が合って、なぜか気まずそうに手を下ろした。
「え、ふたりとも推し同士なの?」
ミカが首をかしげると、ケンスケが慌てる。
「ちがうちがう。オレの推しは、うちの大学のバスケ部だから」
「わたしはナナメさんのまとめ配信だから」
「え、そこかい」
ナナが即座にツッコミを入れると、リョウがぽつりと言った。
「オレは、……まあ、平和かな」
「推しが平和って、いちばん重いよリョウくん」
「重いの?」
「重いよ」
妙なテンポのやり取りに、サチコが台所から顔を出す。
「なにが重いって? 電気代?」
「そこも重いです」
全員が苦笑し、大広間に少しだけあたたかい笑いが広がった。
セッティングがひと段落すると、ナナは床に座り込み、膝の上に端末を置いた。ナナノードの光が、彼女の指の動きにあわせて揺れる。
「今夜の構成、もう一度確認するね」
指で空中に時間軸を描くと、半透明のタイムラインが現れた。
「まず、地球開発銀行とギャヴィ連合の共同基金のニュース。ここで、ミカに公衆衛生目線の説明をしてもらう」
「うん。あのデータ、わたしも一部チェックに関わってるから」
ミカは少しだけうつむく。画面に映る数字の向こう側に、本物の子どもの顔があると、最近ようやく実感し始めていた。
「次に、『#東シナ海微緊張』関連。リョウ、ここで海の状況を、煽らない程度に解説して」
「煽らない程度って、難しい注文だなあ」
「大丈夫。ナナノードの自動ファクトチェックも入れるし」
ナナは耳元のイヤーカフを指先で軽く叩いた。「コン」と小さな音がして、空中に警告マークが一瞬浮かんでは消える。
「それから、ユミの『#家計支出減少気味』企画。家計調査のニュースと、自分の生活の話を重ねて」
「節約術なら山ほどあります。背中が寒くなる話ばっかりですけど」
「最後に、インカレ準決勝の同時視聴。ケンスケに解説してもらって、視聴者からのスーパーチップを『湯屋護様基金』として集めて、阿千村の診療所と、海外の一次医療支援団体に半分ずつ寄付する」
ナナの指先から、二つの光の矢印が伸びて、世界地図の別々の場所を指し示した。
「……そんな大それた企画、よく通ったよね」
ミカが感心すると、ナナは肩をすくめた。
「世界はいつも大それたニュースであふれてるから、ちょっとぐらいまねしてもバレないよ」
ケンスケは、腕を組んだまま黙っていた。タイムラインの最後に、自分の名前が載っている。その横には、小さく「元控えガード」と書き添えられている。
「……ほんとにオレでいいのかな」
ぽつりとこぼした言葉は、小さくても重かった。
ナナはその言葉を拾い上げるように、視線を向けた。
「ケンスケじゃなきゃだめだよ。勝ち負けだけじゃないところも、ちゃんと話せる人がいいんだ」
ユミは、家計簿ノートを抱きしめたまま、そのやり取りを見ていた。自分の名前の横に「節約系インフルエンサー見習い」と書かれているのが、少しむずがゆい。
「……わたしも、いつか『見習い』取れるかな」
誰にともなくつぶやくと、サチコが笑った。
「そのころには、うちの宿も『見習い』じゃない人気宿になっててほしいねえ。家計支出が減ると、温泉街にも響くんですよ」
彼女の手には、古い帳簿が握られていた。赤と黒の数字が、雪の結晶みたいにびっしりと並んでいる。
夜になり、外は本格的な雪になった。窓を開ければ、白い息と湯気と雪片が混ざり合い、街灯の光に照らされて「ふわり」と踊る。
大広間の照明が落とされ、代わりにスタジオ用のライトが「パッ」と点いた。畳の上に並ぶナナたちの顔だけが、くっきりと浮かび上がる。
「では、『ナナメのニュース湯けむり版』生配信、はじまりはじまりー」
ナナが両手を叩く音が、マイクを通して「パン」と響く。
カメラの赤いランプが点灯し、コメント欄が一気に流れ始めた。
《温泉から配信とか最高》
《#ワールドバンクギャヴィアって何?》
《東シナ海こわいけど、今日くらいは笑いたい》
ナナノードがコメントを自動で分類し、空中に小さな吹き出しとして浮かべていく。
「今夜は、世界の冷え込みと、ここ阿千の湯気をつなぐ実験です。まずは、さっき入ったばかりの国際援助のニュースから」
ナナが合図すると、ミカの前のサブモニターに、地球開発銀行とギャヴィ連合のロゴマークが映し出される。続いて、低所得国の子どもたちが予防接種を受けている映像。
ミカは、深呼吸を一つしてから、ゆっくり話し始めた。
「これは、現地の保健所で働いているスタッフの数も、一緒に増やそうっていう取り組みなんです。ワクチンだけ配っても、そのあと診てくれる人がいなかったら意味がないから」
コメント欄に、「なるほど」「現場大事」という文字が次々に流れる。
ミカは、自分の言葉が誰かの画面の向こうに届いていくのを、初めてはっきりと感じていた。
続いて、画面には夜の海が映る。衛星写真を元にした、青い地図と白い点の群れ。
「次は、今いちばん質問の多い『#東シナ海微緊張』です」
ナナが合図すると、リョウがマイクの前に身を乗り出した。
「見てもらっているのは、商船と軍艦の位置情報です。最近ここがにぎやかになっていて、このところ『なんかあったの?』って声が増えてる」
指先が地図の上をなぞるたび、小さな点が「ピコッ」と光る。
「ただ、これだけで『すぐ何か起きる』って決めつけるのは早い。訓練なのか、けん制なのか、単なる予定どおりの航行なのか。オレたちに見えているのは、点と線だけです」
ナナノードが、過激なコメントに自動で薄いモザイクをかけていく。「戦争確定」といった言葉は、淡いグレーでぼかされて消えた。
「だからこそ、怖がりすぎず、でも見ている。……そういう距離感が大事なんじゃないかと思います」
リョウの声は、思ったよりも落ち着いていた。
そして、話題は家計のニュースへと移る。
画面に棒グラフが現れ、「十月の実質消費支出、前の年より大きく減少」と字幕が流れた。
「というわけで、ここからは『#家計支出減少気味』担当の中原ユミさんです」
ナナが紹介すると、ユミは家計簿ノートを抱えて、正座の姿勢を正した。
「えー……みなさん、湯気の向こうからこんばんは。節約しすぎて体まで冷えている人代表、中原です」
コメント欄に「分かりみ」「同じく」という文字が次々と流れる。
「ニュースのグラフって、正直、他人事に見えがちなんですけど。わたしのノートだと、こんな感じで――」
ユミがノートをカメラに近づけると、細かく書き込まれた「食費」「光熱費」「推し関連」の数字が映る。
「ここ、光熱費。じわじわ上がってて、最初は『まあ冬だし』って思ってたんです。でも、推し関連の欄を削らないで済むようにって、暖房の設定温度を一度下げて、湯たんぽを導入しました」
「推し関連削れよ」
ケンスケの小声のツッコミがマイクに拾われ、コメント欄が「笑」で埋まる。
「そこ削ったら、心が凍るでしょ」
ユミは真顔で返した。
「人間、どこまでも節約できるわけじゃない。だから、何を守るかを決めるのが家計なんだなあって、最近やっと分かってきました」
ユミの言葉に、サチコが台所からうなずく。
「うちは、お客さんの笑顔を守りたいねえ。だから、光熱費が上がっても、お湯の温度は下げません」
順調に進んでいた配信は、ひとつのテロップで空気を変えられた。
ナナノードの端に、赤い帯が走る。「速報」の二文字。
同時に、壁のモニターにもニュース専門チャンネルの画面がポップアップした。東シナ海で、各国の艦艇がにらみ合う映像。小さな無人監視機が低く飛び、その下で波しぶきが「ザザッ」と跳ねる。
《え、さっきのとこじゃない?》
《#東シナ海微緊張マジだった》
《もう笑ってる場合じゃなくない?》
コメント欄がざわつく。ナナノードの光の糸が、一瞬だけきつく絡まったように見えた。
ナナは、深く息を吸い込んだ。
「……今入ってきた映像です。さっきリョウが話してくれた海域で、艦艇同士がかなり接近しているようです」
リョウの端末にも、同じ映像が遅れて流れ込んでくる。彼は唇をかみ、拳を握った。
ミカは、画面の端に小さく表示された「提供:国際ニュース通信社」の文字を、ただ見つめていた。自分の関わるワクチンの数字とは、まったく別の種類の世界の揺れ。
「どうする、ナナメさん」
ケンスケが小声で尋ねる。
「このままバスケの話に行くの、空気読めてない感じ、しない?」
「でも、だからってここで素人軍事解説やっても、もっと不安を煽るだけだよ」
ナナは額に手を当てる。
「……いったん、配信を少しだけ中断しよう。視聴者にも、『情報を整理する時間をください』って伝えて」
マイクのスイッチが切られ、カメラの赤いランプが消えると、大広間は急に現実の色を取り戻した。
外の雪の音だけが聞こえる。ストーブのファンが「ゴオ」と回る音さえ、やけに大きく感じられた。
「世界、タイミング悪すぎ」
ユミがぽつりとこぼす。
「悪い、って言っていいのかどうかも分からないけどさ」
リョウは、まだ端末の画面を見つめていた。何度も更新ボタンを押して、最新情報を追いかけてしまう癖が出る。
ミカは、自分の膝の上のナナノードの影を見ていた。さっきまでコメントの光を映していた畳には、今はただ、自分たち五人とサチコの影だけが落ちている。
「ねえ」
ナナがゆっくりと口を開いた。
「さっきユミが言った、『何を守るかを決めるのが家計』って話。配信も同じかもしれない」
「何を、守る?」
ケンスケが問い返す。
「世界のことをぜんぶ同じ重さで抱え込むのは、無理。だから、今日この場所で、わたしたちがちゃんと向き合える範囲を決める。……そういうふうに続けない?」
ナナは、一人一人の顔を見渡した。
「東シナ海のことも、もちろん無視しない。でも、不安を増やすだけの言葉は言わない。その代わり、ここから誰かに届くあたたかさを、ちゃんと作る」
ミカは、その言葉にうなずいた。援助も安全保障も、数字だけではなく、人の感情の積み重ねなのだと思えた。
しばらくして、配信は再開された。しかし、カメラの位置も背景も、さっきとは少し違っている。
画面いっぱいに広がるのは、露天風呂の縁から見える夜空と、湯けむり。雪が静かに降り注ぎ、その中に照明の光が「キラキラ」と散っている。
湯船の手前に低いテーブルを置き、その上にマイクと端末を並べた。ナナたちは浴衣に羽織を着込み、足湯につかりながら座っている。
《景色やば》《#阿智昼紙湯屋守行きたい》
コメント欄が一気に賑やかになった。
「さっきのニュースを受けて、場所を変えました」
ナナが湯気の向こうから微笑む。
「世界の緊張が高まるときほど、わたしたちはどこにいて、誰と何を見ていたか、って記憶が大事になると思うんです。だから今、この阿千村の湯けむりの中から、いつもの生活の延長線上で話を続けます」
露天風呂の縁からは、遠くの山の稜線がかすかに見えた。その向こうには、見えない海が広がっているはずだ。
「そしてここからは、『守りたいもの』特集に切り替えます」
ナナがそう宣言すると、画面には「一枚目 健康」「二枚目 日常」「三枚目 推し」「四枚目 ゲームのようでゲームじゃない試合」と、手書き風の文字が並ぶカードが現れた。
「一枚目。健康」
ミカは、小さく頷いてからマイクを握った。
「さっき紹介した基金のニュース。あれは、遠い国の話に見えるかもしれない。でも、ここ阿千の診療所も、人手不足と予算不足でギリギリです」
サチコが、湯けむりの向こうでうなずく。
「だから今回、湯屋護様基金として集まったスーパーチップの半分を、阿千の一次医療支援に回すことにしました」
コメント欄に「地元にも届くのいい」「ギャヴィ連合って初めて知った」という文字が並ぶ。
ミカは、湯気の向こうで見えない誰かに向かって、静かに言葉を重ねた。
「予防接種のデータを見ていると、一本一本のワクチンの向こうにいる人の顔を、つい忘れてしまいそうになる。でも、こうして湯けむりの中で話していると、その人たちも同じように寒さや暑さを感じているんだって、少しだけ想像できる気がします」
「二枚目。日常」
バトンを受け取ったユミは、足湯の中で足をばたばたさせながら笑った。
「日常って、お湯みたいですよね。少しずつ温度が下がっていくときは気づかないけど、ある瞬間に『あれ、冷たい』ってなる」
「それ、節約しすぎたときの話?」
ナナが笑う。
「そう。家計調査のニュースも、グラフだけ見てると他人事。でも、自分の財布の中身を見ると、『あ、わたしもこの棒グラフの一本なんだ』って分かるんです」
ユミは、湯気の向こうのカメラに向かって、家計簿ノートを掲げた。
「だから、今ここで、今日一日の『しょうもない贅沢』を共有しませんか。コンビニのホットスイーツとか、推しのグッズとか、この合宿とか。世界がどれだけ冷え込んでも、『ここだけは温かくしておく』って決める場所をさ」
コメント欄に「今日は電車で座れた」「風呂のあとココア飲んだ」「推しの笑顔が尊い」といった日常報告があふれていく。
「三枚目。推し」
ケンスケが苦笑しながらマイクを取った。
「オレの推しは、もちろんバスケです。って言ったら、さっきコメント欄で『元選手が語る推し愛』ってタグが勝手に立ってたけど」
《#元控えガードの逆襲》
《#インカレ二〇二五ベスト伍信じてる》
画面の隅に生まれたタグに、ケンスケは思わず吹き出した。
「ほら、みんな自由にタグ作るから……。でも、うれしいです。今日これから見る準決勝は、ゲームみたいに見えるかもしれないけど、コートの上にいるやつらは、毎日『推し』に人生をつぎ込んでる」
隣で湯気がふわりと揺れる。ケンスケは、さっきまで着るのをためらっていた古いパーカーを、いつの間にか羽織っていた。
胸元の校章が、ライトに照らされて「きら」と光る。
「ケガしてベンチで終わったやつもいるし、ベストフォーに届かなかったやつもいる。でも、その全部が積み重なって、今夜の試合がある。だから、勝ったチームにも負けたチームにも、ちゃんと湯気を送ってあげたいなって」
コメント欄に、「湯気送る」の文字と湯の絵文字が、一斉に流れた。
「四枚目。ゲームのようでゲームじゃない試合」
ナナがカードを掲げ、リョウに視線を向ける。
「それ、オレ?」
「そう。海のこと」
リョウは少しだけため息をつき、端末の画面をロックした。船のアイコンは見えなくなり、ただ暗い黒色が映るだけになる。
「さっきの映像。あれも、ある意味では『試合』みたいに見える。どの艦がどこにいて、どんな陣形を取ってるか。ただの数字とアイコンの並び」
足湯の水面が、彼の声に合わせて「ゆら」と揺れる。
「でも、その船の上には、人がいる。寒い甲板で風に吹かれてる人もいれば、モニターの前で飲み物をすすってる人もいる。オレが推したいのは、その人たちができるだけ何も起きないで帰ってこれる未来」
コメント欄に、「何も起きないのが一番」「平和推し」という言葉が並ぶ。
「だから、今日はこのあと、バスケの熱戦を見ながら、『何も起きないことを願う試合』の話も、ときどき思い出してほしいです」
リョウはそう言って、ナナノードの光を一度だけオフにした。耳元のイヤーカフが静かに光を失い、夜空の星だけがくっきりと残る。
やがて、画面は体育館の眩しい光へと切り替わる。
インカレ準決勝。木の床のきしむ音と観客のざわめきが、「ザワザワ」とスピーカーからあふれ出した。
ナナたちは湯気の中から、その映像を見つめる。カメラは湯船の縁と画面の両方を映すように配置され、視聴者は、世界の二つの熱を同時に感じられるようになっていた。
《湯気越しの試合、新しい》
《こっちは足湯、あっちは汗だく》
《#インカレ二〇二五ベスト伍がんばれ》
コメント欄の文字が、画面の下で波のように流れる。
スコアは拮抗している。残り時間が少なくなるにつれて、会場のボルテージも、露天風呂の湯気も、どんどん熱を増していくように感じられた。
「ディフェンス、もう半歩寄れ」
ケンスケが思わず立ち上がり、足湯から湯をこぼしてしまう。
「ちょ、せっかく温まったのに」
ユミが抗議するが、その顔も笑っていた。
ミカは、画面の端に表示された募金額のバーを見ていた。「湯屋護様基金」の残高が、少しずつ伸びていく。スーパーチップ一口ぶんの金額は小さい。けれど、その数は雪のように静かに積もりつつあった。
《海外にも届くって聞いて寄付した》
《うちの町の診療所にも、こういうのあればいいのに》
コメントの一つ一つが、ミカの胸に灯りをともす。
そのとき、ナナノードが自動で生成した「一枚絵」が空中に浮かび上がった。
露天風呂の湯気、夜空の星、体育館の照明、世界地図の上を流れるニュースのテロップ。それらがすべて、一枚の画面に重ねられる。
もし漫画だったら、見開きいっぱいに広がるシーンだろう。湯船の縁に並ぶ五人と一人の女将。その背後に、バスケのコートと、遠くの海と、どこかの診療所の待合室が、半透明に重なっている。
画面の隅では、「#ワールドバンクギャヴィアチャレンジ」「#東シナ海微緊張」「#家計支出減少気味」「#阿智昼紙湯屋守」といったタグが踊る。
世界の冷えと温もりが、ごちゃまぜになって、ひとつの湯気の中に溶けていくようだった。
試合は終盤、残りわずかな時間。
同点で迎えたラストポゼッション。ケンスケの母校のガードがボールを運び、トップでフェイクを入れる。観客席のざわめきが「ワアア」と高まり、ミカの心臓も同じリズムで跳ねた。
「打て……!」
ケンスケの声と同時に、ガードがスリーポイントラインの外から放ったボールが、弧を描いて飛んでいく。
空中で一瞬止まったように見えたそのボールの軌道に、湯気が重なった。
「カン、スパッ」
リングに当たる乾いた音と、ネットを揺らす軽やかな音が重なる。
歓声が爆発し、コメント欄も「うおおおお」で埋まった。
《決まった!》
《湯気バフかかった》
《湯屋護様のおかげ》
「やった……」
ケンスケの目に、湯気とは違う水分が光った。
同時に、ナナノードの隅に、もう一つの小さな速報が表示される。東シナ海の緊張が、ひとまず沈静化の方向に向かっているというニュースだ。各国が協議を続けることで合意し、艦艇同士の距離も少しずつ広がり始めている。
「これが、決定的な解決ってわけじゃないけど」
リョウが小さくつぶやく。
「でも、何も起きなかったっていうニュースも、ちゃんと残るんだな」
ナナは、その速報をあえて大きくは映さず、画面の片隅にとどめた。熱戦の余韻と、静かな安堵の両方を、視聴者に同時に感じてもらいたかったからだ。
「さあ、最後は湯屋護様からのご利益タイムです」
ナナが冗談めかして言うと、サチコがスタンプ台を抱えて走ってきた。浴衣の裾をたくし上げ、湯気の中を「ばしゃばしゃ」とかき分けながら。
「合宿参加者全員、コンプリートおめでとう。ほら、台紙を出して」
ミカたちは濡れた手で台紙を広げる。スタンプの丸い枠が、いくつも並んでいる。これまでの数日で、阿千の温泉街を歩き回り、ほとんど埋めてきた。
最後の枠は、「ゆきのさち館」。サチコが朱肉にスタンプを押し、「ドン」と台紙に刻む。
丸い印の中には、湯屋護様が笑っていた。
「視聴者のみなさんも、画面越しにコンプリートした気分になってくださいね」
ナナがカメラに向かって台紙を掲げると、「スタンプ音気持ちいい」「次は現地で押したい」とコメントが流れた。
配信は、視聴者への「おやすみなさい」とともに静かに幕を閉じた。
カメラのランプが消え、照明が落とされると、露天風呂には再びただの夜が戻ってくる。けれど、その夜は、始まる前よりも少しだけ温かく感じられた。
「おつかれさま」
サチコが湯呑みに番茶を注ぎながら言う。
「いやあ、こんなに一晩で世界旅行した気分になるとは思わなかったよ」
「世界旅行っていうか、世界の心配事旅行ですけどね」
ユミが笑い、家計簿ノートを膝の上で開いた。そこには、「阿千行き合宿費」として赤い数字が書かれている。
「でも、このページのことは、赤字でも後悔しないって決めました」
「いいじゃん。それ、投資」
ミカが言うと、ユミは少し照れたように笑った。
「じゃあ、これからは節約配信だけじゃなくて、『小さな贅沢レビュー』もやろうかな」
「いいね。うちの宿も、レビューしてくれたら助かる」
サチコが茶目っ気たっぷりに言う。
リョウは、湯気の向こうで星空を見上げていた。手元の端末は、まだポケットの中にあるが、さっきから一度も取り出していない。
「……リョウ」
ナナが声をかける。
「東シナ海のこと、やっぱり気になる?」
「うん。気になる。でも、さっきオフにした画面を、もう一度オンにするタイミングくらいは、自分で決めてもいいのかなって」
リョウはゆっくりと息を吐いた。
「今日みたいに、何も起きないことを願う時間を、ちゃんと持つのも仕事のうちかなって思った」
「それ、いいバランスだと思う」
ナナはうなずき、彼の肩を軽く叩いた。
ケンスケは、古びたパーカーの袖をつまみながら、ぼんやりと校章を見つめていた。
「なあ、ナナメさん」
「ん?」
「今日、オレの解説、ほんとに役に立った?」
「見てたでしょ。コメント欄、『分かりやすい』ってすごかったよ」
「それなら……」
ケンスケは少し間を置き、湯気の向こうで真剣な顔になった。
「春になったら、ここ阿千の体育館で、子ども向けのバスケ教室、開いてみようかな。今日みたいに配信と絡めてもいいし」
サチコの目が輝く。
「それ、いいねえ。湯屋護様もきっと喜ぶよ。温泉街に新しい『推し』ができる」
「推される側になるの、慣れてないんだけどな」
ケンスケは苦笑したが、その表情には、少しだけ誇らしさも混じっていた。
ミカは、配信で映した世界地図の残像を思い出していた。阿千の小さな診療所と、どこか遠くの村の保健所。それらを結ぶ光の線。
「わたしも、ちょっと決めたことがあって」
「お、ミカも?」
ユミが身を乗り出す。
「ギャヴィ連合のデータの仕事、続ける。でも、次の長期休みには、ここの診療所でボランティアする。数字の向こう側の人の顔を、ちゃんと一度見てから、また画面に戻りたい」
ナナは微笑み、ナナノードの光を少しだけ強くした。
「いいね。じゃあ、そのときは『地元目線の世界の健康』って企画を一緒にやろう」
「ナナメさんは?」
今度は全員の視線が、纏目ナナに向けられた。
ナナは少しだけ考えるように天井を見上げ、それから耳元のイヤーカフに触れた。
「わたしはね……ナナノードの使い方を、少し変えようと思う」
「変える?」
ミカが首をかしげる。
「これまでは、世界中のニュースやコメントを、できるだけ速く、たくさん集めて、まとめることばかり考えてた。でも今日、湯気の中で話してみて分かった。速さより、温度を拾うほうが大事だなって」
ナナノードの光が、耳元からふわりと広がり、また収束する。
「このノードを動かしているバックエンドの『ナナクラスタ』は、本当は、もっと静かな言葉も拾えるように設計されてるんだ。わたしが、せっかちに急かしてただけ」
「ナナクラスタ?」
リョウが聞き返す。
「地球開発銀行や国際機関が、一部データを共有してくれている、ニュース解析用のエーアイネットワーク。今日の湯屋護様基金みたいな小さな動きも、本当は世界中で観測できる」
ナナはそう言って、湯気越しに手を広げた。
「だからこれからは、バズるワードだけじゃなくて、『あったかかった』っていう感想や、『何も起きなかったけど良かった』っていう報告も、ちゃんと拾って世界に返したい。そういうまとめ方を、ナナクラスタと一緒に学び直す」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
代わりに、露天風呂の湯が、小さく「ちゃぷ」と揺れた。
翌朝。
阿千の空は、雲ひとつない青だった。山々の稜線には、昨夜の雪が薄く積もり、陽の光を受けて「きらきら」と光っている。
ゆきのさち館の玄関先では、サチコが旅立つ若者たちを見送っていた。
「またおいで。今度は仕事じゃなくて、完全に休みにね」
「でも、きっとまた何か企画くっつけてくるんだろうな」
ケンスケが笑い、ナナが肩をすくめる。
「企画と休みを両立させるのが、新しい時代の生き方ってことで」
「新しい時代って」
ユミがツッコミを入れ、玄関先に小さな笑いが広がった。
ミカは、玄関脇の掲示板に貼られたスタンプラリーのポスターを見上げた。そこには、昨夜の配信を見た人たちが撮って投稿したらしい新しい写真が、何枚も貼られている。
「#阿智昼紙湯屋守」のタグが印刷された小さなフキダシも、ポスターの隅に増えていた。
「世界のどこかから来る人も、いるかもしれないね」
ミカが言うと、サチコはうれしそうに頷いた。
「そのときは、湯屋護様のスタンプを、いちばんきれいに押してあげるよ」
バス停へ向かう坂道を歩きながら、ミカはポケットから端末を取り出した。
ニュースアプリのトップには、昨夜話題になったインカレ準決勝のハイライト動画と、東シナ海情勢の続報、家計調査の解説記事、それから地球開発銀行とギャヴィ連合の共同基金に関する続報が並んでいる。
その下には、小さく「阿千の温泉街から医療と平和を考える配信が話題に」と書かれたローカルニュースもあった。サムネイルには、湯気の向こうで笑う自分たちの姿が映っている。
画面の上部には、「ナナクラスタが選ぶ本日のあたたかいハッシュタグ」として、「#阿智昼紙湯屋守」「#湯屋護様基金」「#何も起きなかったけど良かった」が並んでいた。
ミカは、それらのタグをひとつずつ指先でなぞる。
世界は相変わらず忙しく、冷えたり熱くなったりをくり返している。援助の話も、軍艦の動きも、家計のグラフも、大学バスケのスコアも、温泉の湯気も、ひとつのタイムラインには収まりきらない。
それでも――と、ミカは息を吸い込んだ。吐いた白い息が、朝日を浴びて「ふわ」と消えていく。
自分の仕事や言葉で守れる温度が、たとえ小さくてもあるのなら。
その小さな温度を、誰かの寒い夜に届けるために。
ミカは端末をポケットに戻し、坂道を一歩、また一歩と踏みしめた。
足元の雪が、きゅっ、と静かに鳴った。
(了)
――あとがき――
冬の夜のニュース群を手がかりに、近未来寄りの群像ドラマSFとして物語を組みました。
地球開発銀行とギャヴィ連合の共同基金のニュースは、ミカが関わるデータの仕事と「湯屋護様基金」の仕組みとして描き、世界のワクチン援助と地方の診療所を、一本の線でつなぐイメージにしています。
東シナ海での艦艇増加の報道は、リョウの視点と「#東シナ海微緊張」の語りとして取り入れ、過度に恐怖を煽らず、しかし目をそらさない距離感を意識しました。
家計支出減少のニュースは、ユミの家計簿配信と「#家計支出減少気味」チャレンジに反映させ、数字のグラフと一人一人の生活が地続きであることを描いています。
大学バスケのベストフォー入りは、ケンスケの推し試合と「#インカレ二〇二五ベスト伍」の熱戦として、温泉の湯気とリンクさせました。
温泉スタンプラリーの話題は、「湯屋護様めぐり」と「#阿智昼紙湯屋守」として、観光と寄付と配信が交差する舞台装置にしています。
ジャンルとしては、全体は現代に近い社会派ドラマ寄りに進めつつ、ナナノードとナナクラスタの存在を通じて、ラストで少しだけSF的な広がりを示すかたちで、定番をやや裏切る終わり方を選びました。
実際のニュースの重さをそのまま物語の中に持ち込むのではなく、「自分なら何を守る温度を選ぶか」という問いに変換することで、報道への敬意とフィクションとしての距離を両立させたつもりです。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




