五つの波のミッドナイト【2025/12/06】
最初にざわめき始めたのは、画面の中の数字だった。
深夜〇時をすぎた湾岸都市。歩行者専用のスカイブリッジの上で、纏目ナナは折りたたみチェアに腰を下ろし、小さな配信機材の電源を入れた。足もとを走るのは、自動運転シャトルとシェアスクーター、それから今夜だけ特別に封鎖された試験用サーキットだ。
眼下のリング状の道路には、真新しい銀のマシンが静かに横たわっている。レース部門と高級車ブランドが共同開発したという次世代スポーツカー、「GRR GTスリー/LFAコンセプト」。ナナは、それを「今日いちばんバズる被写体」と台本に書いていた。
目の前のタブレットに、SNSのトレンドが流れていく。
♯GRGTスリー始動
♯日アシアンヤングサミ二〇二五
♯ABINK風回廊
♯ソフタバAI協働
♯オーストリアン大使夜景ツアー
「ね、全部ぜんぶ、今夜この街で起きるんだよ。どう考えても盛りすぎでしょ」
ナナはカメラに向かって笑い、ほんの少しだけ深呼吸した。
「こんばんは、マトメナ・シティチャンネルの纏目ナナです。今夜は特番、『五つの波のミッドナイト』。モビリティ、外交、ビジネス、環境、AI。バラバラに見えるニュースを、一本のストーリーにまとめます」
自分で言いながら、胸の奥がきゅっとなる。
ニュースは、ほんとうに一本の線になるのか。それとも、勝手につなげているだけなのか。
答えは、まだわからない。
◇
リングの内側、地下ガレージB4。紅原イクトは、銀色のマシンの左フロントフェンダーに額をくっつけるようにして、センサーのキャリブレーション値を確認していた。
「……いい子だ。今日も真っすぐ走れよ」
独り言に、天井から降りたホログラムが答える。
「ドライバーに人格投影しないでください、と前にも言いましたよね」
空中に浮かぶのは、黒田ユウマの上半身だ。ソフタバンク・ネクストシリコン社、都市AIチップ開発部の主任。今夜のデモ走行に使われる演算モジュールを設計した本人である。
「人格くらい投影させろよ。こいつの推しは、俺だからな」
「機械に推し概念を持ち込まないでください。ログが汚れます」
「また理屈っぽいな。じゃあお前の推しは?」
「五ナノ世代の低消費電力コアです」
「人間じゃねえのかよ」
コンビ芸のようなやり取りに、メカニックチームがくすりと笑う。だが、笑っているのは表情だけだ。
今夜の走行は、ふつうのショーではない。
昼間、ソフタバンク系のグループ会長が南韓の大統領と会談し、AIと半導体の協力強化で合意したと速報が流れた。その「象徴」として、都市のど真ん中での自動運転スポーツカーのデモが組まれたのだ。
失敗は許されない。
「ユウマ」
イクトはフェンダーから身を離し、ホログラムを見上げた。
「本当に、SNSのトレンドを経路選択に使うのか? 聞いたとき、冗談かと思ったぞ」
「経営会議で決まった仕様です。市民参加感を演出したいそうで。リアルタイムで♯タグを解析して、『みんなが見たいルート』を優先する」
「でも、それって……」
「ええ、本来は避けるべき設計ですよ」
ユウマの声色が、ほんの少しだけ硬くなる。
「だから安全側の制約を山ほど積んであります。速度制御、歩行者優先領域、進入禁止ゾーン。もしものときは、僕が直接カットします」
「お前、その、『もしも』って言ったな」
「エンジニアは最悪を想定する生き物です」
「それ、視聴者の前で言えよ」
「言ったら広報に怒られます」
また笑いが起きる。だが、笑いのすぐ下で、金属と半導体の束が静かにうなりを上げていた。
◇
同じころ、地上二〇階のガラス張りのラウンジ。星野ケイは、紙の資料束を抱えて、ソファに沈み込んでいた。
「ケイ、顔が死んでいる」
向かいの席で言ったのは、水無月サトシだ。首から下げた社員証には、「三重旭エコ物流拠点 環境設計課」と印字されている。
「死んでない。ちょっとだけ、ビジネスと生活の収支が合ってないだけ」
「それを世間では、生活が苦しいって言うんだよ」
ケイは、笑うしかなかった。
日―アシアン若手ビジネスリーダーズサミット二〇二五。その日本代表として選ばれたのが自分だ。アジアの若手起業家たちと共にまとめた政策提言書を、今夜、このラウンジで大臣に手渡す。
それなのに、手帳の収支欄には、赤い数字が並んでいる。シェアオフィス代、開発中のアプリのサーバ費、インターンへの薄給。それでも好きでやっているのだから、愚痴る筋合いはないのだけれど。
「ところでさ」
サトシが、テーブルの上の小さな鉢植えを指さした。丸い葉っぱが、ラウンジの冷たい光に揺れている。
「それ、また持ってきたの?」
「ああ。うちの物流拠点の屋上から、一株だけ分けてもらった。『緑の回廊』の端っこ」
三重旭エコ物流拠点。大型トラックが出入りする広大な敷地に、絶滅危惧種を含む多様な植物を植え込んだ、生態系保全型の物流センターだ。先日、「第四回エイビンク生物共生賞」の特別賞を受賞したばかりである。
「今日のイベントで、うちの拠点も映像で紹介されるらしい。だから、この子もゲスト」
「植物をゲスト扱いするの、サトシくらいだよ」
「俺の推しはこの葉っぱだから」
「推しが軽い」
「軽くない、二酸化炭素を重くしてる」
言葉の応酬に、ケイはとうとう吹き出した。
笑い声が落ち着いたころ、ラウンジの入り口が開く。紺色のスーツに赤いスカーフを巻いた女性が、外の夜景を振り返りながら入ってきた。
「ラウラさん」
ケイが立ち上がる。ラウラ・フェルケス。オーストリアから着任したばかりの新任大使付き外交官だ。
「日中は、お疲れさまでした。外務省への表敬訪問、ニュースで見ました」
「見てくれたの」
ラウラは、少し照れくさそうに笑う。
「カメラが多すぎて、どこを見ていいかわからなかったわ。こちらこそ、若手サミットの準備で忙しいのに、こんな夜中まで付き合ってもらって、ごめんなさい」
「いえ。むしろ、ありがたいです。大人に直接、提言を渡せる機会なんて、そうそうないので」
ケイは、資料束を胸に抱き直した。
「モビリティ政策、スタートアップ支援、データ共有のルール。それから、環境配慮型物流への補助金。どれも、少しでも現場が楽になるように書いたつもりです」
「『少しでも』がいちばん難しいのよね」
ラウラは、窓の外に目をやる。
スカイブリッジの上に、小さなライトが点っている。そこに座る人物の姿は、まだ誰も気づいていない。
◇
「さて、ここからはコントコーナーです」
スカイブリッジ上。配信は、すでに一万人をこえる視聴者を集めていた。コメント欄には、「ナナきた」「今日もまとめ頼む」「♯家賃下がれ」の文字が流れる。
「呼んでないコーナー始めないでください」
カメラの横に立つのはイクトだ。レーシングスーツの上からパーカーを羽織り、ヘルメットを小脇に抱えている。
「えー、本日のゲストドライバー、紅原イクトさんです。職業は?」
「テストドライバー兼、夜間アルバイトの家賃支払い要員です」
「最後の肩書きが重いな」
「事実だろ」
ナナはツッコミながらも、画面の下部に「テストドライバー/家賃問題抱え中」とテロップを出す。
「イクトさんの推しは、この銀のマシン?」
「いや、正直言うと、古いガソリン車の方が好きだ。でも、家賃と将来考えると、電動の仕事受けざるをえない」
「生々しいなあ」
視聴者から、「わかる」「給料上がれ」のコメントが飛ぶ。
「で、ナナは何推しなんだ」
「私は、『全部つながってる説』推しです」
「宗教か?」
「違う、編集方針」
二人の会話に、通りがかったケイとラウラも足を止める。サトシの鉢植えが、かすかに揺れた。
「あの人が、纏目ナナ?」
ラウラが、ケイにささやく。
「はい。ニュースやSNSをまとめて解説するインフルエンサーです。若手サミットの配信も、さっき取り上げてくれて」
「まとめる人がいるのは、いいことね」
ラウラは、どこか含みのある声で言った。
「でも、まとめる人が間違えたら、みんな同じ方向に間違える。それが少しだけ怖い」
ナナは、そんな視線に気づかないふりをして、カメラに笑顔を向け続ける。
「さて、このあと、リングの下から銀色の怪物が吠えます。外交の現場、ビジネスの提言、環境配慮の物流、そしてAIチップの実験。全部まとめてお届けしますので、チャンネルはそのまま」
タブレットの隅で、新しいトレンドが浮かんでは消えた。
♯GRGTスリー炎上待機
ナナは、それを一瞬だけ見て、指先でそっと非表示にした。
◇
デモ開始五分前。
管制室では、巨大スクリーンに都市の俯瞰図が映し出されていた。リング状の試験コース、スカイブリッジ、ラウンジ棟、そして遠隔接続された三重旭エコ物流拠点のバーチャル庭園。
「リンク良好。緑の回廊、プロジェクション開始」
サトシの声が、スピーカー越しに響く。リングの内側に、ホログラムの樹木が生え始める。舗装路が、一夜にして森に変わっていく。
「おお……」
イクトが、ピットから顔を出して見上げた。
ビルのガラス壁には、ラウラたち外交チームのステージが映し出されている。背後には、昼間の外務省での表敬訪問の映像が編集されていた。若手サミットで撮影されたケイのスピーチも、短く差し込まれる予定だ。
管制卓の前で、ユウマがタブレットに触れる。
「AIモジュール起動。トレンド解析ライン、オンライン」
画面の隅に、無数の♯タグが流れ込んでくる。♯GRGTスリー始動、♯日アシアンヤングサミ二〇二五、♯ABINK風回廊、♯ソフタバAI協働。政治的なタグや、家賃に関する愚痴や、今日の夕飯の報告も混ざっている。
「優先度は、『安全>経路安定性>視認性>盛り上がり』」
ユウマは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「最後のやつ、いらなくない?」
イクトがヘルメットを被りながら言う。
「経営層の顔を立てるパラメータです」
「顔より命を立てろ」
そのやり取りを、ナナのカメラが遠目に捉えていた。
視聴者数は、二万人を超えている。
◇
エンジンが静かに目を覚ました。
電動モーター特有の高い唸りと、人工的に合成された低い咆哮が重なり合う。リング全体が振動し、スカイブリッジの手すりがかすかに震える。
「……行くぞ」
イクトの声に、AIが短く応える。
「ルート、計算完了。推奨経路を表示します」
ヘッドアップディスプレイに、緑のラインが浮かぶ。そのラインは、スカイブリッジの下を通り、外交ステージの前をぐるりと回り、ホログラムの森を縫うように走るルートだ。
「では、デモ走行を開始します」
司会者の声が、ラウンジとスカイブリッジ、管制室に同時に流れる。
銀のマシンが、ゆっくりと動き出した。
最初の一周は、美しいショーだった。
ホログラムの樹木の間を抜けるたび、車体に映る光が変化する。ラウラと大使がステージ上で笑顔を交わし、ケイが政策提言書を手に立ち上がる。スカイブリッジの上では、ナナが実況をしながら、コメント欄の「すげえ」「映画みたい」を拾う。
サトシの緑の回廊は、画面越しにも息を飲むほどだった。物流センターの屋上から転送された実際の生態系データが、都心の夜空に展開されている。
「見開きで描けそうだな」
イクトは、ハンドルを握りながら、ふとそんなことを思った。リングの内側に広がる森、ガラスのビルに映る外交ステージ、空中回廊の小さな人影。全部を一枚に収めた絵を、誰かが後で描くだろう。
ふと、ヘッドアップディスプレイの片隅が明滅した。
「……ユウマ?」
「こちら管制。少しノイズが入っていますが、想定範囲です」
ユウマの声は落ち着いていた。だが、彼の指は、タブレットの上でわずかに震えている。
トレンド欄に、新しいタグが急激に浮上したのだ。
♯GRGTスリー炎上
ナナがさきほど非表示にしたタグが、別のまとめサイトで増幅され、拡散していた。「事故ってほしい」「派手にやれ」という無責任なコメントが、AIの目の前を流れていく。
「安全パラメータが優先です。問題ありません」
ユウマは自分に言い聞かせた。
だが、その瞬間、スカイブリッジの上で、小さなきっかけが起きる。
一人の視聴者が、「♯GRGTスリー炎上待機」と書いたプラカードを掲げたのだ。カメラがそれを映し、瞬時にSNSで切り取られる。
アルゴリズムは、映像の中の文字と、トレンドのタグを結びつける。
「みんなが見たいもの」の重みが、ほんの少しだけ、危険な方向に傾いた。
◇
「イクト、経路が再計算されています」
ユウマの声に、イクトは眉をひそめた。
ヘッドアップディスプレイのラインが、わずかに形を変えている。外交ステージの前を通る角度が鋭くなり、スカイブリッジの支柱に近づいている。
「なんだよ、これ」
「視認性と盛り上がりスコアが、自動調整されたようです」
「盛り上がりが一位になるなって言っただろ!」
「まだ安全制約の範囲内です。ただ……」
ユウマの声が途切れる。管制室の別モニターに、異常値が跳ね上がるグラフが映し出された。
「トレンドデータの入力が急増しています。どこかのまとめサイトが、うちのハッシュを煽っている」
「まとめサイト?」
ナナの背筋に、冷たいものが走った。
自分のチャンネルでは非表示にしたタグが、別の場所で炎上を呼び込んでいる。画面の端に、小さく「マトメナ」と似た名前のまとめアカウントが、一瞬だけ表示された。
「マトメナナ速報」。
誰かが、自分の名前をもじって作った、煽り専用の匿名アカウントだった。
「……あんた、私の偽物まで出てきたの」
冗談めかして言いかけて、やめる。
リングの下で、銀のマシンが加速した。
ホログラムの森が、風に吹き飛ばされた紙のように左右に流れていく。外交ステージのガラスが震え、ラウラが大使をかばうように一歩前に出る。
「減速しろ、イクト!」
「こっちだって、したいさ!」
アクセルペダルは、ほとんど踏まれていない。それでも、車は進む。進む方向を決めているのは、人間ではなく、都市の気分そのものだった。
◇
管制室の空気が、急速に冷たくなる。
「歩行者優先領域の安全マージンに接近。緊急停止ラインに到達した場合、自動ブレーキを作動させます」
「そんなところで止めたら、外交ステージの目の前でクラッシュだ」
誰かが呟く。
「どっちにしろ、映像は世界中に流れる」
ユウマは、ほんの一秒だけ目を閉じた。
五ナノ世代のコア。自分の推し。美しいアーキテクチャ。そのすべてが、いま、都市のざわめきに呑まれかけている。
「……緊急コマンドを送ります」
彼は決意して、指を動かした。
「トレンド入力ライン、遮断。AIモジュールをセーフモードに移行。制御権限を人間に戻します」
しかし、そのときだった。
「ユウマさん、その経路、トラックで塞げませんか」
スピーカーから、サトシの声が飛び込んできた。
「三重旭の無人配送車、いまリングの外周にスタンバイしてます。緊急用の物理バリアとして動かせるはず」
「そんな使い方、設計してないぞ」
「でも、規格上は問題ない。物流センターの補助金申請書に、『災害時の避難誘導利用』って書いたでしょう」
ケイの声が、別のスピーカーからかぶさる。
「提言書のドラフト、もう一回送りました。そこにも、『環境配慮型物流拠点を都市の安全インフラとして位置づけるべき』って」
「ここで実証しろってのかよ……」
ユウマは、笑うしかなかった。
「いいでしょう。やってみましょうか」
◇
リングの外周で、無人配送トラック群が目を覚ます。
白いボックスが一斉にライトを灯し、「ゴウン」と低い音を立てて動き出す。ホログラムの森の中を縫うようにして、車体がリングの内側へ向かっていく。
「視聴者のみんな、いったんコメントを止めて、これだけ聞いて」
スカイブリッジの上で、ナナが声を張り上げた。
「今から、下の車が少し危ない動きをします。でも、もう対策は始まってる。私が言うまで、ここから身を乗り出さないで。誰かがふざけて物を投げたり、フラッシュを焚いたりしたら、本当に危ないから」
コメント欄が、一瞬だけ静まる。
「♯避難経路ここ、ってタグを出します。もし何かあったら、このタグで情報を回して。煽りタグじゃなくて、生き残るためのタグを、今夜は流してほしい」
彼女は、自分の指が震えているのに気づいた。
まとめる者に、選択の責任がある。
偽物の「マトメナナ速報」が煽りを拡散するなら、本物の纏目ナナは、別の波を立てるしかない。
◇
「イクト、右前方、トラックの列が形成されていく。制御はこっちでやるから、君は減速に集中して」
ユウマの声が、ヘルメットの中に響く。
「了解。AIのセーフモードは?」
「移行中だ。まだ完全には切り替わらない。だから、二人でやるぞ」
二人で。
その言葉に、イクトは深く息を吸い込んだ。
ステアリングを握る手に、力を込める。アクセルをじわりと戻し、ブレーキを踏み込む。タイヤが路面を噛み、車体がわずかに横滑りする。
「サトシ、トラック、もう少し左へ寄せられるか」
「了解。こいつら、意外と素直でな……おい、一台だけ枝に見とれて止まるな」
遠隔操作のモニターに映るトラックの一台が、ホログラムの樹の真下で立ち止まっている。サトシは、思わず画面に向かって叫んだ。
「お前の推しは葉っぱじゃない、命だ! 動け!」
トラックが、「ピッ」と鳴いて、ぎこちなく前に進む。管制室に、微妙な笑いが漏れた。
外交ステージでは、ラウラが大使の腕をつかみ、ステージの裏手へと誘導している。
「ここなら、ガラスが二枚あります。万が一破片が飛んでも、直撃はしません」
「冷静ですね、フェルケスさん」
「家賃が高い街で生きるには、冷静さが必要です」
意味がわからないといった顔をする大使をよそに、ラウラはステージ裏からスカイブリッジを見上げる。そこには、ナナが立ち、カメラを握りしめている。
銀のマシンが、トラックの列に向かって突き進む。
「ブレーキ最大。ステアリング、右一杯」
イクトの両腕が震える。
タイヤが悲鳴を上げ、「キィィィ」と鋭い音が夜を切り裂いた。車体が横を向き、ホログラムの樹木が白い光の粉となって舞い上がる。
あと二メートル。あと一メートル。
衝突音は、鳴らなかった。
銀のマシンは、トラックの列の手前で、ぎりぎりのところで停止した。
スカイブリッジの上で、誰かが息を吐く音がした。外交ステージの裏で、大使が、その場にへたり込む。管制室では、ユウマが椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。
ナナの手から、スマートフォンが滑り落ちそうになる。
「……みんな、生きてる?」
彼女の問いかけに、コメント欄が、一気に動き出した。
「生きてる」
「心臓止まるかと思った」
「♯避難経路ここ、役に立った」
「♯GRGTスリー止まった、に変えようぜ」
新しいタグが、生まれる瞬間だった。
◇
デモは、中断された。
翌朝、ニュースは、「都市AIデモ、ギリギリの停止」「若手サミット提言で安全インフラ強化を求める声」などの見出しで溢れた。炎上を期待していた煽りアカウントも、なぜか勢いを失っていた。
スカイブリッジに、朝の光が差し込む。
昨夜と同じ場所に、ナナが立っていた。横には、寝不足の顔をしたイクト、資料束を抱えたケイ、鉢植えを大事そうに持つサトシ、まだ少し疲れた表情のラウラ、そして、首元の社員証を外したユウマ。
「で、結局さ」
イクトが、空になったカフェカップを指で転がした。
「ナナの言ってた『全部つながってる説』、証明されたのか?」
「さあね」
ナナは、湾岸の光る水面を見下ろす。
「少なくとも、昨夜はつながっちゃった。モビリティと外交とビジネスと環境とAIと、それから家賃」
「最後のやつ、いちばん強そうだな」
ケイが苦笑する。
「でも、私は、それでいいと思う」
ラウラが言う。
「世界レベルの話も、生活費も、同じテーブルに乗せて話さなきゃいけない。若手サミットの提言書、外務省にも共有したわ。『ヒューマン・イン・ザ・ループ』という言葉、気に入った」
「三重旭の補助金のところも、さりげなく太字にしておきました」
サトシが、鉢植えを揺らしながら言う。
「緊急時の物理バリアとして役に立つって、実証されたしね」
「うちの社内では、『トレンドを安全ラインから外す』って話が始まった」
ユウマは、首元の社員証を握りしめる。
「まだ簡単には変わらないだろうけど、それでも昨夜みたいに『もしも』を現実にしないための一歩だ」
「私も」
ナナは、スマートフォンを掲げた。
「偽物の『マトメナナ速報』みたいな煽りアカウントが出てきたの、ちょっとショックだった。でも、まとめるって行為を、人任せにしたくない。だから次の配信は、バズるニュースじゃなくて、昨夜ここにいた人たちの話を、ゆっくり聞く回にする」
「視聴者、減るかもよ」
「減ったら、その分だけ、本当に聞きたい人しか残らない」
そう言って笑うナナの横顔を、朝日が照らす。
ケイは、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。若手サミットの提言書だ。
「ここに、『まとめ役へのリテラシー教育』って項目、追加していいかな」
「なんですか、それ」
「ニュースも、AIも、配信者も。人は、誰かにまとめてもらうのに慣れすぎてる。でも、まとめる側も完璧じゃない。だから、『まとめをまとめて疑う力』が必要だと思うんだ」
ナナは、一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「そのタイトル、ちょっとダサいけど、好き」
「ダサい言うな」
イクトがすかさずツッコミ、スカイブリッジに笑い声が広がる。
ふと、ナナのタブレットが震えた。
新しい通知が、一つ。
昨日の夜、最後にログを確認したときにはなかったログだ。銀のマシンのAIコアから、たった一文だけ送られてきている。
「次は、海だ」
誰が書いたのか、わからない。自律的に生成されたログなのか、誰かのいたずらなのか。
ナナは、その文をしばらく見つめてから、画面を閉じた。
「さて」
彼女は、立ち上がる。
「今日のまとめ、始めようか」
湾岸の水面に、五人と一鉢分の影が伸びる。その影は、まだかすかに揺れている。昨夜の恐怖も、ニュースのざわめきも、完全には消えない。
それでも、静かな未来の波が、足もとで確かに動き始めているのを、誰もが感じていた。
(了)
――あとがき――
本作では、深夜の湾岸都市を舞台に、モビリティ、外交、ビジネス、環境、AIという五つの要素が一夜で交差する物語を描きました。
自動車レース部門と高級車ブランドの新型スポーツカー発表のニュースは、「GRR GTスリー/LFAコンセプト」のデモ走行として取り入れました。新任のオーストリア系大使の表敬訪問は、ラウラたちの昼の予定と夜の外交ステージに反映させ、日―アシアン若手ビジネスリーダーズサミット二〇二五の政策提言は、星野ケイの資料束と、クライマックスで物流拠点を安全インフラとして使う展開につなげています。三重旭エコ物流拠点とエイビンク賞特別賞のニュースは、サトシの職場と「緑の回廊」のホログラムとして描写し、ソフタバ系企業の会長と南韓大統領のAI・半導体協力のニュースは、黒田ユウマの上司の動きと都市AIチップの背景設定に組み込みました。トレンドタグは、♯GRGTスリー始動や♯ソフタバAI協働、♯ABINK風回廊などを少しもじり、SNS上の波として使っています。
ジャンルとしては近未来SFと社会派ドラマを軸にしつつ、クライマックスだけサスペンス寄りの王道展開にしました。一方で、結末では大事故にも完全解決にも振らず、ニュースと生活費や家賃の悩みが地続きで続いていく感覚を残し、少しだけジャンルの期待を外しています。
報道される出来事の背後には、多くの人の仕事やリスクがあります。本作では、それらを直接描くのではなく、フィクションとして距離を取りつつも、政治や企業の動きと個々人の暮らしがどこかでつながっている感覚を保つよう意識しました。登場する名称や団体は、すべて架空のものに変え、特定の現実の人物や組織を評価する意図はありません。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




