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冷たい月のレートダンス【2025/12/05】

椎名カズヤは、ガラス張りのシェアオフィスの窓に額を寄せていた。冬の街がネオンとテールランプで滲み、遥か上に白く欠けた月が浮かんでいる。気象アプリは今夜を「コールドムーン」と呼んでいたが、まだ完全には満ちていない。

壁一面のスクリーンには、日央銀行の総裁会見までのカウントダウンと、国債入札の速報、アジア市場のティッカーが走っている。緑と赤の数字が雨のように降り、為替レートのグラフがぎざぎざと震える。

「利上げ、ほんとにやるつもりだな……」

思わず漏れた独り言に、隣の席から小さな笑い声が返ってきた。

「カズヤくん、声に出てる。配信マイク切ってて良かったね」

くるりと椅子を回したのは、纏目ナナだった。ショートボブに派手なピアス、パーカーの胸には「マトメナCH」と手描きのロゴ。トレンドとニュースを一画面にまとめる人気配信者だ。

「いまの『ほんとにやるつもりだな』、剪定したらいいタイトルになるよ。『日央、本気の利上げか』みたいな」

「言葉を勝手に剪定するな。ていうか、まだ決まってない」

「みんなが気にしてるのは『決まったかどうか』じゃなくて『不安をどう整理してくれるか』だよ」

ナナはノート端末を指先で弾く。画面には、今日のトレンド一覧が色とりどりに並んでいた。

「ほら見て。『ハッシュタグ日央利上げ』、『ハッシュタグコールドムーン夜走』、『ハッシュタグオープナイ暴騰』、『ハッシュタグフォレスタ優勝』、『ハッシュタグイノベーターズ参伍』。金融、月、自動車、AI、若手研究者。全部、同じ日に盛り上がるのおもしろくない?」

「おもしろいというか、胃が痛いというか……」

カズヤは自分の口座残高を思い出して、こっそり胃のあたりを押さえた。変動金利の住宅ローン。日央銀行が利上げするたび、数字がじわじわと増えていく。

「俺の利払いもトレンドにまとめてくれ」

「それは視聴数取れなさそう」

「だよな……」

二人のやり取りを遮るように、スクリーンが一瞬だけノイズを走らせた。ざざ、と砂嵐。グラフが一秒だけ真横に伸び、月のような円になってはじける。

「今の、見たか」

「見た。エフェクトじゃないよね」

ナナは眉をひそめ、別のウインドウで異常ログを確認する。映像配信プラットフォームのステータスは、すべて正常と表示されていた。

「うちの配信用ラインにも同期してた。『月の形のグラフ』。バズりそうだけどうさんくさい」

「日央のレート予測AI、月の満ち欠けまで見てるって都市伝説、あったよな」

「やめてよ、そういうネタ、わたしが信じてるみたいに聞こえる」

ナナが肩をすくめる。その横顔を見ながら、カズヤはさっきのグラフを頭の中で再生した。真横に伸びた線が、円を描いていた。月城リンが好きそうな絵だ、とふと思う。

「そういえば、リンは」

「もうすぐ来る。『コールドムーン夜走』の打ち合わせでしょ」

ナナが言い終える前に、ガラス扉が勢いよく開いた。

「おまたせええええ」

月城リンが雪崩れ込むように入ってきた。カーキ色のダウンジャケットの袖口から、指先だけ出して手を振る。背中のリュックには、小型カメラが何台もぶら下がっていた。

「聞いて聞いて、フォレスタR、この冬のカーオブザイヤー取ったって、スバラ自動車の人からメッセ来た」

「おめでとう。推しの車が王者だね」

ナナがぱちぱちと手を叩く。リンは得意げに胸を張った。

「今夜の『コールドムーン夜走』特集、もっと派手にしていいよね。利上げとか難しい話はさ、カズヤがなんとかして」

「なんとかって何だ。俺は走らないぞ」

「だいじょうぶ、走るのはフォレスタRと、ドライバーの鮫島ケイスケだから」

リンがテーブルに資料を広げる。湾岸のテストコースを借り切って、満月の下を新型SUVが走る。その映像に、ナナのニュースまとめと、カズヤの金利シミュレーションが重なる予定だった。

「日央が利上げ決めた瞬間、国債の利回りグラフが、空の月と同じ形に重なるの。めちゃロマンじゃない?」

「それ、さっき偶然出たバグのグラフとそっくりなんだけど」

「え、マジで。じゃあ運命だわ」

リンは即座に採用を決めたらしい顔で笑った。

「あとさ、ゲストに呼んでいいって返事来たよ。『イノベーターズ参伍』に選ばれた若手研究者さん。黒沢ユウマ、って」

その名前を聞いた瞬間、ナナの視線がわずかに揺れた。

「……ああ、あの人」

「え、知り合い?」

「ちょっとね」

ナナはスクリーンの片隅、まだ点滅しているバグの残像を見つめた。

「あの人が組んでるチップが、日央のレート予測システムにも一部入ってるって噂、聞いたことある」

「マジか。じゃあ今日、この街の空気を一番揺らす日の、共犯者ってことだな」

カズヤの言葉に、三人は一瞬だけ黙り込んだ。

窓の向こうで、白い月が雲間から顔をのぞかせる。まだ完全には満ちていない。それでも、都市のどこかで何かが満ちようとしている気配だけは、はっきりと感じられた。


***


黒沢ユウマは、大学のラボ棟の屋上で、空を見上げていた。

曇りがちな冬の空。その向こうに、まだ半分ほどの冷たい月。彼の右手には、受賞記念と刻まれたガラスの楯が握られている。

「若手技術者三十五人……だってさ。数に入れられると、急に商品みたいだよな」

ぼそりと呟くと、背中から声が飛んできた。

「文句言うなら、楯、わたしがもらうよ」

振り向くと、古田ミユキがコーヒーのカップを二つ抱えて立っていた。日央銀行のシステム部門に勤める幼なじみで、今日は有給を取って授章式を見に来てくれていた。

「ありがとう」

一つ受け取り、唇をつける。苦味と紙コップの匂いが、ようやく浮ついた頭を現実に戻してくれる。

「ニュースでしきりに『将来の金融インフラを担う若手』とか言われてたじゃん。うちの上司も『うちで全部囲い込めないか』ってニヤニヤしてたよ」

「勘弁してくれ。俺は『金利を予測するチップ』を作ったつもりはない」

「でも、あなたの開発した低消費電力の推論チップが、日央のレート予測システムの試験機に載ってるのは事実なんでしょう」

ミユキは、わざと仕事の言葉を使う。ユウマは苦笑した。

「……俺はさ、『たくさんの可能性を素早く試せる頭脳』を作ったつもりなんだよ。それをどう使うかは人間の側の問題で」

「それ、授章式でも言えばよかったのに」

「言ったら、スポンサーの商社に怒られる」

二人は同時に笑った。

ミユキは屋上のフェンスにもたれかかり、下界を見下ろす。大学通りの先には、高層ビル群がかすんで見える。あの中の一棟が、自分の勤める日央銀行本社だ。

「今日の国債入札、かなり良かったらしいよ。アジアのマーケットニュース、さっきも流れてた。世界中が、うちの利上げを期待してる」

「世界中が、って言い方は好きじゃないな」

「じゃあ、少なくとも、この都市の不動産業者と、カズヤくんのローン会社は」

「それは否定できない」

ユウマは苦笑しながら、息を吐いた。白い息が月に向かって溶けていく。

彼の頭の片隅には、別の通知が引っかかっていた。配信者纏目ナナからのメッセージだ。

〈今夜、コールドムーン特番に出ませんか〉

〈利上げと若手研究者と車と月、全部まとめて一本にしたい〉

あまりに欲張りな企画に、最初は笑って無視しようとした。しかし、ナナが添付してきた企画書には、彼が昔話した言葉が引用されていた。

〈世界を一気に変えるんじゃなくて、人の選択肢を一つだけ増やす技術が作りたい〉

「そんなこと、言ったっけな」

「言ってたよ、高三の文化祭で」

ミユキが即答する。

「わたしたち、利上げに振り回される大人になるのはイヤだって言ってた」

「願い虚しく、振り回される側に回ったな」

「だからこそ、何を選ぶか考えるんでしょ」

ミユキは、スマホを取り出し、ある記事を見せた。

地方発の自動車メーカー、スバラ自動車のSUVが、今年のカーオブザイヤーを受賞したというニュースだ。写真の中で、フォレスタRが雪原の中を走っている。

「鮫島さん、やったね」

「知り合い?」

「うん。日央が進めてる低炭素交通の実証実験で、一緒に仕事したテストドライバーさん。この人も、変わらないものを守るために、新しい技術を受け入れてる」

ミユキは画面を閉じると、ユウマを見た。

「ねえ、今夜の特番、出てきなよ。利上げと月と車と若手研究者。全部並べてから、あなたの言葉で『それでも選べること』を話して」

「……出てもいいけど、俺、喋るの下手だぞ」

「台本はナナさんが組んでくれるでしょ。カズヤくんも噛み砕いてくれる」

「そこにリンが派手な映像を足して、ケイスケさんが車を走らせる」

ユウマは、ゆっくりと頷いた。

「いいよ。どうせなら、怪しい都市伝説まで全部引き受けてやる」

「月が金利を動かすってやつ?」

「そう。あれを、ちゃんと笑い話に変えてしまおう」


***


湾岸エリアのテストコースは、冬の夜気に沈んでいた。

滑らかなアスファルトの帯が、黒い海に沿って弧を描く。その向こう、低い雲の切れ間から、コールドムーンが顔を覗かせている。光は冷たいのに、輪郭だけがやけにくっきりしている。

ピットレーンには、フォレスタRが静かに待っていた。銀色のボディに、薄い青のライン。ハイブリッドエンジンの低い唸りが、かすかに空気を震わせる。

「いい月だな」

鮫島ケイスケがヘルメットを抱えながら呟いた。四十を過ぎたばかりのテストドライバー。無駄のない動きの中に、長年ステアリングを握ってきた人間だけが持つ落ち着きがある。

「カメラ、もう少し下げて。月と車が同時に入るフレームで」

月城リンがスタッフに指示を飛ばす。ダウンジャケットのフードの中から、目だけがきらきらと輝いていた。

「ケイスケさん、緊張してます?」

「してるに決まってるだろ。利上げの夜に『一生に一度の走りを』って煽られてんだぞ」

「いいじゃないですか。視聴者さん、生活費の話で沈みがちだから、せめて走りは気持ちよく」

軽口を叩きながらも、リンの指先は機材の設定を一切間違えない。彼女のチャンネルは、派手なリアクションの裏で、実は緻密な絵作りで知られていた。

ピット裏の仮設コンテナでは、纏目ナナと椎名カズヤ、黒沢ユウマがモニターに向かっていた。

「為替、入札結果を受けて、じわじわ円高。利上げ織り込み済み、って空気だね」

「難しい言葉をそのまま読むと、五秒で視聴者が逃げる」

ナナが即座にツッコむ。

「『借金してる人にとっては、これからが本番です』って言い換えよう」

「悲鳴エフェクト付ける?」

「付けるな」

カズヤが真顔で止める。ナナは楽しそうに笑った。

「でもさ、一回ぐらいは悲鳴入れてもいいと思うんだよね。『うわあああローンがあああ』って」

「それ、俺が叫ばされるやつだろ」

「さすが察しがいい」

「褒めてない」

コントのようなやり取りに、ユウマが苦笑を零す。

「仲いいんだな、君たち」

「この二人、利上げ前夜になると毎回このネタやるんですよ」

リンがコンテナに顔を出してきて言う。

「『世界経済とカズヤの胃は連動している説』」

「そんな説、配信で語るな」

カズヤがツッコんだところで、ミユキが額に汗を浮かべながら駆け込んできた。

「ごめん、少し遅くなった」

「仕事、大丈夫だった?」

「ギリギリ。日央の会議資料、最後まで確認させられてさ」

ミユキは椅子に腰を下ろし、深呼吸する。

「でも、決定は予定どおり。今夜、利上げ」

「内部情報をさらっと言うな」

「もうニュース各社に流れてる。うちの広報部が『不安を煽らない表現』で文章を修正しているころ」

「その『不安を煽らない表現』を、わたしたちは『ちゃんと不安を言葉にする配信』に変える」

ナナが、モニターに映るタイムラインを指差す。コメント欄には、すでに視聴者たちの生活感あふれる言葉が流れていた。

〈家賃上がるのこわい〉

〈貯金だけが取り柄なのに〉

〈ボーナス出なかった〉

〈でも月はきれい〉

ユウマは、その中の最後の一行を見て、少しだけ目を細めた。

「いいな。『でも月はきれい』」

「拾う?」

「拾っておこう。後で使える」

外では、ケイスケがフォレスタRに乗り込んでいる。車内カメラが、計器類を映し出す。速度計の隣には、なぜか簡易な金利グラフが表示されていた。

「これ、わざと?」

ユウマが首をかしげる。ケイスケがインカム越しに笑った。

「リンちゃんが付けたんだよ。『走る金利グラフ』だって」

「ネーミングセンス」

ナナが苦笑する。

モニターの隅では、日央銀行本店のライブ映像がカウントダウンを続けていた。総裁の会見まで、残り五分。

「よし、そろそろ本番」

リンが両手を叩く。

「今日はさ、ただの『まとめ配信』じゃないからね」

ナナが頷く。

「ニュースも、トレンドも、研究も、走りも。全部ここに集めて、『それでも選べること』を一緒に数える夜」

「大げさだな」

カズヤがぼやく。ナナは笑って、いつもの決め台詞を呟いた。

「世界はいつも、バラバラのニュースでできている。それを一度だけ、同じ画面に載せてみるだけだよ」


***


配信開始のカウントダウンが終わり、画面が切り替わる。

湾岸の夜景を背景に、コールドムーンが大きく映し出される。その下を、フォレスタRが滑るように走り抜ける。タイヤがアスファルトを噛む音が、スタジオのスピーカー越しにも伝わってきた。

「こんばんは、マトメナです。今夜は、利上げの夜、冷たい月の下からお届けします」

ナナの声は、いつもより少しだけ低く落ち着いていた。

画面の左側には、日央銀行の会見場のライブ映像。右側には、国債と株式市場のグラフ。その下を、視聴者コメントが川のように流れていく。

「まずは、今日一日のニュースをざっと振り返ります」

国債入札が好調で、アジア市場の投資家がこの国の国債を買い増したこと。若手研究者を顕彰する企画で、黒沢ユウマが選ばれたこと。地方メーカーのフォレスタRがカーオブザイヤーを取り、地方工業都市に光が差していること。そして、今夜が今年最後の満月に近い夜、「コールドムーン」と呼ばれていること。

「全部別々のニュース。でも、わたしたちの生活では、ぜんぶ少しずつ重なっていきます」

ナナの言葉に合わせて、画面上の枠がゆっくりと近づき、やがて一つの大きな画面に重なる。中央には、ケイスケのハンドルを握る手がアップで映る。その先に、冷たい月。

「まずは走りましょう。鮫島さん、お願いします」

「了解。利上げ記念ラン、行ってきます」

ケイスケがアクセルを踏み込む。エンジンとモーターが同時に唸り、フォレスタRが滑るように加速する。ライトが路面を切り裂き、その光がガードレールと海面に跳ね返る。

「速すぎない?」

「だいじょうぶ、制御してる。俺はこれで生活費も稼いでるんでね」

ケイスケの冗談に、コメント欄が少しだけ和む。

〈ローン返済ドライバー〉

〈走りで金利に勝て〉

〈がんばれテストドライバー〉

その上で、カズヤの声がかぶさる。

「画面右下、ローン計算シミュレーターを出します。利上げ〇・五ポイントで、毎月の支払いがどれぐらい増えるか、一緒に見てみましょう」

数値が動くたび、悲鳴エフェクトが「ぎゃあああ」と鳴いた。

「おい、付けるなって言っただろ」

「一回だけ、って約束だったよね」

ナナが涼しい顔で応じる。コメント欄が笑いに包まれた。

〈ぎゃあああかわいい〉

〈笑えないけど笑う〉

〈カズヤの胃がんばれ〉

笑いの波が一段落したところで、ユウマが口を開く。

「でも、これを見て『もう終わりだ』って思ってほしくはないんです」

画面に、彼の横顔が小さく映る。受賞楯は画面の隅に置かれていた。

「利上げは、確かに生活をきつくします。でも同時に、『お金がただ増え続ける幻想』から離れるチャンスでもある」

ナナが、彼の言葉に合わせて画面を切り替える。生活者のコメントがゆっくりと中央に流れ込む。

〈ボーナス出ないけど、残業減った〉

〈副業始めたい〉

〈電気代高いから、夜空見る時間が増えた〉

「さっきコメント欄に、『でも月はきれい』ってありました」

ユウマが、それを指さすように言う。

「経済指標と違って、月は誰にもコントロールできない。でも、その月の下で『何を選ぶか』は、まだわたしたちに残されている」

そのとき、画面の上部で、日央銀行の会見ライブが動いた。総裁がマイクの前に立ち、低い声で利上げ決定を告げる。

同時に、マーケットグラフが激しく跳ねる。緑と赤と青の線が、画面いっぱいに広がった。

「来た」

カズヤが短く呟く。

ナナは、用意しておいたトリガーをタップした。マーケットグラフが一斉に変形し始める。上下に跳ねていた線が、ぐにゃりと曲がり、ゆっくりと円を描きだす。

コールドムーンと同じ形の、光る輪。

「なにこれ、バグ?」

コメント欄がざわめく。

〈バグ?演出?〉

〈月の呪い?〉

〈日央の陰謀〉

ナナは、マイクを握り直した。

「演出です」

キーボードを叩きながら、はっきりと言う。

「さっきから何度も言っている『月が金利を動かす都市伝説』を、そのまま画面にしてみました」

ユウマが、補足するように続けた。

「レート予測システムのテストで使っているチップは、たしかに僕の設計したものです。でも、そのチップは『月の形』なんて一切知らない。ただ、たくさんの可能性を試しているだけ」

画面の輪が、静かに回転を止める。その輪を背景に、フォレスタRが月光の下を走り抜ける。

「だから、月と金利が重なるのは、わたしたち人間が『そう見たい』って思ったときだけなんです」

「今日は、その『そう見たい』を、あえて前に出しました」

ナナが言う。

「利上げの夜に、全部を笑い飛ばせるほど強くはなれない。でも、怖さをそのまま飲み込むんじゃなくて、『こんなふうに見えるね』って言い合いたい」

「そのために、今日は車も研究もニュースも、ここに集まってもらいました」

リンが、ケイスケの走るコースをドローンで俯瞰する。ライトの軌跡が、路面に巨大な円を描き始める。

「おい、これ、コース取り……」

「ごめん、事前に黙ってた」

リンが笑う。

「フォレスタRの走行ラインで、もう一個、月を描きたかったんだ」

高台からの俯瞰映像が、画面いっぱいに映し出される。テストコースの白線とライトの跡が、コールドムーンとマーケットグラフの輪と重なった。

都市の光、冷たい月、走る車、跳ねるグラフ。すべてが一枚の見開きに収まったような瞬間だった。

コメント欄が爆発的に流れる。

〈すご〉

〈絵面がやばい〉

〈これ、映画?〉

〈でもローンは現実〉

〈でも月はきれい〉

最後のコメントを見て、ナナは微笑んだ。

「そう。ローンは現実。生活費は現実。政治も、物価も、全部現実」

「でも、その現実をどうやって画面に載せるかは、わたしたちの仕事です」

ナナの横顔を、カズヤがちらりと見る。

「その仕事に、俺の胃を使わないでくれると助かる」

「使うよ。視聴者の生活に一番近い胃だから」

「そんな評価、聞いたことない」

笑いの波がもう一度起こる。ケイスケの息がインカム越しに弾んだ。

「みんな、見てるか。俺たちは、月の下で、ちゃんと走れてる」

ミユキは、自分のスマホで日央銀行の社内チャットを開いた。そこには、広報部が夜通しで練った「利上げのお知らせ」の文言が並んでいる。

〈市民生活への影響を最小化しつつ……〉

〈経済の持続的成長のため……〉

ミユキは、一行だけ自分の言葉を打ち込んでから、そっと保存した。

〈でも、月はきれいです〉

きっと、誰かが気づいて笑うだろう。それでいいと思った。


***


配信が終わったあと、湾岸の風はさらに冷たくなっていた。

機材の片付けが一段落した頃、五人と一人は、コース脇の堤防に腰を下ろしていた。頭上には、さっきよりも丸くなったコールドムーン。

「視聴数、思ったより伸びたね」

ナナが端末を見ながら言う。

「『月を信じるな、でも月は見よう』ってコメント、多かった」

「うちのスポンサー、怒らないかな」

リンが心配そうに聞くと、ケイスケが笑った。

「スバラ自動車は、ああいうの嫌いじゃないさ。地方からここまでのし上がった会社だ。世論に文句言われながらも、少しずつ車を良くしてきた」

「日央銀行はどうかな」

カズヤがミユキを見る。彼女は肩をすくめた。

「さあ。でも、少なくともわたしは、今日の配信を見て『金利を人の顔で想像する人』が増えたなら、うれしい」

ユウマは、静かに月を見ていた。

「利上げが『正しい』かどうかは、すぐにはわからない。でも、今日みたいに『どう感じたか』を話し合う場所があれば、少しはマシかもしれない」

「それ、次の研究テーマにしたら?」

ナナが冗談めかして言う。

「感情のインフラ整備」

「悪くないな」

ユウマは本気で頷いた。

「チップやモデルだけじゃなくて、人が不安を言葉にできる回路を設計する。今日の配信、ログ全部もらえる?」

「もちろん」

ナナは、端末の送信ボタンに指をかける。

「ただし、加工して『世界初、月と金利をつなぐ配信』って煽り文を付けてもいいなら」

「それはちょっと……」

「冗談だよ」

今度は、全員が笑った。

少しして、カズヤが立ち上がる。

「俺、帰ったらローンの見直しするわ」

「現実的」

ミユキが苦笑する。

「でも、今日の配信で、『ただ怖がるだけ』からは一歩進んだでしょ」

「そうだな。利上げがどう転んでも、俺は俺の数字で世界を見続けるよ」

リンが、空に向かってカメラを掲げる。

「じゃあ、最後に一枚。『コールドムーンと六人』」

「六人?」

ナナが首をかしげる。

「ほら、画面の向こうの誰かも入れて」

リンの言葉に、ナナはふっと表情を柔らかくした。

「そうだね」

シャッター音が、冷たい夜気の中で小さく響く。

月は、さっきと同じ場所にあるようで、少しだけ傾いていた。そのわずかな傾きが、確かに時間が進んだ証拠だった。

ナナは心の中で、今日の配信のタイトルをもう一度反芻した。

「冷たい月のレートダンス」

それはきっと、今夜だけのタイトルだ。それでも、この都市のどこかで、誰かがそれを思い出してくれたらいい。

世界はまた明日、バラバラのニュースで満ちるだろう。それをどうやってまとめるかを決めるのは、今日も明日も、人間の側なのだと信じたくなった。

堤防の向こう、波の音がかすかに聞こえる。

都市の光と冷たい月に挟まれながら、それぞれの胸の中で、小さな一歩のイメージが静かに形を取っていた。

(了)



――あとがき――

今回は、近未来の都市を舞台にした群像劇寄りの社会派SFとして構成しました。日央銀行の利上げや国債入札好調といった要素は、配信スタジオと湾岸コースの画面上で同時進行させ、金融ニュースが生活の感情にどう接続されるかを描く軸としています。

若手研究者を顕彰する「イノベーターズ参伍」は、黒沢ユウマの受賞と、彼の開発したチップが日央のシステムに使われているという設定に反映しました。地方メーカーのSUVがカーオブザイヤーを取ったニュースは、スバラ自動車とフォレスタR、そして鮫島ケイスケの走りとして物語のビジュアル面の核になっています。コールドムーンの話題は、都市伝説めいた「月が金利を動かす」という噂と、実際に空に浮かぶ満月、その下で走る車とグラフの輪を重ねるクライマックスとして描きました。

トレンドタグ由来のモチーフとして、「ハッシュタグ日央利上げ」「ハッシュタグコールドムーン夜走」「ハッシュタグフォレスタ優勝」「ハッシュタグオープナイ暴騰」「ハッシュタグイノベーターズ参伍」などを登場させ、配信画面上の企画名やコメントとして活用しています。ジャンルとしては、王道の近未来群像劇の枠組みを取りつつ、クライマックスでは「月と金利の都市伝説」を意図的な演出で種明かしすることで、超常ではなく人間の選択と表現に着地させる終わり方にしました。

ニュースとフィクションの距離については、実在の固有名をわずかにもじるに留めつつ、具体的な金利水準や政策判断の是非には踏み込まず、「そのとき人が何を感じ、どんな言葉や映像で共有しようとするか」に焦点を置いています。現実の報道が扱う重さを直接軽くするのではなく、別の角度から眺め直すための物語として受け取ってもらえれば幸いです。

この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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