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白線と北風のクロスフェード【2025/12/03】

 北風が湾岸都市の高層ビルの谷間を抜けてくるたび、信号待ちの人波がいっせいに肩をすくめた。埠頭前交差点の横断歩道、その白線だけが乾いたように光っている。

 杉内シオンは、ポケットの中で携帯端末を握ったまま、白線の端に立っていた。端末画面には、今日の実証実験のダッシュボードが並ぶ。新設予定の「広域災害管理庁」と市が組んだ、人流制御システムの現地テスト。北風を利用して煙や粉じんの流れを読み、白線一本で群衆の歩調をずらして、事故を防ぐ。

 画面右上には、さっきからニュースの速報バナーが点滅している。尖角諸島沖で巡視船と漁船がにらみ合い、双方の沿岸警備隊が互いに違う主張をしているという。SNSではすでに、「またか」「本当に守れるのか」と言葉の応酬が始まっていた。


「シオン、凍ってないか。」

 背後から、低い声がした。堂下エイが、マフラーをぐいっと持ち上げながら歩いてくる。軍用コートを民間用に改造したような防寒着の肩には、古い部隊章が縫い付けられていた。

「凍ってる。けど、機材が先に凍ると困る。」

「機材は保温ケースに入ってるだろ。おまえは入ってない。」

 エイは、手袋をした指でシオンの端末をのぞきこむ。

「尖角のやつ、またバズってるな。」

「うちのドローンも、今夜は海側ルート多めに飛ばされるって、言ってたよね。」

「ああ。港湾警備会社は大忙しだ。だけど、防災庁のテストのほうが現場はよっぽど大事だと俺は思ってる。」

 エイは鼻を鳴らした。

「人が転んで踏まれるのも、国境でぶつかるのも、一度起きたら元には戻らない。だから、歩調をずらすんだろ。」


 信号が青に変わる。白線の表面、埋め込まれた薄い発光素子が、風向きに合わせてふっと色合いを変えた。

 シオンは、自分の足を半歩だけ遅らせる。背後の人波も、白線の光に合わせてほんの少しだけ歩幅を変えた。そのわずかな遅れとずれが、向かい側から押し寄せる群衆との衝突を避ける。

 ゴウッ、とトレーラートラックが脇を抜ける。荷台の側面には、「モバイル電源車 協力 リチライト社」のロゴ。羽柴レイの会社だ。

 トラックの横を通り過ぎたとき、シオンは一瞬、焦げたプラスチックのようなにおいを嗅いだ気がして振り返る。だが、北風がすぐに匂いをさらっていった。


 湾岸広場では、すでにステージの設営が始まっていた。巨大ホログラムスクリーンには、「SSほろX四周年 湾岸冬まつり」と、カラフルな文字が揺れる。人気V配信者、星空ホロコのデビュー四周年を祝うイベントだ。

 櫓の上で、マフラーに顔を埋めた女性が腕を組んで指示を飛ばしている。蒲生アヤ。オンラインでは「纏目ナナ」と名乗るトレンド解説配信者であり、今日の催しの演出ディレクターでもある。

「そこのライト、もうちょい右。ホロコの羽が欠けて見える。」

 アヤは、インカム越しにスタッフとやりとりをしながら、片手で端末を操作し続ける。画面の中では、自分の分身であるアバター、纏目ナナが喋っていた。

『今夜は、タグ合戦が熱いよ。#SSほろクロス四周年、#モンス闘、#銀河も渡るトレジャ、みんなもうポストした?』

 アバターの声が、湾岸広場のスピーカーからも小さく漏れる。

『ついでに、#ちいかと冬をたのしんじゃお もトレンド入りしそう。マスコットのチイカくん、後ろのテントでグッズ売ってるからね。』

 スタッフの一人が笑った。

「自分で自分の宣伝してる。」

「仕事だもの。」アヤは肩をすくめた。「まとめて、見せ場にするの。」


 少し離れたテントでは、志賀カナメが紙コップのコーヒーを両手で抱えていた。市役所の財政課からの出向。今日の実証実験とイベントの経費をにらみつける立場だ。

「浮かない顔だな。」羽柴レイが、ポスターを貼り終えて戻ってくる。ポスターには、「リチライト社協賛 リチウム電池安全講座 やっちゃいけない三つのこと」と書かれている。

「そりゃそうですよ。」カナメはポスターを横目に見た。「国のほうで、財政規律を柔らかくするだの、景気を最優先するだのいう審議会が開かれてるタイミングで、うちの市長は新しい防災庁と組んでどーんとお金を使う。『これは将来への投資です』って言い切れればいいんですけどね。」

「防災庁のほうも、生き残りかかってるよ。」レイは苦笑する。「さっきニュース見ただろ。省庁横断で無駄削減の『DOGE式』がどうとか。意味のない会議と重複システムを徹底的に削るって。こういう実証プロジェクトは、『派手だけど成果が見えない』って真っ先に名指しされがち。」

「だからこそ、今日は結果を出さないと、って話なんですけどね。」カナメは紙コップを口元に運ぶ。「それにしても、『DOGE式』って、何の略なんですか。」

「誰もよく分かってないんじゃない。」レイは肩をすくめた。「どうせ、『どげんかせんといかん』から拾ってきたんでしょ。」

「そんな適当な。」

 二人が笑ったところで、テントの外から「ガヤァァ」という歓声が入り込んだ。試しにホロコのホログラムを一瞬点灯したらしい。透明な羽を広げた少女の輪郭が、冬の空に浮かんで消える。


「レイさん。」シオンが走ってきた。「モバイル電源車、確認しておきたい。」

「もうチェックしたよ。」レイは作業用ベストのポケットからタブレットを取り出す。「でも、シオンが気にするなら、もう一回やろうか。」

 電源車の後部扉を開けると、銀色のケースが規則正しく並んでいた。リチウムイオン電池を封入したモジュールだ。

「最近、電池火災のニュース多いからね。」レイはケースの温度ログを示す。「だからこそ、うちがきっちり安全を見せないと。」

 シオンは、周囲を見回す。風向きを示すホログラムフラッグが、北から南へと流れる線を描いている。

「この北風、もし何かあったら、煙は全部こっち側のステージに向かう。」

「だから、人の流れをずらすシステムがある。」レイが笑う。「でしょ、主任。」


 広場の片隅に設けられた特設ブースで、カナメは再び端末に視線を落とした。財政課のグループチャットが、ひっきりなしに更新されている。

『中央の審議会、財政規律の文言をやや柔らかくする方向』

『新防災庁関連予算については、別枠扱いが議論に』

『ただし地方負担分をどうするかは未定』

 カナメは、返信の文面を何度も書き直す。

「カナメ。」声の主は堂下エイだった。「そんな顔してると、チイカくんの着ぐるみより暗いぞ。」

「それはかなりの侮辱ですよ。」カナメは笑いながらも、ため息をついた。「財政って、いつも後回しにされるのに、最後には責任だけ背負わされる役じゃないですか。」

「国境も似たようなもんだ。」エイは、さっきからちらちら見ていたニュースをカナメに見せる。尖角沖の映像。白い波頭の向こうで、二隻の船がにらみ合っている。「現場はとっくに張り詰めてるのに、上では言葉の綱引きばかりだ。」

「じゃあ、あなたは、どっちを守りたいんです。」カナメは、画面ではなくエイの顔を見る。「国ですか。自分の暮らしですか。」

「両方、って答えたら逃げか。」エイはしばらく黙ってから、「今日は、目の前の通行人を守る。明日も守れるようにするために、国境の線もちゃんとしてほしい、ってだけだ。」と続けた。

「曖昧な答えだなあ。」

「財政課にだけは言われたくない。」


 午後。湾岸広場は、オタクたちと家族連れと、物見高い市民と、チイカくんファンと、ただ通りがかっただけの人びとで、ごった返し始めた。

「エイくん、これ、持って差し入れ。」アヤが、ホットココアのカップを二つ持ってくる。「顔、怖いよ。推しの生配信見てるときの顔じゃない。」

「今夜は、推しより現場だ。」エイはココアを受け取る。「モンス闘のレイドイベント、参加できないかも。」

「だったら、わたしの配信見て。」アヤは笑った。「『纏目ナナの現地実況』、いつもより真面目にやるつもりだから。」

「いつも真面目にやれ。」エイが即座に突っ込む。

「真面目なまとめなんて、誰もクリックしないの。」アヤは肩をすくめる。「でも、今日は、ちゃんと伝えたいんだよね。税金で何をやってるか。」


 隣のテントでは、「銀河も渡るトレジャ」がリハーサルをしていた。寒風の中、キラキラした衣装のアイドルたちが息を白くしながらダンスを合わせる。

「よし、そこ、星形に揃えて。」アヤが目を輝かせる。「『銀河も渡るトレジャ 湾岸特別ステージ』、特写用のカメラはここね。」

「予算、また増えてませんか。」カナメが紙束を抱えたまま口を挟む。

「衣装代はスポンサー持ち。」アヤがすかさず返す。「今日の取り組みを、後で『GQJP賞』みたいなアワードで取り上げてもらうためには、見栄えが大事。」

「すべてをアワード基準で決めないでください。」


 夕方になると、北風はいっそう冷たくなった。湾岸の海面が薄い鉛の板のように光り、空には星空ホロコのシルエットが浮かび上がる。

 カナメは、ふとステージの隅のベンチに座り込んだ。ポケットから小さなお守りを取り出す。去年の夏、川の氾濫で避難所暮らしになった祖母がくれたものだ。

「防災庁ができたら、ああいう避難所も、もう少しマシになるのかな。」

 独り言のように呟いたとき、隣にレイが腰を下ろした。

「なるよ。少なくとも、紙の名簿を何度も書かされることは減る。」

「そんな部分から。」

「でも、そういう小さい無駄を減らすことが、『DOGE式』の本来の意味だと、わたしは思いたいな。」レイは、自分の作業手袋を眺めながら言った。「電池だってそう。正しい使い方を知ってもらえれば、火災の何割かは防げる。」

「ニュースで『またバッテリー火災』って流れるたびに、会社の名前出されるの、嫌じゃないですか。」

「嫌だよ。」レイは笑う。「だから、今日はちゃんと名前を出して、正しく怖がってもらう。」


 十八時。実証実験の本番フェーズが始まった。シオンは、仮設コントロールルームに座り、モニターを三枚並べて風向き、人流、電源車の状態を見守る。

「こちら、防災庁準備室。」ヘッドセットから声が飛ぶ。「湾岸広場の人流データ、国のセンターにも共有しています。」

「了解。」シオンはキーボードを叩く。「白線制御、パターンBからフェーズインします。」

 白線が、北風のリズムに合わせて僅かに輝度を変化させる。人の歩調が、ほんのわずかに変わる。ドドド、と足音の波が、ぶつからずにすり抜けていく。

「すげえな。」エイが、通行誘導のベストを着て歩きながら、無線に入れた。「見てると分からないけど、ぶつかりかけてた人が、なぜかぶつからない。」

「数字で見ると、すごく分かるよ。」シオンは、モニターを眺めながら答える。「事故の芽を、ちょっとずつ北風で飛ばしてる感じ。」


 そのときだった。

 ピコン、とシステムアラートが赤く点滅した。電源車の温度センサーの一つが、じわじわと上昇している。

「レイ。」シオンはすぐに連絡を飛ばした。「電源車の後部右側、温度が上がってる。現場確認を。」

「了解。」レイは、スタッフ二人を連れて駆けだした。「安全講座、本番前でよかった。」


 電源車の後部に回ると、確かに一つのケースの周囲がほんのり暖かい。レイは手袋越しにさわり、顔をしかめた。

「予備モジュールの接続コネクタが、ちゃんと刺さってない。接触抵抗で発熱してる。」

「レイ、撤去するか。」エイが尋ねる。

「まだ温度は安全域。でも、放っておくわけにはいかない。」レイは頷く。「このケースだけ外して、別の予備に差し替える。シオン、電源車の負荷を一部落として。」

「了解。」シオンは画面を操作した。「北側の照明を一段落とす。」


 その作業のさなか、湾岸広場の上空スクリーンに、別のニュース速報が流れた。

『国の財政諮問会議、防災関連を含む大胆な投資を容認の方向へ』

『ただし、将来負担への懸念も…』

 カナメの端末が震える。財政課のグループチャットも騒然としていた。

『これで防災庁プロジェクトも本格化か』

『地方財政への影響を分析する必要あり』

「今このタイミングか。」カナメは、空に浮かぶテロップを見上げた。「みんな、上を見てる。」

 たしかに、周囲の人びとは、ホロコのホログラムでもアイドルでもなく、ニュースの帯を指さしてざわめいていた。


 さらに追い打ちをかけるように、別のヘッドラインが流れる。

『無駄削減のDOGE式会議、真っ先に「イベント型実証」の見直しを検討』

「おいおい。」アヤが思わず声をあげた。「ここでやってること、まさにそれなんですけど。」

「だからこそ、今日は派手に、でも意味のある形で見せないと。」シオンはコントロールルームから声を飛ばした。「ナナ、カメラを白線にも向けて。」

「了解。」アヤは、配信用カメラの向きを変える。レンズの先には、輝度パターンを変え続ける横断歩道と、その上を行き交う群衆。

『纏目ナナです。今、湾岸広場では、防災庁と市が一緒に、人の流れをちょっとだけずらす実験をしています。北風を味方につけて、事故を減らそうってわけ。』

 アバターの声が、配信とステージとを同時に満たす。

『ニュースでは、尖角の海で船がにらみ合っている映像が流れています。でも、ここでも、小さな線がいくつも交差している。誰かの歩幅と、誰かの生活費と、誰かの安全が、ひとつの横断歩道で。』


 クライマックスの時間が近づく。星空ホロコの登場と、「銀河も渡るトレジャ」のパフォーマンスと、防災デモンストレーションを、一つの絵にまとめる見せ場。

 ステージ袖で、アヤ、シオン、エイ、カナメ、レイが短く打ち合わせをする。

「いいか、段取りをもう一度確認する。」エイが、手の甲に書いたメモを見ながら言う。「最初にホロコが歌う。そのあとにトレジャが入る。同時に白線が特別パターンで光る。レイの安全講座は、そのあとだ。」

「違う。」カナメが即座にツッコむ。「レイさんの講座、最初って言ってましたよね。歌の前に、『安全の三原則』をやる予定だったはず。」

「いや、そんな空気読まないことする?」

「安全に空気を読ませるんです。」レイが苦笑する。「でも、今の流れだと、ニュースと絡めたほうが刺さるかも。」

「ちょっと待って。」アヤが割って入る。「『DOGE式』でまず削られるの、たぶんわたしたちの段取り会議だから。ここで迷ってる時間自体が危ういんだけど。」

「なら、まとめてくれよ、纏目ナナさん。」エイがニヤリとする。

「オチを急に振らないでよ。」アヤは両手を広げる。「でも……そうだな。ホロコの歌と白線の光を、北風のタイミングに合わせて重ねる。それを、ナナとして解説する。レイさんの講座は、クライマックスのあとに『このあとすぐ』ってぶら下げる。どう?」

「本気で視聴率を取りにきた構成だ。」カナメが呆れたように言う。

「おまえ、財政課のくせに視聴率って単語使うな。」エイが突っ込む。

「数字が好きなんです。」


 十九時。湾岸広場の照明が落ち、スクリーンだけが青白く光る。北風が、客席の上をわたる。ホログラムの星空が、実際の雲の隙間からのぞく星とゆっくり重なる。

 バンッ、と花火にも似た効果音が鳴り、「SSほろX四周年」のロゴが一斉に浮かび上がる。星空ホロコのホログラムが舞い降り、「こんばんは、湾岸のみんな」と声を響かせる。

 同時に、横断歩道の白線が、音楽に合わせて明滅を始めた。北風の吹くリズムと、ドラムのビートと、人びとの足音が、奇妙な三重奏を奏でる。

『纏目ナナです。』アヤのアバターが、ステージ脇のスクリーンに現れる。『今、ホロコの歌と、この街の安全が、同じテンポで動いています。』

 視覚、聴覚、足裏の感触。すべてが一つの「見開き」のように、湾岸広場全体を満たす。カメラは、白線の輝きと群衆の顔と、海の向こうの灯りを、一枚の絵に収めていた。


 その瞬間だった。

 電源車の近くから、かすかな「パチッ」という音がした。レイが振り返ると、一つのケースの端から白い煙が細く立ち上っている。

「嘘。」レイは走った。「さっき差し替えたはずなのに。」

 温度ログを確認する間もない。煙は北風にあおられ、ステージ方向に流れ始める。

 ピィイイイ──。

 警報が鳴った。観客のざわめきが、一瞬でざわついた悲鳴に変わる。

「みなさん、落ち着いてください。」ステージ上の司会の声が、かき消されかける。


 コントロールルームで、シオンの視界が一気に赤に染まった。人流マップが、ぐちゃぐちゃに乱れる。北風が、煙と共に不安を広場全体に運んでいく。

「白線パターン、手動に切り替え。」シオンは、震える指でキーボードをたたいた。「北東側からの流入を一時停止。南側に抜け道を作る。」

「でも、そこ、屋台が並んでる。」エイが無線で叫ぶ。「チイカくんの行列とぶつかるぞ。」

「屋台には、風下に避難してもらう。」レイが息を切らしながら言う。「チイカくんごと、南へ。」

「そんな簡単に言うな。」エイは駆けながら、屋台の店主たちに叫ぶ。「みんな、少し下がって、南の通路を開けてくれ。」


 白線が、一瞬だけ暗くなり、すぐに別のパターンで光り始める。今度は、一定の間隔で「間」をつくるような点滅。人々の足が、無意識にその「間」に合わせて止まり、また進む。

「歩調をずらす。」シオンは、自分に言い聞かせるように呟いた。「一斉に逃げない。一歩ずつ、ずらして抜ける。」

 北風が、白線に沿って吹くように見えた。煙は広がりながらも、高く持ち上げられ、地面近くの視界はなんとか保たれる。


『ナナ、まだ回線生きてる?』アヤの声がヘッドセットに飛び込んできた。

「生きてる。」シオンは答えた。「配信、切る?」

『逆。繋いだままにして。』

 ステージ脇のスクリーンに、纏目ナナのアバターが再び映る。

『みんな、聞こえる? 今、電源車から煙が出ています。でも、爆発の危険はありません。スタッフがモジュールを切り離して、安全を確認しています。』

 アバターの声が、震えながらも、必死に落ち着いた調子を保つ。

『お願い。走らないで。今、足元の白い線が、あなたの逃げ道を作っています。北風が、煙を空のほうへ連れていってくれているから、下を見て、ゆっくり進んで。』

 観客の一部が、スクリーンを見上げ、次に足元の白線を見下ろした。点滅の「間」に合わせて、一歩、また一歩と進む。


 エイは、群衆の中に飛び込み、肩が触れ合う距離で叫ぶ。

「押さないで。一人分ずつ、前の人に続いて。」

 その声に、別の声がツッコむ。

「エイさん、声が完全に隊長モード。」

「今だけはそれでいい。」エイは息を切らしながら返す。「あとで『声が怖い』って配信でいじれ。」

「もう録ってます。」アヤが、半ば泣き笑いの声を上げた。「ナナのチャンネル、今日だけは真面目にバズらせるから。」


 レイは、問題のケースを外し、消火器で周囲を冷却する。煙は徐々に細くなり、やがて消えた。

「シオン。」レイが無線に叫ぶ。「発火の可能性、もうない。」

「了解。」シオンは、白線パターンを徐々に通常モードへ戻す。「でも、完全には消さない。少しだけ、『間』を残しておく。」


 数分後。広場のざわめきは、まだどこかぎこちないが、パニックは収束していた。

 ステージ上に、星空ホロコのホログラムが再び現れる。

「さっきは、びっくりさせちゃってごめんね。」事前収録にはないアドリブのセリフ。運営が慌てて差し込んだのだろう。

『纏目ナナです。』スクリーンのアバターも隣に並ぶ。『でも、ちょっとだけ、わたしからも。』

 アヤは、スタジオでもないのに、深呼吸をした。

『ニュースをまとめるって、楽なんだよね。誰かが流した映像を切って、テロップを付けて、怖がるか笑うかしてもらう。尖角のニュースも、バッテリー火災のニュースも、いつもそんなふうに扱ってきた。』

 一瞬、声が詰まる。

『でも、今日、ここにいる人たちの顔を見たら、もうちょっとだけ、ちゃんと伝えたくなりました。国の財政がどうとか、防災庁がどうとか、DOGE式がどうとかいう話も、全部、この白線の上を歩く誰かの話なんだって。』

 アバターの目が、観客席ではなく、足元の白線を見つめる演出をする。

『だから、今日は、お願いがあります。帰り道、白い線を一度だけ見てください。北風が当たって寒い交差点でも、少しだけ歩調をずらしてくれる線があるかもしれないって。』


 拍手が起こる。まだ恐怖の残滓が混じった、ぎこちない拍手。でも、その音が、北風と混じり合って、湾岸広場を包む。

 カナメは、胸ポケットのお守りを握りしめた。財政課の端末には、まだ「投資の是非」だの「地方負担」だのという文字が並んでいる。それでも、目の前で人々が落ち着きを取り戻していく様子を見て、ひとつだけ、心に決めた。

「このプロジェクトの数字、守ろう。」誰にともなく呟く。「どんな言い訳をしてでも。」


 エイは、港の方向を振り返る。遠く、尖角の海を巡るニュースが、まだ空にテロップとして流れ続けている。

「国境の線も、こんなふうに、少しずつ歩調を合わせて引き直せたらな。」

「何か言った?」シオンが隣に立つ。

「いや。」エイは首を振る。「今夜は、ここを守っただけで、もう十分だ。」


 レイは、冷えた手袋を脱ぎ、ポケットの中にしまった。「リチライト社」のロゴが、さっきよりもわずかに堂々として見える気がした。

「またニュースで『バッテリー火災』って出るだろうけど、今日のことも、どこかで誰かがまとめてくれるといいな。」

「その役目は、たぶん、ここにいる。」シオンが、アヤを指さす。

 アヤ──纏目ナナは、ステージの袖で端末を握りしめていた。配信画面には、「落ち着いた説明ありがとう」「怖かったけど、無事でよかった」「白線見て帰る」といったコメントが流れ続けている。

「ナナさん。」カナメが近づいてきた。「今日の配信、財政課のグループチャットに共有していいですか。」

「やめて。」アヤは即答した。「公務員にバズると、変な資料に貼られる。」

「でも、いい資料になりますよ。」カナメは笑う。「『感情を含んだ費用対効果』って、こういうことだろうなって。」

「難しい言い方するなあ。」エイが横から口を挟む。「ナナ、翻訳して。」

「つまり。」アヤは、薄く笑う。「今日みたいに怖い夜でも、ちょっとだけ笑えたら、それも税金の使い道として悪くないって話。」

「それだ。」レイが手を打つ。「それ、DOGE式の資料に書いてもらおう。」


 夜も更け、風は少しだけ和らいだ。湾岸広場の人影はまばらになり、スタッフたちが片づけを始める。

 シオンは、最後に白線の端に立った。北風が、もう一度だけ頬を撫でる。

 白線の光が、かすかに瞬いた。その一拍に合わせて、シオンは小さく足踏みをする。

 都市は、こうして歩調をずらしながら、夜を越えていくのだと思った。


(了)

――あとがき――

 今回は、湾岸都市の冬のイベントと防災実証実験を軸にした、近未来寄りの群像ドラマとして描きました。尖角諸島沖の緊張に関する報道は、空に流れるテロップと堂下エイの心情として取り込み、国境の線と横断歩道の白線を重ねています。財政規律の議論のニュースは、市役所財政課の志賀カナメのチャット画面やモノローグを通じて、投資と負担のはざまで揺れる姿として反映しました。省庁横断の無駄削減「DOGE式」の初会合は、イベント型実証が真っ先に槍玉に挙がるという形で扱い、現場の空気と政策スローガンのギャップを少しだけユーモラスに描いています。

 新しい防災庁設置のニュースは、広域災害管理庁の準備室という設定と、避難所体験を持つカナメの祖母のエピソードに結びつけました。リチウムイオン電池火災への注意喚起は、羽柴レイとモバイル電源車のトラブルとして物語のクライマックスに組み込み、技術とリスクコミュニケーションの難しさを描く要素としています。トレンドタグのうち、「SSほろX四周年」「モンス闘」「銀河も渡るトレジャ」「ちいかと冬をたのしんじゃお」などは、イベント名やゲーム、マスコット企画として少しだけ表記を変えつつ登場させました。

 ジャンルとしては、近未来SFと社会派ドラマの中間あたりを狙い、ラストは王道寄りに「大きな問題は解決しないが、その夜だけの小さな一歩」を選んでいます。ニュースの重さそのものを軽くはせず、しかし登場人物たちの会話やボケツッコミで、読後に少しだけ肩の力が抜けるような温度感を目指しました。現実の報道や議論とは距離を保ちつつ、そこから着想したフィクションとして、都市の夜を越える人びとの姿を切り取る試みです。

 この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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