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半歩リズムシティ【2025/12/02】

 夜の交差歩道を、道守コウは上から見下ろしていた。


 ガラス張りのモニタールームの窓越しに、街の人波がゆっくりと波打つ。ひとりひとりの歩幅と心拍を、高感度センサーが拾い上げ、壁一面のスクリーンに色の波として写し出している。青は穏やか、赤は焦り、黄色は迷い。街のリズムが、可視化された脈のように脈打っていた。


 都市調整局所属、歩行動線調整官。名目上のコウの仕事は、イベント時や通勤ラッシュで人が詰まらないよう、信号や誘導サインを調整することになっている。だが実際の役割は、もう少しだけ奇妙だ。


 半歩だけ、人の拍をずらす。


 交差点に埋め込まれた床スピーカーと照明、そして腕時計型端末から発される微細な振動。音と光と触覚のパターンで、人々の無意識の歩幅を、ほんの半歩だけ前へ、あるいは後ろへと揃えていく。位相をずらす。量子の波を整えるみたいに。


「今日は、荒れそうだな」


 コウは机に置いた端末を指先でつつく。ニュースアプリの上部には、赤字の速報が点滅していた。


 日央銀総裁が、十二月会合での利上げ検討に言及。


 画面下には、植出サトルからのメッセージが並んでいる。


『夕方、そっちの交差点行く。現場、見ておきたい』


 サトルは日央銀調査統計局の若手エコノミストで、大学時代からの友人だ。数字の波ばかり見ていた彼が、わざわざ街の波を見に来ると言う。


 もうひとつ、別の速報が重なる。


 法人統計で、第三四半期の設備投資が前年より二・九%増。国内需要はまだ底堅い、とアナウンサーが微笑む。だがコウには、その数字の裏で、誰かがため息をついている顔が浮かぶ。投資が増えても、給料も時間も、簡単には増えない。


「半歩、詰めすぎると転ぶからな」


 コウは小さくつぶやき、交差点のヒートマップに視線を戻した。今夜は特に、イベントが重なっている。


 銀路百貨の免税フロアでは、夜間セールと称した在庫一掃。大陸側の観光客向けの旅行注意情報が出てから、売り上げが目に見えて落ちていると聞く。


 都立アート館では、ブリタン博物館から借り受けた日本美術の特別展のナイトミュージアム。


 大型ビジョン前では、音楽番組「CDTBライブ生放送」の路上パブリックビューイング。目玉は、銀河を渡るコンセプトで売り出し中のダンスグループ「トレジャ」。関連タグは、すでにSNSのトレンド欄に「#銀河も渡るトレジャ」として躍っている。


 隣の広場では、スポーツ配信チャンネルが「#プロ野球総点呼」と題したファン投票の公開収録を予定していた。


 さらに、今夜は流行語大賞の授賞式特番の生中継もある。噂では、働き方を巡るある大臣の強気な一言が大賞を取るらしい。


 すべてが、あの交差歩道に人を連れてくる。


「半歩、足りるかな」


 コウはシャツの袖をまくり上げた。街のリズムを整える準備は、もう始まっている。


   ◇


「いらっしゃいませえ。ご覧になるだけでも、どうぞ」


 銀路百貨免税フロア。銀崎ミオは、笑顔を貼り付けたまま、あごの裏でため息を押し殺した。


 目の前を通り過ぎていくのは、国内のカップルや親子連ればかり。以前なら大型のスーツケースを引き連れた大陸側の観光客でごった返していた売り場は、いまやほどよく空いている。ほどよく、というより、さびしいほどに。


「この前まで『日本に来るな』って警告されてた国からのお客さまだっているんですけどねえ」


 同僚がボソリとこぼす。


「声が大きい。ここ、まだマイク拾ってるから」


 ミオは注意しつつ、売り場の片隅に置かれたモニターを見やる。ニュース番組が、旅行注意情報の影響で免税店の売り上げが落ちていると、どこか他人事のような口調で伝えていた。銀路百貨の名前こそ出ていないが、映っているエントランスは、見慣れた場所そのものだ。


「設備投資が増えても、ここに落ちてこないなら意味なくないですか」


 同僚の嘆きに、ミオは肩をすくめる。


「泣き言言う前に、在庫落とそ。今夜のセール、国内のお客さんに刺さるように売り場組み替えるよ。免税より、推し活セット前面に出す」


「推し活セット?」


「トレジャの新曲とコラボした香水、ほら。『半歩先の銀河へ』ってコピーのやつ」


 ミオはディスプレー棚の最前列に、星空柄のパッケージを並べながら笑う。


「海外のお客さんが減ったなら、地元に銀河を売るしかないでしょ」


   ◇


「こっちの構図、ライト少し落として。浮世絵の線、光らせたい」


 都立アート館地下の展示室で、上野ハルカは照明スタッフに指示を飛ばしていた。


 ブリタン博物館からやって来た掛け軸と屏風が、静かに並んでいる。何百年も前の墨と色が、透明なケース越しに息をしているようだった。


「ナイトミュージアムの来場見込み、大丈夫か?」


 背後から館長の声がする。


「銀路の大型ビジョンの方に、若い子たちは行くでしょうけど……うちはうちで、仕掛けてありますから」


 ハルカは、展示室の入口に取り付けた小さな端末を指さした。


「位置情報ゲーム『カルデやの者』と連携しました。ここに来ると、屏風の中に封じられた物語が解放される、って設定です」


「なるほど。ゲームのイベントにしてしまうわけか」


「古い絵も、タグ文化に巻き込んだ方が生き残れますから」


 ハルカは笑ってみせたが、その目は少しだけ疲れていた。文化の灯を守るために、毎日数字の報告書とにらめっこしている。来年度の予算案には「民間資金活用」の文字が増えた。


 街のどこかでは、利上げがどうとか、設備投資がどうとか議論されている。その波がここまで届く頃、この静かな展示室はどうなっているのだろう、とふと思う。


   ◇


「はいどうもお疲れさまです。スポーツ配信チャンネル『ベースボール電波』の虎路ヤマトです」


 交差歩道に面した広場に、簡易ステージとリングライトが組まれている。ヤマトはマイクテストをしながら、スマホカメラに向かっていつもの笑顔を作った。


「今夜は『#プロ野球総点呼』公開収録。あなたの一番忘れられない選手、叫びに来てください」


 スタッフが、足元に貼る黄色いテープを出してきた。立ち位置と導線を示すラインだ。


「ここのテープ、いつもより細かく刻んであるな」


「都市調整局からの指示ですって。ここの交差点、今日は人の波が複数重なるらしいですよ」


 スタッフの言葉に、ヤマトは少し眉をひそめた。


「そんなすごいの?」


「CDTBの路上映像と、美術館の夜間開館と、百貨店のセールと、流行語大賞のパブリックビューイングと……あと何か、量子なんとかの実証実験があるとかないとか」


「量子なんとか」


 ヤマトは笑いながら、テープのラインを踏んでみる。妙に歩きやすいような、逆に窮屈なような、不思議な感覚だった。


   ◇


「よし、音響チェックいきます」


 大型ビジョンの真下、仮設スピーカーの前でカリヤ・マユが腕を組む。


 派手な銀色のパーカーに、トレジャのロゴが輝いている。髪の毛には星形のピンがいくつも刺さっていた。


「『CDTBライブ生放送 路上銀河ジャックSP』、二〇時から。トップバッターはもちろん、トレジャの新曲『半歩先の銀河』」


 隣で配線をいじっている同僚が顔を上げた。


「マユさん、さっきから半歩半歩言ってますけど、そんなに半歩好きなんですか」


「半歩詰めるのって、オタクには死活問題なの。前列に届くかどうか、推しとの距離が全部変わるでしょ」


「それ、恋愛にも効きます?」


「そっちは知らない」


 マユは照れ隠しにケーブルを巻き取り、ふと交差歩道の向こう側を見る。銀路百貨の明かり、美術館へ続く階段、スポーツ配信のステージ。どこも準備に追われていて、街全体がそわそわと落ち着きなく揺れている。


「でもまあ、いいよね」


「何がです」


「みんな今夜、一歩だけでも推しの方に動こうとしてるってこと」


   ◇


 画面の向こうから、纏目ナナはその全部を眺めていた。


 六分割されたモニターには、それぞれ違う配信が並んでいる。銀路百貨の店内カメラ、都立アート館のロビー、ベースボール電波のテスト配信、CDTBの機材チェック、大型ビジョンのテスト映像、そして街全体の俯瞰映像。


「今夜のまとめ枠『マトメナナの夜更かしニュース』のテーマは、これだね」


 ナナはキーボードを叩き、タイトルを打ち込んだ。


『利上げ前夜の街を歩く 半歩先のトレンド観測』


 彼女は人気のまとめ配信者だ。ニュースとトレンドを一つの画面に並べ、感情と冗談をまぶして見せる。真面目すぎず、茶化しすぎず。そのバランスを取るのが、彼女の職人芸だった。


「でも、今回のはちょっと重たいかなあ」


 ナナは日央銀総裁の会見映像を巻き戻し、音を絞った状態で流す。その横に、小さく設備投資増加のグラフと、免税店の売り場映像と、夜の美術館の宣伝PVを合成する。


「働く時間は削れないのに、投資は増やしてって。高石大臣のあの一言が流行語大賞候補になるわけだよねえ」


 モニターの下段には、番組表のテロップが流れている。


『今夜 流行語大賞決定生放送 受賞はあの人のあの一言か』


 その文字列を見ながら、ナナはふと思う。働き方の言葉が賞になる国で、利上げのニュースとセールの告知と推しのライブとが同じタイムラインに流れている。全部を一度に並べると、逆に静かに見える。


 だからこそ、自分はそれを並べたかった。


「ナナさん、番組開始二十分前です」


 スタッフの声がインカムから届く。


「はーい。今日も、半歩だけ世界をまとめましょう」


   ◇


 夕暮れ。街の明かりが、ひとつひとつ粒となって灯る。


 交差歩道の上空に設置されたセンサーが、歩行者の流れを読み取り始めた。モニタールームを出て現場に向かう途中、コウの腕時計型端末が震える。


『おれ、もうすぐ着く。コンビニ前で待ってて』


 サトルからだ。


 交差歩道脇のコンビニ前には、すでに何人かが集まっていた。銀崎ミオは仕事終わりの制服の上にコートを羽織り、紙コップのコーヒーを手にしている。上野ハルカは首から職員証を下げたまま、アート館のパンフレットを配っていた。虎路ヤマトはスタッフと打ち合わせをしながら、時々こちらをちらりと見る。カリヤ・マユはヘッドセット越しに誰かと話し、時折「半歩」「前列」という単語を連発している。


「なんだ、同窓会でも始まるのか」


 コウが冗談を言うと、ミオがすぐに反応した。


「いやいや、ここは利上げ前夜祭会場でしょ」


「そんな物騒な名前つけないでくれ」


 そこへ、息を弾ませたサトルが駆け込んできた。


「ごめん。打ち合わせ長引いて」


「日央銀って、残業減らすって宣言してなかった?」


 ミオの鋭いツッコミに、サトルは苦笑する。


「設備投資の数字が思ったより良くてさ。あちこちから資料出せって言われて。二・九%増だよ、すごいだろって」


「すごいのかどうか、こっちの給料と睡眠時間に変換してからもう一回言って」


 ミオがすかさず返し、マユが笑い出す。


「でも、その二・九%の裏に、夜に働いてる私たちもいるわけですよ。百貨店ナイトセール隊と、美術館ナイトミュージアム隊と、オタク路上銀河隊と、スポーツ総点呼隊」


「なんだその分類」


 ヤマトが噴き出す。


「じゃあコウさんは?」


「……都市調整隊」


「雑ぅい」


 マユの突っ込みに、一同がどっと笑った。会話はかみ合っているようで、完全にはかみ合っていない。


「ところで利上げってさ、どれくらい上げるって話なの」


 ハルカが、パンフレットを配りながらさりげなくサトルに尋ねる。


「まだ『検討する』って言っただけで、どこも確定はしてないよ。ただ、市場はもう『上がる』って前提で動き始めてる」


「半歩先に、金利を置いてみました、みたいな」


 コウが口を挟む。


「そう。半歩だけ前に置くと、人の行列もお金の列も、ちょっとだけ姿勢を変える」


 サトルはそう言って、ふと交差歩道を見た。


「で、その半歩分の負荷が、今この場にいる誰かの残業やセールに乗っかるわけだ」


「はい、そこまで真面目にまとめない。今日のナイトミュージアムの告知もしなきゃいけないんだから」


 ハルカが慌てて話題を切り替える。


「『カルデやの者』コラボ、いい感じですよ。屏風の前でスマホかざすと、花吹雪が舞って、ポイント入るんです」


「それさ、交差点に人が集中しすぎない?」


 コウは反射的に尋ねる。


「大丈夫。館内で完結するように設定してあります」


「うちの『プロ野球総点呼』も、ステージ周りにだけファンが集まるようにルート組んであるぞ」


 ヤマトが胸を張る。


「CDTBの方は……正直、ちょっと読めないけど」


 マユは自嘲気味に笑った。


「路上銀河ジャックだからね。銀河は自由に飛び回るもの」


 コウは、心の中で交差点のヒートマップを思い浮かべる。赤と青と黄色の波が、今夜、この場でどう重なり合うのか。


 その背後で、小さなカメラが彼らの様子をこっそりと映していた。纏目ナナの番組用サブカメラだ。


   ◇


「では『マトメナナの夜更かしニュース』、本日も半歩だけ世界をまとめていきましょう」


 スタジオで、ナナがオープニングの挨拶をする。チャット欄には、すでに「利上げこわ」「トレジャ楽しみ」「プロ野球総点呼行く人いる」「美術館も良さそう」とコメントが流れていた。


「今夜の舞台は、某大都市の一つの交差点。ここに、五つのニュースと、いくつもの推し活が重なっています」


 ナナは画面の一角に、交差歩道の俯瞰映像を映し出した。そこに、銀路百貨、美術館、スポーツステージ、大型ビジョン、そして「カルデやの者」イベンターたちの位置をアイコンで重ねる。


「ちなみに、流行語大賞の中継もこのビジョンで流れる予定。噂の『働き方名言』が受賞したら、現場はどんな空気になるんでしょうね」


 チャット欄が「どうせ『寝てる暇はない』系でしょ」「もう寝たい」「半歩でいいから休ませて」とざわつく。


「休みたい人は、今からでも休んでくださいね。画面は残りますので」


 軽口を挟みつつ、ナナは目の前のスイッチャーに手を置いた。これから現場で起こることを、自分の編集でどう見せるか。その選択が、誰かの気分を半歩だけ変える。


   ◇


 二〇時。


 大型ビジョンに、眩いタイトルロゴが躍る。「CDTBライブ生放送」。観客の歓声が、路上にもあふれ出す。


 トレジャのメンバーが銀河を模したステージセットの中で踊り出すと、マユの仕掛けたスピーカーから、低音が街路に染み込んだ。


「半歩先の銀河で きみを待っている」


 画面の中の歌詞と同じフレーズを、マユは口の中でなぞる。前列に押し寄せるファンを、スタッフと一緒にロープで区切り、転ばないよう声をかける。


 その向こうで、スポーツステージではヤマトが最初の観客にマイクを向けていた。


「あなたの『プロ野球総点呼』、一番叫びたい選手は」


「やっぱり、逆転満塁弾のあの人です」


 歓声が上がる。スクリーンに、その選手の過去のハイライト映像が映される。


 美術館の階段では、ハルカが「カルデやの者」参加者にスタンプカードを配っていた。人々がスマホをかざすたびに、画面の中で江戸の町人が踊り出す。


 銀路百貨では、ミオがマイク片手に「推しの香りセール」を叫んでいる。トレジャコラボの香水売り場には、国内客が思いのほか集まっていた。


```

交差歩道の上には、さまざまな色の波が折り重なっている。コウはそのど真ん中に立ち、腕時計型端末でヒートマップを確認した。

```


「今のところ、歩行速度の平均は問題なし。だけど、ここからが本番だ」


 二〇時三十分。ナナの番組にも、視聴者がじわじわと増えてきた。画面には、円グラフの形で街の「感情比率」が表示される。


「現在、ワクワク六割、不安二割、疲労一割、残り一割が『とりあえず何か起きろ』です」


 チャット欄には「最後の一割やべえ」「それが人類」とコメントが並ぶ。


   ◇


 二一時。


 大型ビジョンの左上に、小さく「このあと流行語大賞生中継」とテロップが入る。


 コウの腕時計が、微細な警告振動を伝えてきた。


「来るな」


 サトルが隣でつぶやく。


「なにが」


「速報。うちのトップがさっき会見で言った『十二月会合で利上げの是非を丁寧に議論する』ってやつ。市場、もう『利上げ前提』で受け止めてる。記者が勝手に『利上げ視野に』って見出し付けて出した」


 サトルの端末には、経済ニュースサイトの文字が並んでいた。


 ちょうどそのときだった。


 大型ビジョンの下部に、速報テロップが走る。


『日央銀 十二月会合で利上げ検討の見通し』


 人々の視線が、一斉に上を向いた。スマホの通知音が、雨のように鳴る。


「え、今お金借り替えした方がいい?」


「住宅ローンどうなるの」


「ボーナス前にこれかよ」


 ざわめきが、交差歩道全体に伝播していく。


 ナナのスタジオでも、速報が流れた。


「来ましたね。利上げ検討の速報です。設備投資は増えた、賃金はまだ重い、でも金利を上げる準備だけは進む。さて、現場の空気は……」


 ナナは交差点の映像を全画面に切り替えた。


 その一瞬の「上を向く」動きが、街のリズムにわずかな乱れを生む。歩いていた人々が立ち止まり、後ろから来た人が詰まり、横から走ってきた自転車がブレーキをかける。


 コウの腕時計が真っ赤に点滅した。


「危ない……」


 ヒートマップの色が、赤と黄色で染まっていく。ちょうど横断歩道の中心付近で、複数の流れがぶつかろうとしていた。


 前列でトレジャに手を振っていたファンが、ビジョンに目を奪われて一歩下がる。その背中に、走ってきた子どもがぶつかり、さらにその後ろから「カルデやの者」の画面を見ていた青年がつまずく。


 小さな転倒の連鎖は、一瞬でパニックに変わりかねない。


 コウは深呼吸を一つして、腕時計の画面をタップした。


「半歩、後ろへ」


 信号機に埋め込まれたスピーカーから、ごく小さなビートが流れ出す。耳で聴き取れるか取れないかの境界線で、一定のリズムが街路を叩いた。


 路上スピーカーの設定が、自動的に微調整される。マユの仕掛けたトレジャの曲のテンポが、ほんの少しだけ落ちた。バスドラムの位置が、半拍ぶん後ろにずれる。


 横断歩道の白線に沿って埋め込まれたLEDが、ゆっくりと波打つように明滅を始める。その光の波は、人々の足元を自然と誘導する。


「ん……?」


 ビジョンの前にいたファンの一人が、無意識に一歩後ろに下がった。


 スポーツステージの前で歓声を上げていた観客が、急に手拍子のタイミングを変える。


 ハルカは階段の途中で立ち止まり、足元の光に合わせて歩幅を調整した。


 ミオは店頭マイクを握りながら、言葉を一拍おいてから発するようになった。


 そのすべてが、ほんの半歩だけの変化だった。だが、その半歩が、転倒の連鎖を吸収していく。


 つまずきかけた青年の前に、別の誰かの手が伸びた。


「大丈夫ですか」


 ミオだった。彼女は反射的に青年の腕をつかみ、引き上げる。


「すみません、ニュース見てたら……」


「見るなとは言わないけど、足元も推しなさい」


 ミオは冗談めかして言い、青年が笑い返すのを見届けてから、再び店頭へ戻った。


 コウは、次の指示を腕時計に流し込む。


「今度は、半歩前へ」


 今度は、音楽と足元の光が、少しだけ前のめりのリズムを刻む。立ち止まっていた人々が、自然と歩き出す。


 スポーツステージのヤマトが、マイクを握りしめて叫んだ。


「はい、ここで一発、『プロ野球総点呼』らしく、みんなで声出しましょう! 利上げでも何でも来い、ってくらいの声で!」


 観客が笑いながら叫ぶ。その声が空気を震わせ、ざわめきが少しだけ笑いに変わる。


 美術館の階段では、ハルカが「今なら『カルデやの者』限定クエスト開放中です。屏風の前まで、落ち着いてお越しくださーい」と拡声器で呼びかけていた。


 マユは、ビジョンに映るトレジャのMCタイムに合わせて、客席に向けて叫ぶ。


「はい、みんな足元見てー! 推しの名前叫ぶときは、一歩だけ前へ! 押すな、押されるな、半歩で届け!」


 彼女の半ば無茶なコールが、いつの間にか合言葉になっていく。


「半歩で届け!」


 観客が復唱し、そのリズムが交差点全体に広がる。


 ナナのスタジオでは、その様子がそのまま配信されていた。


「ご覧ください。利上げ速報で一瞬ざわついた交差点が、今、『半歩で届け』という謎のスローガンで落ち着きを取り戻しつつあります」


 チャット欄は「半歩で世界救ってて草」「これ今年の流行語でいいだろ」と盛り上がる。


   ◇


 やがて、大型ビジョンに、流行語大賞の特番が映し出された。


 司会者が笑顔で封筒を開き、大賞を発表する。


「今年の大賞は……『働く人に、寝てる暇はない』」


 ステージ上の政治家らしき人物が、どや顔で手を振る。その一言が街中に流れ、交差点のあちこちからため息と笑いと、疲れたような拍手が混ざった奇妙な音が上がる。


「寝てる暇、ないってさ」


 ミオが苦笑する。


「さっき転びかけた人、寝不足っぽかったけどな」


 コウがぼそりと言い、サトルが肩をすくめた。


「うちのトップも、人の時間を半歩ずつ削ってる自覚はあるのかな」


「あるからこそ、ああいうこと言うのかも」


 ハルカが首をかしげる。


 そのとき、ナナの番組画面に、新しいタグが浮かび上がった。視聴者の誰かが書き込んだもので、瞬く間にチャット欄のあちこちにコピーされていく。


「『寝てる暇はない』に対抗して、『半歩だけ休もう』ってタグ、どうですかね」


 ナナは笑いながら、そのタグを画面下に固定した。


「今夜、街の交差点を守っているのは、『寝てる暇はない』って言葉じゃなくて、『半歩で届け』って叫んでた人たちと、半歩だけリズムをずらした誰かですから」


 画面の端に、コウたちの姿が小さく映る。誰も自分が映っていることには気づかない。


   ◇


 夜も更け、イベントの明かりが一つずつ消えていく。


 スポーツステージの照明が落ち、ヤマトが最後の挨拶をし終える。美術館のナイトミュージアムも閉館時間を迎え、ハルカが来場者を見送る。銀路百貨のセールも終了し、ミオは売り場のポップを片付ける。


 大型ビジョンには、深夜のニュースと、やや気の抜けたバラエティ番組が交互に流れ始めた。


 交差歩道の人影がまばらになった頃、コウは中央に立ち、足元のLEDにそっと触れた。


 光の波は、もう穏やかな青に変わっている。


「今日も、何とか転ばずに済んだな」


 彼がつぶやくと、背後から声がした。


「まとめる方も、けっこう大変でしたよ」


 振り向くと、そこには纏目ナナが立っていた。スタジオから飛び出してきたのか、まだイヤモニを片耳につけたままだ。


「現場、来てたんだ」


「最後くらい、生の空気を吸わないと。まとめ損ねるから」


 ナナは交差点を見回した。


「利上げ検討のニュースも、設備投資が増えたって話も、免税フロアの苦労も、美術館の挑戦も、スポーツ配信の熱も、オタクの叫びも。全部一度に並べたら、逆に静かでした」


「静か?」


「うん。どれも誰かの半歩でできてるって分かったから」


 ナナは、腕時計のコウの端末をちらりと見る。


「あなた、量子歩行制御実験プロジェクトの人ですよね」


「正式名称、長いよね」


 コウは苦笑した。


「まあ、都市調整局って言った方が分かりやすいから」


「画面で見てました。音と光で、人の歩幅を半歩ずらしてたでしょう」


「見られてたか」


「まとめ配信者なめないでください」


 ナナは少しだけ得意げに笑い、それから真面目な顔に戻った。


「でも、全部をコントロールしようとしてるわけじゃないんですよね」


「そりゃそうだ。そんなことしたら、誰かが本当に転ぶ」


 コウは夜空を見上げた。わずかに雲が切れ、星が二つ三つ覗いている。


「俺たちがやってるのは、せいぜい半歩。転びそうな人を支えるとか、行列の角度を少し変えるとか。そのくらいが、たぶん限界だ」


「でも、その半歩で、今日のこの交差点は救われた」


 ナナはスマホを取り出し、新しいタグを打ち込んだ。


「『#半歩だけ前へ』。さっきの『半歩で届け』の派生です」


「まだ増やすのか」


「ニュースは増え続けますから。せめて、半歩だけ前へ進める言葉も増やさないと」


 ナナはスマホ画面をコウに見せた。そこには、彼らの立つ交差点の写真が映っている。


 夜の街灯に照らされた横断歩道。白線の上に、音のない波が走っているように見えた。


「ねえ、道守さん」


「なに」


「いつかこの街全体が、世界規模の実験ってバレる日、来ると思います?」


 ナナの問いに、コウは少しだけ考えてから答えた。


「バレてもいいように、半歩だけマシな世界にしておく。それが仕事かな」


「ずるいですね、そのまとめ方」


「まとめ配信者に言われたくないけど」


 二人は同時に笑った。


 遠くで、終電を告げるアナウンスが聞こえる。


 街のリズムは、ゆっくりと眠りにつこうとしていた。半歩遅れて、半歩先に進む準備をしながら。


(了)



――あとがき――


 今回の物語では、利上げ検討のニュースと設備投資増加の統計、それから観光客向け免税店への逆風、美術館の特別展、流行語大賞といった報道の断片を、一つの交差点に集約する形で描きました。日央銀の利上げ検討発言と設備投資二・九%増は、植出サトルの会話と交差点の速報テロップに反映し、数字が夜の現場の空気にどう影響するかを表現しています。旅行注意情報による免税店の売り上げ減少は、銀路百貨で働く銀崎ミオの視点として、セールの組み替えや愚痴の形で織り込みました。


 都立アート館の特別展と、それに絡む古い美術作品は、ブリタン博物館からの貸与という形で上野ハルカの仕事として登場させ、「カルデやの者」という位置情報ゲームとの連携イベントにすることで、文化施設とトレンド文化の接点を描いています。流行語大賞は大型ビジョンの生中継として、働き方を巡る強い言葉が夜の街の空気に混ざる場面に使いました。トレンドタグに関しては、「CDTBライブ生放送」「銀河も渡るトレジャ」「プロ野球総点呼」「カルデやの者」などを少しだけもじり、路上パブリックビューイングやスポーツ配信、美術館連動イベントのタイトルとして配置しています。


 ジャンルとしては、現代社会派ドラマに近未来SF要素を薄く混ぜた構成にしました。物語の大部分は現代の都市群像劇として進めつつ、終盤で道守コウの「量子歩行制御実験」という設定と、街全体が実験場であるかもしれないという示唆を置くことで、少しだけSF方向に裏切る終わり方にしています。王道の「事件解決」ではなく、「半歩だけマシな世界にしておく」という小さな決意に落とし込んだ点が今回の意図です。


 ニュースに触れるフィクションを書くとき、実際の報道の重さやそこにある生活を軽く扱わないことを意識しました。同時に、物語の登場人物たちがニュースをどう受け取り、自分の仕事や推し活の中でどう折り合いをつけていくかを描くことで、現実から半歩だけ距離を取った視点を作れればと考えています。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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