湿度の街、拍を束ねる夜【2025/12/01】
湾岸の夜は、画面の光で海より明るかった。
片山サツキヨは、防災課のノート端末を抱えたまま、埠頭沿いのデッキに出た。湿った海風が、マスクの内側までじっとりと入り込む。頭上の大型ビジョンには、テロップが横殴りに流れていた。
『財務相 急激な円安は実力を反映していない 市場に冷静な対応求める』
円のグラフが、ジェットコースターのように落ち込んでいく。すぐ隣の画面では、別のテロップが切り替わる。
『津波避難場所の六割に備蓄なし 調査で判明』
サツキヨの胸の奥に、職業病みたいな鈍い痛みが走る。あのリストには、自分の担当エリアの学校も、公園も、全部名前が載っていた。
さらに画面が分割され、皇居の映像が映る。穏やかな笑みの皇嗣殿下の隣には、「六十歳」の文字。還暦の記念行事のニュースだ。
「六十年か……」
ぽつりとこぼした声は、海風にすぐさらわれた。
ポケットの中で、端末が小さく震える。通知バーには、見慣れたアプリのアイコンが揺れていた。丸い鼓のようなマーク。都市の拍を視覚化する試験アプリ、「シティ拍束ね」のテスト版だ。
《湾岸第三区の拍が不安定です 推奨対応 住民動線の微調整》
サツキヨは、ふっと鼻で笑った。
「拍なんか束ねる前に、缶詰の一つでも増やさせてよ」
声に出しても、アプリは何も答えない。ただ、画面の中で、街の地図に浮かぶ細い線が、神経のように淡く明滅している。歩く人、走る車、配達ドローン、その一つ一つに刻まれた小さなリズムの集積。
その向こう側のビジョンには、今度は宇宙の映像が映った。薄い雲の層を斜めに切り裂くレーザの線。
『宇宙航空探査庁ジャサ 雲と雨の同時観測データ公開 新たな降水解析に期待』
アースケイル衛星とGRM雨量観測機の同時観測データを組み合わせた、世界初の公開だという。画面の隅では、専門家らしき人物が説明している。
「今回の同時観測は、都市の豪雨や津波被害の予測にも役立つ可能性がありまして……」
その顔を見た瞬間、サツキヨは目を細めた。
「渚……?」
画面の中、スーツに身を包んだ気象解析研究員の名前テロップには、『渚トドロキ』とあった。大学時代、防災サークルで一緒に夜を徹した友人。メッセージアプリの最終ログは、「今度飲もう」で止まったままだ。
端末はまだ手の中で震えている。試験アプリから、もう一つ通知が届いていた。
《渚トドロキから共同セッションの招待》
サツキヨは、一瞬だけためらい、それから通知をタップした。
◆
「聞こえるか、サツキヨ」
会議システムの画面に映った渚トドロキは、ビジョンで見たスーツ姿から、パーカーに着替えていた。背後には、薄暗い研究室と、壁一面のモニタ。雲の断面図や、雨粒を示すカラフルな点の雲が、絶えず形を変えている。
「見てたよ、さっきの中継。専門家コメントなんてできる立場になったんだ」
「給料と雇用は、いまだに専門外だけどな」
渚が冗談めかして肩をすくめる。だが、その目の下には、くっきりとしたクマがあった。
「それ、徹夜続きの顔」
「まあ、ちょっとな。さっきのアースケイルとGRMの同時観測データ、都市沿岸のシミュレーションに回してる。で、そっちの試験アプリに変な振動を送ったのは、オレだ」
画面が分割され、サツキヨの端末に映っていた「シティ拍束ね」の画面と、渚の研究端末の画面が並ぶ。どちらにも、湾岸都市の地図が表示されていた。人の流れは細い光の線、物流は太い線、救急車や消防車は赤いパルス。
渚がキーボードに手を置く。その指先の動きに合わせて、画面の中の線が、鼓動みたいに「トン、トン」と明滅した。
「この街には、秒単位の小さな余白が山ほどある。信号の待ち時間、エレベータを待つ間、レジ前の行列。オレはそれを『拍』って呼んでる」
「そう名付けたの、絶対あんたでしょう」
「名付け親の特権でな。で、その拍を束ねて少しずつずらすと、人の波と物流の波の位相を変えられる。避難に使える拍も、どこかに眠ってる。問題は、それを覚醒させる仕掛けだ」
渚は一枚のグラフを表示した。明け方の湾岸をなめるように伸びる、太い青い帯。アースケイルとGRMの同時観測から弾き出された、今夜から明朝にかけての豪雨と波高の予測だ。
「公式な津波警報が出るほどじゃない。でも、避難場所の備蓄が足りないってニュース、見ただろ」
「こっちは足りないどころかゼロの場所だらけ。予算要求は、財務局の『持続的な財政運営』って壁に跳ね返されて終わり」
昼間の会議を思い出す。政府の有識者会議が、「将来世代にツケを回さない財政」を掲げ、支出の抑制を提言したというニュース。そのコピーを、上司は嬉しそうに配ってきた。
「『持続的』って便利な言葉だよね。足元で持続できてない避難所には、届かないんだから」
「だからこそ、こっちの非公式な『拍束ね』が要る」
渚の声が、少しだけ熱を帯びる。
「明け方、ピンポイントで一番危ないのは、第三埠頭周辺だ。昼には皇嗣殿下の還暦記念パレードのリハも控えてる。その周りで、何が行われるか、思い出してみろ」
サツキヨは、イヤな予感と共に、ビジョンに映っていた別の映像を思い出した。
『湾岸第三埠頭特設ステージ 新人アイドルグループ『ノギサ坂の栞里』お渡し会』
そして、トレンド欄を賑わせていたタグ。
『#ノギササカの栞里』
自分の端末のホーム画面には、そのタグを追うためのショートカットが、しっかり置かれている。推しは推し、だ。
「よりによって、あの時間帯にイベント詰め込まなくてもいいのに」
「運営に抗議するか、拍を束ねて別の方向に出力するか。どっちを選ぶ?」
渚の問いに、サツキヨは、海風を一度深く吸い込んだ。
「人の歩く方向を変えるなんて、そんな簡単に……」
「簡単じゃないから、オレたちが大学で徹夜してた。覚えてるだろ」
画面の端に、別のアイコンが点った。流れるようなロングヘアのシルエット、「配信者・葉鹿こより」のアイコンだ。
《共同セッションに参加しますか》
渚の声が続く。
「こよりを呼んだ。あいつの『パ架ライブTV』なら、拍を動かせるかもしれない」
「本気で、配信者使って避難誘導する気?」
「本気で、避難場所の備蓄に頼れない街だろ、ここ」
端末の振動が、風と波の音に混じって、「トクン」と小さな拍を刻んだ。
◆
配信スタジオ兼ワンルームの窓を開けた瞬間、葉鹿こよりは湿気に顔をしかめた。
「うわ、今日、空気がスチームサウナなんだけど」
部屋の中には、リングライトとマイクと簡易防音パネル。その中心に、こよりが座るゲーミングチェアが鎮座している。正面のモニタには、コメント欄が流れていた。
『#パ架ライ部TV 待機』
『ノギササカ現地レポきた?』
『グラコロ食べながら見る配信はここですか』
こよりは、カメラの位置を微調整しながら、自分の髪のはねをチェックする。
「よし、湿度で巻きが勝手についてる。今日はこれを『災害級の湿度ヘア』ってタイトルにしよ」
冗談を口にしたところで、端末が震えた。見慣れた防災マークと、知らない太鼓のアイコンが並ぶグループチャット。「湿度の街会議」と名付けられたそのトークルームには、サツキヨ、渚、そしてもう一人の名前があった。
『纏目ナナ』
ハンドルネームらしいその名前の横には、「まとめナビゲータ」と書かれた自己紹介。ニュースやSNSの情報を束ねて配信するインフルエンサーだ。
サツキヨからのメッセージが、連続して表示される。
『こより、今夜の「素のまんま」枠で、避難所備蓄の話ってできる?』
『ついでに、ノギササカのお渡し会の会場、第三埠頭じゃなくて、近くの小学校の体育館に変えたくて』
『理由はあとで説明する。渚の新しい豪雨予測が当たると、埠頭付近で人が溢れると危ない』
こよりは、メッセージを読みながら、天井を仰いだ。
「わたしの配信、いつから避難誘導チャンネルになったんだっけ」
渚からのメッセージが続く。
『こよりの視聴者の拍を、少しだけこっちに貸してほしい。みんなの予定を、数分だけずらせればいい』
『拍って何、って顔してるだろうけど、要するに、行列を別の方向に流すための小さな合図だ』
そこに、「纏目ナナ」が割り込んだ。
『タグの設計は、わたしがやる。#ノギササカの栞里 と #パ架ライ部TV と #LANEまん画 と #マクのグラコロとうとう発売 を全部束ねて、新しいタグを作ろう』
『#湿度の街の秘密朝練 なんてどう?』
こよりは、思わず吹き出した。
「秘密ってタグに書いたら秘密じゃないんだよ、ナナさん」
『バズらない秘密は、存在しないのと同じ。どうせなら、避難所をイベント会場にしちゃえばいい』
纏目ナナのメッセージには、計算された軽さと、妙な説得力があった。
こよりは、机の上のドリンクを一口飲み、深呼吸した。
「……よし。じゃあ、今日はそういう配信だ」
リングライトを点け、配信ソフトを起動する。
『配信タイトルを入力してください』
入力欄に、こよりは指を走らせた。
『湿度の街で備蓄してみたら #素のまんま 特別編』
背後のスピーカーから、「ピン」と小さな音が鳴る。シティ拍束ねアプリの通知だ。
《配信開始で、街の拍が動きます》
「知ってるよ」
こよりはカメラに向かって笑い、カウントダウンを始めた。
「さん、にい、いち」
見えないところで、街の無数の拍が、ほんの少しだけ揺れた。
◆
ファストフードチェーン「マクドナ湾岸店」の厨房は、揚げ油の音で満ちていた。
芥見アカリは、次々と投入されるグラタンコロッケを、一定のリズムで裏返していく。店内放送では、限定メニュー「グラコロついに発売」のジングルが、耳に残るフレーズを繰り返していた。
「アカリちゃん、手、止まってる」
店長に声をかけられ、アカリは慌ててトングを動かす。
「すみません。ちょっと、油の拍を数えてました」
「油に拍数えるアルバイトは初めてだわ」
店長のツッコミに、周りのクルーたちが笑う。アカリは、頬をかきながら言い訳した。
「なんか、さっきからスマホが震えっぱなしで。ほら、配信者のこよりさんが、防災特集やるって」
手を洗い、休憩スペースに戻ったアカリは、スマホを覗き込んだ。パ架ライ部TVの画面には、こよりと、見慣れない二人のゲストが並んでいる。片山サツキヨ、防災課職員。渚トドロキ、気象解析研究員。番組の下には、新しいタグが踊っていた。
『#湿度の街の秘密朝練』
「秘密って、もう世界中にバレてるんだけど」
アカリがひとりごちると、隣の席のクルーがのぞき込んできた。
「なにそれ。朝練? 運動部?」
「違うよ。避難所で、備蓄の並べ方とか、避難経路の確認とかするんだって。ノギササカの栞里ちゃんも、来るかもって」
「え、推し来るの。だったら行きたい」
「行きたいけど、シフト入ってる」
「店長に言ってみれば? 『これは防災訓練なので、有給でお願いします』って」
「そんな理由で有給出たら、うちの財務が持続しないよ」
二人の会話は、ちょっとしたコントのように弾んだ。そこに、厨房から店長の声が飛んでくる。
「おしゃべりしてる間に、グラコロ揚がってるぞー。こっちの財政は、油の持続可能性のほうが心配だ」
笑いながら、アカリはスマホをしまった。そのとき、画面の隅に、小さな通知が点る。
《マクドナ湾岸店 第三埠頭小学校体育館へのケータリング要請》
《理由 秘密朝練 備蓄支援》
「ケータリング……?」
アカリは、慌てて店長のもとへ駆け寄った。
「店長、これ、見ました?」
「ん、なになに。体育館にグラコロ届けろって? また変なコラボ企画だな」
「多分、防災課とパ架ライ部のコラボです。受けますか」
店長は、腕組みをして少しだけ考え、それからニヤリと笑った。
「いいじゃないか。『備蓄できるバーガー』って、うちの新コンセプトにしよう。どうせなら、レジ前にポスター貼っとけ。『避難所でグラコロ』」
「コピーが、なんか微妙にズレてます」
「ずれてるくらいが、印象に残るんだよ」
会話のテンポに合わせて、厨房のタイマーが「ピピッ」と鳴る。その音もまた、街の拍の一つだった。
◆
紙屋ユイは、湾岸を見下ろす高層ビルのオフィスで、物流ネットワークの画面を見つめていた。
彼女が勤める電子まん画プラットフォーム「LANEまん画」は、最近は電子書籍だけでなく、日用品の定期配送も手がけ始めている。読者の購買データと連動して、缶詰や非常食が自動的に届けられる仕組みだ。
「備蓄って言葉を、もう少しポップに言い換えられないかなあ」
ユイは、ペンタブのペン先で机をとんとん叩く。リズムは、いつも同じ四拍子。そのクセに気づいているのは、たぶん本人だけだ。
モニタの片隅には、別アカウントのダッシュボードが開いていた。ハンドルネーム「纏目ナナ」。フォロワー数は、防災庁の公式アカウントを軽く超えている。トレンドをまとめるスレッド、「マトメナの素のまんま」。今夜は、「湿度の街で備蓄をポップに」がテーマだ。
「ナナさん、また無茶振りしてきたな……って、ナナさん、わたしなんだけど」
小さくつぶやいて、ユイは笑う。纏目ナナは、彼女の裏の顔だ。匿名だからこそ言えることを、まとめて投げる場所。
チャットツールが鳴る。湿度の街会議からだ。
『ユイ、物流の拍、動かせる?』
送信者は渚だった。
『第三埠頭の備蓄不足を、今夜中に体育館に送り込みたい。公式予算じゃなくて、定期配送のついでみたいな顔をして』
ユイは、配送ルートの地図を表示する。湾岸を走るトラックのルートを、マウスで少しずつずらす。あくまで「誤差」の範囲内で。
「こんなごまかし、いつまで続けられるかな」
つぶやきと同時に、ニュースサイトの見出しが目に入った。
『政府有識者会議 持続的な財政運営へ 社会保障・防災投資の優先順位見直しを提言』
「優先順位から落ちないためには、『人気』っていう拍も必要なんだよね」
ユイは、纏目ナナのアカウントに切り替え、新しいスレッドを立ち上げた。
『#湿度の街の秘密朝練 参加すると、LANEまん画の限定防災まんがが読めるかもしれません』
「『かもしれません』は、言ってないのと同じだけど」
キーボードを叩く音が、また四拍子を刻む。そのリズムに呼応するように、物流ネットワークの線が、ほんの少しだけ別の方向へ曲がった。
◆
野坂の栞里は、第三埠頭の仮設ステージで、ひとりストレッチをしていた。
海から吹きつける風が、髪を乱す。スタッフが持つタブレットの画面には、タイムテーブルが映っていたが、その下には赤い文字で「会場変更検討中」と書かれている。
「この場所、やっぱり危ないんですか」
防災課の職員が持ってきた資料には、さきほど報じられたばかりの調査結果が挟まっていた。津波避難場所の備蓄不足。第三埠頭近くの避難場所は、缶詰も毛布も、必要量に遠く届いていない。
そこへ、片山サツキヨが駆け込んでくる。ネームプレートを揺らしながら、深く頭を下げた。
「野坂さん。突然ですみません。明日の朝のイベント、会場を小学校の体育館に移せませんか」
「体育館……」
栞里は、ステージから見える海を一度振り返る。ここで歌えば、きっときれいな映像が撮れる。ファンは喜ぶ。トレンドにも乗る。
だが、風の匂いは、さっきからずっと重かった。
「理由、教えてもらえますか」
サツキヨは、渚の豪雨予測や、備蓄不足の現状をかいつまんで説明した。公式な津波警報は出ないかもしれないこと。この街の財政が、避難所に十分な備蓄を配るほど余裕がないこと。それでも、彼女が避難訓練を諦めたくないこと。
栞里は静かに聞き終えると、口元だけで笑った。
「じゃあ、体育館で『秘密朝練』ってことにしましょう」
「いいんですか。ステージじゃなくて」
「わたし、もともと体育館で歌うの、好きなんです。音が、壁で跳ね返って、拍が全部自分に戻ってくる感じがして」
「拍……」
サツキヨは、その言葉に反応した。栞里の耳にも、どこかで「シティ拍束ね」の説明が届いているのかもしれない。
「それに、『皇嗣殿下が六十歳になった日に、体育館で避難訓練ライブしたアイドル』って、後から語り草になるかも」
「語り草の方向が、だいぶニッチです」
「ニッチは強いですよ。LANEまん画で学びました」
栞里は、タブレットを持つスタッフに振り向いた。
「会場変更しましょう。『#湿度の街の秘密朝練』でタグ打ってください。ファンには、全員体育館に集合って伝えて」
その瞬間、どこか遠くのオフィスで、纏目ナナがガッツポーズをしていた。
◆
夜が深まるにつれて、湿度はさらに増した。街のあちこちでスマホが震え、シティ拍束ねアプリが静かにアップデートを繰り返す。
湾岸通りの大型ビジョンは、再びニュースを映し出していた。スタジオでは、財務相が穏やかな表情で語っている。
『急激な円安は、我が国の経済の実力を反映したものではありません。市場には、冷静で秩序ある対応をお願いしたい』
テロップの下で、為替レートの数字が揺れる。その隣の画面では、有識者たちが「持続的な財政運営」について議論していた。
『防災投資も重要ですが、限られた財源をどう配分するかが問題です』
画面を見上げる通行人の中に、芥見アカリと、アルバイト仲間の姿があった。紙袋には、グラコロがぎっしり詰まっている。
「なんか、偉い人たちの『拍』と、うちらの生活の『拍』って、全然違う音してるよね」
アカリの言葉に、隣のクルーが頷く。
「でも、明日の体育館、グラコロでいっぱいにしてやろうぜ」
そのやりとりもまた、街のどこかに記録される小さな振動だった。
◆
明け方前、空はまだ暗いのに、雲だけが白かった。アースケイル衛星の軌道上から見れば、それはひとつの長い巻物のように、湾岸都市を覆っていたはずだ。
地上では、湿った風が、一瞬だけ凪いだ。
その刹那、シティ拍束ねアプリのサーバーに、複数のピークが同時に立ち上がる。第三埠頭周辺の人流、物流、そして通信。渚トドロキは、研究室のモニタの前で息を呑んだ。
「ここからが本番だ」
画面には、体育館に向かう人の流れが、光の線となって集まっていく様子が映っている。こよりの配信画面が、右上に小さく表示されていた。
『おはようございます、湿度の街のみなさん。今日は体育館で、拍を束ねる朝練です』
こよりの声が、イヤホン越しに研究室にも届く。その横では、纏目ナナのまとめスレッドが、怒涛の勢いで更新されていた。
『ノギササカの栞里、体育館でサプライズ曲披露へ』
『マクドナ、グラコロで避難所を応援 「お腹から備蓄しよう」』
『LANEまん画、防災まんが無料公開か ※条件は配信を最後まで見てね』
ユイはオフィスのモニタでそれを見守りながら、配送トラックの位置情報を確認する。アカリは、体育館の裏口で、仲間たちと一緒にグラコロの箱を積み下ろしていた。
体育館の中では、サツキヨが避難経路の説明を準備している。手には、古びたハンドマイク。防災訓練用の資料の端には、「今日は拍を感じてください」と自分で書き足した一文。
扉が開き、最初のファンが入ってきた。続いて、家族連れ、近所の高齢者、朝のランニング帰りの若者たち。みんな、少し眠そうで、でもどこか浮き足立っている。
体育館の床に、ばらばらだった拍が集まっていく。
「おはようございます。今日は、避難訓練……という名の、秘密朝練に来てくれてありがとうございます」
サツキヨの声が、スピーカーから少しハウリングしながら広がる。その瞬間、外で雷鳴が響いた。
ゴロロロロ。
続いて、屋根を叩く雨の音。ザアアアア。
渚の予測した豪雨が、予定通りに、しかし誰にも歓迎されないタイミングで、街を襲い始めた。
体育館の窓越しに見える第三埠頭は、雨に煙っている。もしあそこにステージが組まれ、人が集まっていたら、と想像するだけで、サツキヨは背筋が冷たくなった。
だが、今そこにいるのは、ほとんど空のコンテナだけだ。
「どうやら、ここの拍は、いい方向にずれたみたいだね」
背後で、渚の声がした。リモート参加の彼の顔が、体育館の隅のモニタに映っている。
「みなさん、足元のテープを見てください。そこが、津波のときの安全ラインです」
サツキヨは、予定通り避難経路を説明し始めた。こよりは、その様子をライブで配信しながら、チャット欄に流れるコメントを拾う。
『避難訓練ライブ、意外と泣ける』
『グラコロうまい。非常時にも食べたい』
『皇嗣殿下の還暦の日にこれ見てるの、なんか感慨深い』
ステージ代わりのバスケットゴールの下で、野坂の栞里がマイクを握った。
「じゃあ、一曲だけ歌ってもいいですか。タイトルは、『明日の拍を束ねよう』」
体育館の空気が、一瞬で変わる。照明のないステージ。観客との距離は、手を伸ばせば届くくらい。栞里の声が、壁にぶつかって、天井に跳ね返り、何度も重なっていく。
その重なりが、確かに拍を束ねていた。
雨音、歓声、マイクのハウリング、グラコロの包装紙が擦れる音。全部が混ざって、ひとつのリズムになっていく。
外では、排水路がギリギリのところで雨をさばいていた。渚はモニタの前で、アースケイルとGRMのデータを重ね合わせる。今のところ、シミュレーションどおりに、被害は最小限に抑えられている。
「この街、まだ持続できるかもしれないな」
誰にともなくつぶやいた言葉は、換気扇の音に紛れて消えた。
◆
同じ時刻、ずっと高いところ。
地球を周回するアースケイル衛星のデータ処理室では、別のモニタが点灯していた。
『湾岸都市拍束ねシナリオ No.60 完了』
天井近くのスピーカーから、合成音声が流れる。
「検証結果。避難所備蓄不足条件下においても、人的被害は想定より七割減少。要因として、拍調整アプリと、インフルエンサー連携の効果が確認されました」
モニタの前に座る白衣の研究者が、コーヒーカップを持ち上げる。
「これで、現実の政策担当者に提案できるな。『持続的な財政運営』の範囲内でも、拍を束ねればここまでできるって」
隣の席で、別の研究者が首をかしげた。
「でも、実際にあの街の避難所に備蓄を置くためには、お金が要る。シミュレーションの中みたいに、勝手にグラコロは届かない」
「だからこそ、このシナリオを見せる価値があるんだろ。数字だけじゃなくて、拍の物語ごと」
研究者は、画面に映る体育館の映像を指さした。そこでは、片山サツキヨが、まだマイクを握っている。野坂の栞里が笑っている。配信者のこよりがカメラを覗き込んでいる。芥見アカリが、子どもにグラコロを手渡している。紙屋ユイが、スマホで物流データを確認している。
そして、スクリーンの端には、「纏目ナナ」のアカウントが、小さくウィンドウ表示されていた。まとめスレッドのタイトルは、「湿度の街、拍を束ねる夜」。そこには、数え切れないほどのコメントと、小さな拍の記録が並んでいる。
「……彼女たちは、本当に『シナリオ』なんですかね」
若い研究員が、ぽつりとこぼした。
「シミュレーションを何度も回してると、ときどき、本物のほうが影響を受けてる気がして」
白衣の研究者は、肩をすくめた。
「それを考え始めると、寝られなくなるぞ。きょうのところは、No.60はうまくいった、という事実だけでいい」
「じゃあ、次はNo.61ですか」
「いや。次は、現実のほうの財務省と防災庁を、どう動かすかが本番だ」
研究者はコーヒーを飲み干し、端末に一本のメールを書き始めた。件名は、「湾岸都市における拍束ね型避難誘導の提案」。
そのメールが送信される瞬間、どこか遠くの現実の街で、一台のスマホが小さく震えた。
それが、シミュレーションから現実へと渡された、最初の拍だった。
(了)
――あとがき――
本作では、湾岸都市を舞台にした近未来の社会派SFとして、複数のニュースを一つの夜の物語に束ねました。津波避難場所の備蓄不足に関する報道は、小学校の体育館に会場を移して行う「秘密朝練」と、グラコロのケータリングによる即席備蓄の場面として描いています。皇嗣殿下の六十歳という節目のニュースは、同じ日に体育館で避難訓練ライブを行う、という時間の重なりとして取り込みました。
急激な円安と「実力とは合わない」とする財務相の発言、そして「持続的な財政運営」を掲げる有識者会議のニュースは、街頭ビジョンに流れるコメントや、防災予算の壁として背景に配置しました。宇宙機関による雲と雨の同時観測データ公開の話題は、アースケイルとGRMの同時観測と、それを用いた拍束ねシミュレーションとして再構成しています。また、トレンドタグからは、#ノギササカの栞里、#パ架ライ部TV、#LANEまん画、#マクのグラコロとうとう発売をもじって用い、配信番組やチェーン店、電子まん画サービスとして散りばめました。
ジャンルとしては、前半から中盤にかけては王道寄りの群像劇としつつ、ラストで街の出来事が拍束ねシナリオの一つであったことを示すことで、少しだけ別のSF的レイヤーを立ち上げる終わり方にしています。纏目ナナというキャラクターは、「まとめなな」的な存在を意識しつつ、ニュースと個人の感情をゆるく結びつける媒介役として配置しました。
現実の報道が扱う災害や経済の重さをそのまま消費するのではなく、フィクションとして距離を取りつつも、「もし自分がこの街にいたらどんな拍を差し出せるか」を想像できるような物語になっていれば幸いです。『この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。』




