群衆天気、今夜は晴れ【2025/11/30】
空港の天井は、巨大な雲の裏側みたいに灰色だった。
発着ボードの列が、ぱちぱちとひっきりなしに書き換わる。そこに並ぶ文字は、ほとんどが同じ言葉だった。
「欠航」
九条シノは深く息を吸って、その言葉の群れを胸の奥で言い換える。
低気圧。しかも急速に発達中。
格安航空「ピーチカ空輸」のカウンター前には、行き場をなくした乗客の波がたまっていた。子どもを抱えた母親、スーツケースを枕に横になるサラリーマン、スポーツタオルをマフラーみたいに巻いたサッカーファンたち。
彼らの呼吸と足踏みがばらばらに響き、空調の風までざらついて聞こえる。
「調整官さん、もう限界なんですけど」
カウンター越しに、岸波ナギが半笑いで肩をすくめた。ピーチカ空輸の制服のピンクは、いつもよりくたびれて見える。
「さっきから『いつ飛ぶんですか』と『なんで飛ばないんですか』しか聞かれてない。あ、あと『ベスアー見る時間までに帰れますか』も追加で」
「ベスアーは、きょうだったね」
シノはうなずき、耳の奥で鳴るざわめきと、掌に握った端末の画面を重ねた。
そこには、都市全体の「群衆天気図」が映っている。地区ごとに色が変わり、人の密度と感情の傾きが天気みたいに見える地図だ。
空港のエリアは、真っ赤な雷雲マークだった。
「アールバス社の中型機で、部品の不良が見つかったって。世界中で一斉に点検入ってる」
「ニュース、見ましたよ。うちの機体も同じ型だから、今日は全部ストップ。よりによって、ベスアーの日に」
ナギはため息をつきながらも、乗客には柔らかい笑顔を向け続ける。プロの顔だ。
「『アールバスの新型、やっぱり安いだけあったな』とか、好き勝手言われてますけどね。ああ、ほら、また」
少し離れた所で、中年の男性が声を荒らげた。
「なんで飛べないんだ! こっちは昇格決まった試合を見に行くはずだったんだぞ!」
「申し訳ありません……安全確認のためでして……」
ナギの同僚が頭を下げ続ける。
群衆天気図の赤が、じわりと濃くなった。
シノは、指先で端末の画面をなでた。空港エリアから、市中心部の広場へ、画面をすべらせる。
そこでは、別の雲が膨らみつつあった。
今夜、都心の大広場では、いくつもの出来事が同時に起きる。
十八万人規模の防災訓練のフィナーレ。音楽特番「ベスアー二〇二五」の屋外パブリックビューイング。地方リーグ優勝クラブの昇格報告会。その横で、新しい半導体工場の起工式の祝賀イベントまでやるという。
群衆天気図では、その全部が重なるあたりに、渦を巻いた低気圧マークが点滅していた。
「ナギさん」
シノは、空港全体に流れる構内放送の設定画面を開いた。
「このあと、臨時で案内を入れる。遅延の説明だけじゃなくて、街の中の『今夜の天気』も一緒に伝える」
「天気?」
「人の天気。気持ちの空模様。ついでに、今日の外の空は晴れ。だから、呼吸を合わせれば、ここも晴れる」
「抽象的ですねえ、調整官さん」
「抽象を、具体の一歩手前まで下ろすのが、仕事だから」
シノは軽く笑って、マイクを取った。
◇
「本日は、飛行機の運航見合わせにより、ご不便をおかけしております」
空港全体にシノの声が広がる。
その声色は、柔らかいが、どこか一定のリズムを持っていた。群衆天気図をにらみながら、彼女は言葉を選び、間を置く。
「原因は、機体の安全確認のためです。今、この空港だけでなく、世界じゅうの空で、同じ点検が行われています」
発着ボードを見上げていた人々の視線が、ゆっくりと天井に移る。
「空の天気は今夜、晴れです。皆さんの予定の天気は、きっと、大きく変わってしまったと思います」
ざわめきが、少しだけ静まる。
「ですが、歩く速さと、呼吸を、ひとつだけそろえさせてください。ただいまから、バスと列車の臨時便を増やします。係員の案内に合わせて、一度、足を止めてください。三つ数えたら、一歩だけ動きます。せーの、で」
隣でナギが目を丸くした。
「いきなりそんな、ラジオ体操みたいな……」
しかし、空港のあちこちで、人々の足が本当に止まった。
さっきまで前にじわじわ押していた列が、波打つのをやめる。
「一……二……三」
シノの声に合わせて、列が一歩だけ進む。
群衆天気図の赤色が、ほんの少しだけ薄まった。
「ほんとに色、変わるんですね、それ」
ナギが端末をのぞき込んで、感嘆の声を上げる。
「歩幅がそろうと、衝突が減る。衝突が減ると、声を荒げる人が減る。単純な相関だけど、効き目はある」
「調整官って、天気予報士みたいなもんですか」
「天気を当てるだけじゃなくて、変える仕事」
シノは小さく肩を回した。
空港の赤がオレンジになっていく。代わりに、都心の広場の低気圧マークが、じわじわと黒ずんでいた。
「……さて。ここが小雨になったら、次は本命」
「またどこか行くんですか」
「今夜は、街じゅうが祭りだからね」
シノは空を見上げた。
天井の向こうで、本物の青空が、何事もなかったように広がっている。
◇
都心の高層ビルの一角、「都市気象総合研究所」の作戦室は、巨大な円形のスクリーンで覆われていた。
そこには、街の立体地図と、その上を流れる色の帯が投影されている。人の流れ、感情の揺れ、SNSの書き込み。全部が層になって、まるで雲のように動いていた。
「群衆雷雨指数、広場エリアで急上昇中」
モニターの前で、天城ユウトが腕を組んだ。
モニターの隅には、SNSのトレンド一覧が流れている。
「ハッシュタグ『ベスアー二〇二五第一部』、『ジーフル一部昇格』、『サクラ坂四期星』、『ドキドキじーぴー長時間特番』、『ピーチカ欠航祭り』……」
「最後の物騒ですね」
隣で椅子にあぐらをかいているのは、纏目ナナだ。まとめサイトとデータ解析を渡り歩いてきた「トレンド編集士」で、この研究所に出向している。
「でも、数字だけ見れば、どれもただの盛り上がり。怒りと喜びの割合は、今のところ五分五分ってとこかな」
「問題は、その二つが同じ場所に集まろうとしていることだよ」
ユウトは指で画面を拡大し、広場とその周辺の路地を映し出す。
赤と青と黄色の帯が、駅から、スタジアムから、テレビ局から、空港行きのバス停から、一本の渦を描いていく。
「ベスアーの屋外スクリーン、ジーフル昇格の報告会、防災訓練のフィナーレ、新工場起工の祝賀セレモニー。四つのイベントの参加者が、同じ時間帯に、同じ場所に、押し寄せる」
「喜びの嵐と、防災の嵐と、仕事の嵐と、文句の嵐。嵐だらけですね」
ナナは、画面の上にペンタブで落書きを始めた。渦の真上に、ちいさなてるてる坊主を描く。
「不機嫌がちょっと増えるだけなら、雨。誰かが押し合い始めたら、雷。誰かが叫んだら、竜巻」
「ナナ、遊んでないで」
「遊んでません。これは立派なビジュアライズ。漫画原作っぽくて分かりやすいでしょう?」
ふくれっ面をしながらも、ナナの視線は真剣だ。
彼女は、同じ画面の隅に、小さな数字の列を打ち込んだ。
「さっきから変なノイズが混じってるんですよ。『空港爆破予告』とか『アールバス炎上』とか、妙に似た文言の投稿が急に増えてて」
「いたずらか、愉快犯か」
「たぶん、自動投稿。文章の癖が同じ。でも、広場周辺の『空気指数』には、ちゃんと影響してきてる」
ナナがタブレットをくるりと回して、ユウトのほうへ向ける。
そこには、人混みのざわめきを示すグラフが描かれていた。ゆるやかに上がっていた線が、じわりと立ち上がる。
「このままだと、群衆天気は、夕方から夜にかけて急な雷雨」
「……テンキ予報、外してほしいな」
「あなたが作ったモデルでしょうに」
ナナが笑った瞬間、作戦室のドアが開いた。
「だから、その雷雲をほぐしに来た」
九条シノが姿を見せる。
空港から駆けつけたばかりのスーツには、人混みの熱がまだ残っていた。
「シノ」
ユウトが立ち上がる。
「空港は?」
「小雨。赤からオレンジくらい」
シノは彼の横まで歩いていき、天井のスクリーンを見上げた。
広場の上に浮かんだ低気圧マークは、さっきよりも一回り大きくなっている。
「本番は、ここからだね」
「防災局は、広場の訓練を予定通り続行するってさ」
ユウトが苦笑する。
「十八万人規模の訓練を、一度に集めてやるのは初めてなんだって。消防の城戸トモルさんが張り切ってる」
「城戸さん、らしい」
シノは、胸の奥がちくりとするのを感じた。
城戸トモル。かつて一緒に、防災の現場を駆け回った同僚。仕事に全部を賭けるその姿勢に惹かれ、怖くなって、距離を取った相手でもある。
「それと、半導体の新工場」
ユウトが別の画面を開いた。
ニュースサイトには、「外資系メモリ企業が、郊外に次世代工場を建設」「災害に強いサプライチェーン」といった見出しが並んでいる。
「起工式の祝賀イベントを、広場でやるらしい。市長が景気の話をしたがっていてさ。『昇格と音楽と防災と半導体で、未来志向の街をアピール』だって」
「欲張りすぎると、天気が読めなくなる」
シノは、群衆天気図の色のグラデーションを目で追った。
「でも、がんばって晴れに持っていくのが、調整官の仕事」
「ただの天気いじりで済めばいいけど」
ナナがぽつりと言った。
「火を見ると興奮する人っているでしょう。群衆天気が荒れそうな日に、わざわざマッチを擦る人もいる。さっきのノイズ、まさにそれっぽい」
「止められる?」
「完全には無理。でも、目立たなくすることなら。こっちのハッシュタグを強く押し上げるとか」
ナナは、タブレットに新しい文字列を打ち込む。
「『広場で深呼吸』、『今夜は立ち止まろう』。あと、ちょっとふざけて『ジーフル昇格で地面まで震えた』とか」
「最後のやつ、誤解されない?」
「だいじょうぶです、うけます」
シノは、そんなやり取りに微笑みながらも、スクリーンの一部に目を止めた。
広場の中央に、ひときわ強い光の点がある。
「これ、何?」
「スタジアムからの移動ルートのど真ん中」
ユウトが答える。
「あそこに、昇格報告用の特設ステージが組まれてる。今日、ジーフル下部リーグで優勝した『ミト原ストライダーズ』のキャプテンが、ファンに挨拶するって」
「影山カケル、ですね」
ナナが即答した。
「フォワードで、広告塔。『どんな天気でも点を取る男』ってキャッチコピー。今日も雨上がりのスタジアムで決勝点決めてましたよ」
「そのキャッチコピー、ややフラグっぽい」
シノは小さく息を吐いた。
「……広場のステージ、ベスアーの屋外スクリーン、防災訓練のデモンストレーション、新工場の挨拶、昇格報告」
指折り数えるように、彼女は確認した。
「ぜんぶのタイムテーブル、見せて」
◇
テレビ局の控室で、桜庭コトハは喉の奥に指を当てて、そっと震えを確かめていた。
「緊張してる?」
マネージャーが顔をのぞき込む。
「ちょっとだけ。でも、楽しみのほうが大きいです」
今夜の音楽特番「ベスアー二〇二五」第一部の終盤、コトハは人気グループ「サクラ坂四期星」のバックコーラスとしてステージに立つ。
画面の向こうには、広場の巨大スクリーン。その前には、サッカーファンと防災訓練帰りの人々、新工場に期待を寄せる市民たちが集まる。
「広場の中継カメラ、めちゃくちゃ人写ってたねえ」
同じくバック要員の女の子が、スマホを見ながら言った。
「『ジーフル昇格』の旗、すごかった。あと『ドキドキじーぴー』の番組からのドッキリ仕掛け要員が紛れ込んでるとかいう噂も流れてたけど」
「え、ドッキリ、あるんですか」
「さあね。でも、あの番組、すぐトレンドになるからさ。『ドキドキじーぴー止まらない』とか」
コトハのスマホにも、通知がひっきりなしに届く。
その中には、「ミト原おめでとう」「カケル神」「ジーフル一部で暴れてこい」といった文字列が並んでいた。
影山カケル。
広場で挨拶する予定のストライカーで、コトハの幼なじみだ。
「カケル、ちゃんと喋れるかな」
コトハは小さく笑った。
「マイク渡されると、すぐ天気の話するんだよね。『今日のピッチは気持ちいい晴れでした』とか」
「いいじゃない。さわやかで」
「でも、今日の天気は、なんか変な感じがする」
控室の窓から、わずかに街の光が見える。
空はきれいに晴れているのに、遠くから届く歓声やサイレンの音に、どこか湿ったものが混じっていた。
「……歌で、少しは晴れるといいな」
コトハはそうつぶやいて、ステージへのドアに手をかけた。
◇
広場の裏手では、赤いヘルメットをかぶった人々が整列していた。
城戸トモルは、その先頭で拡声器を握る。
「いいか、今日の訓練は『ありそうな最悪』だ。地震と火災と停電がいっぺんに来る前提で動く」
十八万人規模の参加者。その一部は近隣の住民で、一部は企業や学校からの参加者。一部は、純粋にイベント感覚で集まった若者たちだ。
「でも、忘れるな。これは祭りじゃない。災害が起きたら、今日の動きが、そのまま命を分ける」
トモルの視線の先で、照明スタッフが煙の機械を点検している。模擬火災の煙を噴き出し、避難経路を確認するための装置だ。
「城戸さん、表のタイムテーブル、また微妙に変わりました」
部下がメモを差し出した。
「音楽特番の中継が延びそうでして……あと、昇格報告のほうからも、『サポーターをもっと前に集めたい』と」
「安全ラインから一歩でも乗り出すなら、訓練の意味がなくなる」
トモルは眉間に皺を寄せた。
「調整官は?」
「さっき、都市気象のほうに寄ってから、こっちに向かっていると」
「九条か」
名前を口にした瞬間、胸の奥に古い痛みがよぎる。
もっと危ない現場に行きたい、と笑った彼女を、あのとき、自分は止められなかった。
「……今日くらいは、ちゃんと守らないとな」
トモルは、自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
夕方から夜へと移るにつれ、街の群衆天気は、目に見えるほど変わっていった。
ビルの谷間を抜ける風に、音楽と歓声と怒号が入り混じる。
広場に向かう地下鉄の車両で、桃井ピーチカは背伸びをした。
勤務を終えたばかりの制服の上から、私服のパーカーを羽織っている。胸元には、自作の缶バッジが光っていた。
「ピーチカ、ほんとにその名前で配信やってるの?」
同じ車両に乗り合わせた岸波ナギが、呆れ顔で尋ねた。
「本名だし。桃井だし。ピーチカ空輸だし。運命ですよ」
「それ、会社に怒られない?」
「怒られたら、話題になるじゃないですか」
ピーチカはスマホを掲げて、ライブ配信アプリを立ち上げた。
画面の上には、すでに「ピーチ旅人の声」チャンネルの通知が流れている。
「みなさーん、今日は空港から広場まで、欠航組の生の声を届けます。ハッシュタグは『ピーチ旅人声』と、『広場で深呼吸』でいきましょう」
「さっき都市気象のトレンド班が考えたやつだね、それ」
「そうなんですか? センスいいなあ」
コメント欄には、「まだ空港」「もう帰宅諦めて広場行く」「ベスアー見ながら防災訓練参加します」といった文字が次々と流れ込んでくる。
「生活費もギリギリなのに、ホテル代がかさむ」と嘆く人。
「昇格記念セールに期待して株買った」と浮かれる人。
「半導体工場が来たら、うちの町も仕事増えるかな」とつぶやく人。
ピーチカは一人ひとりの声を拾い上げ、「それ、分かる」「よかったら、広場に行く前に水分補給してね」と返していく。
「……大変な夜なのに、楽しそうですね、あなた」
ナギが呆れ半分で笑った。
「楽しまないとやってられないですよ。給料、そんなに高くないんですから。せめて推しのカケルが昇格してくれたから、今日はご褒美です」
「推しと生活の両立って、大変だよねえ」
二人の会話に、コメント欄が「分かる」「推しのために残業してる」と盛り上がる。
「ナギさんは、何推しなんですか」
「ベスアーかな。音楽特番で、サクラ坂四期星の新曲、楽しみにしてる」
「じゃあ広場で一緒に見ましょう。あ、でも、防災訓練もあるのか。忙しいな」
ピーチカは笑いながら、カメラを車両の窓に向けた。
そこには、夕焼けを背にした街のビル群と、その上に重なるように、都市気象の広報スクリーンが映っている。
〈今夜の群衆天気予報〉
〈広場周辺 のち晴れ〉
〈ただし 風向きに注意〉
「風向きに注意って、どういう意味ですかね」
「人の機嫌の向きじゃない」
ナギの言葉に、コメント欄が再びざわついた。
◇
広場のステージ裏で、影山カケルはスパイクではなくスニーカーの紐を結び直していた。
試合後に履き替えたばかりの足は、まだ芝生の感触を覚えている。
「カケル、マイクはこう持てよ。ボールじゃないんだから」
チームの広報担当が、冗談めかして言った。
「分かってますって。……でも、やっぱり、ボールのほうが落ち着くな」
「今日は、言葉で決める日だ。市長も来てるし、半導体工場の偉い人も来てるし、音楽番組のカメラも回ってる」
「なんで全部まとめてここに集めるかな」
カケルは苦笑いして、ステージの隙間から広場をのぞいた。
すでに大勢の人で埋まっている。
ジーフル昇格を祝う青いマフラー。防災訓練の黄色いヘルメット。ベスアーのロゴが入ったペンライト。新工場の旗。
頭の上には、巨大スクリーンが空を切り取っている。
そこには、「ベスアー二〇二五」第一部のラストステージが映し出されていた。サクラ坂四期星のメンバーの後ろで、桜庭コトハが必死にコーラスを合わせている。
「コトハ、がんばってるな」
カケルは、つぶやきを飲み込んだ。
同じ時間に、同じ空の下にいるのに、互いに別の光を浴びている。
ふと、ポケットの中のスマホが震えた。
画面には、未読のメッセージがいくつも並んでいる。「おめでとう」「さすがキャプテン」「ジーフル一部で暴れてこい」。
その中に、一つだけ違う文面があった。
〈お父さん、欠航で行けない。テレビで見る〉
カケルは唇をかんだ。
昇格を、父に直接見せるのが夢だった。どんな天気でもスタンドに来てくれた人が、今日だけは空港から動けない。
「……なら、広場の天気を、いちばん良くするしかないか」
カケルは、自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
夜の帳が本格的に落ちる頃、広場は、最高潮の湿度に達していた。
音楽特番から流れてくる大音量のサビ。サポーターのチャント。防災訓練のアナウンス。新工場の祝賀セレモニーのスピーチ。
空は星がきれいに見えるほど晴れているのに、地上の空気は、今にも雷が落ちそうなほど重い。
「群衆天気図、真っ赤を通り越して、紫っぽくなってます」
都市気象の作戦車両の中で、ユウトが呻いた。
モニターの中央には、広場を中心にした渦巻きが、脈打つように点滅している。
「ノイズも増えてきました。『爆発音が聞こえた』『煙が見えた』『誰かが押した』……文章の癖はやっぱり同じ。悪ふざけで煽ってる誰かがいる」
ナナがキーボードを叩きながら、眉をひそめる。
「さっきの模擬火災の煙の映像が切り取られて、別の場所の写真みたいに拡散されてます。これ、訓練のせいにされますよ」
「城戸さんに、煙の量を一時的に絞ってもらう」
シノは、無線機に手を伸ばしながら言った。
「でも、もう一手要る。今、ここで誰かが転んだり、叫んだりしたら、一気に嵐になる」
「マイク、あります」
ユウトが、作戦車両の棚から一本取り出した。
「ベスアーの中継車と、防災訓練の放送設備と、広場のスピーカー、全部つながってる。調整官枠で、入れます」
「スポンサーと市長がうるさいかもですけどね」
ナナが肩をすくめる。
「音楽もサッカーも、防災も、全部『明るい未来』ってパッケージに収めたいんでしょう。でも、未来が明るいかどうかって、今ここで決まるんですよ」
シノは車両のドアを開けた。
音と熱と人の息が、一度に流れ込んでくる。
「九条さん!」
広場の警備ラインの向こうから、城戸トモルが駆け寄ってきた。ヘルメットの下の額には、汗が光っている。
「煙、少し絞った。けど、その分、訓練としては甘くなる」
「今日は、本番のほうが濃いから」
シノは苦笑した。
「押し合いが起き始めたら、どうする?」
「止める」
トモルは即答した。
「誰が相手でも。市長でも、スポンサーでも、おまえでも」
「じゃあ、私は、最初の一押しを、別の方向に向ける」
シノは、ステージ脇の階段を見上げた。
そこには、ストライプのジャージ姿の影山カケルと、マイクを握りしめた桜庭コトハの姿があった。
「タイムテーブル、ひっくり返すわよ」
◇
「え、今ですか」
ステージ裏で、コトハが目を丸くした。
「まだ、昇格報告の前フリも、工場の挨拶も……」
「順番を変えるだけ」
シノは淡々と言った。
「今、この広場は、言葉を待ってる。誰かが『怖い』と言えば、怖くなる。誰かが『楽しい』と言えば、楽しくなる。どっちにも転べるぎりぎりの天気」
カケルは、ステージの板をぎゅっと踏みしめた。
「じゃあ、俺が『落ち着け』って言えば、落ち着くのか」
「言い方による」
シノは、彼の胸ぐらに軽く手をかけた。
「サポーターに向かって命令しても、火に油。自分の足でリズムを刻んで、見せるんだよ」
「リズム?」
「さっき、空港でやった。三つ数えて、一歩。それだけで、人の列の衝突が減った」
コトハが息を呑んだ。
「……歌、合わせます」
彼女は、自分の喉に手を当てた。
「サビの前に、アカペラで、簡単なフレーズ入れていいですか」
「ベスアーの構成、変えることになるけど」
「それでも。『ありそうな最悪』に飲み込まれるくらいなら、『ありそうな一番まし』を選びたい」
シノは城戸の方を振り返った。
「防災訓練のアナウンス、止めないで。『その場でうずくまれ』の指示を、歌のあとに重ねて」
「音楽に合わせて避難姿勢、か」
城戸の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「派手だな。俺の趣味じゃないけど……いい」
「ナナ」
シノは、耳元のイヤホンに声をかけた。
「トレンドのほうは?」
「『広場で深呼吸』と『今夜は立ち止まろう』、じわじわ伸びてます。あと、『カケルの声で落ち着いた』って文言を、上に持っていく準備できてます」
「いい。じゃあ、行こう」
シノは、ステージ中央へ続く暗い通路を歩き出した。
◇
広場の光景は、巨大な見開きの一枚絵のようだった。
広場の中央、巨大スクリーンが夜空を切り取っている。
スクリーンには、「ベスアー二〇二五」のロゴとともに、桜庭コトハの横顔がアップで映る。その背後には、サクラ坂四期星のメンバーと、観客のペンライトの海。
スクリーンの下、現実のステージでは、影山カケルがマイクを握って立っている。足元には、ジーフル昇格を祝う青いマフラーの波。少し離れた位置には、防災訓練の黄色いヘルメットの列。その向こうには、新工場の旗。
さらにその奥、広場の入口では、桃井ピーチカがスマホを掲げ、ライブ配信を続けている。画面のコメント欄には、「今、広場」「押さないで」「深呼吸する」といった文字が流れている。
そして、そのすべての上に、薄く重なるように、群衆天気図の半透明な雲が浮かんでいる。
空気が、一瞬だけ止まった。
「みんな」
マイクを持ったコトハの声が、スクリーン越しに広場全体に響く。
「ちょっとだけ、歌わせてください」
バックの音が、すっと引く。
コトハは目を閉じ、息を吸った。
「ここにいる、全員のための歌です。立っている人も、座っている人も、うずくまっている人も。空港で足止めを食らっている人も。テレビの前の人も」
彼女は、ゆっくりとフレーズを紡いだ。
「いっぽ、いっぽ、そろえて歩こう
きょうの空は、晴れだから」
シンプルなメロディ。
子どもの歌のような、短い二行。
だが、そのリズムに合わせて、影山カケルがステージの上で足踏みを始めた。
一、二、三。右足を出して、一歩。
サポーターたちが、自然にそれを真似る。
一、二、三。マフラーを掲げて、一歩。
防災訓練の隊列も、黄色いヘルメットを揺らしながら、一歩。
新工場の旗の列も、営業スマイルを保ったまま、一歩。
「その場でしゃがんで、頭を守ってください」
城戸トモルの声が、訓練用のスピーカーから重なる。
「押さない。走らない。しゃべらない」
人々が、半ば戸惑いながらも、その指示に従う。
膝を折り、地面に近づいた瞬間、押し合う力が抜けていく。
そのとき、スマホの緊急速報が一斉に鳴った。
〈これは訓練です〉の文字が画面に踊る。
誰かが悲鳴を上げかけたが、すぐそばでカケルが笑った。
「訓練でよかったな!」
彼はマイクに向かって叫ぶ。
「本当に揺れたら、もっと怖い。でも、今日ここにいるみんなは、もう知ってる。足をそろえて、一歩ずつ、息を合わせる方法!」
広場のあちこちから、笑いが起きた。
コトハの歌声が、再び空を満たす。
「いっぽ、いっぽ、そろえて歩こう
あしたの空も、晴れるように」
ピーチカの配信画面には、「泣きそう」「でもちょっと笑った」「駅のホームでも真似した」といったコメントが流れ続ける。
都市気象の作戦車両のモニター上で、群衆天気図の赤が、ゆっくりとオレンジに、そして黄色に変わっていった。
「……やりましたね」
ユウトが息をつく。
「テンキ予報、いい意味で外れました」
「外したわけじゃない」
ナナが笑った。
「予報を見て動いたから、変えられたんですよ。まとめ記事の見出し、もう見えましたもん。『ベスアーと昇格報告と防災訓練が奇跡のシンクロ 広場で深呼吸ムーブが話題に』」
「長い」
「バズります」
ナナはキーボードを叩きながら、ふと別の画面に目を走らせた。
さっきまで暴れていたノイズの投稿群が、ひと塊になって、遠ざかっていく。
「……へえ」
「どうした」
「嫌な雲、ひとつ消えました。でも、別のところに、小さな渦が残ってる」
ナナは、画面の隅を指でなぞった。
「また今度、追いかけましょうか」
「今夜はいい」
シノの声が、背後からした。
「嵐の目は、いったん静かになった。次の低気圧は、次の予報で間に合う」
作戦車両のドアの外では、人々が立ち上がり始めていた。
誰かがサッカーチャントを歌い、誰かが「広場で深呼吸」と書かれたボードを掲げる。
空には、さっきよりも星が増えて見えた。
◇
イベントの後片付けが始まった広場の端で、シノはベンチに腰を下ろした。
足の裏には、一日に二度も人混みを歩き回った疲れが残っている。
「九条」
ペットボトルの水を二本持った城戸トモルが、隣に座った。
「今日のは、訓練なんだか、本番なんだか」
「本番のふりをした訓練。訓練のふりをした本番」
シノは水をひと口飲んだ。
「どっちでもいいよ。倒れる人が少なければ、それで」
「スポンサーと市長は、怒るかな」
「あの人たちの天気は、また別の人が調整するでしょ」
二人は、しばらく黙って夜空を見上げた。
「……さっきの歌」
トモルが、ぽつりと言った。
「ああいうの、嫌いじゃない」
「珍しい」
「火と煙だけじゃ、訓練にならない。声とリズムが揃わないと、本番で動けない」
「じゃあ、次の訓練でも、歌いましょうか」
「毎回は勘弁してくれ」
二人は、小さく笑った。
その笑い声が、どこまでも澄んだ夜空に溶けていく。
◇
その夜遅く、都市気象研究所の一角で、天城ユウトはパソコンに向かっていた。
画面には、今日一日の群衆天気のデータが流れている。
「推しの番組、生で見なかったんですか」
背後から、纏目ナナの声がした。
「録画した」
ユウトは肩をすくめる。
「サクラ坂四期星の新曲も、コトハのアカペラも、あとで何度でも見られる。でも、今日の群衆天気は今日だけだ」
「そうですね。まとめ記事書くの、ちょっと楽しみです」
ナナは、机の端に腰掛けた。
「ニュースは、半導体工場の投資額とか、昇格クラブの戦術とか、そういうとこを切り取るでしょうけど」
「俺たちは、今日、ここで起きた『天気の変わり方』を、ちゃんと残さないと」
ユウトは、画面のある一点を指さした。
群衆天気図の上で、赤から黄色に変わっていく瞬間のデータ。その裏に貼り付いている、コトハの歌のタイムスタンプ。
「天気を変えたのは、モデルじゃない。人の声と、歩幅だ」
「あと、まとめと、配信ですね」
ナナがちゃっかり自分の仕事も足す。
「今度から、予報に『歌』って項目、入れましょうか」
「冗談みたいだけど、真面目に検討する価値はある」
ユウトは笑った。
「明日の予報、『午後六時、広場で歌が降る』とか」
「バズりますね、それ」
ナナはそう言いながら、タブレットの画面に、新しいタイトルを書き込んだ。
〈きょうの都市の天気 広場は晴れ、ときどき歓声〉
その下に、小さくこう添える。
〈群衆天気を変える一歩は、あなたの呼吸から〉
◇
ベッドに倒れ込んだ桜庭コトハのスマホには、「今日の歌、よかった」「あの二行、ずっと頭から離れない」といったメッセージが山のように届いていた。
「……晴れた、かな」
天井を見上げながら、コトハは呟いた。
画面の片隅には、カケルからの短いメッセージ。
〈歌、助かった。お父さんも配信で見てたって〉
コトハは目を閉じて、今日歌った二行を、心の中で繰り返した。
いっぽ、いっぽ、そろえて歩こう。
あしたの空も、晴れるように。
(了)
――あとがき――
今回の物語では、航空機の部品不良による世界的な点検と欠航のニュースを、空港での冒頭シーンとピーチカ空輸の混乱として描きました。また、外資系メモリ企業の半導体新工場計画は、広場の起工式イベントや、防災と景気を同時にアピールしようとする市長の思惑に重ねています。大規模地震訓練の記事は、城戸トモルたちの訓練パートと、煙や緊急速報を使った「ありそうな最悪」のシミュレーションに対応させました。地方クラブの昇格の話題は、ミト原ストライダーズのジーフル昇格として、音楽特番と同じ広場で祝われる構図にしています。
トレンドタグでは、「ベストアーティスト」の変形としてベスアー二〇二五と、その屋外ビューイング、「櫻坂四期生」に対応するサクラ坂四期星、「ドッキリ番組」由来のドキドキじーぴー、「ジーフル一部昇格」に似たジーフル一部昇格、「ピーチ」に由来するピーチカ空輸やピーチ旅人声などを混ぜ込みました。実在の固有名詞から一、二文字ずつずらしつつも、タイムラインのざわめきやタグ文化の空気感が伝わるよう意識しています。
ジャンルとしては、近未来の都市防災とメディア空間を扱ったライト寄りのエスエフに、群衆劇と少しの青春ドラマを足したつもりです。終盤は、大惨事を回避しつつも社会全体の問題は残したままにしており、王道の「危機を一度乗り越える終わり方」に寄せつつ、バックグラウンドにはまだ別の渦が残っているという形で、わずかにジャンルの外側の余韻を残しました。
報道として扱われるニュースは、それぞれ重く現実的な出来事ですが、ここでは群衆天気という架空の概念を通して、個々の人の足取りや呼吸に戻して描いています。フィクションだからこそ、音楽番組やスポーツと防災訓練を同じフレームに並べ、人々が小さな一歩で空気を変える可能性を強調できればと思いました。この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




