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夜空をなぞる手【2025/11/28】

 官邸広報室のモニターには、二つの世界が並んでいた。

 左には、隣国の報道番組。硬い表情の報道官が、日本が台湾を巡る問題で「踏み外せば痛みを伴う代償を払うことになる」と警告している。

 右には、宇宙機構が公開したばかりの衛星データの紹介映像。雲が立体的な層となって地球を包み、雨の筋が光の糸のように降り注いでいた。


 桐生澪は、交互に瞬くテロップを眺めながら深く息を吐いた。

 サービス価格指数が10月に2.7%まで上がった、と経済ニュースが流れる。続いて、中央銀行が近い時期の利上げを市場に匂わせた、という解説。

 さらに別の窓では、米国の元大統領が日本の新政権に「中国との対立をむやみにあおるな」と忠告したという記事が英語混じりの日本語で踊っている。


 澪の机の上には、一枚の企画書が置かれていた。

 タイトルは「夜空ライブ特番『クラウドライン』」。

 宇宙機構の新しい雲レーダー衛星と降水観測衛星の同時観測データ「EarthCARE―GPMコインシデンス」を使い、夜空いっぱいに雲と雨の動きをプロジェクションする配信イベント。

 テーマは「揺れる世界と、揺らしたくない日常」。


 画面のはじに、官邸の広報公式アカウントの通知が飛ぶ。

 フォロワー数百万に届くそのSNS運用責任者が、桐生澪本人だ。今夜のタイムラインは、隣国の強い言葉と、利上げ観測と、木腹官房長官の国会答弁切り抜きで埋まっていた。


(あの夜空に、どんな言葉を載せるか……)


 澪は、企画書のキャスト欄に目を落とした。

 白神栞――人気アイドルグループの研究生。

 石塔律――配信歌手。

 九条探――新作アニメ「名探偵プリクュラ」の作画マン。

 墨田篝――書芸家。

 そして、脚本とまとめ解説担当として、ネットニュースキュレーターの名前があった。


 纏目ナナ。通称「マトメナ」。


     ◇


 小さな練習スタジオの鏡の前で、白神栞は膝に手をついて息を整えていた。

 天井の蛍光灯が、汗で濡れた前髪に白い輪を作る。


「栞ちゃん、ラストのターン、もっとカメラ意識」


 マネージャーの声に、「はい」と短く返事をして、栞はもう一度立ち位置に戻った。

 スマホから流れるビートに合わせて、ステップ、ターン、ジャンプ。


 曲が終わると、スタジオの隅に置いたスマホが震えた。

 画面には、ハッシュタグ「#ノギサカの栞里」がトレンド入りという通知。

 同じ名字の先輩グループメンバーがバラエティに出た影響らしく、関連ワードに「白神栞 別人」と小さく出ている。


「……別人だよねえ」


 苦笑しながらタイムラインをスクロールすると、「まとめ芽通信」のアカウントが目に入った。

 アイコンは、ノートを抱えた少女のイラスト。名前は「纏目ナナ」。


『今夜のニュースざっくり 対岸からの強いメッセージ/米元大統領のなだめ電話/サービス価格指数は10月も粘り腰/中央銀行は利上げに向けてじわっと準備中。

 でも、そんな夜にも推しの踊りと歌は止まりません。次の配信特番「クラウドライン」では、雲の衛星データとアイドル研究生が同じステージに立ちますよ。』


 そこには、自分の名前が小さくタグ付けされていた。


「え、わたし、まだ正式発表されてないのに……」


 驚いた声に、マネージャーが近寄ってきた。


「噂レベルってことにしといて。官邸の特番だから、逆にバズったほうがいいってさ」


「官邸……」


 対岸だの利上げだの、さっき見た難しい単語と同じ画面に、自分の名前。

 栞の胸に、じわりと熱と不安が広がった。


     ◇


 石塔律の部屋は、六畳一間にマイクスタンドと簡易防音パネルがぎゅうぎゅうに押し込まれていた。

 パソコンのモニターには、配信サイトのコメント欄。「#スリックストーンズリスパ生祭」というハッシュタグが流れ続けている。


「じゃあ、きょうのラストは、新曲のデモ。タイトルは『レートが上がっても』です」


 律がギターを軽く弾くと、コメント欄が「タイトル草」「住宅ローンかよ」で埋まった。


「住宅ローンのこともあるけどさ、サービス料金も上がってるじゃん。ライブハウスの箱代も、配信プラットフォームの手数料も。こっちも値上げしたいけど、みんなの生活だってきついし」


 自嘲気味に笑って歌い出す。

 声がマイクを震わせ、波形となって画面に走る。


 配信が終わると同時に、スマホにメッセージが届いた。

 送信者は「マトメナ」。


『クラウドライン特番、出演確定おめでとう。歌ってほしいテーマ案、共有してもいい?』


 律は椅子を回転させると、そのまま背中で机にぶつかった。


「ドンッ……いって……」


 コメント欄に残った「草」の文字を横目で見ながら、ため息をつく。


「テーマ案って、どうせ『世界情勢を歌に』とかだろ」


 別のニュースアプリには、隣国の強い警告に対し、日本政府が「冷静かつ毅然と対応する」とコメントした記事が表示されていた。

 その横には、米元大統領が日本に電話で自制を求めたという海外報道の要約。


(政治のこと、歌に入れたら、炎上かな……でも、何も触れないで『ラブソングだけ』って顔するのも、違う気がする)


 律は、返信ボックスに「話、聞かせて」とだけ打ち込んだ。


     ◇


 九条探は、薄暗いスタジオで液晶タブレットに向かっていた。

 画面には、トレンチコートを着た魔法少女……もとい、探偵プリンセスが、夜の街を走るカット。


「名探偵プリクュラ、空の追跡シーン、雲もっとリアルに」


 監督のチャットが飛んでくる。

 九条は、別ウインドウで宇宙機構の衛星データページを開いた。そこには、さきほど官邸広報室のモニターに映っていたのと同じ雲と雨の立体図。


「すげえ……これ、そのまま背景にしたら、めちゃくちゃ映えるな」


 雲の断面を拡大し、筆圧を変えながら線を重ねる。

 同時に、ニュースサイトのテロップが画面の隅で点滅した。


『サービス業の価格指数、10月も前年同月比2.7%上昇。スタジオ料金にも影響か』


「スタジオ料金にも、ねえ……。こっちは残業代つかないのに」


 机の端には、未払いの光熱費の請求書。

 生活費と、好きな作品を描き続けること。その両立が、じわじわと首を締めてくる。


 そこへ、ビデオ通話の着信。画面に現れたのは、黒縁メガネの女性だった。


「はじめまして、纏目ナナです。クラウドラインの脚本やってます」


「あ、いつもまとめ記事読んでます。九条です」


「九条さんには、雲データを使った映像演出で参加してほしくて。名探偵プリクュラの空のシーン、クラウドラインで先行お披露目できませんか」


「え、官邸の特番で、ウチの作品流すんですか」


「ええ。『世界がどう揺れても、空はみんなにつながっている』ってコンセプトで」


 九条は、モニターの端のニュースを横目で見た。

 隣国の警告。米国からの自制要請。国内では、利上げ観測と物価高への不安。


(空はみんなにつながっている、か。

 どこまで、それを信じて描けるだろう)


     ◇


 墨田篝は、スタジオ「プレバッと査定団」のセットで巨大な半紙の前に立っていた。

 背景には、過去回で書かれた「魂」「美」などの一文字が額に収まって並ぶ。観客席からはざわめき。


「今夜のテーマは『物価高を一文字で』! 人気書芸家・墨田篝先生に書いていただきましょう!」


 司会者の声に合わせて、「ワアァァッ」と拍手の効果音が響く。


(物価高を、一文字で、ね)


 篝は、墨を含んだ大筆を持ち上げた。

 頭の中には、弟から届いたメッセージが渦巻いている。地方で小さな定食屋を営む弟は、光熱費と仕入れ値上昇で悲鳴を上げていた。


「先生、派手目でお願いしますね。視聴者が『分かる~』って笑えるやつ」


 ディレクターが耳打ちしてくる。


 篝は、静かに首を振った。


「一文字、書きます」


 ザッ。

 筆先が紙を裂くように走る。


 書かれた文字は「削」。

 歓声と同時に、「ザワッ」と微妙な空気が流れた。


「……笑えないですねえ」と司会者が苦笑し、観客からも苦笑が漏れる。


 オンエアを終えて控室に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。


『さっきの一文字、すごく良かったです。クラウドライン特番で、もう一文字、書いていただけませんか。テーマは『揺れ続ける世界で守りたいもの』』


 送り主は、纏目ナナ。


「官邸の特番で、こんな字を書いていいのかしらね」


 篝は、さっき書いた「削」の字を思い出しながら、もう一度筆を握り直す仕草だけをしてみた。


     ◇


 クラウドライン特番当日の夕方、官邸の屋上庭園には仮設ステージが組まれていた。

 黒いスクリーンが湾曲して空へ伸び、その裏ではプロジェクターとドローンが準備を進めている。

 スタッフが走り回る足音、「ガンガンッ」とトラスを固定する音。


 桐生澪は、インカムを耳に押し当てた。


「音響、雲データのシーン、もう一度リハーサルお願いします。九条さんの映像と、墨田先生の筆の音、きちんと同期させたいので」


「りょーかいですっ!」


 横を見ると、白神栞がダンス衣装のまま、空を見上げていた。

 彼女の隣で、石塔律がギターケースを抱え、まだ眠そうな顔であくびをしている。


「雲のデータって、生で見るとこんな感じなんだ……」


 栞のつぶやきに、律が首をかしげた。


「雲って、もっとふわふわしてるイメージだったけどな。これ、なんか脳みその断面図っぽくない?」


「やめてくださいよ、それ言われると怖いです」


 そこへ、九条探がノートパソコンを抱えてやってきた。


「脳みそじゃなくて対流圏です。科学的に」


「科学的ツッコミきた」


「っていうか、律さん、さっきリハで『空インフレですね』って言ってましたよね。物価高の話と混ぜないでください」


「いや、ほら、雲も値上がりして厚くなってる的な」


「意味が分からないです」


 栞が笑い出し、篝も筆箱を抱えたまま肩を揺らした。

 即座に、インカム越しに澪のため息まじりの声が飛ぶ。


「本番でその会話はやめてね。SNSが『空がインフレ』で荒れるから」


「はいはい、真面目モードにしますよ、広報官どの」


 律が軽く手を上げると、その様子を少し離れた場所から見ていた纏目ナナは、小さくメモを取った。


「この噛み合ってない感じ、テロップにしたら絶対ウケる……でも、切り抜きにしすぎると本筋がぼやけるな」


 ナナのタブレットには、今夜の進行表と同時に、トレンド一覧が並んでいた。

 「#ノギサカの栞里」「#スリックストーンズリスパ生祭」「#名探偵プリクュラ」「#プレバッと」「#木腹官房長官」。

 そのすべてが、今から始まる特番で、一本の線につながる。


 同時に、ニュースサイトの速報も表示されている。

 隣国の外務報道官が、再び日本に向けて強い表現で警告したという続報。

 与党幹部が「対話と抑止のバランスを崩さないよう慎重に」と語ったというコメント。

 中央銀行総裁が、物価と賃金の動向を見極めつつ、必要なら利上げに踏み切ると示唆したというインタビュー。


(まとめるだけなら簡単。でも、この人たちの表情と声までちゃんと届けるには、どこまで踏み込むか)


 ナナは、澪の方を見た。官邸という場所で、どこまで「人間の声」を出せるのか。


     ◇


 本番開始のカウントダウンが始まる。


「10、9、8……」


 辺りが一瞬暗くなり、スクリーンに衛星から見た地球が浮かぶ。

 視聴者数が、リアルタイムで桁を上げていく。


「ようこそ、クラウドラインへ」


 澪の声が、ナレーションとして流れた。

 雲と雨のデータが、夜空に巨大な筆跡となって広がる。


 第一部は、白神栞のステージだ。

 イントロが流れ、栞はライトを浴びてステージ中央へ。

 足元には、九条が描いた名探偵プリクュラの街並みが雲データと合成され、立体的に揺れている。


(怖がらない。踊れるってことは、生きてるってこと)


 心の中でそう繰り返しながら、栞は笑顔で歌い始めた。

 サビ前、予定にはない一瞬の間を、彼女は自分でつくった。


「離れていても 空でつながってる

 どんな警告より この手を離さない」


 本来の歌詞は「どんな夜より」だった。

 澪の手が、思わずインカムのミュートスイッチに伸びる。


(カットする? でも……)


 モニター越しに見えるのは、強い言葉が飛び交うニュースの連なりではなく、一人の少女が震える膝を押さえつけて踊る姿。


「……このまま。続行」


 澪は、ミュートに触れた指をそっと下ろした。


 コメント欄が、一瞬ざわつく。

 「今の歌詞変えてた?」「台湾のこと?」

 それでも、すぐに「泣いた」「推しが生きてる」などの言葉が流れ始める。


     ◇


 第二部、石塔律のコーナー。

 ギターの弦を弾く音が、「ジャーン」と夜空に響く。


「きょう、昼間のニュースでさ。サービスの値段は上がってるけど、心の余裕まで値上げしなくていいって思ったんだ」


 律は、雲の断面図を背景に語り始めた。

 映像は、台湾の東側の海を覆う雨雲を映している。その下には、見えないたくさんの生活があることを想像させる。


「世界の偉い人たちが電話したり、強い言葉で牽制したりしてる。その横で、うちの親の喫茶店はコーヒー豆の値段をどうするかで悩んでる。

 だから、きょうは政治の話じゃなくて、『それでも今日のコーヒーを淹れる人』の歌を歌います」


 ギターの音に合わせて、コメント欄が静まる。

 「それなら政治じゃなくて生活の話」「分かる」。


 律の歌に合わせて、九条が作ったアニメの一場面が流れる。

 名探偵プリクュラが、雨上がりの街でコーヒーを飲むシーン。背景の雲は、現実の衛星データから切り出されたものだ。


 ステージ袖で観ていた九条は、自分の描いた雲の向こうに、本物の空を感じていた。


(対岸の海にも、ここにも、同じ雲がかかってる。

 政治の駆け引きも、利上げも、その下で暮らす人には全部「天気」みたいに降ってくる)


 彼の胸の中に、次回作のイメージが静かに灯った。もっと生活に近い、でも空の広さを忘れない物語を描こう、と。


     ◇


 第三部、墨田篝の書芸ライブ。


 巨大なスクリーンに、衛星データで描かれた雲の渦が映る。

 その中央に、真っ白な紙のようなスペースが切り抜かれている。


「墨田先生には、この世界の揺れの中で、守りたいものを一文字で書いていただきます」


 澪のナレーションが流れる。

 篝は、大筆をゆっくりと雲の渦に向かって構えた。


 ザアアッ。


 筆先が仮想の紙を走る音が、スピーカーから響く。

 雲の白と墨の黒が、夜空の上で交差し、新しい形をつくる。


 浮かび上がった一文字は「手」。


 握る手。離さない手。仕事をする手。文字を書く手。

 篝の脳裏には、弟の荒れた手と、さっきステージで震えながらマイクを握っていた栞の手が重なっていた。


 コメント欄が、しばし静まり返る。

 その静寂に、「ゴクッ」という誰かの生唾を飲む音が混じった気がした。


 やがて、「手を守りたい」「これは刺さる」「削じゃなくて救いだ」といった文字が流れ始める。


 舞台袖で見ていたナナは、その一文字から目が離せなかった。


(物価高も、対岸の緊張も、利上げも。全部、誰かの手を通って生活に変わっていく。

 まとめ記事の最後の一文も、誰かの手の動きに繋がるなら)


     ◇


 特番の最後、出演者全員がステージに並ぶ。

 空には、衛星から見た世界の雲が、大陸ごとに色分けされて浮かんでいた。


「きょうの夜空は、いつもより少しだけ賑やかでした」


 澪は、インカムを外してマイクを手に取った。

 台本にはない、数行の言葉を紡ぐ。


「隣の国からの強い言葉が、不安を広げることもあります。

 遠い国からの助言が、心をざわつかせることもあります。

 物価のニュースや、利上げの話題が、明日の生活を重く感じさせることもあります。


 それでも、雲は国境線を選びません。

 この夜空を一度でいいから見上げてくれたなら、あなたの手が誰かの手と、どこかでつながっていますように」


 ナナは、その言葉を一字一句、メモに走り書きした。

 いつものように切り貼りして「バズるまとめ」にするのではなく、この夜だけは、ほとんどそのままテキストに載せようと決める。


 配信が終わり、観客のいない屋上に静けさが戻ってきた。


     ◇


 機材の撤収が進む中、栞たちは屋上の縁に並んで座っていた。

 空には、もうプロジェクションはなく、本物の雲が薄く流れているだけだ。


「さっき、歌詞変えちゃって、ごめんなさい」


 栞が小さく頭を下げると、澪は首を振った。


「謝らなくていいよ。あの一行で、たぶん救われた人もいる」


「炎上、しませんかね」


「するかもしれない。でも、それも含めて、わたしたちの仕事で、あなたの表現だから」


 律は、ギターケースを抱えながら笑った。


「炎上したら、うちの配信で『歌詞を変えた夜を語る回』やろう。タイトルは『利上げより上がった心拍数』とか」


「やめてください、そのタイトル」


 九条は、タブレットを栞たちに見せた。

 そこには、雲データを使って描いた新しいラフスケッチがあった。


「次のプリクュラのスペシャルで、今日の夜空をそのまま使いたいんです。アイドルのステージと書芸ライブが、空の上でまだ続いてる、みたいな」


「それ、絶対泣きますね」と栞。


 篝は、自分の指先を見つめて微笑んだ。


「わたしも、もう少し商業に寄せた字を書いてみようと思う。削るだけじゃなくて、増やす字も。

 でも『手』だけは、今夜みたいに丁寧に書き続けたい」


 澪は、スマホを取り出して、官邸公式アカウントの下書き画面を開いた。

 そこには、ナナから送られてきたまとめテキスト案が表示されている。


『対岸の警告と、内政の慎重な言葉が交差した夜。

 雲のデータと、歌と、筆と、アニメと。

 それらをつなぐのは、画面の向こうにいる一人ひとりの手でした。』


「……このまま出していい?」


 澪がナナに聞くと、ナナは少しだけ迷ったあと、うなずいた。


「はい。でも、最後に一文だけ足してもいいですか」


「どんな?」


「『ニュースは、怖くても、見捨てないでほしい』って」


 澪は、ほんの一瞬だけ空を見上げた。

 薄い雲の向こうに、さっきまでの地球の映像の余韻が残っている気がする。


「いいね。じゃあ、そのまま」


 送信ボタンを押すと、官邸公式アカウントからの投稿として、ナナのまとめた言葉が世界に流れていった。


 それぞれのスマホにも、同じ投稿が届く。

 栞は、それをスクリーンショットして、自分のアカウントで静かに引用した。

 律は、そのテキストを歌詞ノートに写して、新曲のモチーフにした。

 九条は、ラフスケッチの片隅に小さく「手」という字を描き添えた。

 篝は、次の個展のタイトルを「手」と決めた。


 そしてナナは、まとめサイトの編集画面を閉じたあと、個人ブログの新規投稿を開いた。

 そこには、広告もアクセス数のグラフもない、ただの白い画面。


『きょう、官邸の屋上で、衛星が見ている雲を、初めて本気で美しいと思った。

 世界の天気図に、自分の手の跡を少しだけ重ねたような、そんな夜だった。』


 ナナは、その文章を保存すると、そっと屋上の柵に触れた。

 冷たい金属の感触の向こう側で、夜空が静かに揺れている。


 雲は、国境線も、物価も、利上げも知らない。

 ただ、誰かの頭上を通り過ぎていく。


 その雲の形をなぞることでしか、語れない物語がある。

 ナナは、それをこれからも、まとめ続けようと思った。


(了)

――あとがき――


 今回は、近未来寄りの現代ドラマとして構成しつつ、衛星データの可視化という技術要素を軸に、穏やかなSFの肌触りを重ねました。外交・経済の重いニュースを、官邸屋上の配信イベントという一夜の物語に落とし込むことで、登場人物たちの「仕事」と「生活」と「世論」の距離を描こうとしています。


 対岸からの強い警告と、米国元首脳の自制要請に関するニュースは、桐生澪と纏目ナナが向き合う広報メッセージや、白神栞と石塔律の歌詞選択の揺れとして物語に反映しました。サービス価格指数2.7%と近い利上げ観測の話題は、石塔律の配信での嘆きや九条探のスタジオ費用の不安、墨田篝の「削」という一文字に繋げています。宇宙機構が公開した衛星データは、クラウドライン特番そのものの核となり、空に投影された雲と雨が、それぞれの表現をつなぐビジュアルとして機能しました。


 トレンドタグでは、「#ノギサカの史緒里」をもじった「#ノギサカの栞里」を白神栞のコンプレックスと憧れに絡め、「#六TONESリスパ生配信」をもじった「#スリックストーンズリスパ生祭」を石塔律の配信文化として描きました。さらに、「名探偵プリキュア」は作中アニメ「名探偵プリクュラ」として、「#プレバト」は書芸番組「プレバッと査定団」として取り入れています。


 ジャンルとしては、王道の「世界規模の問題は解決しないが、小さな一歩を踏み出す」社会派寄りドラマを選び、その枠内で衛星データの演出や夜空の見せ場を使って、静かなSF感を足しました。ラストでのみ「ニュースのまとめ役」が自分の手で書く個人的な文章を選ぶことで、ニュースを消費する側から、物語に関わる側へと一歩進む変化を描き、やや王道寄りの結末にしています。


 報道で扱われる外交・金融・物価の問題は、現実世界では多くの人の生活と安全に直結する重いテーマです。本作では、その事実を軽視しないよう直接的な政治的主張を避けつつ、ニュースに触れたときの不安や距離感を、創作の中で別の形に組み替えることを意識しました。夜空の雲と同じように、ニュースもただ通り過ぎるものではなく、誰かの手で受け止められ、言葉にされていく過程を描いたつもりです。


 この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。

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