勤労の灯、湾岸の光【2025/11/24】
東京湾沿いの埠頭に、夕刻の影がゆっくりと沈み込んでいく。クレーンの鋼の腕が空を切り、コンテナが「ギギ……」と軋きしむたび、高原誠の肩のパワーアシストスーツが「ウィン」と低く唸った。
勤労感謝の日。だが、祝日のはずの埠頭はいつもどおり働きづめだ。
休憩所の天井に埋め込まれた大型スクリーンが、急に音量を上げた。
「隣国の外務当局が、日本の閣僚による台湾をめぐる発言を、衝撃的な誤ったシグナルだと非難しています」
アナウンサーの声が、鉄と潮の匂いに満ちた空間に響く。画面の端には「#中華外しょうコメント」「#台湾発言」と、ツブヤキ上のトレンドが流れていた。
誠は、空になった紙コップを握りつぶした。
(誤ったシグナル、ねえ……こっちは正しいシグナル一つももらってないのに)
さっき部署に回ってきた通達には、輸出入の緊張で来月の残業カットが検討中、とあった。生活費の計算を頭の中で弾きかけて、誠は首を振る。
ロッカーから、赤いカードを取り出す。今朝、労組の青年が押しつけるように渡していったものだ。
「今日、言葉にしなければ、明日は届かない」
白い文字が、夕闇より濃い不安を刺す。
ポケットにカードを戻したとき、別の広告がスクリーンを横切った。
「本日十九時、湾岸光景イベント『ウォーターヒカリフェス』開催。あなたの『ありがとう』を、空に映そう」
水しぶきと光の粒が混じり合い、巨大な「謝」の字を描くCG。続けて「挑」という字が躍り出て、二つの文字が重なり「働」に変わる。
誠は思わず笑った。
「そんな器用にいくかよ」
だが、胸のどこかで、その光景を本物で見てみたいと思っている自分に気づき、さらに小さく笑った。
◇
「……というわけで、勤労感謝の日は、働く人と生産に感謝する祝日です。ただ、祝日だからこそ、見えない労働の話をしたいと思います」
西園寺葵は、画面に向かって原稿を読み上げ、録音を停止した。ワンルームの机には、取材メモが散乱している。
今日は、女性記者ネットワーク「フロントライン・シスターフッド」の設立一周年イベントが、都心の小さなホールで開かれる。そこで話すスピーチの、仮録音だった。
タブレットには、海外通信社の速報が次々と流れ込んでいた。
「市民グループ、台湾巡る発言の撤回を要求し、都心で抗議デモ」
動画には、プラカードを掲げた人びとが映る。「台湾を道具にするな」「誤ったシグナルをただせ」と、さまざまな文字が揺れていた。
別の記事では、複数の経済専門家の分析がまとまっている。
「台湾問題を外交カードのように扱えば、得るものより失うものが大きい。貿易や投資の冷え込みで、日本の方が深刻な打撃を受けかねない」
葵はメモにさらさらと書き込みながら、眉を寄せた。
(煽り合いの見出しじゃなくて、こういう地味な話をきちんと伝えたいんだけどな)
そこへ、メッセージアプリが「ポン」と震える。
『葵さん、今日のトークイベント、まとめ記事出しましょうか? タグは「#勤労感謝のひ現場から」でどうです?』
送り主は「纏目ナナ」。ニュースキュレーションサイト「マトメナ」で人気のライターだ。
葵は思わず吹き出した。
「また語呂優先のタグ付けして……でも、いいかも」
指先で返信する。
『ぜひ。あと、抗議デモの件も、煽らないトーンで一緒に扱いたい』
『了解です。煽らない、でも眠くない、を目指します』
画面の向こうで微笑むような文面に、葵の肩から少しだけ力が抜ける。
◇
龍崎蒼は、シンクタンクの窓から暮れかけた空を見下ろしていた。大型ビルの谷間に、ニュースティッカーが走る。
「政府関係者の台湾をめぐる発言に、隣国が強い不快感」「都内で抗議デモ、撤回を求める声」。
机の上のホログラフィックディスプレイには、グラフと数字の森が浮かんでいる。貿易統計、投資額、サプライチェーンのシミュレーション。
「ここまで全部積み上げて、それでも、あの発言は割に合うのか」
蒼は、無意識に独り言をこぼした。
メールボックスには、官庁からの依頼が届いている。
「台湾をめぐる最近の発言が、経済に与えるリスク評価について、早急にメモを」
彼は指を走らせ、数字を繋ぎ直した。
「台湾を『カード』みたいに扱えば、短期的に拍手を得ても、中長期では冷え込みが勝ちます。輸出、観光、企業のサプライチェーン……得るものより失うものが、静かに、でも確実に増えていく」
そんな文面を、下書きに書き込む。
ふと、別ウィンドウでソーシャルのトレンド一覧を開く。
そこには「#勤労感謝のひ」「#ウォーターヒカリフェス」「#アーサノルGP最終戦」「#中華外しょう怒り」など、相反する空気を持つ言葉が並んでいた。
「光と怒りが、同じ欄に並ぶのか」
蒼が苦笑したそのとき、別の通知がぴょこんと跳ねた。
『蒼さん、今夜のフェス、現地で配信やるので、解説ゲストで来ません? 水野理人のチャンネルより』
彼は額を押さえた。
「この状況で、フェスの配信に出る分析官って、どうなんだ」
だが、同時に、歓楽と不安が同じ場所に集まる光景を思い浮かべ、胸の奥がざわめいた。
◇
「はいどうもー、水野理人です。今日は『ウォーターヒカリフェス』と『勤労感謝の日』と『アーサノルGP最終戦』を、ぜんぶまとめて語っていきます」
ワンルームの壁一面に貼られた防音パネルの前で、理人はカメラに向かって指を立てた。まだ配信本番ではない。リハーサルだ。
目の前のモニターには、コメント用のプレースホルダーが流れている。
〈それ全部まとめるのムリでは〉
〈情報過多で頭パンク〉
「だよねー。でも、まとめるんだよ。なぜなら今日は、我らがキュレーション女王、纏目ナナさんも呼んでいるから」
理人がそう言った途端、別ウィンドウでビデオ通話の通知が「ピコン」と鳴る。
「おつかれさまです、水野さん」
画面に現れた纏目ナナは、ゆるくまとめた髪をヘッドセットで押さえ、ノートパソコンの光を受けて目元を輝かせていた。
「今日、仕事何本分まとめる気なんですか」
「祝日だから、まとめ放題でしょ」
「祝日こそ休むって発想はないんですか」
二人の掛け合いに、事前テスト中のチャット欄が「クスクス」とざわつく。
「でさ、ナナさん。タグは『#勤労感謝のひ現場から』と『#ウォーターヒカリフェス』と『#アーサノルGP最終戦』と……」
「多いです。タグで小説書く気ですか」
「名案だ、それ」
「本気にしないでください」
そこへ、さらに一つ通知が重なる。
『龍崎蒼さんが参加を希望しています』
「あ、本当に来てくれるんだ」
理人は目を丸くした。
「ナナさん、あの固い分析官に、どうやってオファー通したんですか」
「『数字を笑いに変える枠です』って言ったら、少し沈黙してから『検討します』って」
「だまし討ちでは」
「いえ、表現を工夫しただけです」
「それを世間では……」
理人のツッコミを聞いて、ナナが肩を揺らして笑う。
「まあ、現地でちゃんとまじめな話もしますよ。抗議デモの人たちも、湾岸のフェスに流れてくるかもしれないって聞きましたし」
「マジで?」
「『光の下で声をあげる』ってコンセプトらしいので」
理人は一瞬だけ黙り、そしてニヤリと笑った。
「じゃあなおさら、ちゃんとまとめよう。笑いとまじめを、両方」
◇
桜木絢音の作業机には、締め切りの迫るネーム用紙が山のように積み上がっていた。
連載中のSFマンガ「湾岸アーサノル」の次回分。テーマは「情報の海で、何を信じるか」だ。
だが、ペン先は白いコマの上で止まったまま動かない。
テレビからは、ニュースが流れ続けていた。
「都心では、市民グループが台湾をめぐる発言の撤回を求めてデモ行進を行いました。一方、湾岸部では今夜、勤労感謝の日に合わせた光と水のイベントが開かれます」
画面下には、女性記者たちの集まりについてもテロップが流れる。
「女性記者ネットワーク『フロントライン・シスターフッド』が、設立一周年を記念するイベントを開催」
「みんな、動いてるのに」
絢音は、小さくつぶやいた。
スマホには、纏目ナナからのメッセージが光っている。
『今日のフェス、絵になるらしいですよ。取材半分、気分転換半分で行きませんか』
『締め切りあるけど、絵になるなら……行く』
打ち込んで送信すると、少しだけ胸が軽くなった。
机の端には、ファンからもらったメッセージカードが立てかけてある。
「絢音先生のマンガに、働く勇気をもらっています。#連載サクヒン待ってる」
そのタグの文字が、今日何度もトレンド欄に浮かんでは消えていたことを、絢音は知っていた。
◇
夜の始まりの気配が、都心を静かに包み込んでいく。
小さなホールでは、女性記者ネットワークの一周年イベントが佳境に入っていた。照明を落とした壇上で、葵はマイクを握る。
「報道は、ときに権力を追及し、ときに市民の声をすくい上げます。でも、そのどちらも、現場で働く人たちの労働の上に成り立っています」
客席には、老若男女さまざまな記者の顔が並ぶ。ノートを取る手。うなずく表情。
「今日、外では台湾をめぐる発言に抗議するデモが行われています。その場にいる記者たちも、私たちと同じように、汗をかきながら事実を拾っているはずです」
葵は一呼吸置き、穏やかに続けた。
「私たちは、煽るのではなく、伝える。『誰が、何に怯え、何に怒り、何を守ろうとしているのか』を、できるかぎり正確に」
拍手が「パチパチ」と広がる。ステージ袖からスタッフが、手短に時間を示す合図を送る。
挨拶を終え、控室に戻った葵のスマホが震えた。
『湾岸の方に、抗議デモの一部が移動してるって噂です。ウォーターヒカリフェスの近く』
纏目ナナからだ。
『光の下で声をあげる絵面を狙ってるんでしょうね。危なくならないといいけど』
葵は、鏡越しに自分の顔を見た。少し疲れてはいるが、目の奥はまだ燃えている。
『私も湾岸に向かう。記者として、でも一人の働く人としても、見ておきたい』
送信し、ジャケットをつかんでホールを出る。
◇
国会議事堂近くの通りは、既に「ざわざわ」と人の波で満ちていた。
高原誠は、埠頭からのシャトルバスを降り、乗り換えの駅に向かおうとして、その列に出くわした。
プラカードの列の一部に、見覚えのある顔があった。埠頭で一緒に働く同僚、村田だ。
「村田さん」
「あ、誠。おつかれ」
村田は、ヘルメット姿のまま振り返る。胸には「台湾を道具にするな」と書かれた紙が貼られていた。
「そのまま来たんですか」
「着替える時間なかった。どうせ、誰かが荷物運ばなきゃデモも成り立たないしな」
冗談めかした口ぶりに、誠は苦笑した。
「俺は、これから湾岸の方。フェス、ちょっと見てから帰ろうかなって」
「光のやつか。いいな。こっちはこっちで光になれるといいが」
「声の光ですね」
「いいこと言うじゃん」
二人がそんな会話を交わしている間にも、「発言撤回を」「誤ったシグナルをただせ」といった声が「ドドン」と太鼓とともに響き渡る。
信号が青に変わると、デモ隊の一部が湾岸方面へ曲がっていった。
誠は、その背中を見送りながら、自分のポケットの中の赤いカードを指でなぞった。
「今日、言葉にしなければ、明日は届かない」
その文言が、潮の匂いと混じり合う。
◇
湾岸エリアの特設会場に着いたのは、十九時少し前だった。
巨大な給水塔を背にしたステージ、その前には円形の噴水池。周囲のビルの壁一面が、スクリーンとして使われている。
水面には、まだリハーサルの光が「キラキラ」と踊っていた。
理人は、肩からカメラをぶら下げ、スタッフパスを首にぶら下げていた。
「お、来た来た」
と、手を振ると、人混みの向こうから纏目ナナが走ってきた。その後ろには、マフラーを巻いた桜木絢音と、スーツ姿の龍崎蒼の姿もある。
「連載の人と、分析の人と、まとめの人と、配信の人がそろいましたね」
ナナが笑う。
「なんか、新しい戦隊もののタイトルみたいだ」
理人の冗談に、絢音が「それ、今度ネームに使っていいですか」と真顔で返し、周囲が「クスクス」と沸いた。
「ところで蒼さん、今日のテーマは『ありがとうと挑戦と台湾と経済』ですけど」
「一つだけでも重いテーマを、なぜ四つ束ねた」
蒼が即座にツッコミを入れ、ナナが肩を抱えて笑う。
「大丈夫です。まとめ役がいますから」
「それ、わたしだよね」
「もちろんです、マトメナさん」
「やめてください、その呼び方は社内ニックネームです」
コントのようなやり取りの最中、葵も合流した。
「取材で来たつもりが、知り合いだらけで驚いてる」
「こっちは配信で、そっちは記事で、同じものを違う角度から残しましょう」
ナナの言葉に、葵はうなずいた。
会場の一角では、ボランティアスタッフが「#勤労感謝のひ現場から」と印刷されたボードを配っている。参加者が、自分の「ありがとう」を書き込んで掲げるためのものだ。
誠も、埠頭からの直行シャトルで会場に滑り込み、そのボードを一枚受け取った。
(誰に、ありがとうって書くべきなんだろ)
ペンを握ったまま、しばし水面を見つめる。
遠くで、「ドンドン」と太鼓の音が近づいてくる。抗議デモの一部が、このエリアに向かっているのだと、誰かが小声で言った。
◇
一度、会場の照明が落ちた。
それまでのざわめきが、ふっと静まり、潮騒と遠くの車の音だけが残る。暗闇の中で、ひとりひとりの呼吸が聞こえてくるようだ。
その静けさを破ったのは、水の音だった。
「ザアアアッ」
噴水池の中央から、高く水柱が立ち上がり、そこに無数の光の粒が投射される。光は水滴に反射して、空中に大きな文字を描いた。
「謝」
柔らかなオレンジ色の、ひと文字。
続けて、別の水柱が弧を描き、青白い光が走る。
「挑」
冷たくも鋭い、もうひと文字。
二つの文字が、風に揺れながら少しずつ重なり合っていく。水しぶきが「パシャパシャ」と頬にかかるたび、観客から小さな歓声が漏れた。
やがて、「謝」と「挑」は、ゆっくりと形を変え、ひとつの漢字に収束する。
「働」
その瞬間、会場全体から大きな拍手が湧き起こった。
スクリーンの下部には、リアルタイムのニュースティッカーが流れている。
「隣国外務当局、日本の台湾巡る発言を『衝撃的な誤信号』と批判」「市民グループ、発言撤回求め都心でデモ行進」「女性記者ネットワークが設立一周年イベントを開催」。
その横には、ソーシャルのトレンドタグが連なっていた。
「#勤労感謝のひ」「#ウォーターヒカリフェス」「#アーサノルGP最終戦」「#連載サクヒン待ってる」「#中華外しょう怒り」。
理人の配信画面には、視聴者コメントが滝のように流れている。
〈光やばい〉
〈働の字で泣きそう〉
〈デモ隊も映してほしい〉
〈ニュースのテロップとイベントの演出のギャップがすごい〉
理人はカメラを少しパンさせ、会場の外れに近づいてきたデモの列を映した。
太鼓とシュプレヒコールの音が、フェスの音楽と混ざり合う。
「ここは、光を見る人と、怒りを叫ぶ人が、同じ画角に入る場所です」
理人がそう語る横で、蒼は一瞬だけメモパッドを閉じた。
「数字だけ見ていると見えないものがある、って、こういうことか」
その呟きに、ナナがうなずく。
「だから、まとめるときに、数字と一緒に顔も書きたいんです」
◇
やがて、ステージに主催者が立ち、マイクを握った。
「ここで一つ、企画をします。今日、いちばん誰かに『ありがとう』を伝えたい人、よかったらこのマイクの前に来てください」
突然の呼びかけに、ざわめきが広がる。
「誰も来なかったら、どうするんだろ」
理人が小声でつぶやくと、ナナが肘でつついた。
「水野さん、行ってきたら」
「いやいや、ぼくは実況する側だから」
「まとめ役が、たまには自分の声を出してもいいと思うんです」
「それは、ナナさんの話では」
そんなやり取りをしているうちに、ステージの前に小さな空間ができた。誰かが一歩踏み出すのを、みなが待っている。
沈黙は、意外なほど長く続いた。
誠は、自分の手元のボードを見つめたまま動けずにいた。そこには、太い字でこう書きかけてある。
「いつも荷物運んでるお父さんを、ちゃんと見ていてくれてありがとう」
書いている途中で、何かが喉につかえたようになり、ペンが止まってしまったのだ。
葵は、その文字を横目に見て、ふわりと笑った。
「いい言葉ですね」
「まだ書き終わってませんよ」
「だからこそ、続きが知りたくなります」
その一言に背中を押されるように、誠はボードを握りしめた。
だが、一番先に動いたのは、別の人だった。
纏目ナナが、気がつけばステージへ向かって歩き出していたのだ。
「ちょ、ナナさん」
「わたし、いつもまとめてばかりだから。たまには自分の言葉で」
マイクスタンドの前に立ったナナは、客席を見渡し、深く息を吸い込んだ。
「ええと、纏目ナナといいます。ふだんは、ニュースや誰かの声をまとめる仕事をしています」
スクリーンには、彼女の名前とアカウント「マトメナ」の文字が投影される。コメント欄が「おお」とざわついた。
「今日、外では、台湾をめぐる発言に怒っている人たちがいます。ここでは、光を見て、楽しい時間を過ごそうとしている人たちがいます」
ナナは、一度目を閉じた。
「ニュースだけ見ていると、世界は怒りと不安でいっぱいに見えます。でも、取材して、まとめて、本当の声を聞くと、その奥に『誰かを守りたい』『働く人を大事にしたい』って気持ちが、たくさん隠れているのがわかります」
会場の空気が、ゆっくりと静まっていく。
「だから、今日は、その全部に『ありがとう』と言いたいです。怒って声をあげている人にも、静かに働き続けている人にも、事実を伝えようとしている記者にも、画面の向こうで見ているあなたにも」
最後の「あなた」に合わせて、理人のカメラがわずかにズームインし、配信の画面にはナナの瞳が大きく映し出された。
「わたしたちは、どこまで笑いに変えるか、どこからは笑えないか、迷いながら生きています。でも、その迷いをまとめてしまわずに、ちゃんと揺れたまま、伝えていきたい」
ナナの声は少し震えていたが、はっきりと会場の端まで届いた。
沈黙。やがて、その沈黙を破るように、一人の子どもの声が「ありがとう」と叫んだ。
続いて、あちこちから「ありがとう」「ありがとう」という声が「ワアア」と渦を巻くように広がっていく。
その中に、太鼓の音と、デモのシュプレヒコールも混ざっている。
「発言を、まじめに聞け」
「働く人を、道具にするな」
怒りと感謝の言葉が、夜風の中で交差した。
主催者が合図を送ると、再び水柱が立ち上がる。
今度の光は、さっきよりも複雑だった。ソーシャルに投稿された参加者のボードの写真、デモの列を横から映した映像、女性記者たちのイベントの様子、絢音のスケッチ風のカット、蒼が作ったグラフの一部。
それらがモザイクのように組み合わさり、一つの巨大な文字列を描く。
「働く声を、消さない」
その下に、小さく「ありがとうと挑戦のあいだで」と光る。
絢音は、その光景を目に焼き付けながら、震える手でメモを取った。
(次回のネーム、決まった。舞台は、光とニュースが混ざる湾岸。主人公は、まとめることに迷うキュレーター)
ふと横を見ると、葵が頬を濡らしながらも、スマホで必死にメモを取っている。
「この記事、どこまで載せられるかわからないけど、書くだけ書いてみる」
葵の呟きに、絢音はうなずいた。
誠は、ようやくボードの最後のひと言を書き足した。
「いつも荷物運んでるお父さんを、ちゃんと見ていてくれてありがとう。いつか、この仕事のこと、笑って話そう」
そのボードを掲げると、偶然カメラが捉え、配信画面にも映った。
コメント欄には、見知らぬ誰かの「うちの父もトラック運転手です」「うちも港で働いてます」という言葉が次々と流れ込む。
理人は、それを見て小さく笑った。
「これを後で、特集にしよう。#働くをありがとうに、ってタグで」
彼がそう提案すると、ナナがすばやくスマホを操作し、新しいタグを打ち込んだ。
「はい、『#働くをありがとうに』。今、投稿しました」
数秒後、スクリーンのトレンド欄に、その文字が「ピコン」と浮かび上がった。
◇
フェスが終わり、人の波が少しずつ引いていく。
湾岸には、まだ水と光の余韻が残っていた。遠くでは、デモ隊の一部が静かに解散し、プラカードを折りたたんでいる。
蒼は、ポケットの中のメモパッドを取り出し、そこに一行書き込んだ。
「数字で語るメモに、『働く声』の一節を追記すること」
それは、誰に求められたわけでもない、小さな誓いだった。
葵は、取材メモを見直しながら、理人とナナ、絢音、誠の姿を順に目に焼き付けた。
「明日の記事、タイトルは……そうだな」
夜空に残る水煙を見上げながら、彼女はつぶやく。
「『光の下で揺れるありがとう』、くらいなら、デスクも通してくれるだろうか」
その隣で、絢音が笑う。
「もしボツでも、マンガで描きます。連載の中で」
「それ、こっそり教えてくださいね」
二人の笑い声が、潮騒と混じる。
理人は、機材を片づけながら配信の終了画面を確認した。
〈本日の同時視聴者数、予想の三倍〉
という通知が出ている。
「数字はうれしいけど、それ以上に、今日は『まとめすぎないこと』の大事さを学んだ気がする」
そう言うと、ナナが隣で肩をすくめた。
「まとめ役のくせに」
「まとめ役だからこそ、かな」
ふと、ナナは空を見上げる。
水煙の向こうに、都市のビル群の窓明かりが「ポツポツ」と灯っている。一つ一つが、誰かの働く場所であり、誰かの眠る場所だ。
「ニュースは、これからもきっと、怖い言葉や難しい言葉をたくさん運んでくる」
ナナは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、その合間に、今日みたいな光景を、何度も拾っていきたい」
理人がうなずき、蒼が少し照れくさそうに咳払いをした。
「では、そのときは、また数字を持っていきます」
「マンガも描きます」
「記事も書きます」
「現場で荷物、運んでおきます」
四人と一人が順番に言葉を重ねると、いつのまにか小さな円になって立っていた。
東京の深い陰影は、完全な夜に溶けていく。
スクリーンのニュースティッカーは、まだ世界の緊張を流し続けていた。台湾をめぐる言葉の綱引きも、経済の不安も、簡単には消えない。
それでも、湾岸の空に一度刻まれた「働」の字は、誰かの胸の中で、しばらく消えずに残り続けるだろう。
誠は、自分のポケットの赤いカードをもう一度確かめた。
「今日、言葉にしなければ、明日は届かない」
彼は小さくつぶやき、ゆっくりと歩き出した。隣では、それぞれの「ありがとう」と「挑戦」を胸に抱えた仲間たちが、同じ夜の中へと歩みを進めていく。
(了)
――あとがき――
今回は、近未来の湾岸を舞台にした社会派寄りの物語として描きました。
隣国の外務当局が日本の台湾をめぐる発言を「衝撃的な誤信号」と批判したニュースは、スクリーンのテロップや龍崎蒼の分析の場面として取り入れました。発言撤回を求める抗議デモの報道は、国会議事堂周辺から湾岸へと流れてくるデモ隊の描写として反映させています。勤労感謝の日に関するニュースは、祝日の意味を語る西園寺葵のスピーチや、会場で配られる「#勤労感謝のひ現場から」のボードというかたちで組み込みました。台湾問題を外交カードのように扱うことの経済的リスクを指摘する記事は、龍崎蒼が官庁向けにまとめるメモと独白の中身として再構成しています。女性記者ネットワーク一周年イベントのニュースは、葵が登壇するホールのシーンに対応しています。
トレンドタグからは、「#勤労感謝の日」をもじった「#勤労感謝のひ現場から」や、湾岸イベントを指す「#ウォーターヒカリフェス」、モータースポーツ風の「#アーサノルGP最終戦」、そして創作側の事情を映す「#連載サクヒン待ってる」などを使いました。SNS文化の空気感だけ借りつつ、実在サービス名は避けています。
ジャンルとしては、社会派ドラマとささやかな近未来SFを混ぜたうえで、終盤はやや王道寄りの「光のクライマックス」を選びました。世界の緊張は解決しないままですが、登場人物たちが自分の仕事や表現で「何をまとめ、何をあえてまとめないか」を決めるところまで描き、少しだけ前向きな余韻を残す意図です。
報道としてのニュースは現実の重さを持っていますが、ここではフィクションとして、個々人の感情や小さな選択に結びつける形で再構成しました。現実の出来事や登場人物とは関係のない物語として楽しんでいただければ幸いです。
この物語は、こうしたニュースにインスパイアされました。




