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雨夜暗号──東京トレンド・サスペンス【2025/10/20】

 ビルのガラスに貼りついた雨は、光る文字に見えた。編集者の黒瀬仁菜は、端末に走るトレンドの帯を斜めに見上げる。五つの語が同時に膨らんだ。『#鋼腕疾走』『#キム・カルディアン』『#女性宰相』『#再エネ』『#ドローン戦線』。それは流行ではなく、鍵の列だと彼女は知っていた。

 ザアアア……。

 庁舎の陰で、信号が青に変わるたび、濡れた道路が薄い電気を吐いた。仁菜は編集部『鳴砂書房』の夜勤室を飛び出し、傘をたたんで高架下に滑り込む。すでに待っていたのは、痩せた記者、高橋陽一。肩のコートには雨が縞を描いている。

「やっと来たか。『#鋼腕疾走』は経路、『#キム・カルディアン』は仮面、つまり秘匿。今夜、動く」

「知ってる。『#女性宰相』は合図の顔、『#再エネ』は資源の行き先、『#ドローン戦線』が兵器。五つ揃えば、スウォームの起動だ」

 ピピッ。

 仁菜の端末が、ひとつだけ遅れて跳ねた。通知は、無表情な一語──『なし』。

 彼女は息を飲む。『なし』は、鍵列の終端。攻撃の停止か、ゼロ時間の宣告か。判断を誤れば、都市の肺が燃える。


 ギィ、ギィィ……。

 記者クラブの裏口で、雨が天井を叩いた。二人の背後から、スニーカーの水音が近づく。佐伯宙だ。猫背のプログラマは、フードを払いつつ小さく会釈する。

「解析、進んでる。トレンドはステガノ。ハッシュタグの伸び率と時刻を多項式で束ねた群符号。送信者は匿名化を重ねてるが、指紋が見える。『流』の癖だ」

「田口流……」

「ええ。エネルギー取引所のゴースト。彼がガスと電力の『流れ』を細工する。ドローンは雨を纏って、ガス調整所のバルブ群を叩く。点火はしない。ただ止める。都市の心臓を、黙らせる」

 ドドド……。

 遠くの河岸に、重い風の塊が走った。三人は顔を見合わせる。今夜は政局の裂け目でもある。連立の密談、初の女性宰相を巡る駆け引き。表の紙面は祝祭を準備し、裏の街は息を潜める。

「西園寺マリエは?」

 宙が尋ねる。仁菜は短く頷いた。

「連絡は取れる。彼女は表の顔だけど、裏のコードも読めるはず。十年前、同じ講座でステガノを弄ってた」

「それ、記事になるのか?」

「記事じゃない。『止め字』にする」


 ザザッ、ザザザ……。

 地下鉄の気流に押され、三人は駅のコンコースへ滑り込む。光が床に揺れて、広告のパネルが濡れた羽のように点滅した。手のひらに小型端末を挟むと、宙が素早く指を走らせる。

「五つの語を折り返しで畳む。母音を数えて、都市の地名に位置写像。『鋼腕疾走』が『鋼=橋梁』『腕=アーム状の匝道』『疾走=速度比』。これが北の環状へ。『キム・カルディアン』は『仮面=覆面作業』『女王=支配ノード』。ここが中央管制の辺り」

「『女性宰相』は?」

「『表紙』。顔写真の表示枚数が、群の同期トリガ。『再エネ』は周波、『ドローン戦線』は軌道。全部を重ねると、隅田の調整所が光る」

 カタ、カタカタ……。

 仁菜は、それを紙皿に書き写し、指の腹で確かめる。紙皿は、さっき高橋が買ってきた温かいコーンスープの蓋だ。

「ところで高橋さん、スープ飲む?」

「いや、さっき熱すぎて舌をやった。記者生命の危機だ」

 三人は同時に小さく笑った。


 サアア……。

 階段を上がると、街はさらに暗くなっていた。看板の一部が落ち、信号が二重に点滅する。雨粒は微細なドローンの影を運び、空気のなかで微かに震えた。

 ビィィ……ピ、ピ……。

 耳の奥に、電子の羽音が刺さる。雲の底が光を撒き、成層のぬらぬらした縁が波打つ。宙が腕を伸ばし、音の群れを捕まえるように目を細めた。

「来る。『雨燕型』だ。雨粒に紛れて降りる」

「数は?」

「千単位」

 仁菜は瞬時に、紙面の工程を頭に重ねる。見出し、写真、引用。クリックの海を、彼女は長年泳いできた。群知能にとって、人間の視線は燃料だ。視線の渦を操作する術は、編集者の両手の中にある。

「止め字、要るね」

 背後から、澄んだ声が挟まった。西園寺マリエが、濡れた薄衣の裾を揺らして立っていた。街頭演説からそのまま来たのだろう。頬には雨の粉がついている。

「あなたが来るとは。ここで『表紙』が揃う」

「私は表紙で、ページの折り目。だけど今日は、背で糸を通す役」

 パシャ……。

 遠くで閃光。群体がひと塊になり、橋の上を掠めた。鳴り止まない雨の膜に、微細な影が数式のような列を描く。

「田口流は、連立の混線を利用する。エネルギー需給を揺さぶれば、政策は非常モードに入る。再エネ比率の議論も、原子の安全策も、壊れた蛇口の前では数字の遊びになる」

「彼にとって政策は価格だ。価格は時間。時間はタグの列」

「止めるには?」

「『なし』を逆手に取る。彼の鍵列では、『なし』は停止と同時に点火でもある。合図者が『なし』を言えば、鍵は閉まる。でも群体は違う解釈をする。視線が『あり』だと増幅する時だけ、暴走に傾く」

 コツ、コツ……。

 西園寺はヒールの音で、リズムを刻む。仁菜は彼女の目にかつての論文のページを見た。音を数えることで、群体の位相を捻じ曲げるやり方。十年前、二人が夜更かしで笑いながら試した小さな手品が、今は都市の運命を抱えている。


 ブウウウン……ッ。

 第一波が降りた。雨粒より少し重い影が、ガス調整所のフェンスへ吸い寄せられる。金網が薄く光り、電気の花が弾ける。

 カチ、カチチ……。

 バルブの手元に集まった群体が、同期を取ってガルバニを逆流させる。爆発はしない。ただ、息を止めるように街が暗くなる。電車の音が細くなり、遠くの病院の灯りが遅れて脈を打った。

「まだ間に合う」

 仁菜は編集部のカメラを掴み、ライブ配信用の短文作成画面を開く。指が震える。

「見出しは?」

「『雨の夜は、なし』。視線の波形を落とす短い句。最後に句点は打たない。余白を大きくする」

「私が言う」

 西園寺が前へ出る。彼女の声は、雨の膜をほどくように滑った。

「……雨の夜は、なし」

 シン……。

 雨の音が、一拍遅れて戻る。群体の羽音が柔らかくなり、斜めに漂った。広告のパネルが、ふ、と消え、また点く。群が誤読を始める。『なし』が『ゼロ』ではなく『空白』に変わっていく。

 ビリ……ビリビリッ。

 第二波が逸れ、隅田の黒い水へ滑空した。水面がさざめき、群れは光る粒の尾を残す。田口流は、その瞬間を狙って仕掛けを打つはずだ。混線の真ん中に、彼は必ず姿を出す。


 タタタ……。

 高架下の柱の影から、男が現れた。帽子を目深にかぶり、傘も持たない。田口流。名前の通り、水のようにどこからともなく流れ込む男。

「よく、ここまで来たね」

「鍵を返して」

「鍵?」

 彼は笑い、左手を開いた。掌の上には、雨粒ほどの透明なビー玉がひとつ。

「鍵なんてない。群れは、君たちの視線で動いている。編集者、政治家、記者。君らが『この街の物語』を整えるほど、群れは整列する。私はただ、流れを観察するだけ」

「じゃあ、なぜステガノで煽った」

「煽っていない。知らせただけ。細い管に空気を入れるようにね。誰かが押せば、どちらへも曲がる」

「どちらへ?」

「値に向けて」

 ドン……。

 遠雷。田口の肩が、稲光で薄く縁取られる。彼はビー玉を足元に落とし、ゆっくり踏みつけた。ぱ、という音。透明な殻が割れ、内側の蒸気が霧になって飛ぶ。それが合図だった。

 ザッ……ザザ……。

 空が開いた。第三波。群体は低く、連結して川面すれすれに滑る。橋の上では警備のサイレンが交差し、観光船のクラクションがくぐもる。仁菜はカメラを掲げ、西園寺の横顔にピントを合わせる。

「もう一度だけ、言って」

「……雨の夜は、なし」

 コーン……。

 鐘のような音が、どこからともなく響いた。寺院か、あるいは群体の内部に組み込まれた擬音発生器か。音は半拍ずつ遅れ、街全体に薄く広がる。群はその遅延を吸い込み、位相を乱されて速度を落とした。

 パタ、パタタ……。

 羽音がばらける。群体が、一枚の布から千の羽へと解けていく。調整所のバルブから離れた粒が、街灯の周りで踊り、やがてぷつりと消えた。


 ふぅ……。

 仁菜は、肺の奥に溜まっていた冷たい空気を吐く。雨は相変わらずだが、音が違う。さっきまで鋭かった雨脚が、古いレコードのノイズみたいに丸くなった。

「終わった?」

 高橋が、まだ疑う目で空を見ている。

「終わらせた。でも、全部じゃない。『なし』は鍵の終端。けれどもうひとつ、裏の終端がある」

「なんだって?」

「『梨』。同音異義の、果物」

 ピッ。

 宙の端末に、小さな地図が点った。川岸に沿って、街灯が偶然『梨』の文字を描く場所がある。そこにのみ、最終波が集められる。

「そこが本当の点火点」

「行くしかない」


 ザザザッ……。

 四人は濡れた街を駆けた。アーチ橋を渡ると、左の遊歩道に低い柵。川は太鼓みたいに雨を受ける。『梨』を象る街灯の列の中央に、小さな配電箱があった。扉は半分だけ開き、内側に青白い光。

 キイィ……。

 扉を押すと、箱の中には、雨燕型とは別の、古い玩具みたいなプロペラ機が三つ、互いにつながれて回っている。小さな発生器から、薄緑の火花が立っては消えた。

「これが点火?」

「点ではなく、拍。群体が集まれないとき、代わりに街そのものをメトロノームにする。『梨』の文字は、その輪郭」

「止める方法は?」

「乱す。話す。笑う。音は、意味で歪む」

 仁菜は配電箱に身を寄せ、西園寺に目配せをする。彼女はうなずき、マイクを口元へ。

「……雨の夜は、なし、でも、明日の朝は、『あり』。起きたら、傘を忘れずに」

 クスッ。

 どこかで笑いが漏れる。警備員か、橋の下で雨宿りしていた誰かか、それとも宙か高橋か。ほんの短い笑いが、音の律動にさざ波を立てた。

 チリ……チリチリ……。

 回転が崩れる。プロペラは互いの影を追い切れず、箱の縁に当たって止まる。薄緑の火花が最後の一筋を描いて消えた。

 シュー……。

街灯の光から、梨の輪郭がほどける。群体の残党は、濡れた石畳の上で小さな欠片に戻り、やがて排水溝へ吸い込まれた。


 ポツ、ポツ……。

 雨は弱まっても、夜は終わらない。高橋は濡れた髪を撫で、仁菜の肩にコートを掛ける。

「これで明日の紙面は、祝祭か」

「祝祭で、いいのかな」

「いいと書けば、いい」

「それが怖い」

 仁菜は、空の暗さよりも、指先の軽さが怖かった。見出しは短い。短さは強い。強さは、流れを作る。田口流は消えた。けれど、彼が言ったことは、雨の匂いみたいに残っていた。


 スッ……。

 暗がりから宙が紙袋を出す。中には、屋台の焼き甘栗が湯気を立てていた。

「温かいうちに。舌、治った?」

「記者生命、持ち直した」

 ポリポリ……。

 四人の噛む音が、小さな合図になった。街はまだ濡れている。ビルの窓ごとに違う夜が映り、水面には歪んだ月がいくつも揺れていた。


 そのとき、端末が震えた。仁菜は覗き込む。新しいトレンドが、静かに膨らむ。『#梨』。

 ザワ……。

 心臓が浅くざわめく。けれど、それは攻撃の符号ではなかった。タグの中身は、市民の写真と短い言葉で満ちていた。濡れた傘の列。止まった群体を、ただの雨に見立てて撮ったショット。『今夜は無事で、よかった』。

「あなた、やるわね」

 西園寺が笑う。仁菜は首を振る。

「視線が、やっと私たちを離れた。群れは、もう解散する。明日の朝、紙面は静かにいこう。『雨の夜は、なし』。そして小さく、『梨の味がした』」

「甘い見出しだ」

「甘いくらいで、ちょうどいい」


 ……カサ……カサ……。

 田口流は、いつのまにかいなかった。残ったのは、足跡も匂いもない、雨そのもの。彼が本当に煽ったのか、ただ流れを見ていたのか、確かめる術はない。けれど仁菜には、一度だけ交差した視線の温度が残っている。あれは、人間の温度だった。


 ビルの屋上に戻る頃、雲が薄く切れ、遠くに紺の綻びが見えた。西園寺は髪を束ね、マイクを外し、ポケットに仕舞う。

「政策は、数字じゃない。誰が電気をつけ、誰が消すか」

「紙面は?」

「あなたが決めて」

 仁菜は、頷いた。雨の粒がまだ頬に残り、冷たさの輪郭をくっきりと描く。

 パチ……。

 編集室のスイッチを入れる。蛍光灯がためらいがちに光り、机の上の紙束に白を落とす。彼女はキーボードに手を置いた。

「……雨の夜は、なし」

カタ、カタタ……カタ。

 その後に続ける言葉を、彼女は短くした。余白を信じることにした。群れが空へ散っていった余白。梨の輪郭が解けた余白。雨が止む前の、静かな余白。


 翌朝、首都の電車は数秒遅れて動き出し、街は何事もなかったように流れた。紙面の見出しは短く、写真は小さく、余白は広かった。誰もがそこに、昨夜の雨音を聴いた気がした。


 そして、ひとつだけ答えの出ない問いが残った。群体は、誰が起こしたのか。田口流か。西園寺か。私たち自身か。あるいは──雨か。


 ザアアア……。

 また、雨が降り出した。


(了)

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