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雨粒の拍、百年の掌で灯をつなぐ【2025/09/18】

 敬老の日の朝、医療都市トーキョウは薄い雨の膜に包まれていた。ガラス張りの歩廊を渡る足音は柔らかく、看板の角は湿度で丸く見える。空中回廊に沿って流れる電光の帯は絶えず書き換わり、「オプツネ・ルーア、非小細胞肺の治療へ国内承認」「野党、早期の総選は慎重な姿勢」「百歳越えの人数、統計で過去最多」「ハイダイ・イオニク伍、最優秀電気車に」「江戸川区で住宅六棟焼失」と順に告げていく。別の帯では、#ネプル演習、敬老の日、男子バレー、#嵐隊結成二十六年、#Aえー団の粒が、雲の明るさに合わせて脈を打った。


 真琴は、寮の窓辺で掌を合わせた。百年のあいだに覚えた朝の支度は、難しいことでなく、指先の骨をいたわるように一本ずつ起こすことだった。節は山となり、谷はやわらかく、どこにも急がない。「はるとや、今日は外の空気を吸いに行こうかね」――孫の晴斗が、いつものリュックに折りたたみの小さな傘と、祖母の薄いストールをしまい込みながら頷いた。「ばあちゃん、新しい治療の話、聞けるよ。メディクス先生が時間を作ってくれた」


 診療棟のロビーは、雨音を布に変える天井で覆われている。雫の拍は刃でなく、話し声に寄り添う。メディクス医師は白衣の袖を一折りし、椅子を二脚、同じ高さで並べた。「まず、座る高さを揃えましょう。急がずに話せます」真琴はゆっくり腰掛け、晴斗は隣でペンを握る。「オプツネ・ルーアは、頭皮に装着して微弱な場を使います。効き方には個人差がありますから、今日決め切る必要はありません。使い方や生活の工夫を含めて、何度でも相談しましょう」医師の声は一段低く、角を立てない。真琴は頷き、唇の中で短く言葉を作った。「急がず」「崩さず」「戻れる」。


 説明ののち、廊下の窓に寄ると、電光の帯が別の色合いに変わった。「百歳以上、統計で過去最多」その文字に、真琴は小さく笑う。「数の帯は冷たいようで、指の跡がつくものだよ」晴斗は「指の跡?」と首を傾げる。「ほら、あの買い物袋の持ち手の跡。持つ人が違えば跡も違う。数字も同じ」――彼女は自分の掌をひらき、窓にそっと当てた。掌の皺は雨の線に重なり、短い時間だけ、街の流れに模様が乗った。


 帰り道、回廊の下で学生たちが#ネプル演習の早押しクイズをリハーサルしている。司会役の若者が、正解のあとに必ず「どこでそう思いました?」と一拍置いて尋ねるのが、真琴には気に入った。「正しさは声より高さだねぇ」晴斗は笑い、「高さ?」と聞く。「相手の目の高さまで降りることさ。会釈の半歩分は、正解を増やす」


 昼前、江戸川区で火のニュースが帯を走った。小さな地図に赤い点。「行こう」と晴斗。健吾が連絡を寄越し、集会所で物資を募っているという。「急ぐなら、拍を整えてからだ」と真琴は言い、五つの所作を胸の内で並べた。――伸びる、踏む、回る、会釈、傘を上げる。第一拍、伸びる。視線を少し遠くへ。第二拍、踏む。踵をそっと落とす。第三拍、回る。角でぶつからぬよう半歩ひねる。第四拍、会釈。言葉の前に礼を置く。第五拍、傘を上げる。仮の屋根で弱い声に通路を作る。


 集合場所の集会室は、米の蒸気と雨の匂いで満ちていた。健吾は古いエプロンを締め、「百年先輩、待ってた」と頭を下げる。「新しい治療のこと、聞いたよ。期待は大切、でも角は丸めよう」「飴玉の包み紙で、練習済みだよ」と真琴は笑い、手拭いを結び直した。そこへ、撮影の合間を縫って来たという若い歌い手が現れた。雨合羽のフードを外し、帽子を胸に当てる。どこかで見覚えのある輪郭、#Aえー団のリーダー風だ。「名は名乗らずに手を貸します」と言う声は低く、手首の角度は舞台の礼でできていた。


 晴斗は物資の棚の前で、必要な品目を板書する。水、タオル、常備薬、携帯ラジオ。健吾は荷運びの順を決め、「重いものほど、若い肩の高いところへ」と笑った。真琴は受け取り口の前に立ち、列の人と目の高さを合わせる。「塩は少しでいい」「あら、素敵なカッパね」「ありがとうを先に」。言葉は包むと遠くに届く。包む方法は、角を丸めること。角を丸める道具は、会釈。


 雨が少し強くなり、ドアの向こうでざわめきが立った。男子バレーの昨夜の敗戦を振り返る声がテレビから漏れ、つられてため息がいくつも重なる。若いボランティアが肩を落としたのを見て、真琴は小さな拍手を二拍だけ置いた。「負けの形がきれいなら、明日の足場になるよ」声は張らず、しかしよく届く高さで。歌い手の青年が頷き、カホンの上で同じ二拍を刻む。「二歩、待つ」。リズムが、場の角を落としていった。


 小さな演奏会が始まった。歌い手は、怒鳴らず、囁かず、布の温度で言葉を取り出す。「名前を呼ぶことは、息を分けること」――真琴は微笑み、椅子に深く座った。背もたれの位置は、誰の椅子でも同じ高さ。そこに年齢差はない。椅子は「議論を低くするための道具」だと、若い頃に学んだことを思い出す。


 午後、ハイダイ・イオニク伍の電気車が集会所の前に止まり、ドライバーが誇らしげに言った。「静かでしょう。年配の方も酔いにくいんです」エンブレムは布で半分覆われ、「搬送協力」の小札が貼られている。名を掲げすぎないことは、名を大切にすることでもある。真琴はフロアに刻まれた黄色い矢印の角を親指で撫で、矢印の先が鋭く見えないようにした。「上げすぎず、下げすぎず、肩の高さ」。


 道中、街の帯は「野党、早期の総選は慎重」と流す。健吾が運転席の背に手を置き、「急がない決め事には、座る椅子がいる」と小声で言った。歌い手が頷き、「二歩、待つ」と口に出す。待つことは、弱さではなく設計だ。待つ拍があると、人の声は刺さらない。


```

江戸川区の臨時拠点に到着すると、焼け跡の匂いが薄く鼻を刺した。火は去っても、跡は言葉を選べと告げている。真琴は荷物の角を撫で、受け取り台の前に立つ。「手を貸すのが先、名前はその後」。視線を合わせ、所作を小さくし、拍を整える。晴斗は消耗品の箱を肩へ乗せ、健吾は通路を広げる線を床に描く。歌い手は、看板の掲示を一枚だけ差し替えた。「ここでは、大きい声を使わない」。板の端は丸い。

```


 夕刻、雨脚は弱まり、雲が薄く切れた。広場で小さな灯の式が始まる。そこに、真琴の古い友も、見知らぬ若者も、近所の子も、ボランティアも集まる。歌い手は楽器を置き、素の声で言った。「忘れないは、分けること」。誰かがそれを繰り返し、別の誰かが胸の高さで頷く。真琴は手帳を取り出し、今日の頁の上にその一行を書いた。そして、その下に五つの点を打つ。伸・踏・回・礼・傘。


 ふと、晴斗が耳打ちする。「ばあちゃん、医師に送る質問をまとめたよ。『急がず』『崩さず』『戻れる』の三つを中心に」真琴は頷き、「それに、椅子の高さを忘れないこと」と付け加える。医師からの返信はすぐに届いた。「承知しました。同じ高さで座りましょう。屋根と拍は、こちらで用意します」。


 夜、集会所からの帰途、回廊の窓に#嵐隊結成二十六年の映像が流れた。画面の中の青年が「歳の重みは歩幅の知恵」と言い、観客は大声でなく、肩の高さの拍手を送る。真琴は微笑み、「きれいな歩幅」と呟く。晴斗は頷き、「きれいな歩幅なら、長く歩ける」と返す。


 寮へ戻ると、玄関前の小さな掲示板に「明日の在り方、相談会」の紙が貼られていた。野党の議員と地域の世話人が来るらしい。真琴は紙の角を指で丸め、晴斗は開始時間の下に鉛筆で小さく「二歩、待つ」と書き添えた。掲示板の前を通る人の足取りが、ほんの少しゆっくりになる。


 寝る前、真琴は机で手紙を書いた。宛先は若い頃に一緒に働いた友人の娘へ。「新しい治療のこと、急がず考えます。選ぶのは私、支えるのは周り。あなたの町の火のことも耳にしました。こちらでは、角を丸めた箱が何個も行きました。いつか、そちらにも礼を返します」。言葉の角は丸く、しかし芯は強い。


 晴斗は縁側で、小さなAR灯を点けた。灯は指の軌跡に反応し、五つの所作の輪郭を描く。彼はそれを祖母の掌の上にそっと浮かべ、「ゆっくりでいい」と言う。真琴は頷き、灯の中の仮の屋根に指を触れた。屋根は揺れず、夜の呼吸を受け止める。


 窓の外、回廊の帯は「世界陸祭、地元選手がメダル」と告げた。肩の高さで振られた小さな旗が、雨に濡れずに光る。真琴は掌を空へ向け、二文字の骨をそっと浮かべる。約束。骨は細い。風が変われば消えるほどに細い。だから、所作で支える。伸びて、踏んで、回って、礼して、屋根をかける。


 灯を消す前、晴斗はもう一度だけ問う。「ばあちゃん、怖くない?」真琴は笑い、「怖いよ。でも、怖さは一人で持たない」と答える。「半分持って」と晴斗。真琴は頷き、彼の手を握った。握った手の温度が、今日の拍を明日へ渡す。


 翌朝に備えて、寮のラウンジでは小さな準備が続いた。健吾がホワイトボードを持ち込み、四つの項目を書き出す。「治療」「暮らし」「地域」「火」。それぞれの下に、誰でも書き込める余白を作る。歌い手は音響を持たず、紙の歌詞を束ねる。「今日は歌わないかもしれない。でも、歌える準備だけはする」準備は、恐れを小さくする。


 メディクス医師も少しだけ顔を出し、長机の脚にフェルトを貼った。「椅子の高さは揃っているか」「揃っています」と健吾。医師は笑い、「拍の用意も」と言って、紙に五つの点――伸・踏・回・礼・傘――を描いて壁に貼る。「議論の前に拍を決める。これがうちの科の流儀です」誰かが小さく拍手をしたが、音は刺さらず、布のように場を温めた。


 そのとき、回廊の帯が「江戸川区・復旧作業、地域連携へ」と光った。画面の隅には、昨夜の拠点で見かけた丸い掲示板が映り、「大きい声を使わない」との文字が読めた。真琴は胸の奥で何かがほどけるのを感じ、「行ってよかった」と呟く。晴斗は頷き、「戻っても、続けよう」と返す。戻れることは、勇気になる。


 相談会が始まると、野党の若い議員が一番低い椅子に座った。名を大きく言わず、まず礼を置く。「急いだほうがいいことと、急がないほうがいいことを、いっしょに分けたい」その声に、年配の人が頷き、若い人が鉛筆を走らせる。誰かが「在り方検討では遠い」と言うと、議員は「在り方設計」と書き直した。設計は、拍を置き、椅子を揃え、道に屋根をかけること。言い換えひとつで、会場の空気はふっと軽くなる。


 歌い手は終始、名を呼ばれない位置にいた。相談が一段落したとき、彼は初めて前に出て、たった二行だけ歌った。「忘れないは、分けること。分けるは、渡すこと」歌は短く、しかし遠くに残る。真琴は目を閉じ、その二行を手帳に移した。


 散会ののち、誰もいない回廊で、晴斗が祖母に問いかける。「ばあちゃん、『戻れる』って、どうやって作るの」真琴は考え、「印を残す」と答えた。「角の丸い印。ここに戻って来られる、と身体が覚える印」彼女は床の点字ブロックの縁をそっと撫でる。触れた指の記憶は、明日の足を導く。


 夕暮れ、空はまだ薄く濡れている。#Aえー団のポスターが風に揺れ、下には小さな字で「庇の下で集合」とある。名は大きく、集まりは低く。真琴はそのバランスにうなずき、「名を掲げる強さと、名を隠す礼は、両輪だね」と晴斗に言う。彼は笑い、「両輪なら、長く走れる」と返す。


 夜、窓の外の帯は「百歳越え、過去最多」の見出しをもう一度だけ流した。真琴は静かに立ち上がり、窓の外の薄い屋根へ会釈を置く。「百は、大きいけれど重くないよ。百は軽い点が百個」。彼女は掌を空へ向け、指で小さな円を描いた。点は拍となり、拍は屋根を持ち上げる。


 最後に、真琴は机の上でストールをたたみ、角を丁寧に丸めた。晴斗はその手を見つめ、ゆっくり息を合わせる。「ばあちゃん、明日も、拍から始めよう」「そうだね。拍から始めれば、怖さは半分になる」ふたりは灯りを落とし、窓の外に薄い屋根の残像を見た。屋根の下で、今日の言葉が小さく息をする。


(了)

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