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氷の海に響く鼓動【2025/01/20】

 リクが暮らす街は、長く続く氷の時代を迎えようとしていた。きっかけは世界規模で発生した「記録的寒波」だった。当初は「一時的な異常気象」程度と考えられていたが、瞬く間に広がった寒冷化の波はやがて人々の生活基盤を根こそぎ揺るがし始める。気温は昼間でも氷点下を割り込むことが当たり前になり、電力供給の安定も危うくなる。経済や産業は打撃を受け、食料生産や物流は停滞し、人々は寒さに耐える術を必死で探し求めていた。そんな時代の中で、リクは家族と共に小さなアパートで何とか生活している青年だ。


 彼の住む街はかつて工業地帯として栄えたものの、寒波の影響で工場が稼働しなくなり、多くの人々が仕事を失った。家庭用の暖房も燃料不足や電力不足に悩まされ、真冬の夜などは毛布を何重にも重ねなければ眠れないほどの寒さが常態化している。街の人々は皆一様に、「あと数年もこの寒波が続けば、ここではもう暮らせなくなるのではないか」と不安を抱えていた。


 しかし、そんな中でも希望がゼロではないと囁かれていた。それが、軍事や極地開拓で使用される最新技術を民生転用した防寒着「スマートヒートベスト」である。既存のヒートテックや一般的なバッテリー式のヒーターウェアとは一線を画し、周囲の温度差からエネルギーを回収し、そのまま保温に変換できる革新的な装置を搭載している。けれども、その実用モデルは非常に高価で、一般には普及していない。リクが運良く手に入れられたのは、妹の病気を治すための治験プログラムに協力した際、副産物的に試作品の提供を受けたからだった。


 リクが暮らすアパートでは、小さな子供も含めて家族が六人いる。特に妹は体が弱く、過酷な寒冷環境ではすぐに体調を崩すため、ヒートベストは妹に譲るべきかとも思った。だが、妹自身は「お兄ちゃんが外で働いて、私たちの食料や薬を手に入れてきてくれないと、私も生きていけない」と強く主張した。そこで家族会議の末、ヒートベストはリクが着用して外を動き回り、必要な物資を集めるために活用するという結論に落ち着いた。それからリクは、凍える大気の中を自らの足で駆け抜け、何とか家族を守ろうと奔走する日々を続けている。


 ある晩、リクは母親から重大な話を聞かされる。それは「流氷の中に眠る『永遠の熱源』を探し出してほしい」という、まるで伝説のような依頼だった。母親は昔、祖父から「遥か極北の流氷の奥には、世界を暖めるほどの神秘的な熱の結晶がある。それさえ見つかれば、寒波に苦しむ人々を救えるかもしれない」という夢のような話を耳にしていたという。もちろんそれが真実なのか、あるいはただの昔話なのかは定かではない。だが、事実として世界中の研究者たちが「氷の海のどこかに新たなエネルギー資源が眠っている」と予測を立てていたのも確かだった。近年、地球規模での環境変動が激化する中、「海底下のメタンハイドレート」や「未知の超高温鉱物」などが存在するのではないかと注目されていたのだ。


 リクは悩んだ。何か月もかけて極寒の海を渡り、実在するかも分からない「永遠の熱源」を探すなど、常識的には無謀でしかない。しかも貴重なヒートベストは、たった一着きり。もし自分が旅立てば、家族を今の環境に置き去りにすることになる。それでも母の瞳に宿る切実な思いと、「このままでは家族も街もじり貧になっていくだけ」という現実を見せつけられ、リクはついに意を決した。「俺がやるしかない」と。


 数日後、リクは最低限の食料と道具をリュックに詰め込み、ヒートベストを身に着けて、夜明け前の薄闇の中を出発した。妹が渡してくれたのは、小さな護符のような手作りのお守りだ。リクはそれを胸ポケットにしまい込み、「必ず帰ってくるよ」と言い残して家を出る。行く先は、北の方角に広がる氷の海。地元の漁師さえも、今は危険すぎて出港を諦めているエリアだという。そこに行くには、そもそも船をどう確保するかという問題が立ちはだかる。リクは街の外れの港湾地区へ向かい、知り合いの船乗りを探すことにした。


 港湾地区は荒廃していた。かつては漁や貨物船の往来で賑わった場所も、寒波で大半が閉鎖され、残っているのは朽ちかけた桟橋や錆びたコンテナの山ばかり。それでもリクは踏みしめる雪の上に残る人の足跡を辿りながら、わずかな望みをかけて桟橋を歩いた。すると、一隻だけ小型の船が停泊しているのを発見した。その船の近くで、工具を持って船底を修理している小柄な女性がいる。彼女は船長なのだろうか。リクが声をかけると、相手は振り返って「お兄ちゃん、こんな時代に船に乗ろうなんて正気かい?」と苦笑した。


 その女性こそがアイリだった。実は彼女は、幼い頃から海や自然との共存を夢見ており、寒波が本格化する以前から各地の海を巡り、環境調査に携わっていたのだという。だが、寒波の影響が深刻化するにつれ、研究を続けるための資金も減り、仲間たちも去っていった。それでもアイリは諦めず、唯一残ったこの船を修理しつつ、いつかまた航海に出られる日を信じていた。「あんたはどうしてこんな時代に、しかもこんな北の海へ行きたいわけ?」と問われ、リクは自分の事情を簡潔に説明した。


 アイリは「永遠の熱源」の話を聞き、眉をひそめながらも興味を示した。「そんなものが実在するなら、自然界の摂理を大きく変えかねない。逆に言えば、正しい形で活かせれば、人間と自然が新しいバランスを見いだす可能性もあるかもしれない」と。彼女はかつて学者として、自然破壊の現状と、人間が自然とどう向き合うべきかを研究していた。だからこそ、リクの話にただのロマンではない意義を感じたのだろう。しかし同時に、「もしその熱源が強大すぎる力を持っていたら、人間の身勝手な利用で大きな環境破壊を招くかもしれない」という懸念も捨てきれない。アイリにとっては賭けだが、行かずにはいられない理由があるという点では、リクと似通う部分があるのかもしれない。


 アイリは最終的に、「船を動かすにはまだ修理が必要だし、寒波のせいで燃料も足りない。でも、それでもいいなら協力する。私は自然の声を聞きたいし、海の声を聞きたいの」と言った。こうしてリクは思いがけず、同行者を得ることになる。街に戻って準備をする時間はない。というより、戻れば家族に引き留められるかもしれず、自分自身の決意が揺らぎかねない。リクはアイリと力を合わせて、船を修理し、わずかに残った燃料をうまく再利用しながら、出港の準備を急いだ。


 数日後、天空から雪が降りしきる薄曇りの朝。まだ暗さが残る海面に、小さな船が音を立てて動き出す。アイリは舵を取りながら、エンジンの異音がないか耳を澄ませている。リクは甲板から岸を振り返った。遠くに見える街には、家族がいる。彼らを守るため、この旅は一歩も引き返せない。ヒートベストはしっかり稼働しているようで、むき出しの顔面こそ寒風に刺されるが、体はある程度暖かい。これなら何とかやっていけるだろうと自分に言い聞かせた。


 船が北へ向かうにつれ、海面はところどころ巨大な氷塊で塞がれるようになる。アイリはかじかむ指先で舵を操作し、氷と氷のわずかな隙間を縫って船を進めた。まるで見えない迷路を進むような感覚だ。時々エンジンが氷塊にぶつかる音が聞こえるが、何とか踏みとどまっている。リクは船首に立ち、前方の状況を見ながらアイリに声をかけて誘導する。猛々しい冬の海は、静寂でありながら、得体の知れない力を秘めているようにも感じられた。


 やがて大きな氷山のようなものが視界に入る。そこは海上に突き出した白い壁のようで、周辺の空気がさらに冷たく感じられる。船の動きが一瞬、停止したかのように錯覚する。リクは甲板から双眼鏡を覗き込んだ。氷の壁にはひび割れや穴があり、その奥にまるで洞窟のような空間が続いているらしい。「あそこから先へ行くには、もう少し近づかなきゃダメだな」とリクが言うと、アイリは「氷の下に何があるかもわからないよ。気をつけて進もう」と慎重に応じた。


 近づいてみると、巨大な氷壁の表面はまるで生き物の鱗のような模様を描いていた。ひび割れの線がどこか規則正しく見えるのだ。リクが思わずその氷壁に手を触れると、ヒートベストのセンサーが微かな振動をキャッチした。どうやらこの氷壁そのものが、何らかのエネルギーを帯びている可能性がある。アイリも船を岸壁に固定し、あたりを見回す。「こんな氷塊ができるなんて、自然の力はすごいね。だけど、ただの氷じゃないかもしれない」と呟く。すると、その言葉に呼応するかのように、遠くのほうで重々しい音が響いた。ゴゴゴ……という地鳴りのような振動が、足元から伝わってくる。二人は一斉に目を見合わせ、何かが近づいていることを悟った。


 次の瞬間、氷の壁の奥から巨大な白い影がゆっくりと姿を現す。それは、氷を纏った獣のようでもあり、かといって魚のようにも見えた。全身が氷の外皮で覆われ、光の加減で青白く輝いている。まるで地球の古代に棲息していた怪物か、あるいは自然の神が顕現したかのような恐ろしい姿だった。その生物はどろりとした目でリクたちを見据え、低いうなり声を発する。リクは思わず後ずさり、アイリも息を呑んだ。ここまでの寒波による環境変化で、新たに生まれた生態系なのだろうか。それとも、人間が自然を破壊してきた歴史の中で生まれ落ちた、怒りの化身なのか。


 生物の視線がリクのヒートベストに向けられているように感じられた。まるで「おまえが持ち込んだ人工的な熱」を敵視しているようだ、とリクは直感的に思った。次いで、その巨大な氷の生物は、一瞬にして氷壁を崩しながら突進を開始する。轟音と共に粉雪が舞い上がり、リクとアイリは慌てて船に戻ろうとするが、あまりに動きが速い。「やばい、船ごと潰される!」とリクが声を上げる。アイリも「ここで捕まったら終わりだ!」と焦りながら操縦席へ飛び込み、急いでエンジンをかけようとするが、氷の破片が船の甲板に乗り上げてバランスを崩させる。グラリと揺れた瞬間、リクは雪と氷の混じった水中に落ちかけた。


 その時、奇妙な衝撃波が空気を裂き、氷の生物は動きを止めたかのように見えた。視線を向けると、アイリが手に持っていた小型の信号弾のようなものを放ったらしい。それは研究用に作られた音波発生装置で、特定の周波数を発して海洋生物を威嚇する仕組みがある。アイリは「ここを抜けるしかない!」と叫び、船のエンジンが再び轟音をあげた。氷の生物が再び襲いかかろうとする直前、船は氷塊の隙間から必死に抜け出すように進む。船底を軋ませながら、何とか海面に出たときには、全身が冷や汗と寒気で震えていた。


 その日を境に、リクとアイリは「自然を破壊した人間への怒りを象徴する巨大な氷の生物がいる」という現実をまざまざと思い知らされる。アイリは推測する。「もしかしたら、あの生物は極地で生まれた新たな生態系の頂点にいるのかもしれない。人間が勝手に自然を変えた結果、こうした存在が出てきたのだとすれば、単純に倒すとか追い払うとかでは解決しないだろう」と。リクも同意はするが、一方であの生物を放置すれば「永遠の熱源」に辿り着くことはほぼ不可能だ。二人は「いかにして自然と共存しながら、目的を達成するか」という困難な課題を抱え込むことになる。


 幸いにも、アイリが出港前に積み込んでいた装備や資料の中には、海洋生態系の調査機器や、音波や磁場などを利用して生物の行動パターンを把握するための簡易センサーがあった。二人はあの巨大生物に再遭遇する可能性を考え、できる限りのデータを取ろうと決める。海上で進みつつ、氷山や流氷に潜む生物や気象変化を観測する日々が続いた。リクはスマートヒートベストで体温を守りながら、甲板で氷の欠片を採取したり、時にドローンを飛ばして周囲を偵察したりもする。アイリは操舵だけでなく、研究者としての視点を活かし、採取した資料を分析し続ける。


 やがて、旅の途中でリクとアイリは「漂流集落」と呼ばれる不思議な場所に辿り着く。そこは、氷塊の上に小さな小屋やテントが点在し、人々が集団生活をしているようだった。聞けば、世界的な寒波で故郷を失った人々が、移動式の氷上集落を作り、定住地を求めて少しずつ移動しながら暮らしているのだという。船が接近すると、集落のリーダー格の老人が出迎えてくれた。リクたちはそこで燃料の補給や食料の交換を申し出る。老人は冷ややかな顔を見せつつも、リクのヒートベストを見て「なるほど、あんたは新しい技術を持ってるんだね。うまく使えれば、ここの寒さをしのぐ助けになるかも」と関心を示した。


 漂流集落には子供たちもいて、寒さに震えながらも笑顔を見せている。その姿を見て、リクはかつて自分の街で見た光景と重ね、胸が痛んだ。自分は家族を守るためにここまで来たが、世界にはまだ数えきれないほどの人々が、この極寒の中で苦しんでいる。もし「永遠の熱源」を見つけられれば、こうした人たちも救えるのではないか。しかし同時に、それが自然や生態系を破壊する引き金になるなら、本末転倒だ。漂流集落で聞いた話によれば、以前、別の探検隊がこの辺りに訪れ、「新資源を見つけて大儲けする」と言って勢いよく出発したが、結局帰ってこなかったらしい。氷山で船を破壊されたのか、あるいはあの巨大生物に襲われたのか――誰にも分からないという。


 アイリは漂流集落の人々との会話から、「この辺りでは、巨大な氷の化身を『ブルーサーペント』と呼ぶ風習がある」ことを知る。ブルーサーペントは怒りの象徴であり、人間が手に負えぬ自然の復讐だとも伝えられていた。リクは、その話を聞いて思わず息を呑む。先日目撃した氷の生物こそ、そのブルーサーペントなのだろう。「ブルーサーペントがいる限り、流氷の奥に眠る熱源には誰も近づけない」というのが、集落の人々の共通認識だった。しかしアイリはただ悲観するのではなく、「あの生物がなぜ人間を襲うのか、そこに何か理由があるかもしれない」と鋭い視点を口にする。


 漂流集落を後にし、再び北へと向かったある夜。リクは船の操縦を交代で担い、アイリは船室でデータ解析を行っていた。空にはオーロラにも似た冷たい光が揺らめき、不気味なくらいに静寂があたりを包んでいる。リクはヘッドライトの先を見つめながら、この先に何があるのかを考えずにはいられなかった。家族を救いたい一心でここまで来たが、ブルーサーペントの脅威や、いつ海が凍り付いてしまうかもしれない危険と隣り合わせだ。一度街に戻って体制を整えたほうがいいのでは――そんな迷いがよぎったとき、船の前方でまたしても例の低いうなり声が聞こえた。


 闇の中から姿を現したのは、言うまでもなくブルーサーペントだった。今度は突然の奇襲ではなく、ゆっくりと距離を詰めるように船に近づいてくる。まるで「ここは俺の縄張りだ」というように示威行動をしているのかもしれない。リクは咄嗟にエンジンを切り、アイリにも声をかける。「動いたらまた攻撃されるかもしれない。静かに、相手を刺激しないようにしよう」。アイリも船室から甲板に出てきて、望遠カメラを手にそっとブルーサーペントを観察した。


 驚いたことに、ブルーサーペントは攻撃の構えを見せず、海面に大きな身体をゆらりゆらりと揺らしながら、一種の唸り声のような音を発している。それは荒々しい音に聞こえるが、どこか哀しげな響きもあった。アイリはカメラのシャッターを切りながら、「もしかして呼吸音なのかも。それにしても、なんだか苦しそうに見える」と呟く。そして気づいた――ブルーサーペントの一部が変色して、氷の外皮がひび割れているではないか。まるで負傷しているように見えるのだ。しかも、そこからは黒ずんだ液体のようなものが滲み出していて、ブルーサーペントはそれを拭うように時折体を水中に沈めている。何か外因による傷を負っているのだろうか。


 アイリが解析装置を取り出し、その液体の化学成分を遠隔でスキャンしようと試みる。数値の断片から判断するに、それは工業性の汚染物質の可能性があった。寒波により海上輸送路が乱れ、古い燃料タンクが流出していたり、あるいは廃棄された化学物質が海底から流出しているのかもしれない。もしそうなら、ブルーサーペントは自然の力だけでなく、人間の汚染によっても苦しめられているということになる。リクは唇を噛んだ。「俺たちは自然を守るどころか、こんな怪物まで生み出して、さらに傷つけてるんだ」と。アイリも同じ思いで、「何とか手当てをしてあげられないかな」と呟くが、相手は巨大な生き物だ。迂闊に近づけば命の保証はない。だが、このまま見過ごせば、ブルーサーペントの怒りと苦しみは膨れ上がる一方かもしれない。


 悩んだ末に、二人はある作戦を立てる。船に積んでいる研究用の装置の中には、汚染水を中和するための試薬が少量だがあった。さらにアイリが持つ音波装置を使って、ブルーサーペントを一時的に眠りに近い状態に誘導できないかを試してみる、というのだ。アイリは「危険な賭けだけど、何かしら関わりを持たない限り、あの生物との共存は永遠に不可能だと思う」と言う。リクも半信半疑だったが、「まずは動物を保護するつもりでやってみよう。敵か味方かは、その後で相手が決めることさ」と腹をくくった。


 翌朝、二人は計画を実行する。ブルーサーペントがゆったりと泳いでいる隙を狙い、アイリが音波装置を調整しながら低周波を発信する。人間には聞こえない特殊な周波数は、生物の脳波を緩やかに抑制し、リラックス状態に近づける効果があるという。はたして、この巨大な氷の化身に通用するのか――結果はすぐには分からない。海上にしばらく静寂が訪れ、ブルーサーペントは不思議そうに体を揺らす。そして、少しずつ動きが緩慢になっていったかと思うと、大きく息を吐き出したように背中の氷を震わせ、やがて海面に浮かぶような姿勢になった。


 そのタイミングを見計らい、リクは小型ボートに試薬を積んで近づく。万一覚醒して暴れ出せば、ひとたまりもない。それでもリクはヒートベストを最大稼働させ、寒風に耐えながらボートを漕いだ。ブルーサーペントの横腹近くまで行くと、その外皮のひび割れから黒い液体がまだ漏れ出している。そこでリクはスポイト状のノズルで試薬を注ぎ、中和を試みる。劇的な変化が起きるかは分からないが、汚染物質を少しでも抑えることで痛みが和らげば、ブルーサーペントが暴走する可能性も減るだろう。作業を続けていると、思いのほか静かなままのブルーサーペントが、重々しく呼吸を繰り返しているのが感じられる。リクはその巨大な体にそっと手を触れてみた。氷で覆われた鱗のような表面は驚くほど冷たく、同時にかすかな鼓動の振動が伝わってくる。まるで地球そのものの心臓に触れているような、不思議な感覚だった。


 しばらくして試薬の投入を終え、リクはボートを戻そうとした。しかしその瞬間、ブルーサーペントの眼がかっと見開き、大きな咆哮を上げた。音波装置の効果が切れたのか、それとも痛みを感じたのか――凄まじい衝撃で、リクはボートごと水中に投げ出される。アイリが船の上で叫ぶ声が聞こえるが、リクは氷冷たい海水に呑まれ、必死で水面を目指して泳いだ。ヒートベストがなければ、この低温で数分も持たないだろう。やっとの思いで顔を出すと、ブルーサーペントの体がうねり、氷塊を吹き飛ばす。船に激突する寸前に、アイリが操縦桿を引いて回避するが、船底をかすめる衝撃が伝わる。何とか致命傷は免れたようだが、このままでは二人とも海の藻屑にされかねない。


 すると、ブルーサーペントは大きく口を開き、空気を震わせるような鳴き声を響かせた。その表情は先ほどまでの怒り一辺倒ではなく、何か別の感情が混ざったように見える。痛みか、あるいは驚きか、言葉では表せないが、リクはその瞬間「もしかして、完全に敵意を持っているわけじゃないのでは」と感じた。大きく手を振るリクを見て、ブルーサーペントは海面に尾を叩きつけ、しばしの静寂の後、ゆっくりと体を沈めていった。海面から姿を消すとき、その巨体が作る水流がリクたちの船を揺らすだけで、追撃してくる様子はない。


 リクがボートから這い上がり、船へ戻ってみると、アイリは震える声で「生きてた、よかった……」と安堵していた。船の損傷は軽微で動力は生きているようだ。ブルーサーペントが再び現れる気配はない。試薬が効いたのかどうかは分からないが、何らかの変化があったことは確かだろう。リクは寒さに震えながら、「もう少しで本当に死ぬかと思ったよ。でも、あの生物……もしかしたら僕らを完全に排除するつもりはないのかもしれない」と呟いた。アイリもうなずく。「自然との共存って言うけど、そんなに簡単なことじゃないね。あれは大自然の意思そのものみたい。私たちがどう行動するか、試されている気がするよ」


 そこからさらに北へと進むにつれ、夜空には一層煌びやかなオーロラが広がり、流氷の山々が連なる幻想的な景色が見え始めた。その中心部にあたる大きな氷床の下に、「永遠の熱源」が存在するという言い伝えがある。海洋調査や地質解析の地図によると、この一帯は地殻変動によって海底火山が活発化しているらしく、超高温のマグマ溜まりが隠れているかもしれないという仮説がある。リクはそれこそが、祖父の言葉にあった「世界を暖める力の源」なのではないかと思い始めていた。


 とはいえ、実際にマグマの熱を直接利用できるほど、技術は単純ではない。しかも氷床を一度に溶かせば莫大な水量が流れ出し、周辺の生態系に甚大な影響を与える可能性がある。アイリも「この力をどうコントロールするかが問題だよね。もしうまく安定的に引き出せれば、世界中の寒さを和らげるエネルギー源になる。でも、もし暴走したら……」と、深い不安を隠せない。まさしく諸刃の剣だ。しかしリクは、「だからこそ、ただ見つけるだけじゃなく、自然と調和する形で扱わなきゃいけないんだ。ブルーサーペントがそれを監視しているのかもしれない」と考えをめぐらせる。


 ほどなくして、船は巨大な氷塊の一部にぶつかって停止を余儀なくされる。そこから先は完全に海が凍結し、船では進めない。アイリは流氷を割って航路を作ろうにも、あまりに分厚くて不可能だと判断する。そこで二人は思い切って船を放棄し、氷床の上を徒歩で進むことにした。もちろん、そのための装備は簡単ではないが、アイリが持っていた雪上移動用の小型ソリや、スパイク付きのアイゼン、予備の燃料などを活用すれば、ある程度は移動が可能だろうと踏んだのだ。


 極寒の大地を歩き始めて数日、リクのヒートベストがなければとっくに命は危うかっただろう。アイリは防寒服を何重にも重ね着しながら、自作の携帯ヒーターを腰に装着している。夜になると極度に気温が下がるため、テントを張り、風雪をしのぐ。食料や水は限りがあるが、氷を溶かして飲料水を確保しながら慎重に進む。真夜中にはオーロラが空一面に広がり、それは美しくもあり、同時にこの大自然の苛酷さを誇示するようにも見えた。


 そして、長い行軍の末、ついに二人は雪に閉ざされた氷床の奥深くで、奇妙な裂け目を見つける。それは自然にできたクレバスのようだが、底のほうからほんのりと赤みを帯びた光が漏れ出している。リクはその光景を見て、胸が高鳴る。「もしかして、あれが『永遠の熱源』の入り口かもしれない」と。アイリも熱源探知センサーを起動させ、「確かに地下に強い熱源がある。たぶんマグマ溜まりに近いんだと思う。でも、この深さだと洞窟みたいになってるかもしれない。足を滑らせたら戻れないよ」と警告する。


 二人はロープで体を繋ぎ、慎重に氷の裂け目の内部へ下り始めた。足場は脆く、時折氷の塊が崩れ落ちる音が空洞に響く。ヘッドランプの明かりで周囲を照らすと、氷の壁面に赤や青の結晶が付着していて、まるで宝石の洞窟のような輝きを放っている。そして奥へ進むごとに、体感温度が少しずつ上がっていくのを感じる。ヒートベストのモニタを確認すると、外気温は依然として氷点下に近いが、足元からわずかに熱が伝わってきているようだ。さらに進むと、薄い水蒸気が立ち込め、息苦しささえ覚える。マグマの熱が、地表近くまでせり上がっているのだろうか。


 突き当たりに近づいた頃、広い空間が開けた。そこは氷と岩が混じり合った巨大なドームのようになっており、中央付近から赤橙色の光がゆらめいている。リクとアイリが恐る恐る近づくと、そこにはまさに言葉にならない光景があった。地熱の噴気孔があちこちにあり、熱いガスが吹き出している。その周囲には氷が溶けて形成された透明な水たまりがいくつもあり、まるで温泉のように湯気が立ち上っているのだ。そして何より、その中心部には巨大な結晶体が鎮座していた。半透明で淡い紅色の結晶は、内部で小さく脈動しているかのように見え、まるで生きている心臓のようだ。


 アイリが計器をかざすと、圧倒的な熱エネルギー反応を示している。この結晶から、膨大な放射熱がじわじわと空間全体を温めているのだ。リクは息を飲む。「これが……永遠の熱源……?」。確かに、ここにある熱だけで、この巨大洞窟は極寒から完全に切り離されたような状態になっている。しかし、もしこれを無制限に外部に開放すれば、一気に大量の氷や海水が溶け出し、環境バランスが崩壊する可能性だってある。リクは思う。「慎重にコントロールする方法がなければ、ただの破壊に終わるかもしれない」


 そのとき、背後から水飛沫と共に低い唸り声が聞こえた。振り返ると、そこにブルーサーペントがいた。どうやってこの奥まで潜り込んだのか、想像を絶するが、その体には以前のような苦しみの気配はあまり感じられない。むしろゆったりとした動きで、洞窟の天井近くに身を寄せ、その巨体をドーム空間に沿わせるようにしている。そして再び、あの哀しげとも威嚇ともつかない鳴き声を上げ、リクたちを見下ろした。アイリは声を潜めて言う。「やっぱり、あの子がこの熱源を守っているのかもしれないね。人間がみだりに手を出さないように」


 リクはしばらく黙ったあと、そっとブルーサーペントに向けて両手を広げる。「傷は……大丈夫か?」と声に出しても、言葉が通じるわけではない。しかし、不思議なことにブルーサーペントの目には鋭い敵意が見られない。重い呼吸を繰り返しながら、リクたちの様子を窺っているようだ。リクは荷物から試薬の残りを取り出し、ゆっくりと示す。「もう僕たちは、君に危害を加えるつもりはない。この熱源が欲しいのは事実だけど、それで世界を壊したくはないんだ」


 するとブルーサーペントは、大きく体をうねらせて氷の壁に頭をあずけるように横たわった。まるで「ここを通りたければ、自然を守る意志を示せ」とでも言うように。アイリはリクと目を合わせ、「私たち、どうする?」と問う。リクは意を決し、巨大結晶の前まで歩を進める。そしてスマートヒートベストのシステムを起動し、結晶に触れるわけではなく、ごく近くでセンサーを当てる形を取った。ベストに搭載された温度差エネルギー回収機構が、この強大な熱源からエネルギーを部分的に吸収し、内部バッテリーに蓄え始める。ベストに大きな負荷がかかり、警告メッセージが何度も表示されるが、リクは焦らず慎重に制御していく。


 実験的ではあるが、もしこのベストの技術を応用すれば、大規模な設備を使わなくても、ごく一部の熱を段階的に回収し、それを街や人々の暮らしに届けられるかもしれない。人間が一気に熱源を奪い取ろうとすれば、ブルーサーペントやこの洞窟の生態系を破壊し、さらには世界規模の環境破壊につながる恐れがある。だからこそ、少量ずつでも持続的に活用する道を探るしかない。アイリは感嘆の表情を浮かべ、「これなら、自然と共存しながら熱エネルギーを得られるのかもしれない。もちろん難しいバランスをとることになるけど、やってみる価値はある」


 最初のエネルギー回収が終わると、リクはヒートベストに十分な熱が蓄えられているのを感じた。この熱を持ち帰れば、街の人々や漂流集落の仲間たちに希望を示せるだろう。もっと大きな仕組みを作れば、家族を救うことも夢じゃない。だが、同時にこの場を離れることへの後ろめたさや、ブルーサーペントに対する感謝の念が湧き上がる。リクは結晶に手を振り、静かに頭を下げてから引き返した。ブルーサーペントは何も言わず、ただその瞳で二人を見送っている。


 洞窟を出たとき、外の空はあいかわらず極寒の白銀世界だった。しかし、リクの胸には先ほどまでの寒さとは違う温かさが灯っている。アイリも微笑んで、「自然を傷つけずに生きる道って、簡単ではないけど、見つけたら大きな力になるんだろうね」とつぶやく。もう一度ブルーサーペントと対峙することがあるかもしれない。でも、そのときは敵同士ではなく、共存を確かめ合う存在でありたいと願うばかりだ。


 帰路は決して楽ではない。氷の海を再び渡らなければならないし、あの生物が本当に攻撃をしてこない保証はない。しかし、驚くべきことにブルーサーペントは遠巻きに二人を見守るだけで、妨害する気配はなかった。むしろ、時折その巨体で氷塊を押しのけ、進路を開けるような動きさえ見せる。アイリは笑いながら、「まるで道案内でもしてくれているみたい」と言った。リクも同感だった。人間が自然に手を差し伸べるとき、自然もまた応じてくれるのかもしれない。もちろん、それまでに多くの過ちがあったことは事実だが、だからこそ未来へ向けて態度を改める必要があるのだろう。


 そうして幾日もの艱難辛苦の末、リクとアイリは出発地の近くの港湾地区へ戻ってきた。寒波は依然として街を覆っているが、リクのヒートベストは新たに得たエネルギーを発揮し、家族のもとへ熱を分け与えることができる。アイリは研究データをまとめながら、新しいプロジェクトを起こすべく動き始めた。それは、「自然から持続的に熱を回収し、人々の生活を支える仕組みを作る」という壮大な計画だ。もちろん、実現へのハードルは高い。政治的な課題や技術的な困難も山積みだろう。けれど、氷の海で遭遇した出来事が示すように、諦めなければきっと可能性は拓けるはずだ。


 リクの家族は、彼の無事な姿を見て安堵し、そして彼が持ち帰った熱の手がかりに驚嘆した。まだ実験的なレベルではあるが、このエネルギーをうまく展開すれば、寒波に苦しむ多くの人々を救えるかもしれない――そんな光が射し込む。妹はリクに抱きつき、「お兄ちゃん、本当におかえり」と泣きながら笑顔を見せる。リクはその額をそっと撫でながら、「ただいま。これからが本当の戦いだけど、みんなで乗り越えていこう」と答えた。


 街の人々にも、彼のヒートベストに蓄えられた新たなエネルギーの噂はあっという間に広がった。「本当にそんな奇跡のような熱源があるのか?」「危険な怪物がいるんじゃないのか?」と半信半疑の者も多い。それでも、ひとかけらの可能性に心打たれ、支援を申し出る企業や団体も現れ始める。一方で、かつてのように自然を顧みず、ひたすら利益を追求しようとする者がいるかもしれない。リクとアイリは、そこが最大の懸念でもあり、絶対に間違った使われ方はさせたくないと強く思う。「自然を破壊しない。あのブルーサーペントとの約束を破ることは、私たちの未来を壊すことでもあるんだ」と。


 夜になり、リクはアパートの屋上に立つ。寒空の下でもヒートベストは柔らかい熱を放ち、彼の体を守ってくれている。見上げれば、星々の合間にかすかに揺れるオーロラらしき光が見えた。かつてはこんな低緯度でオーロラなど見られるはずもなかったが、寒波と共に気象現象が変貌し、今では珍しくなくなった。人類にとっては厳しい時代だが、そこに確かに美しさも存在している。リクは空を見上げながら、氷の海で感じたブルーサーペントの鼓動を思い出す。自然は決して無慈悲なだけではない。人間の行いが正しければ、応えてくれる存在でもあるのだと。


 数日後、街中ではリクの噂がさらに広がり、メディアの取材が殺到し始めた。リクは多くを語らず、「僕たちが見てきたものは自然との共存の可能性です。新たなエネルギーを無限に奪うような真似はしたくありません。それが実現できる方法を、これから模索していきます」とだけ言った。時には「そんな甘っちょろい考えで世界を救えるか!」と批判する声も聞こえてくる。しかし、リクは頑なに信念を貫く。アイリも同じく、「あの力を使うには、自然への敬意と理解が不可欠。人間が生まれ変わらなきゃ、この先何を手に入れても同じ過ちを繰り返すだけだから」と発言を続ける。


 やがて、幾つかの研究機関や環境保護団体が協力を申し出てくる。大掛かりな調査チームを編成して、氷の海の奥深くに眠る熱源を安全に利用できる方法を模索しよう、という動きが本格化していく。もちろんまだ障害は多い。だが、その一歩を踏み出したという事実は、人々の心に小さくとも力強い希望の灯をともしたのだ。


 リクは心を決めていた。もし再び北の海へ旅立ち、ブルーサーペントの前に立つ日が来たとしても、自分はもう恐れない。むしろ「自然の守護者」であるあの生物に、胸を張って会いたいと思う。アイリも彼の隣で微笑みながら言う。「いつかきっと、人と自然が共に生きる時代が来るよ。今は寒波で苦しいけど、その分だけ私たちは学んでいると思う。自然を壊せば、いずれそのしっぺ返しを食らう。だけど、向き合って手を差し伸べれば、自然は必ず何かを返してくれる。あの大きな鼓動が、きっとそう語ってるんだ」


 夜、リクの夢には氷の海の情景が浮かぶ。壮大なオーロラの下、白銀の世界を泳ぐブルーサーペントの姿が見え、その体からは澄んだ鳴き声が響いてくる。それは、まるで優しい子守唄のようにリクを包み込み、いつのまにか暖かな光へと変わって街を照らしていた。目が覚めると、外では雪がしんしんと降り続いているが、なぜか心は穏やかだ。


 人と自然が争うのではなく、共に支え合う道を探す。それがどんなに遠回りでも、きっと大きな収穫があるに違いない。リクはヒートベストを見つめながら、「これを作ってくれた研究者たちも、最初は小さな希望から始めたんだろう」と思いを馳せる。そして次は自分がそのバトンを受け取り、さらに先へ進む番だ。


 氷の海に眠る「永遠の熱源」は、決して人間だけのものではない。もしかすると、それは地球全体が持つ命の鼓動なのかもしれない。ブルーサーペントという自然の守護者は、まさにそのメッセージを伝えようとしているのだろう。リクが手に入れた小さな一片の熱。それを正しく使えば、多くの人々の暮らしを支え、同時に自然への敬意を忘れずに済むかもしれない。寒波がいつ終わるかは分からないが、そこに希望がある限り、人は前に進むことができるはずだ。


 こうして物語は続いていく。リクとアイリの旅が示したのは、「試練の中でこそ、人間と自然の本当の共存が芽生える」という可能性だった。厳しい冬の海には、見たこともない危険や恐怖が潜んでいる。しかし同時に、そこには計り知れないほどの力と美しさがあり、人間の態度次第で味方にもなれば敵にもなるのだ。そして「氷の海に響く鼓動」は、リクやアイリのみならず、すべての人々に問いかける。私たちはこの星とどう向き合い、どう生きるべきなのか――深く、強く、そして温かく。冬は厳しくとも、希望の光が消えるわけではないのだから。

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