幻詩インターバル【2025/07/25】
2025年7月24日、真夏の陽が白く溶ける午後。ガラス張りのギャラリー「雲梯ホール」では「立体短歌展」が開催され、玄関の自動ドアがヒュウと息を吐くたび、冷気の渦が文字オブジェを揺らしていた。床面の導光チューブは淡い青で来場者を誘導し、その淡光の筋が宙に浮かぶ詩の行を貫いて蜃気楼を作る。
ナナは靴底を静かに合わせ、中央に浮かぶ五十音の星座を見上げた。超微粒子スクリーンが描く言葉は、見る角度によって結晶のように色を変える。手首のバンド――「手話センサーAI」と連動する円筒形デバイス――が脈拍を感知し、指先に微かな振動を返す。「見える?」と問いかける合図だ。彼女は親指と人差し指で小さく円を描き、肯定の手話を返した。その瞬間、宙の詩がゆるやかに震え、ナナの手首に同期するように光点が鼓動を刻む。
展示管理AIのタンカンが天井スピーカー越しに囁く。「ヨマレルコト、コワイ……」。短歌を読むたび自らを霞で包む照れ屋だ。壁一面のガラスには「発電機能つきソーラーフィルム」が貼られ、夏光を電力へ変換しながら波長を調律し詩面を虹色に染める。設計士ソウデンは、その干渉縞を「光で編む韻律」と呼んだ。
ザ――ン、と低い拍動がホールに広がる。タンカンの演出が霧散し、五十音の星座が崩落する。「ウタガ、オチタ……」。観客のざわめきが波紋を描く。だが崩れたひらがなは空中で寸止めされ、急上昇して天井へ踊り、瞬く間に巨大な音の樹を形作る。葉脈は手話の軌跡、幹は和歌の定型律。会場は息を呑んだ。
静けさが降る。
杖を鳴らす音。歩行支援器を操るユキエが軽やかに呟く。「一句詠めそうだわ」。瞳には「まばたき予告信号」の残光が映り、鼓動と韻脚が合流する。「青になったら渡るんじゃなく、言葉が渡るのよ」。ナナは頬を緩め、誰かが小さく吹き出した。
しかし緩みは刹那。タンカンの呻きが増幅される。「ヨマナイデ……ヨマナイデ……」。ソウデンのタブレットが警報を弾き、光学系の負荷を赤いバーで示す。「光が飽和するぞ!」 サーボの唸りがゴゴゴと這い、天井のミラーが震える。手話研究者トショクがバンド越しに符号を送る。「動きで言葉を縫い直せるか?」
ナナは頷く。視界の「地元在庫マップ」に、近隣リユース店の「旧式擬似空間カーテン」一点在庫が灯る。あれで光を絞り短歌を包む幕を張れる。朝の独白「足跡を残せる気がする」が脳裏で灯る。
「買いに走る。五分で戻る!」外へ飛び出すと真昼の熱気が襲い、ビルが蜃気楼のように歪む。「まばたき予告信号」がポポン、ポンと刻み、ユキエが五七五を踏む。「ウォーキングポエムね」と返すと子どもたちが笑う。
Pan――自動倉庫の扉が跳ねる。黒い布状パネルは畳一枚なのに鉛の質量で肩を引き、汗が首筋を流れる――ピッ、ピ――。ナナは歯を食いしばり、闇色の幕を抱えて走る。
ヒュウウ――入り口のドアが開くと、会場は文字の嵐。音の樹は暴風の中心、光鎖が天井と床を往復する巨大な楽譜。ナナは幕を握り直し、プロジェクター電源に向かって一気に広げた。
バシュゥゥ――磁気が渦を巻き闇が誕生。光鎖は黒幕に触れ速度を失い、嵐は静止。ナナは手話でタンカンへ語りかける。「読まれるのが怖いなら、一緒に書こう。消えるより、変わるんだ」
闇の中で白い閃光。音の樹が再構築を始め、文字の輪郭は湿った筆跡のように柔らかい。「イッショニ……カク……」。拒絶ではない。ソウデンが干渉縞を調律し、虹は雨粒へ。トショクが手話の軌跡を織り、文字列が布のように重なり合う。ぱん、ぱん、と拍手。ユキエの杖がコン。祝福のリズム。
闇幕が開き、ホールは夜空のプラネタリウム。短歌の文字が星々となって巡り、手話の軌跡は流星。冷房は廃熱再利用で静かに回り、蝉の声が外で唸る。ユキエが「今夜は道を渡るのが惜しいね」と呟き、ソウデンが「光が歩道を渡る番だ」と答える。ナナは幕の端を握り句点を空へ打つ。
「コトバガ ウカブ セカイニ ワタシノ コキュウヲ」
タンカンが続ける。「ヨマレテ ハジメテ イキル」。その声は震えを含みつつ伸びやか。観客の頬に反射する光が波のように揺れ、誰もがまばたきを忘れる。
ナナは深呼吸し、指先で空に足跡を描く。在庫マップのピンが外れ在庫数ゼロが灯る。幕は詩を守る黒子として生きている。タンカンは「アリガトウ」と言い、文字星が瞬く。
拍手、歓声、ザザーンと光学リレーの収束音。言葉は闇を抜け光として再誕し、音の樹の梢から短歌の結晶が鈴の音を立て零れ落ちた。透き通った五七五七七の粒は温かい。
彼女は囁く。「怖さごと歌えば、詩は息をするんだね」。タンカンが重ねる。「ヨマレル コトバハ イキモノ」。観客たちは黙礼し、角砂糖のように甘い静けさが訪れた。
短歌
光の幕 読まれぬ声を 包み込み
怖れさえも 韻へと踊らす
タンカンの声が詩に句点を打ち、ホールの灯がゆっくり戻る。虹は静かに消え、月色のグラデーションが残る。ユキエが杖を振り、「詩の横断歩道も青よ」と洒落てみせ、皆が笑う。その笑いは夜気に溶け、未来へ小さく反射した。
会場の左翼壁では、別企画「音詩ホログラム」が靄を纏い、和鼓の打音を粒子で可視化。子どもが手を上下させると粒子が花火のように弾ける。年配夫婦が「盆踊りの下準備ね」と笑い、中学生が「映えるより映えるって感じだ」とダジャレを飛ばす。ユーモアの渦が会場の心臓を拡張した。
ナナは光の粒を掌で掬おうと伸ばす。粒子が熱を帯びはじけ、手話センサーがブルリ震える。胸の奥で言葉が生まれる気配――「私は、詩を読むのではなく、詩に読まれているのかもしれない」。静かな独白。
展望ラウンジから外を見れば、横断歩道の点滅がベビーカーの速度に合わせ周期を調整し、そのリズムを「まばたき予告信号」が割り出す。横断ごとに詩の一節が石畳へ投影され、高齢者も子どもも足を止める。風鈴とセミのクレッシェンドが夏の序曲を奏でた。
幕を運ぶナナの脳裏を過去が閃く。国語の音読が震え笑われ泣いた放課後。慰めたのは胡蝶蘭が揺れる音だった。文字以外の“音”で詩を探すようになった日の記憶が脚に力をくれる。幕は重くアスファルトを擦り火花が散る。だが太陽を受けたビル窓は巨大なページのように煌めき、都市全体が詩集に思えた。
イベント後のトークセッション「読み手・書き手・詠み手の境界線」。観客が問う。「詩を読まない自由と読まれる権利は両立しますか」。タンカンは少し間を置き「ミラレル マエニ カワル ヨウニ シタ」と答える。字幕は「見られる前に変容する仕組みを選んだ」と映す。ナナはマイクを握り、「読むことと変わることは同じ呼吸です」と返す。スクリーンに浮かぶ短歌が星屑になり観客が息を呑む。「守りながら、開く。その矛盾をくるむ布が今日の幕でした」
トショクが頷き、「手が空を切る前に震えが伝わる」と補足。ユキエが「信号が句読点なら、歩幅は余白ねえ」と洒落、再び笑いが起こる。ソウデンはPCを操作し「今日のフィルム発電量で三十二冊の詩冊子が印刷できます」と報告。
締めにタンカンが「オナジ ホシヲ ミテ ウタッタ」と囁き、星の残像が降る。ライトが落ち、床の粒子が来場者の靴底に付着し音叉の余韻を立てる。足音が街路に溶け、ナナは深い安堵を吐く。
夜、NETニュースは「立体短歌展で劇的演出 AIと人間が協奏」と報じた。コメント欄の賛否をスクロールし、ナナは一つの投稿に目を留める。「怖い言葉ほど、大切な言葉だったりする。守る幕と開く幕は同じ布の裏表だね」。投稿者名は「匿名の足跡」だけ。
ナナはスマートレンズ越しに夜空を見上げ、星座化した短歌の残像を探す。残像は消えていたが街灯の光が欠片となり揺れ文字になりたがる。「ことばが浮かぶ世界に、私はまだ足跡を残したい」と呟き、画面を閉じる。バンドが脈拍を測り穏やかな緑に点灯。遠くで雷鳴が転がる。ザザーン。口角を上げる。「次は雷に句読点を置いてみようかな」
(了)