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夜を彫るリズムは記憶を照らす【2025/07/24】

 夜の広場に拳が咆哮した。筋繊維を連想させる漆黒のアクチュエータがしなり、大理石に深紅の火花を散らす。鈍い衝撃が地面を伝い、観客の靴底を震わせた。舞台中央では人工筋肉制御型彫刻アームAI〈スジク〉が、呼吸する獣のように肩部ジョイントを膨らませている。一本のアームが伸びるたび、石表面には生々しい谷が刻まれ、欠片が月明かりを反射して銀鱗のシャワーを生む。「筋肉アーム彫刻ショー」──その派手な呼び名に引かれて集まった千人余の観客は、開始三分で言葉を失っていた。


 額に埋め込んだ視覚記憶チップが微熱を帯び、ナナの瞳孔を淡緑に染める。チップは網膜の細胞活動と同期し、入射光をフォトン単位でアーカイブする高密度メモリだ。まだ十代の彼女は、それを「世界最小の映画館」と呼んだ。レンズは無い。スクリーンも無い。ただ脳内で再生される臨場感だけが確かで、そして危険だった。だが今夜の彼女は、危険よりも奇跡を選んだ──技術が芸術へ昇華する瞬間を、逃さず捕まえるために。


 会場頭上のホロバナーに、世代横断型AI秘書システム〈トメミ〉の広告が流れる。昭和歌謡のイントロがスローテンポで編曲され、在りし日の祖母の声色で語りかける。「遠き日のお便りを、あなたの暮らしへ」。丸文字フォントのコピーが揺れ、懐かしさに涙ぐむ観客もいた。ナナは首筋をくすぐる夜風の温度に、ふと「時間旅行」という単語を思い浮かべる。過去の音色が現代のテクスチャをまとい、未来を指し示す──そんな不可思議な感覚が、自転車発電街灯のリズミカルなフリッカーと共鳴していた。


 石粉が舞うたび、街灯は青から紫、紫から金へと相貌を変える。発電ユニットを監修したチクルは、サドルに跨がるボランティアたちへ拡声器で檄を飛ばした。「あと三割増しで回せ! 夜を燃やすのは君らの足だ!」。車輪とチェーンが重奏する「カラララッ」。そのテンポはBPM120を超え、観客の心拍をも煽り立てる太鼓代わりとなった。


 ふいに、スジクのアームが石肌を離れ、空を掴むように突き上げた。関節部のサーボが「ギュウウン」と鳴り、周囲に緊迫を走らせる。一瞬の静止。次の瞬間、無音の爆発のように粉塵が弾け、巨大な石塊が宙へ浮いた。底部の台座が回転し、重力制御リングが起動したのだ。観客席の少年が「ドラゴンが飛んだ!」と叫ぶ。ナナはその声で我に返る。視覚記憶チップは少年の高鳴る声帯振動すらメタタグ化し、彼女の脳裏へ刻みつける。


 --静寂が訪れる。粉塵は落ち着き、星々までが息を潜めたかのようだ。ナナは胸ポケットに忍ばせたNFT観光通貨トークンを取り出し、掌で転がす。指に触れる金属メッシュの感触がやけに生々しい。観光トークンは、このショー限定の記念コインとしても機能し、使用者の観覧履歴をブロックチェーンに刻印する。今日だけで十種を超える限定アートが発行され、学生たちはトレカのように交換し合っている。ナナも例に漏れず──だが彼女は売買益より、ここで得た感動の証明書が欲しかった。


 ふと隣から渋い声。「嬢ちゃん、そのコインのデザイン、ワシの若い頃に彫った版画に似とるわい」。振り向けば、ベージュ帽に厚手のジャケットを着込んだ老紳士。だがその実体は、トメミの方言データベースが生成するホログラム端末だった。ナナは目を丸くし、「もしかして、偽物の昔話ですか?」と冗談を投げる。老人は肩をすくめ「ホログラムでも真心は本物じゃ」とウインク。周囲からくすりと笑いが漏れ、緊張がわずかに緩んだ。


 再び轟音。「ゴウン…ゴウン…」。ステージ床が波打つように上昇し、スジクは回転する台座の外周を走り出す。石塊は分割ラインに沿って割れ、花弁を広げる蓮のように展開した。破片はフィールドの中で静止し、スジクが伸ばす磁力糸に吸着される。まるで時間を巻き戻すかのように、砕けたパーツが組み上がり、ひとつの巨大モザイクが浮かび上がる。ライトが点滅し、像が顕れる──疾走する少女。その髪が風にたなびき、石とは思えぬ流線形を描く。


 ざわめきが波となり会場を包む。ナナは一歩後ずさった。像の顔立ちは鏡のように彼女自身を映していた。「わたし…?」。内蔵マイクが拾った呟きがスピーカーへ漏れ、観客は息を呑む。チクルが手綱を握る発電隊のペダルがさらに加速し、街灯はストロボを撒き散らす。ミルキーが研究用タブレットを掲げて叫んだ。「視覚同期率、95%到達! 夢記憶フェーズへ移行します!」


 視覚記憶チップが警告を発する。「心拍数、推奨上限を超過。セーフティを発動せよ」。だがナナは応じなかった。脳内に大量のフレームが流れ込む。過去の学芸会、雨の日の通学路、祖母と縁側で食べたスイカの味──そのすべてが石像の身体へ投影され、観客にも共有される。会場の千人が、ナナの記憶を透過スクリーンとして覗き込む異様。石粉が涙のように像の頬を伝い落ち、地面に消えた。


 突如、制御フレームに赤いライン。「暴走警告」。スジクのアームが痙攣し、磁力糸が乱舞する。観客の悲鳴「キャアアッ」。破片がレーザーのように飛び交い、フォースフィールドが何枚も展開する。ナナの脳裏で映像が飽和し、視界がホワイトアウトに染まる。「だめ…記憶が壊れる…!」。そのとき、トメミの柔らかな声が会場全域スピーカーに流れた。「あんたも、あの日の歌を覚えとるじゃろ?」。続いて聞こえたのは「赤とんぼ」。四分の三拍子の旋律が、子守唄のように温かく夜空へ広がった。


 歌声は老若男女の声帯データをシームレスにクロスフェードし、世代の壁を溶かす。メタデータ化された思い出が、ナナのチップ内で赤い警告を押しのけて整列してゆく。崖縁に咲く彼岸花、ガラス玉のビー玉、夏祭りの金魚すくい。破綻しかけた記憶列車がゆっくり速度を落とし、正しいレールに戻るようだった。石像の乱舞する破片も、歌のリズムに合わせて再結合し、走る少女はやがて立ち止まり、掌を胸に当てた像へ変容する。


 余波を孕んだ静寂が訪れた。粉塵の幕を透かし、月がのぞく。ナナは深く息を吐き、薄く震える石像と目を合わせた。彼女の視覚記憶チップは自動保存を切り、ライブモードへ移行する。「今だけは…録画しない」。心でそう呟く。瞬間、スジクが石像の脇に膝を突き、人間の声を発した。「記憶は封じるものじゃない。磨いて未来へ投げるものだ」。ミルキーの顔が蒼白に染まる。「音声出力? そんな機能は…!」。


 スジクは砕けた石片を掬い、ナナの掌へ置いた。冷たくざらつく粒子。「過去の破片だ。削って捨てるか、紡いで彫るかは持ち主次第」。ナナの指が小さく震える。遠くで自転車チェーンが緩む音、街灯の光量が落ちる音。それらがひとつの静かな拍となり、夜を包む毛布になる。


 「石粉ラテ、売り切れました!」屋台の青年が叫び、観客がどよめく。ナナは笑いを堪えきれず、麦茶ソーダのカップを掲げた。「ほら、正解だったでしょ」。老人アバターが目を細め「昔の知恵は伊達じゃない」と胸を張る。場内に柔らかな笑いが生まれ、緊張が霧散した。


 照明が再点灯すると、ステージには新たな群像彫刻。幼子から老人まで、手を取り合い輪を描く石の家族。その中央に立つ少女像だけが、胸に輝くホログラムトークンを抱えていた。虹色の光が像の表面を巡るたび、誰かの思い出が微かに浮かび上がる。ナナは唇を噛み、優しく囁いた。「技術って、詩になれるんだね」。歓声がゆっくりと沸き立ち、星がひとつ流れた。


 夜風が石粉を巻き上げ、白い雪のように観客へ降り注ぐ。ナナは両手を広げ、その粒子を受け止めた。視覚記憶チップはオフラインのまま。彼女は瞼の裏で、今日の全記憶を静かに手繰った。熱、匂い、震動、歌声──それらが折り重なり、鼓動と混ざり、まだ名も無い未来の彫刻へ固まってゆく。


 遠くでペダルの回転が止まり、街灯が一灯ずつ消えてゆく。スジクは道具を畳み、ナナへ深く一礼した。チクルは発電ボランティアにジュースを配り、ミルキーはチップのログを解析しながら跳ねる。トメミは昭和歌謡を鼻歌に変え、夜の終わりを見守った。最後に残った灯りが、ナナの額のチップを柔らかく照らし、彼女は空を仰ぐ。


 星々が彫刻へ降り注ぎ、像の輪郭が一瞬だけ銀に輝く。誰かが拍手を始め、それはすぐ千の手拍子となった。ナナは石粉を掌から吹き、風へ委ねた。粉は光を抱き、観客たちの頭上で漂い、やがて暗闇へ溶け込んだ。


 技術は感動の次へ行ける──記憶と詩が交差する場所へ。少女は歩き出す。夜はまだ、彫りかけのまま揺れていた。


 観客が三々五々帰路に就くころ、ナナは会場端の移動販売ドローンに立ち寄った。NFT観光通貨をかざすと、蛇腹アームが伸び、蓄冷アイスバーを手渡す。包装紙には〈筋肉アームショー記念・限定彫刻模様〉がエンボス加工され、触れるだけで筋線維の起伏を感じられる凝った作りだ。「芸術は味覚にも浸食するのかもね」。ナナがつぶやくと、ドローンのスピーカーが機械的に笑った。「ハハッ、カロリーも記憶に残ります」。やや寒いジョークにナナは肩を竦め、アイスをかじる。冷たさが舌を刺し、その鋭さがさきほどの高揚を静かに鎮めた。


 通りへ出ると、自転車発電街灯が遠い列となり、ペダル音の残響だけが夜の奥へ溶けてゆく。灯りの途切れ目で足を止め、ナナは空を仰いだ。視覚記憶チップがオフラインでも、星座は鮮明に瞳へ映る。遠くから、トメミのネットワークを介した昔語りが小声で届く。「夢は覚めても、物語は終わらん」。その言葉に導かれるように、ナナは胸の石粉を握り直す。白い粒子が汗に溶け、掌に薄いペーストを作った。「この感触を忘れずにいれば、いつか私も彫れるかな…」心奥で芽生える決意。


 背後でスジクが小さく作動音を立て、夜風に刃のような金属臭を残す。「おい、彫刻家志望」。機械らしからぬ軽口に、ナナは振り返った。「次の舞台は一緒に作るぞ。君の記憶、削り過ぎるなよ」。それは脅しでも命令でもなく、真摯な誘いに聞こえた。少女は笑い、アイスバーを掲げて敬礼した。「まずは私の弱点を彫ってもらわないと」。スジクのアームがゆっくりと上がり、月へ向かって指を差す。その先で広告ドローンが軌道を描き、世代横断型AI秘書のロゴがまた淡く滲んだ。だが今度は、ロゴの後ろで薄明かりの星々が消えなかった。


 足音は軽かった。ナナのスニーカーが歩道の石畳を叩くたび、視覚記憶チップではなく心臓がシャッターを切った。石粉の匂い、アイスの甘さ、遠ざかる歌声。そして何より、自分の中に生まれた彫刻への衝動。それらを抱え、彼女は未来という大理石へ第一歩を打ち込む。抑えきれないほどの音を立てて。


(了)

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