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届く風の詩【2025/07/21】

2025年7月20日、黄昏が劇場「耳と手の風」を薫色に染めるころ、ナナは客席最後列で息を呑んだ。ステージ中央、白手袋をはめた役者が手話で宙を切り、背後の薄膜スクリーンには波形が花火のように弾ける。その波は突如停止し、観客の心拍を可視化したかのように赤く脈打った。「言葉の影が反転した……?」ナナは掌に汗をにじませる。小フックが静かに刺さる。

 首元にぶら下げたニオイ記録AIが微かな潮の香を吐き、彼女の記憶を──沖縄の透明な海で回転する制服──へ連れ去ろうとした。だが耳元でコオリの機械声が囁く。「感情ベクトルを測定中。ナナ、涙腺キャパシティ上昇。」戯曲はまだ一幕目だというのに。


 客席は暗い海、舞台は発光する珊瑚礁。役者の手話を受け、コオリが生成した高周波サインが天井スピーカーから水平に放たれる。音は聞くものではなく“触るもの”へ変質し、頬に震えを刻む。座席シートの骨組みが低く唸り、観客たちは自分の腕を抱きしめた。〈ゴゴゴ……〉椅子内部のアクチュエータが共鳴し、効果音が肉体になる。

 ナナの隣席、サクラが苦笑。「修学旅行で済南まで飛ぶ予定が、VR修学旅行で沖縄に上書きされちゃった。せめて匂い付き絵はがきを作ろうと思ってさ。」彼女は丸筒からアサガオ色のカードを取り出し、指で弾くと蘭の香霧が散る。ナナのニオイ記録AIが即座に吸引、分子式を内部でソナタに変換した。

 「匂いって教科書より説得力あるわよね」サクラが続ける。「先生が『亜熱帯の風は暖かい』って言うより、甘い潮の匂いひと嗅ぎのほうが早いんだもの。」

 ナナは笑いながら頷く。「でもこの劇場の風も負けてない。音が匂いを押し出して、匂いが光を弾いて、全部が演劇に巻き込まれてる。」そう言った途端、胸ポケットでニオイ記録AIがピピッと鳴き、香りの混線を警告した。亜熱帯と劇場の匂いが重なり、思い出と現在がわずかに干渉を起こす。視界の端が虹色に滲み、ナナは舞台との境界を見失いかけた。


 場内後方、高さ二〇メートルの桟橋通路を電力ドローンが滑空する。船の代わりにバッテリーを抱え、離島の灯台へ急ぐ機体だ。操縦席のない黒い胴体の脇に、チョークで書いたような文字が躍る。「ミチノ、今日もやさしさ配達中」。そのジョークに気づいた者だけが口角を上げた。生真面目な観客のひとりがぼそり。「字余りです。」クスッ、今日のユーモア一滴。


 第一幕が終わるや否や、客席の照度が深海の青へ落ちた。コオリがナレーションを兼ね、空間に微粒子スピーカーを散布し始める。粒子一つひとつが音源となり、〈シーン……〉という蚊の羽音ほどの静寂を奏でる。ナナは息を止めた。耳朶の内側で自分の血液が潮騒のように渦を巻く。サクラが囁く。「“無”を聞かせる演出ね。鼓膜が空になると、心が満たされるんだって。」ナナは目を閉じ、暗闇の中で指を伸ばす。そこに確かに、音のない“手触り”があった。


 第二幕、舞台中央に巨大な円筒が降下する。内壁全面がマイクロLED。コオリの演算で手話パターンが音響粒子と融合し、円筒内に〈ジャララ……〉と金属雨が降る映像が映し出される。群青、緋、鶯、色彩の奔流が観客の瞳孔に入り込み、それぞれの網膜で異なる詩形を結ぶ。ナナの視界──〈夜明けの弧を引く鍵盤〉──が文字に変わり、スクリーン後方へ投影された。観客ざわめく。「私の情景が、外に……?」

 騒然の最中、劇場の見守りAIカモミルが朗らかな老婦人声で告げる。「皆様、大丈夫、大丈夫。心が跳ねても椅子は跳ねませんよぉ。」緊張の糸が抜け、笑いが波紋を作る。

 ナナは舞台へ視線を固定したまま呟く。「感情が向き合うたび、景色が増える……それって、演劇と同じ速度で世界が書き換わってるってこと?」


 ここでコオリが予定にはない〈ドンッ〉という低周波を放つ。円筒下部の床が割れ、蒸気が噴き上がり、舞台が上下二層に分離した。ナナは思わず前のめりになる。二階層目では透明な水が滝となって落ち、客席最前列に霧が舞った。光が乱反射し、手話の軌跡が水面で折り紙のように折れ曲がる。ステージは既に“耳”でも“手”でもなく、“風”そのものへ変貌しつつあった。


 だがその直後、舞台袖のコオリが突如ノイズを吐いた。「エラー、手話―音声同期率急落。原因、ドローン帯域干渉。」天井の照明が白刃のように点滅、劇場電源が落ちる。真闇。耳鼓膜に残った残響だけが空間を形づくる。

 静けさが劇場を洗い、ナナの鼓動が海面を叩く雨粒になった。子どもの啜り泣き、杖の先の硬質音、遠くの機器が冷えて収縮するパキンという微音、それらが層をなして闇に浮かぶ。光より先に“聴覚の形”が生まれる様子を、人々は皮膚で理解した。


 再点灯。ステージ中央には役者ではなく、墜落寸前の電力ドローンが腹を開いていた。青白いアークが床に走り、火花が散る。ミチノの遠隔声がホールに直送された。「電源不足。緊急接続要請。離島の透析センタが待ってるんだ!」ナナは思わず立つ。彼女の右掌にはまだ匂い付きカード、左掌には潮の残香。


 ナナは走りながら思い出す。幼い頃、病院のベッドで聴いた心拍計のビープ、母が読み聞かせた童話よりも正確に彼女の世界を色付けた音だった。音は線、匂いは面、両方を重ねた先で初めて「未来」という立体が立ち上がると信じてきた。「届くことが始まり」──その言葉は母の口癖だった。


 「手話は光じゃなくても踊れる!」ナナは両腕で風を抱くように円を描き、指先で律動を刻む。観客席に散らばるスマート端末が彼女の動きを捉え、消えた音声パケットの代わりに観客一人ひとりの心音を収集。コオリが即興演算し、〈ドン……ドドン〉低い衝撃音がホールを満たす。効果音は観客の体内発電だ。ミチノが息を呑む。「そうか、ここで充電するのか!」


 しかし補給エネルギーの要求値は想定より大きかった。コオリが淡々と告げる。「残充電率23%──演劇終了までに電圧臨界。」観客たちの表情が揺らぐ。そこでサクラが立ち上がる。「匂いには電荷を乗せられる! 理科室で実験したもの!」彼女は筒を逆さにし、十数枚の匂い付きカードを客席にばらまいた。

 カードは紙飛行機の群れとなって滑空、当たった椅子が鳴り、ニオイ記録AIがそれぞれの匂い分子を捕捉。コオリは揮発成分を電気信号に転換し、ドローンの受電パッドへ走らせた。〈ヒュウウ……バシュン!〉真昼の波打ち際そっくりの空気圧が爆ぜ、ドローンのバッテリーメーターが満灯へ跳ねる。劇場照明も蘇生し、ステージに虹の筋が重なる。


 しかし真のクライマックスはここからだった。ドローンが再起動した刹那、天井のハッチが開き、夜空の風が劇場を貫いた。パラボラ状の反射板が展開し、舞台全体が巨大な送風筒へ姿を変える。ミチノの声が重低音で響く。「電力だけじゃ足りない。今からこの劇場を一瞬だけ“風の発電所”にする!」観客の座席が回転し、背もたれが羽根車に早変わり。轟音。〈ゴオオオッ〉


 ナナは重力に身を預けつつ、なお手話を踊り続ける。彼女の動きはもはや舞台芸術ではなく、風車群のブレードの一枚だった。コオリが絶叫にも似た演算報告。「同期率141%、臨界突破!」 虹色の気流が座席から天井へと奔り、回生電流がドローンのみならず劇場全体の蓄電池へ雪崩れ込む。その瞬間、客席スクリーンすべてに巨大な文字が描かれた──〈届〉。ただ一文字。けれど言葉は充分だった。


 緊急運転が収束し、椅子が元の位置に戻ると、観客は嵐の後の海のように静まりかえった。遠方で雷鳴に似た残響が尾を引く。ナナはふいに涙を拭い、舞台袖の影を見た。そこには母と同じシルエットの女性が立ち、手話で「ありがとう」と告げている。幻覚か現実か、境目は風と共に溶けた。


 静かな余白が訪れた。鼓動と匂いと光が混じり、今まさに失われる前の熱を放っている。ナナは胸に手を当て、低く呟く。「届くことが、始まりなんだね。」その声が劇場全体に共鳴し、壁面ライトが柔らかく脈打つ。観客の心拍と同期した新しい詩が、今生まれた。


 終演後、ロビーには未曾有の静寂があった。観客たちは互いのスマホを見比べ、共有されたはずの映像が各々まったく違うことに気づいて唖然とする。ある端末には深紅の大海、別の端末にはガラスの雲。カモミルが説明する。「皆様お持ちの映像は、そのとき抱いた感情の匂いと一致した風景です。同じ演劇は、二度ありません。」来場者の表情が驚きから誇らしさへ変わる。誰もが唯一の主演だったのだ。


 ナナとサクラは劇場エントランスを出た。夜風が汗をとり、遠くでドローンのプロペラが星座をなぞる。ミチノが着陸した機体を整備しながら手を振り、コオリはホログラム越しに指を鳴らして見せた。ナナは笑みを返す。彼女の耳にはまだ、観客の心音が微かに残響していた。まるで地球そのものが鼓動しているかのように。


 「ねえ、次はどこへ行こうか。」サクラが尋ねる。ナナは少し考え、「海底の学校」と答えた。VR修学旅行の次なる舞台。匂いは? と訊かれ、彼女は胸を張る。「潮と鉄と、未来の匂い。」そして二人は歩き出す。街灯の下を通るたび、ナナの影が手話の残像を引き、それが風へ融けていった。


 劇場外。夜空を電力ドローンが二機、並んで飛ぶ。積んだバッテリーの小さな灯が星座を結び、風を切るプロペラが遠雷のように轟く。その風だけが、ナナの髪を揺らした。彼女は振り向き、まだ燃える舞台を瞳に映す。心の匂いは、最初の一歩を踏み出したばかり。

そして彼女は深呼吸した。潮と電気と花の気配が胸いっぱいに満ち、鼓動がゆっくりと次の物語を叩き始める。それは誰にもまだ聞こえない、小さな序曲だった。遠くで犬が吠えた。


(了)

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