第4話 『原典』と写本(グリモア)
「全員よーくきけー」
開幕、凄まじくやる気のない恭介の声が二年一組の教室に響いた。
「えー、とゆーわけでー。コイツが一昨日言ってた編入生でーす。雪斗ー、てきとーに自己紹介しとけー」
朝一番から生徒たちの目の前で教壇に突っ伏すやる気のなさっぷりに、一年前か、あるいはそれ以上前から恭介を知っている生徒たちは諦観の眼差しを。
昨日の電話から何がどうなったらこんなに落ち込めるんだと、雪斗は怒りと混乱の狭間でため息をついた。
「えっと……楠木雪斗、です。よ、よろしく。……あ、あと肩に乗ってるのは識神のクロです」
《うむ。拝謁を許すぞ》
階段教室にまばらな拍手が響く。
反応が悪いのは雪斗を歓迎していないからではない。
ただ、雪斗の隣の教師の放つ、それはもう陰鬱とした空気に全員が辟易としていたのだ。
そんな中でも笑顔で小さく手を振ってきたレンジュに、雪斗は小さく会釈で返した。
——さて、問題は横の教師へと移る。
《この男、何をそんなにしょげておるのだ?》
「昨日は電話越しに『リーチだ継続だ』ってあれだけはしゃいでたのにね」
この時、雪斗を除く教室内の全員が心の中で『あっ、コイツ、パチンコで負けたな』と察した。
現実は、その遥か先を。
或いは地球の裏側まで突き抜けるほどしょうもないものなのだが。
「ううっ……ぐすっ」
生徒たちの冷たい冷たい視線に晒されるダメ教師は、小さく啜り泣きながらもなんとか身を起こした。
「なあ……みんなあ……聞いてくれるかあ? というか聞け。聞かなきゃ授業しない」
《横暴だのう》
生徒たちの声を代弁したクロの声を聞き流し、恭介は鼻を啜りながら涙のわけを語る。
「先生なー、昨日なー。そこの雪斗を迎えに行ってたんだよなー。それでなー。諸々経費で落ちるって聞いてたからウキウキで寿司とか食ったんだよなー。空港の寿司、美味かったな……はあ」
恭介は聞く者全てを沼底に誘うような、特大のため息をついた。
「領収書、貰うの忘れたんだ……」
『いや、自業自得じゃん!』
生徒たちの心が一つになった瞬間だった。
「何やってんのよ、バカ教師」
悪態をつくレンジュの口元は小さく笑みを浮かべていた。
理不尽にレンジュへと押し付けられた書類仕事の報い、というには些か恭介の財政負担が大きいが。
それはそれとして、不真面目教師が凹んでいるのを見るのはそこそこ気分が良かった。
「あー、限りなく帰りたいが授業を始めるぞー。雪斗は……そうだな。レーベックの隣にでも座っとけ」
「はーい。……ところで恭介さん。僕の家具一式の申請は?」
「あっ」
「あ゙?」
恭介が音速で目を逸らした。
眼球が吹っ飛びそうなくらいの勢いだった。
「……うん。後で職員室行ってくるよ」
自分で申請しよう、と固く心に誓った雪斗だった。
◆◆◆
「よーし悲しみに暮れながら、それでも働かなきゃ金は入ってこねえから授業をする」
ひたすらに不純な動機で始まる授業に、生徒たちはある種の懐かしさを……『そういえば一年の頃からずっとこうだったなー』という謎の感慨を抱いた。
恭介の担当科目は『歴史』。中でも専ら『原典』と写本に関する分野を掘り下げている。
「お前らも二年になったわけで、こっからもっと踏み込んだ領域を学んでくことになる。つってもまあ今日は復習みてえなもんだ。雪斗もいることだし、一年までの内容頭っからざっくりとさらってくぞ」
恭介はボサボサの茶髪を上手い具合に左右にわけチョークを構える。
「さて、お前らがこの先写本使いになるにせよ筆記者になるにせよ、それ以外の道を選ぶにせよだ。必ず知っておかなくちゃならねえことがある」
その佇まいは、雪斗とクロに、なるほど教師らしい風貌だと思わせる雰囲気があった。
「——まず、俺たちの生きるこの世界は七冊の『原典』によって生み出されたと言われている。仮説に至る経緯だとか真偽の話は三日三晩話しても足りねえから割愛だ」
恭介は手始めに手前の席に座る金髪生徒を指名した。
「レイ、七冊の『原典』はそれぞれ何を定義した?」
「自然、生命、物質、感情、規律、循環、幻想の七つです」
「正解だ。じゃあ具体的に何が定義されたのか——今話すには時間が足りねえから、ここに関しては個人で復習してこい。自分と相性のいい分野は入念にな」
軽快な音を立てて黒板にチョークを打ち付ける恭介は、そのまま生徒に背を向けながら授業を続ける。
「俺たち人類は『原典』の解読を何千何万年と試みてきた。始まりの頃、俺らの遠い祖先は『原典』を直接読み取ろうとして失敗を繰り返したそうだ。中には発狂した奴もいたと文献や壁画に残されている。アンジー、なぜ失敗した?」
「『原典』が持つ情報はあまりにも膨大で、一人が抱えることができる量を遥かに上回っていたからです」
「正解だ。細かい修正を入れるなら、あくまで“通説では”だな」
人類の至上命題、『原典』の解読。
雪斗も目指すその場所は生命体にとってはあまりにも高く、苦しい。
「さて、それでも諦めの悪い人類は解読を試みた。レーベック、俺たちの祖先はどうやって解読しようとした?」
「『原典』が持つ情報の分割を試みました」
「もっと詳しく」
恭介の指示を受け、レンジュは喉の調子を整えてから整然と答えた。
「『原典』が持つ情報を解読せずに、何冊もの白紙の本へと分割して転写しました」
「転写先の媒体は、なんて呼ばれてる?」
「写本です。付け加えるなら、原典から直接転写した写本は“第一世代”と呼称されています」
「——大正解だ」
恭介は黒板に『原典』を起点にした系統樹を書き記した。
「先人たちは転写を繰り返すことで、一度に得る情報を極限まで少なくしようと試みたんだ」
黒板に大きな円を描いた恭介は、円を切り分けるように無数の線を引いた。
「割り算で得た答えを、後で全部足し算するようなイメージだな」
一度に“百”を識ることはできなくとも、“一を百回”繰り返せば百に届くはずだ、と。
荒唐無稽な力業。
人類は、星霜かけて実行しようとした。
「結論から言って、この試みは成功したが失敗した。——雪斗、なぜかわかるか?」
「えっ、僕?」
予想外に白羽の矢が立った雪斗は目を丸くして恭介を見た。
「僕、まともに勉強したことないけど……」
「いーんだよ間違えたって。勘で答えろ、勘で」
「ええ……」
困り果てた顔をする雪斗。しかし、裏では思考を回していた。
しっかり二十秒ほど考え込んだのち、雪斗は躊躇いがちに口を開いた。
「えっと……。写本を読む人によって情報の受け取り方が違ったから、とか?」
「……ふうん」
雪斗の隣でレンジュが少しだけ息を呑み、教壇では恭介がニヤリと笑った。
「悪くねえ答えだ。半分くらいは言い当ててる」
『おお〜!』
パチパチと、自己紹介の時より大きめの拍手が教室に響いた。
《ふむ。妾の主ゆえ当然じゃな》
「授業中は静かにしてろ黒毛玉〜」
《フシャー!》
クロの威嚇をスルーした恭介が雪斗の回答を引き継ぐ。
「『原典』も写本も、そこらにあるようなただの本じゃねえ。アレは極限まで圧縮された『情報の塊』だ」
『原典』も写本も、結果的に本の形をしているだけで、その本質は世間一般の本とはまるで異なる。
そもそも、この再びはページを開き目を滑らせるだけでは決して読むことができない。
「俺たちは“識力”を使って写本を読み解くが。この時に問題なのは、内容を伝える際の共通言語がなかったってことだ」
人間は様々な言語、文字を生み出してきた。
古くはサンスクリット語、ヒエログリフ、楔形文字など。
現代では英語やアルファベットを始めとした様々な言語、文字が存在する。
恭介は黒板に大きなバツ印をつけた。
「だが、写本がもたらす情報はそのいずれの言語にも該当しない! だから、俺たちの読み取りは、ある種の感覚的な理解に留まる! 雪斗の言ったように、受け手の感受性に強く左右されるんだ」
《なるほどのう。同じ写本を別の者が読み解けば解釈が異なると。確かに研究者は混乱するであろうな》
「静かにしてろって言ったろ。ま、その通りだけどよ」
これが『原典』への到達、および写本の研究が暗礁に乗り上げた原因。
未だに真理へ届かない理由の一つだった。
そして——
「そして何よりもう半分の理由だがな。そもそも転写が完璧じゃない説とかいくらでもあるけど……まあこっちは有名な話だ」
恭介はチョークを置いて、黒板の『原典』に関わる記述を全て消し去った。
「現代において、七冊の『原典』の所在を誰も知らねえんだ」
『原典』に関わる歴史では、写本の転写には最低でも2000年の歳月を要したというのが通説だ。
「第一世代を分割した第二世代。第二世代をさらに分割した第三世代。そうして分割を繰り返し、比較的安全に分割できるようになった第八世代まで。人類は、多大な時間と犠牲を払ってきた」
その長い歴史の中で、七冊の『原典』は気づいたらなくなっていた。
「だから答え合わせのしようがねえんだよな。そもそもどうやって答え合わせすんのかも未知数だけど。間抜けな話だけどよ、誰一人とんと行方を知らねえんだよなあ」
しかし、何も不思議な話ではないと恭介は言う。
「仮説や通説通りなら世界を創っちまうようなぶっ飛んだ代物だからな、『原典』ってやつは。俺たち人類の目を逃れるくらい簡単なんだろうよ」
恭介は肩をすくめながらそう締め括ると、誰にも気取られないようにさりげなく雪斗に視線を送った。
『それでも、お前はやるんだな?』
雪斗の返答は短い瞑目——決意は欠片も揺らいでいなかった。
◆◆◆
「——さっきの授業、アイツ途中でユキトのこと見てたわよね」
「……そうかな?」
休み時間、各々が駄弁ったり次の授業の準備をする中、レンジュは恭介の視線の意味が気になっていた。
「『原典』の所在がわからないって話の時のことよ。隠さなくてもいいわ。……あ、別に隠してもいいんだけど」
「……うん。まあなんて言うかさ。『原典』は僕が学術都市に来た理由だから」
「『原典』が?」
疑問を呟いたレンジュは、そういえば雪斗の編入は時期外れだなと思い至った。
「僕は『原典』を解読したい、だから恭介さんに無理言って籍をねじ込んで貰ったんだ」
「なるほど、さっきの視線はそういうことだったのね」
業腹だが、レンジュは恭介の教師としての能力を認めている。
彼の授業は質が良く、そのレベルの高さを裏付けるように、わざわざ大学生が高等部校舎に質問に来るほどだ。本人は凄まじく面倒くさがっているが。
だから、さっきの視線が雪斗を気遣ってのものだというのも、悔しいが、多分そうなのだろうと理解できた。
「ねえレンジュ、次の“実習・写本”って……」
「次? ……ああ、実技のことよ。演習場集合だからそろそろ行きましょうか」
《案内、よろしく頼むぞ》
「はいはい、任せなさい」
教室を出た雪斗の肩の上からクロが手元のカリキュラムを覗き込んだ。
《ふむ、それにしても実技とはのう》
クロは嫌悪感を隠そうともせず、不快そうに喉を鳴らした。
《授業の一環として子らに武器を握らせるのは、妾としてはあまり良い気分ではない》
「あー、それはそうね。実際、去年まではクロみたいな意見もちらほらあったのよ?」
《ふむ、今年は違うと?》
頷いたレンジュは少しだけ声のトーンを落とし、周りに配慮するように目を配った。
「去年、パナマ戦役が停戦合意に至ったでしょ? でも、各国各企業の緊張はずっと続いてるじゃない」
《子らに自己防衛の手段を持たせると?》
「元反対派の意見はそうね」
とはいうものの、実技の意義は別のところにある。
「そもそも実技授業の意義は“識力”の扱いの習熟にあるから、戦うための力を養うのが主目的ではないのよ。だから的外れな意見とも言えるわね」
《とは言っても、火の使い方を教えるようなものであろう。何事も使い方次第じゃ》
クロは雪斗の鞄から器用にパンフレットを取り出し、とある部分を肉球で叩いた。
《“八学園合同競技祭”……ある程度の力比べを許容しておる》
「……まあ、それはそうかもしれないわね」
《ガス抜きにはちょうど良い場所とは言えるであろうな。だが……》
やはり、クロは不満を隠すことなく威嚇するように喉を鳴らした。
《血を流す争い、互いを傷つける力を率先して得るのは認め難いのう——そうであろう? 雪斗よ》
ずっと沈黙を保っていた雪斗は、少し硬い表情で頷いた。
「そうだね。——本当に、そう思うよ」
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写本
過去、解読を試みた者たちが自分の命を代償に『原典』の情報の細分化を試みた。その結果生まれたのが写本:第一世代である。
第一世代は七つの系統毎に平均10冊と言われている。
また、世代を経るほど、樹木が枝分かれするように写本の数も増えていく。現在は第八世代まで存在する。
通常、写本は世代を経るほどに一冊が保有する情報量が減少していく。
よって世代の数字が大きいほど希少性が下がり、一冊が保有する能力も弱くなる。