ビヨンド
「あれーー?陛下ーー?」
神代御蛙、「フミマロ」は、完全に弛緩している主上の傍にしゃがみ込んで顔を覗いた。
皇帝・飛鳥は、うつ伏せに寝たまま片頬を畳に接して目を閉じ、半世紀も仕えているフミマロがこれまでに見たことも無いくらい安らかな表情をしていた。
「お疲れなのですかねえ…?」
外では蝉や太陽や竿竹屋や豆腐屋や金魚屋が騒がしいが、いっかな気にする様子無く眠っているようで、よい夢を見ているのか半開きの口からは一筋の涎が光り、首をひねって周りを見れば、のびのびと広げた腕の右手が何かを掴み取ろうとするような形で固まっていた。
ミワミワミワミワ、ジーーーーーーー…
染み入るような声が聴こえたのに合わせて30秒くらい覗き込む。そして、余程酒池肉林の結構な夢をご覧じて居られるのだろうと、フミマロはジトンとした目でその「手つき」を見て含み笑いし、テレビのリモコンのボタンを押した。
「あまり深夜にご鑑賞で起きているのは身体に毒でございますよぅ」
眠っている宇宙皇帝を背にちゃぶ台の前に座ってそんな事を言い、茶をすする。
やかましい素数蝉の話題と天気予報、食リポが流れ、特産品の果実を口にした瞬間に「優しい味!」と叫ぶリポーターにため息をつく。
「はあ、優しいって何なのですかねぇ?こないだは唐辛子のようなもの食べて言ってましたが…ずるずるずるずる」
ついでに、いい加減起きて来ない主上にも疑問を感じてフミマロは振り返った。
「ねえ?陛下?」
三四十分経ったが飛鳥はまだ全く同じ姿勢でそこに居た、全く動いていない。
「くんくん…おやぁ?」
フミマロは普段身の回りの世話をしている感の良さで、茶の匂いに紛れて少し汗臭いものが漂っているのに気づいた、低い身長で立ち上がって背伸びをする。
「あれ〜?まさかとは思いますが陛下…あっ!!」
寝ている皇帝の腰の周りが濡れて僅かに灰色になっているのが見える、畳の蕁麻にもそれは広がっていた。
「へいかーー…そのお歳で…」
呆れた声を上げて寝たままの頰をつねった。
「畳に染み込んでいるじゃないですかっ!いくらなんでもおやめくださいっ!威厳の欠片もないっ!」
言い聞かせながらぐにぐにとつねり上げるが反応は無く、されるがままで眠った顔は変わらない、フミマロはますます呆れ返って手を離した。
「もうっ!片付けますからね!お着替えはご自分で!」
立ち上がって素早く畳の縁に向かって両手を手刀にして腕を曲げ、構える。
「ほおっ!」
ズガシッ!!
「うんっ!せっ!どりゃっっ!!」
ガバッッ!!
二本の手刀が畳の縁に凄まじい力で撃ち込まれ、グイッと持ち上げると、畳が勢い良く持ち上げられた、陛下が転げ落ち、畳の間や裏に落ちていたゴミがパラパラと降り注ぐ。
とてつもない力だ。
「たぁーいへんでございますよーう…」
フミマロは畳を頭上に担ぎ上げて表に走り、軒先に細い竹を立て掛けている朝顔の日避けを背に物置から台風の時に使う重しのレンガ・ブロックやバイブ椅子を取って来て離れた台を作り、その上に畳を跨がせて干した。
「まあったく…ようやく手足の生え揃った幼少の砌よりお仕えしていますが陛下と来たら相変わらずでございます…一人前になられるのはいつのことやら」
縁側に座って干したばかりの畳を見ながら、フミマロは肩を落とし、全く目を覚ます様子のない主の事は頭の片隅に追いやり、昼の支度のために商店街まで出掛けようと思案し始めた。