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機械と愛と烏  作者: 諭吉
二章
9/45

MemoryLog: 2169 05 19

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「ねー早く! 遅刻は嫌だよ!」

「待ってくれ、インドア派にはしんどいんだって、まだ余裕あるだろ……!」

「あと14分44秒でチャイムが鳴っちゃうんだよ、このままだったら2分10秒遅れちゃう!」

「憎いほどに正確だなぁ、えぇ!」


 まだ五月だというのにカンカンに照りつける日差しに対して、勲は家を出てすぐに白旗を上げていた。

 その日は健人が初めて迎える小学校の運動会だった。それが楽しみで仕方なかった健人は朝の五時に目を覚まし、家を出るタイミングを今か今かと待ちわびていた。しかし初めての運動会に浮ついていたのは健人だけではなく勲も同様で、彼は給食が出ないことを把握していたはずが二人分のお弁当を作り忘れてしまったのだった。近所のコンビニまで車を走らせおかずを買い込み、ようやく整えられたお弁当が完成する頃には既に時計の針は八時を回っていた。

 結果、学校まで小走りで向かわなければ間に合わない時間となり、健人と勲は三十度を超える炎天下の中でランニングをする始末となっていたのだった。


 当然、筋組織や内臓に対して調整を加えられている健人にとっては何の問題もない行程である。しかし、引っ越してから新たに設置した研究所に籠もって相変わらず研究を続けているばかりの勲にとって、ほぼ学生時代以来となる運動は衰えきった身体機能に対する無謀な挑戦でしかなかった。


「ああ、もう置いてくよ! お弁当と水筒ちょうだい!」

「そうしてくれ……ああ、パンフレットは持ってかないでな、いつどの競技で出るのかは分かっておきたい」

「おっけー。徒競走の一番最後、もじゃじゃ体操、障害物競走、二人三脚の第十三走者、玉入れ、低学年合同選抜リレーの白第二チームアンカー、ね。覚えた?」

「昨日までも散々聞かされたから大丈夫だって。一年生の種目で、大体一番最後ってことだろ?」

「そうそう。僕が一番速いんだって見せてあげるから、楽しみにしててね! じゃ!」

「いってこーい!」


 勲の声を背に、健人は学校に向かって風のように走り出した。当然のように、始業のチャイムには間に合うことができた。小脇に抱えたお弁当を揺らして中身をぐちゃぐちゃにしてしまわないようにしよう、という程度の余裕すらあったのだった。





 茨城のだだっ広い平原の只中に位置する小学校の全校生徒三百人が紅白の二組に分かれて行われた運動会は、何人かの体調を崩す生徒を出しながらも、教員陣の尽力によりつつがなく進行していった。

 健人は当然のように各個人種目で他を圧倒しながら一位を獲得し、団体種目でも目を引く活躍を見せた。他学年の保護者席からも感嘆の声が漏れるほどで、それらを強化された聴力でうっすらと聞き取っていた健人は鼻高々だった。


 そして、運動会もいよいよ最終盤を迎えた。花形中の花形である選抜リレー二種目を残して、紅組と白組の点差は僅かに三十点。紅組が僅かにリードしているが、団体種目であり最大四十点の差が生まれる選抜リレーの結果如何によっては逆転もあり得るという状況であった。


 健人は一年生ながらその足の速さを買われ、他の三チームの三年生に混じってアンカーを務めることが決まっていた。ただ、走り自体に問題はないものの、バトンパスが意外と難しい、というのが無視できない問題となっていた。どうしてもバトンを受け取る相手の三年生と比べた身長的な差が障壁となり、練習の結果かなり丁寧に受け渡しを行わなければ成功しないことが分かっていた。




 本番。


 紅白それぞれ二チームずつに分けられた一学年から三学年の合同選抜リレーでは、どのチームもメンバーの中で二番目に足の速い選手がスターターを務めるような戦略を立てていた。地域のスポーツクラブに所属する男の子が三人と、背の高い女の子が一人。健人のいる白第二チームは内側から数えて二レーン目からスタートする。


「用意」


 五年生の担任が発した声を合図に、四人が一斉に前傾姿勢をとった。パン! という乾いた音がすぐに続き、第一走者たちが走り出した。


「「がんばれー!」」「「はしれー!!」」


 すぐに足音は遠ざかり、代わりに生徒たちや保護者たちの歓声が校庭に鳴り響いて、そして健人はその興奮の虜になった。アンカーの証であるゼッケンを握りしめ、自分が走る場面を想像する。もしかしたら、この歓声の中で三人をごぼう抜きして一位でゴールインすることだってできるかもしれない。そうなった時、きっと白組のみんなは僕のことを褒めちぎってくれるに違いないだろう。ワクワクする。


 健人がそうやって妄想に耽っている間に、レースはどんどんと進んでいった。先頭を走るのは赤第一チーム。すぐ後ろに白第二チームがいて、やや遅れて白第一チームと赤第二チームが追っていくような趨勢となっていた。


 そして、健人の一人前の走者にバトンが渡り、いよいよアンカーたちがテイクオーバーゾーンに呼び出された。状況は変わらず、白第二チームは二位。やや差は開いたかもしれない。劇的な結末を演出するための舞台設定としてはこの上ないものだった。


 何度も一緒に練習をしてくれた三年生の女の子が最終コーナーを回り、そして健人と目が合った。

「けんと君!」

すぐ横を一位の赤第一チームが駆け抜けていくのを感じながら、健人は二人の間で決めておいたタイミングを逃すことなく走り出した。


 後ろに真っ直ぐ右手を伸ばし、バトンを間違いなく手渡してもらえるようにぶれないことを意識する。手にバトンが触れるまでは、かなり抑えたペースで。そして、手のひらに現れた感触に対して反射的に手を握りしめ、その手にバトンを包み込む。


 練習通り、完璧だった。

「いけー!」


 後は加速して、追いつき、そして追い抜くだけだ。


 アンカーは一周百メートルを走ることになっている。何度か行われた通し練習では、前を走る丸刈りの三年生は第三コーナー付近でバテる傾向にあった。つまり、その時点までに十分距離を詰められていれば、勝ち目は大きい。

 顎を引き、腿を通う筋肉に力を込める。身体の使い方は理解している。正しく酸素を取り込んでおけば、しっかり動いて欲しいように動いてくれるはずだ。第一コーナーにさしかかったタイミングで、一度大きく息を吸う。そして、身体を一段前に倒し、健人は走るスピードを上げた。


 バックストレートに達する頃には既に射程圏内に入った、という感覚があった。そして予想通り、前を走るゼッケンが第三コーナーを目前としてぐんぐんと近づいてきたのが分かった。


「いけるぞー!!」「がんばれええええ!」「逃げてーー!!」


 大逆転が起ころうとしていると察知した観客席からの応援はいよいよ加熱し、それらの声は余すことなく健人のエネルギーへ変換された。本によく書かれている「血がたぎる」というのはこういうことか、と健人には感じられた。


 第四コーナーに移る段階で、健人は完全に赤第一チームと横並びになった。斜めの角度から観察できた丸刈りの三年生の顔には余裕のかけらもなく、がむしゃらに足を動かして逃げ切ろうとあがいているのがよく分かった。


 いける。


 息を吸い直す余裕がなかったので、健人は根性だけでもう一度腿に力を込め、そして前に身体を押し出した。そのまま、一歩分、二歩分と差を広げる。

 ゴールを目前として、健人は先頭に立った。

 白一文字のゴールテープのかかったホームストレートが、何にも遮られることなく健人の目の前に広がった。トラックの左側に控える既に走り終わった仲間たちは一様に興奮した表情をみせていて、対岸のテントに座っている先生たちも身を乗り出していた。



 その時だった。健人の左後ろで規則的に響いていた砂を蹴る足音が急に乱れ、そして荒っぽい滑走音が続いた。

「!」

 思わず振り向くと、つい数瞬前まで併走していた三年生が転んでいるのが分かった。

 接触した感触はなかった。とすれば、おそらく足がもつれるなどして転んでしまったのだろう。不運だが、仕方ない。


 そこまで思考が回った時点で健人は後ろに意識を向けるのを止め、前を向き直した。既に彼を止めうるものは何もなく、真横にしっかりと張られたゴールテープは健人ただ一人を迎えるために存在していた。健人はよく短距離走の選手たちがゴール付近でそうするように、両手を広げ、胸を前に突き出した。

 胸の上部に柔らかい感触がした、と思った次の瞬間に、スタートの号砲を鳴らした教員が再びピストルを打ち鳴らした。


 直後、わっ、と湧き上がった歓声が校庭を包んだ。


「すげええええ! すげえよ!」

「すごい、多田くんって三年で一番速いのに!」

「けんとくんはやい!」


 口々にチームメイトが声をかけてきて、健人の体を揺さぶり、叩き、興奮を伝えてくる。小さな一年生アンカーが演出した大逆転劇を称える歓声は止むことなく、そして健人はその中心にいた。それが健人にとってはこの上なく嬉しいことだった。




 やがて、四チーム全てがゴールインし、最終的な順位が確定した。一位、白第二チーム。二位、白第一チーム。三位、赤第二チーム。四位、赤第一チーム。白組の四十点差をつける大勝利により、総合得点は白の十点リードに移り変わった。

 



 万雷の拍手の中放送ブースから退場が案内され、選手たちは音楽に乗せて四列の隊を組んでトラックを走り始めた。走順で隊列を組んだために、必然的に健人は白第一チームと赤第一チームのアンカーの間に挟まれることになった。


 そこで健人はあることに気が付いた。


 隣を走る赤第一チームのアンカー、多田がむせび泣いていた。口元は一文字に固く結ばれ、目尻はひくひくと揺れ動き、今にも決壊しそうな所をなんとかこらえている、といった具合だった。

 悔しさからだろう、一年生に負けた上に転んでしまった後すぐに立ち上がることができず、チームは最下位にまで順位を落とす結果となったのだ。

 

 いくら勝負事とはいえ、このままなにもせずに済ませるのは気分が良くなかった。何より、健人は『人を愛する』ようにできている。

 多田のこともちゃんとサポートしてあげるのが筋だろう、という発想に至るのは不思議なことではなかった。




 退場門を越えて解散が告げられたと同時に、健人は多田に歩み寄った。


「大丈夫?」

「……」


 返事はなかった。それでも、聞き続けるしか心を開く方法はなかった。


「その、さっきは転んじゃって、どんまい」

「……」


「いい勝負だったよ、だから、元気出して」

「っ、ふざけんな!」

 

 多田は健人に向かってわめき、突然発せられたその大声に驚いて、周囲の人間がみなこちらに顔を向けたのが知覚された。多田も一瞬自分の声の大きさに驚いたように見えたが、すぐに両目から涙が溢れ出してきて、そのまま止めるきっかけを失ってしまったようだった。


「おかしいんだよ、なんで一年がおれより足速いんだよ、おれサッカーの試合で四年生とやっても負けたことないんだぞ!」

「えっ、え」


 それは、明確な怒りの籠もった言葉だった。健人にとって、純粋な悪意を自らに向けられるというのは初めての経験だった。


 慰めるつもりだったのに、何か言い間違えたのかもしれない。取り繕わなければ、なにか別のことを言わなければ。


「その、ごめんなさい、でも多田さんも速かったから、その」

「うるさい!」


 言葉を重ねてみても全く逆効果のようで、次の瞬間には多田の手が健人の肩に伸び、そして気が付いた時には健人は地面に倒れて空を見上げていた。


「あぇっ」

「うぁああああ! ああああ!」


 僕は何を間違えたのだろうか。

 それだけが、ひたすら頭の中を巡っていた。

 呆然として身体に力が入らず、健人は多田が己の肩を揺すりながら泣き崩れるまでの姿を、ただなされるがまま視界に収めた。


「多田くん、だめよ!」

 近くにいた三年の担任が駆け寄ってきて多田のことを抱き上げ、健人から引き離そうとした。それに逆らうことなく、多田は引きずられるようにして連れて行かれた。







 健人のクラスの担任が健人の元にやってきて膝をつき、背中に手を回してきた。彼の手に身体を預けて上体を起こす。


「相田くん大丈夫か!?」


 言われて思い出したので、体を軽く動かしてダメージが入っていないか確かめる。

 背中に入った傷を触って確かめると、血中の血小板とそれらの活動を促進するナノマシンの働きによってすでに止血が済んでいるようだった。そもそも皮膚自体も少しは強化されているので、傷の大きさもそこまで酷いものにはなっていない。


「はい。痛くない、です」


 顔を先生の方に向けると、彼はとても驚いた顔をした。


「本当にかい、結構強く倒されてたけど!?」

「大丈夫です、ほら、もう血も止まってます」

「え、えぇ?」


 服をまくって背中を見せ、大した怪我でないことを証明する。

 先生は驚いた顔を見せたが、確かに見た目には綺麗とは言わないまでも軽い擦り傷程度の傷でしかなく、彼はそれを見て納得し頷いた。


「へ、へぇ……なんというか……すごく丈夫なんだね。でも一応保健室には行っておこうか、頭を打っているかもしれない」

「分かりました」


 先生が先に立ち上がって手を差し伸べてくれたので、その手に体重を乗せて立ち上がり、そのまま校舎の方に歩き始める。




 遠くから、多田が泣きわめく声が聞こえてきた。


「あいつなんて、ェグッ、ずるしてるに、決まってる! なにか、ど、どーぴんぐとかしてるに決まってるんだ、ぁぁぁああああ!」

「多田くんはちゃんと頑張ったわ、偉かった!だから落ち着いて、人の悪口は言わないの!」


 ずるだなんて、そんな。僕はただ、本気で走っただけで、




「あれ?」


 ほんとうにそうなのかな?



 


〈EndLoading〉

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 健人が保健室から出ることを許されたのは閉会式が終わった後だった。保健室へ見舞いに訪れてくれた友達と勲から伝えられた最終結果は、四学年から六学年の選抜リレーで再び逆転が起こり紅組の勝利。最後まで勝敗の分からない良い運動会だった、というのが校長先生の長い話のまとめだそうだ。






「お父さん」

「お、お帰り。大事ないか?」

「大丈夫。もう治ったみたいなもん」

「そうか、良かった」


 校門でひとり健人を待っていた勲と合流し、帰路につく。

 先ほど見舞いに来た時に教員から何らかの説明を受けていたらしく、結果勲は細かいことまでを聞かないでおくことにしてくれたようだった。



 小学校からしばらく歩いて周囲の景色が水田ばかりになり、人気がすっかりなくなった頃に、健人は保健室でずっと考え続けたことを父親に吐露しようと決めた。


「お父さん」

「どうした?」

「僕、リレーで追い抜いた多田君って人に、「ずるをしてる」って言われたんだ。違うって思おうとしたんだけど、ひょっとしたらその通りなのかもって思っちゃった。だって、僕の身体は他のみんなとは違うから。僕はずるをしてるってことになるんだよね?」

「っ、……」


 勲の口からは、しばらく経っても意味のある言葉は出てこなかった。

 

「僕がずるくて速かったことが、多田君を悲しませちゃったんだ。僕のせいで他の人が傷ついたって思うと、すごく辛いんだ」

「それは健人のせいじゃない。健人は何も悪いことはしてない」


 今度は間髪入れずに返事があって、健人の頭に勲の手が乗せられた。


「でも、ずるだよ?」

「ずるなんかじゃない。健人が元気に育ってくれた結果だ」

「でも、他の家族はお父さんみたいに子どもの身体を調整したりしないでしょ?」

「それは、そうだけども……」


 再び勲は言葉に詰まった。しかし、言い負かしてしまったとは思わなかった。むしろ、これから伝える希望を通すために、これが必要だった。


「僕、もうずるなんてしたくない。もう多田君みたいに他の人を悲しませたくない。ずるくなくできる?」

「……それは、どういう」

「普通になりたいの。みんなと同じになりたい。だめ?」


 健人は普通の子どもになりたいと願った。多田から向けられた感情が「妬み」の一種であることは簡単に理解できた。もし、自分がただ存在しているだけで人からの妬みを買ってしまうなら、人の幸せを害してしまうなら。そんな自分はいらない。そう思えたのだった。


「……だめ、とは言わないが……」

「できるの?」

「……できる。電脳の処理速度を落とすのは全身系のコントロールに支障をきたすから不可能だけれど、身体能力に制限をかけるのは簡単だ。デフォルトでかけてある出力制限の閾値を引き下げれば良い」


 突然の提案に対してもすらすらと具体的な案が出てくる辺りに、勲の有能さがにじみ出ていた。


「じゃあ、やってくれる?」


 勲が健人の方をのぞき込んできた。健人はその顔を真っ直ぐ見つめ返した。


「本当にいいのか? その、足が速いと、カッコイイとか、そういうことだってあるだろう?」

「いい。他の人を傷つけるくらいなら、そんなのどうだっていい」

「そうか。分かった。……もし健人がそう思うなら、きっと健人の言うとおりにするのが一番だ」


 勲の顔色に一瞬哀しげな色が混じったような気がした。

 その後、勲はウェアラブルデバイスを少し弄って処置の計画を定めに入った。お互い会話をするような気分ではなく、家までの残りの道のりは酷く静かだった。




 勲に玄関を空けてもらい、家に上がる。勲は健人がシャワーを浴びている間に晩ご飯の支度を済ませ、そして家を出て行った。


 机の上にラップのかかったお好み焼きと書き置きが残されていた。


〈今晩10時過ぎにメンテナンス区画に来てくれ。明日はお休みだから、今日中に処置を済ませてしまおう〉





〈EndLoading〉

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 夜も更けた頃、健人は言われたとおりに家を出て近所にある勲の研究所へと向かった。

 家の近くにあるその研究所は、外見的にはただの倉庫のようにしか見えないし、実際にその一部は貸倉庫として運用されていた。地下にある研究所への入り口は倉庫と生け垣の間を抜けて裏手側に回った所にあった。どうしてこんな風に作ったのか、と勲に聞いたところ、健人が世界にたった一人だけの生体アンドロイドであることが露見した場合に、世界中のスパイが健人を連れ去りに来るかもしれないから、とそれはどうやら健人自身の身の安全のためであるらしかった。普段から勲は健人の身体に仕込まれた種々の技術について「誰にも言わないように」と健人に言い聞かせていたから、そのことに特に疑問を持つことはなかった。



 入り口のドアの横には小さなパネルが二つ載った装置が付いていて、健人の接近に反応して片方の液晶上に数字の羅列が、もう一方には入力ダイアログが表示された。


【暗証番号を発声してください】


 このドアの鍵は、与えられた情報から暗証番号を導くことで得られる。具体的には、表示されている数字の羅列を月の数だけ勲の誕生日で割り、日の数だけ健人の誕生日で割ることによって解読できるようになっている。


 今日は五月十九日。609で5回、426で19回割ればいい。電脳か、何か解錠プログラムを登録しておいたデバイスがあれば一瞬で済む計算だ。


「253794」


 健人の声に合わせてドアが音もなく開き、地下に通じる明るい階段が現れた。階段を降りて突き当たりを右に行ったところにメンテナンス区画がある。



 辿り着いた先では、既に準備を済ませた勲がメンテナンス用ユニットの横に座って健人のことを待っていた。


「時間通りだな。偉いぞ」

 僅かに表情を和らげた父親の挨拶に素っ気なく「うん」と返した健人は、そのままメンテナンス用ユニットに身体を横たえた。やや間を置いて勲が仮想キーボードに手を伸ばし、命令を入力する。


「一度出力制限を削除した後に、脊髄ケーブルへ接続して新しい制限を書き込むような処置になる。従って、首から下の感覚は一度切断することになる。酸素チューブを気管に通すから、苦しかったら瞬きを繰り返してくれ」

「わかった」

「よし、じゃあ始めよう……指先に注目して」


 伸ばされた勲の右手人差し指に視線を向ける。勲はいつものように、健人の目の直前に伸ばした人差し指をくるくると時計回り・反時計回りに一度ずつ回し、そして眉間に触れた。


「指令。コード2・身体コントロールの譲渡・お父さん」

「命令。メンテナンス終了まで瞼以外に自分の体を動かさないこと」

「指令。コード5・神経ネットワーク介入・身体部接続削除」


 指令が耳を通過した瞬間に、首から下の感覚が消滅した。酸素チューブを鼻から突っ込まれる。喉元を通過した時は流石に苦しく咳き込もうとしたが、腹筋も横隔膜も最早自力では動かせないので、ただ成されるがままに管が喉に達するのを感じるしかなかった。


 やがてチューブの導入が終わり、管の中に空気の往来が感じられるようになった。

 再び勲は指を健人の額に当てる。


「指令。コード1・電脳プログラム干渉・筋組織項・出力制限項・削除」


 その言葉によって、健人の身体は一度本来のパワーを取り戻した。が、当然体を動かすことは命令と神経ネットワークへの介入によって二重に禁じられていたので、健人がそれを実感することはなかった。

 勲が仮想キーボードに何かを打ち込み、背後から聞き慣れたモーターの駆動音が響きだした。音の位置から察するに、腰にほど近い場所から処置が始まったらしい。今頃皮膚が切り開かれているのかもしれない。


 それからはしばらく健人にとっては音が響くだけの環境が続き、暇を持て余した健人は寝てみようと試みたが、鼻から喉にかけてを圧迫する酸素チューブの存在感がそれを許さなかった。


 四十分ほどして、処置は終了した。額に久々に勲の手が伸びてきた。


「指令。コード5・神経ネットワーク介入・身体部再接続」

「指令。コード2・身体コントロールの譲渡・キャンセル」


「終わったよ。もう普通に歩けるはずだから、このまま家に帰って早く寝なさい。結構遅くなってしまったしね。こんな時間まで付き合わせてすまない」


 健人は身体を起こし、両手を振って感触を確かめた。特にこれまでと違った感じはしない。


「僕は普通になれたの?」


 その質問に対して、勲は少しだけ悲しそうな顔を浮かべた。


「少なくとも、誰よりも足が速いとか力が強いとか、そういうことはなくなったはずだ」

「そっか」


 その回答は健人にとって満足できるものだった。そして、目の前の人間が悲しんでいるのを見過ごせる健人ではなかった。

 健人はユニットの上で立ち上がり、勲の方に手を伸ばした。


「!」


「ありがとう」


 そのまま、感謝の気持ちが伝わるように、勲の首に手を回してハグをした。

 少し間をおいて、健人の腰に勲の手が回された。


「……ああ。健人が嬉しいなら、俺も嬉しいよ。きっとお母さんも、喜んでくれるはずだ」


 なぜ母に対しての言及があったのかは分からなかったが、きっと勲なりに思うところがあったのだろうと健人は結論づけた。





〈EndLoading〉


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