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機械と愛と烏  作者: 諭吉
一章
8/45

「私、どこにも行かないから」

 玄関にかかったオートロックが解除されると同時に、扉に体を貼り付けるようにしてそれを待ちわびた健人は、風のような早さで部屋の中に体を滑り込ませた。


「花菜」


 彼女はリビングにいて、健人が帰ってきたことに気付いていたためか廊下に向かって斜め向きに椅子に座っていた。テーブルにつけた左腕で支えられていた顔は手によって隠されていて、表情は読み取れなかった。既に夕食は済ませたのか、リビングには微かにコショウの香りが漂っていた。


「おかえり」

 顔を上げた彼女は、挨拶をしただけで何を言うでもなく、両目でしっかり健人の顔を見据えた。静かなまなざしには力が感じられた。健人にはそれが怒りの類いでないことしか分からなかった。沈黙でもってその視線に応えるのは、あまりにも心ないことだと思われた。


「本当にごめん」

「……え?」


 健人は鞄をフローリングに置き、膝をついて深く頭を下げた。

 最も良い穴埋めの方法をビビさんに気づきを与えられてからずっと考えていたが、どうしても真っ先に謝罪をすることは外せなかった。花菜がどのように思っているか、自分に対してどんな気持ちを抱いたのか、それは想像するしかない。間違いないのは、自分が今抱えている申し訳なさだった。彼女への愛を裏切ってしまったことが何よりも許せなかった。


「どんな誹りも受けます。自分のことで精一杯でした。もっと思いやることが出来たはずだと今は思っています。ごめんなさい」


 頭を下げたまま、床に向かって健人は謝罪を述べた。静けさの中に言葉が漂い、決して広くはないリビングの壁に吸われてすぐに失せていった。すぐにやってくると思った嘆きか許しの言葉は、すぐには返ってこなかった。

 裁定を委ねられた花菜は、健人の頭に手を置いてしばらく動かなかった。彼女がどのような表情をしているのかを窺いたい気持ちはあったが、柔い手は健人が顔を上げるのを諦めるのに十分な重みを持っていた。

 やがて彼女はその手を健人の耳元まで滑らせ、そして離した。


「冷蔵庫の中にご飯入ってるから、温めてくるよ。健人は上着とか片付けてきて」

「……はい」


 花菜が椅子を離れてキッチンの方へ歩いて行ったので、健人も言われたとおり上着を脱いでクローゼットに向かうことにした。立ち上がった時には既に彼女はキッチンの中にいて、相変わらず感情を読み取ることは許されなかった。







 湯気を上げる晩ご飯が椅子に座って縮こまる健人の前に並び、そして花菜は健人の向かいに置かれた椅子に腰を下ろした。


 帰ってきてから花菜はずっと静かだった。彼女はもっと激情を抱えているものだとばかり思っていたが、それはどうしても表にはでてこないようで、それが健人にとっては刻々と不安と呼べる感情を増していく要因になっていた。今朝のチャットからずっと、花菜は本音を健人のために覆い隠したままでいたのに、今になってもその姿勢を崩してもらえないというのはとてももどかしかった。


「……いただきます」

「召し上がれ」


 夕食の場には、一人分のご飯と、二人分の息づかいだけがあって、発話がなかった。かちゃちゃ、と箸が食器を擦る音、かたん、と食器が置かれる音がたち、そしてまた静寂が訪れる。椅子に座って考え込んでいた彼女に対して、自分から踏み込むことは憚られた。けれど、時間と共に膨れ上がる不安は如何ともし難く、健人は何か物音が立つ度に花菜の顔を窺い、何か変化が起こっていないかどうかを確かめるようになっていた。彼女は眉間に手を当てた姿勢を崩さなかった。



 時計の短針が天辺を指してしばらく過ぎた頃だった。

「あのね」

花菜が唐突に口を開いた。彼女の前置きに即座に反応した健人の目には、眉間から手を離した彼女の姿が映った。口角が僅かに移動していた。それが笑みなのか、落胆なのか。きっとこれから彼女自身が教えてくれるのだろう。

「私は一般企業で在宅勤務だからさ、考える時間だけは沢山あったから。きっとずっと忙しかった貴方とは違ってちゃんと寝れたし、いろんな想像をしても許されるだけの余裕はあったよ。でも、だからこそ、怖かった。明日を見ることができるのか、なんてことも考えた。帰ってくる前に健人が殺されるかもしれない、ってことも考えた。もう会えないかもって考えたら、まるで心に大きな穴が空いたみたいに感じた。だから、その穴を埋めて欲しかった。でも、その願いは叶わなかった」


 時たま言葉を探すために目を閉じながらも、花菜は健人に向かって真っ直ぐ向き合い続けた。健人はせめて精一杯背筋を伸ばして、顎を強く引きながらそれに相対した。


「あの返事を見た後に、ああ、きっとまともに休めてないんだろうな、っていうのはよく分かったから、我慢しようって思った。普段ならきっと全部分かった上で、自分じゃなくて人のことを一番最初に考えてくれるでしょう? だから、私は一度色々飲み込むことにしたの。健人のことだから、絶対いつか気付いてくれるって信じられたから。気付いた後に、私のところにも心を届けてくれるって信じられたから」


 朝のチャットのことだ。精神的な疲労からか、タカイさんに対する自己中心的な態度も含めて、あの時の自分は正しくない振る舞いを続けてしまっていた。そして、もしも疲れていなかったなら、もしも自分たちの置かれた状況に気付けていたなら、きっと健人は「人を愛する」ためにすべきことを成そうとしていたはずだ。彼女の分析はとても正確だった。


「でも、やっぱり私は弱っちい人間だったみたい。一回は我慢しようって決めたけど、いつになっても連絡は来なくて、いつ帰ってくるかもわからなくて、どうしようって。いつ、もう一度テロが起こってどちらかが死んでしまってもおかしくないのに。不安で不安で仕方なかった」


 ここで初めて、花菜がクスリと笑いをこぼした。自嘲的な笑みに見えた。

 ああ、僕はやはり彼女を一人のままにさせるべきではなかった。

「えっと、本当に、ごめ」


 花菜の手がすっと伸ばされた。

「それはなしにしましょう。私は別に怒ってるわけじゃないの、分かって」

 頬に触れた指先が謝罪の言葉を遮り、そしてそれに満足したのか花菜は首を縦に二、三度振った。



「私がして欲しかったのはふたりでいられることを確かめ合うことで、きっと帰ってきた健人は真っ先に私のことを抱きしめてくれると思ってた。それがあんな風に足下に縮こまって、怒ったら良いのか、許してあげたら良いのかも分からなかった」


 ようやく与えられた解説は、二人の間に生まれていた酷く大きなすれ違いを浮き上がらせるものだった。元より彼女は謝罪など求めていなかった。


「その後どうして健人がそんなことをしたのかって考えて、なんとなく納得がいったから今はこうやって話せてるんだけどね。きっと私のことを一番に考えられなかったのが、健人からしてみれば絶対にいけなかったんでしょう? 『人を愛して生きる』ことに、明確に反してる。だから、エラーにも似た拒否反応が心のどこかで生じてしまって、解消しないといけないと考えてしまった。違う?」


 彼女の分析は、どこまでも正確で、そして健人自身が気付いていなかったことまでをも明瞭なものとする。

 健人は自分の心の内を振り返った。何故謝罪をするに至ったか。花菜への愛を裏切ったことへの後悔がそうさせたはずだ。花菜の心情を思いやることもした。何を考えているのかを想像することもした。しかし、これらの要素は行動への動機として生き残ることはなかった。何が違ったのかと言えば、「後悔」だけには確信が置けたからで、それはもしかすれば、彼女の言うように、自分の中に刻み込まれたプログラムが入力に対して応答したからであるのかもしれない。

 

「……そう、かもしれない」

「やっぱり……本当に、貴方は自分を苦しめる生き方しかできないのね」


 花菜は悲しそうな目をして健人を眺めた。哀れみ、という表現が適切だろうか。その表情は、既に落ちるところまで落ちていた健人の心を、さらに深いところへと突き落とすのだった。


 僕はどこまでもプログラムに支配された生き方をしているのだ、という自己嫌悪は数え切れないほど重ねてきた。申し訳ない、悲しい、悔しい。これすらも自分の意思なのか、それともプログラムが指示した結果なのか、分からない。こうやって考えていることまでも、ひょっとすれば「そう」するように定められていたのか。人生でこの問答は何度も重ねてきた。そして、その度に明確な答えは得られなかった。

 しかし、今日ほど深く心に刺さったのは記憶になかった。本来、彼女こそが支えられるべき人間であったはずなのに、その彼女にこんな顔をさせてしまう自分がいるのだった。彼女を傷つけたのはどうしようもなく僕自身で、それが悔しい。電脳の機械的な応答が導いた結果なのだとすれば、僕は何故それに従うことを良しとしたのか? 反抗することは叶わなかったのか?

 そもそも彼女を傷つけたことを悲しむのは、僕の本心だと言えるのだろうか?




 いつからか、健人は心のみならず身体すらも押し潰すかのような苦患に耐え忍ぶかのように、両の手を顔につけて頭が崩れ落ちるのを防ぐようになっていた。


「……ごめんね、話しすぎたかな。楽にしてあげる。私も楽になりたいの」


 そう言って花菜が椅子を引いたのが聞こえ、健人は頭を上げた。手で眼球を強く圧迫していたために、酷く視界がぼやけていた。

 立ち上がった彼女は、健人の座る椅子の横に歩み寄り、その場で小さく手を広げた。


「私がして欲しかったことをしてよ、ね?」


 ぼやけた視界の中にあって、花菜が口角をつり上げて無理矢理笑おうと努力したことが、不思議なくらい鮮明に理解できた。それが不安に侵されながらも健人のことを想ってくれる彼女からの精一杯の思いやりであることは明らかで、だからこそこれ以上彼女に負担を掛ける訳にはいかないと感じられた。

 健人は小さく広げられた彼女の手が何度か左右に揺れていたのを捕まえて、彼女の身体を自らの方に受け入れた。


 花菜は一度小さく頷いた後、健人の胸に顔をうずめた。小刻みに震えているのは、きっと泣いているからなのだろう。


「私、どこにも行かないから」

「うん」

「どこにも行かないで」

「うん」


 胸の中から発せられた細い声には、これから無差別的に訪れる死別を拒絶するための願いが込められていて、意味などなくとも肯定することに意味があった。

 健人は花菜の肩に手を回して、強く抱き寄せた。自らの存在を、彼女に強く意識させてあげたかった。それは本心だろうか? という疑問が鎌首をもたげたとき、花菜が健人のことを強く抱きしめ返した。それだけで、心は不思議なほどに澄み渡るのだった。










 抱擁の時間は、花菜がその腕から力をふっと抜くことによって終わりを迎えた。

 健人の膝の上で顔を上げた彼女は微笑んでいて、どうやら満ち足りるだけのものを得ることが出来たようだった。


「私の中には貴方がいて、貴方の中に私がいる。それを確かめたかった。ありがとう」

「ありがとうだなんて。僕はずっと不甲斐なかったんだよ」

「落ち込まないで。間違えない人間なんていないんだし」


 人間、という単語に重みが感じられたのは、きっと気のせいではないのだろう。


「……ありがとう」


帰ってきてから初めて発することが出来た感謝の言葉は花菜を満足させるに十分だったようで、彼女は大きく頷いて立ち上がった。


「それにね、結局死ぬのは10%だけだから。81%の確率で私達は二人とも生き残れる。だから絶対平気。そう思うことにした。ううん、そう思えた。もう私は大丈夫、健人は今日はゆっくりしてちゃんと寝てね。お風呂入ってくる」

「わかった」


 ととと、と廊下の方へ走り去る彼女の背中に向かってもう一度感謝を念じていると、「忘れてた、食器片付けておいて」と明るい声が聞こえてきた。くすり、と笑ってから、健人は言われたとおり食器に手を伸ばした。




 食器を洗い終わりその他諸々の雑事を終えた後、手持ち無沙汰となった健人はテレビを点けることにした。既に夜中の一時前になっており、この時間に放映されているテレビ番組を知らなかったので、健人は消去法的に国営放送局にチャンネルを合わせた。

 やがて一時になり、画面が若者向けの音楽系トーク番組からニュースに切り替わった頃に、頭にタオルを巻いた花菜がリビングに戻ってきた。


「そういえば結局ニュースって追えてたの?」

「いいや、あんまり。本当に目が回るような忙しさだったから。ヘッドラインくらいはちらちら見てたけど、中身までは見れてない」

「そっかー。じゃあこれ見るのも初めてよね?」


 そう言って花菜が指さしたテレビの画面には、「警察庁 中沢神路(カミロ)次長」の名前入りのテロップと共に、彼女と同じ茶色の虹彩を持つ壮年の男性が記者から質問を受ける姿が映し出されていた。鼻が高く、異国の血が混じっていることが容易に想像できる顔つきだった。


「初めてみたと思う。あーそうか、国を揺るがす大事件だもんね。警察も総動員ってわけか」

「さっき家族に直接連絡があってね。しばらく忙しくなると思うから今年は顔を見せに来なくても良いって。あと死ぬなってさ」


 中沢神路。花菜の父親で、警察の中でも所謂キャリア組と呼ばれる人種の一人だ。移民二世として初めて一つの日本政府組織の頂に立とうとしているエリートであり、その身上故に知名度はとても高い。警察側もそれを理解してか、世間に対して大きな発表を行う際には彼のことを重用する節があった。


「おととしも似たようなことを聞いた気がするなぁ」

「……そうね。お父さんのことだから、きっとこの事件を自分が解決して警察庁の長官になるんだ、とか考えてるんだと思う」


 そして、彼自身にも大きな出世欲があって、それは家族を顧みない程であるというのは、健人と花菜の間では周知の事実だった。今や日本国民の半分以上を占める移民系たちの代表として表舞台に立ち、彼らに道を切り開く、というのが彼の持つ信条だ。健人自身はその思想にある種の敬意を持つことが出来ていたが、幼い頃から最も近い距離でその振る舞いに振り回されてきた花菜はそうではないようだった。


「まあ、もう二十五年も見つからないままの首謀者たちを一網打尽にできたらそりゃあ英雄みたいなものだろうし、熱が入るのも分かるかな」

「そんなこと考えてなくたっていいんだけど」

「まあまあ……もう遅いし、先に寝ときなよ。明日も朝からでしょ?」

「そうする。健人は?」

「遅番を宛がってもらえたから、少し余裕ある」

「え、いいの?」

「僕が帰宅を許された段階でもう既に大分落ち着いてたからね。きっと明日からは普段通りに近い運営になると思う」

「そっか。よかったね」

「うん。頑張った甲斐があったよ。で、どうする? 髪を乾かしたいってんなら少しお風呂待つけど」

「あ、先に入っちゃって。ケアとかは健人が入ってる間にするつもりで早めに上がってきたの」

「じゃあお言葉に甘えさせてもらうか」


 行動指針が決まったので、健人はリビングを離れることにした。

 テレビは既に気象予報にその話題を変えていた。しばらくは晴天が続くようで、洗濯物の心配はしなくても良さそうだった。








 「岡山県にてギデオンの右手の拠点を摘発」というセンセーショナルな速報が各種ニュースサイト・テレビ番組の全てを埋め尽くしたのは、翌日、天気予報の通りに澄み渡った青空が広がった朝のことだった。


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