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機械と愛と烏  作者: 諭吉
一章
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”10%”

 その後朝食の片付けが終わり、健人は三十時間以上ぶりに睡眠を取った。たった三時間で起こされたときは流石に倦怠感が強かったが、それでもやはり眠る前よりは身体の調子はいくらか良くなっているのだった。


 付箋や書き込みで埋め尽くされた集会場のホワイトボードを眺め、行うべき仕事を見定める。どうやら寝ている間に全ての遺体に関して扱いが決定したようで、施設内での防腐処理が最優先タスクとして大きく目立つ場所に張り出されていた。そこには何人かの遺体保存の資格を持った職員の名前が書き込まれており、その資格を持たない健人が手伝いに回る必要性は低そうだった。となると、次点で優先度が高い清掃作業に当たるのが合理的だろう。

 清掃作業が上位に来ているということは、殆どの業務についてケリがついたということのはずだ。どうやら、上手くいけば今日中に家に帰ることができるかもしれない。


 集会場から少し離れた場所にあるトイレは、何人かの入所者と職員が精神的なショックから嘔吐をしたということで掃除・消毒の対象となっていた。

 掃除道具一式を握ってトイレへやってきた健人は、男性用トイレの開けられた個室の扉の内側からシャコシャコとなにかをこすりつける音がするのを聞いた。このトイレの清掃作業を担当している人間はいないはずと記憶していた健人は、その物音の主を確認する事とした。


 豊かな髭が揺れ動くのが見えた。ブラシを握っていたのはビビさんだった。


「あれ、ビビさん、お掃除中ですか?」

「おう。これはなんと言うかな、居ても立っても居られなかったもんで。ご迷惑でしたかい?」

「いえいえ、ありがとうございます。私たちも昨日から夜通し働いているので、猫の手も借りたいくらいでしたので……」

分担にしないか、というビビさんの提案を飲んで、健人は彼の手がまだ回っていなかった小便器に手をつけることとした。


「居ても立っても居られなかった、というと、なにか思うところがあったのですか?」

「ああ、今朝例の犯行声明を読んでな。神だの悪魔だの色々受け付けられない声明だなとは思ったが、何より全部で四回同じことを繰り返すっていうじゃないか。近いうちに死ぬことは分かっていたが、明日にも死ぬかもしれないって思うと生きてる内にやっておくべきことが沢山あるように思えちまったんだ。それでこういうことを始めてみたって訳よ」

「なるほど、それが悪いことじゃなくて私たちとしてはとても助かります」

「馬鹿言え、地獄で燃やされたくなんざないわ」

「あれ、ひょっとして今善行を積んでおかないと地獄行きになりそうなんですか?」

「んな訳あるか。今日死んでも俺は天国に行けるはずよ」

「それは何よりです」


 小便器の一つ目を洗い終わった。


「でも、すぐにでも殺されるかもしれないと分かった後にこうやってポジティブな行動ができるっていうのは、私にとっては不思議かもしれません。正直、死ぬというのはやっぱり怖い物なのかなって思っていたので」

「んー、それはアレかな、俺がムスリムだからだな。俺たちにとって、死ぬってのは別に人生の終わりじゃないんだわ。それを小さい頃から教えられてきたってのが理由としては大きいだろうな」

「何というか、縋るものがあるとこういうときに強くいられるのかもしれませんね」

「一理あるな。無宗教の人間からしたら分かりにくいだろう」


 その代わりに俺たちは『知らせ』の生まれ変わりは信じられないんだけどな、と言ってビビさんは一人で笑った。


「そういう意味ではさ、俺は時々思うことがある訳よ。無宗教みたいに縋るものがないような人間がどうやって生きていけるのか、むしろこっちには分からないんだわ」

「分からない、ですか」

「ああ、分からんね。俺は自分の人生の中に一本の幹があって、それに寄りかかって生きてきたって思ってる。その幹は疲れたときに俺のことを支えてくれるし、伸びる方向を定めてくれてたんだ。ところがネイティブ日本人の皆様方はその幹がないのに勝手に伸びて勝手に花を咲かせようと頑張り続ける。折れる人も数多いが、その強さはどこから来るんだ?」

「考えてみたこともなかったですね……」


 人生の指標や帰順先としての「幹」。確かに、無宗教の日本人にとっては縁の遠い話に聞こえる。「幹」がないのにどうやって生きるのか。おそらく、その疑問は「何故生きているのか分からないのに生きていけるのはどうしてか」という所まで通じているのだろう。

 何故生きているのかが分からない、という見方は、あまりにも健人が自らに対して抱く感覚と似ていた。自分の中に刻まれたプログラムは果たして「幹」と呼べるのだろうか?


 違う、となんとなく感じた。行動原理として定められた『人を愛して生きる』ことに、今まで縋った記憶はない。それはただ自分を引っ張り続けてきただけのものだ。だとすれば、自分も日本人の例に漏れず、幹のないままに生きてきたということになるのだろうか。

 ふっと花菜の顔が思い浮かんだ。彼女は自分にとっては間違いなく「縋る先」だろう。健人が生身の人間でないのを知っているのは、父親を除けば彼女しかいない。秘密を共有できる彼女を失って一人になった自分が、真っ当に生きていけるのかどうか、健人には分からなかった。


「もしかしたら、ですけれど。私にも何かの幹はあるのかもしれません。ビビさんのものみたいに生まれたときからすぐそこにあるようなものではないのかもしれませんけれど。ひょっとしたら、ネイティブの日本人はそういうのを見つけようと足掻くことで大きくなるのかもしれませんね。夢とか、憧れとか、家柄とか、パートナーとか、ですかね」

「ふーん? 兄ちゃんのは何だい?」

「今ぱっと思い当たったのはパートナーになります」

「おお、お熱いこった」

「茶化さないでくださいよ、結構真剣に考えたんですから」

「真顔で愛する人とか言う方が悪いな」

「掃除しましょう、掃除! 何だか馬鹿にされた気がします!」


 健人はガタガタと床に置かれたバケツを揺らし、話題の切り替えを図った。ビビさんは面白い遊び道具を見つけたと言わんばかりにいくつか低俗な質問を飛ばしてきたが、健人はそれらの殆どをしっかりと遮断した。

 ただし、人生経験というのはどうしても物を言うもので、

「それで? 子どもは?」

「止めましょうって」

「その反応なら居ないな」

「だから止めましょうって」

「そうかそうか。出産許可申請はもう出してあるか?」

「だから」

「出してないな? なら早いとこ出しとけよ? そうしないと一生二人きりで生きることになる世の中なんだ。現に俺がそうだった」

「……分かりましたよ、帰ったら相談してきます」

「おお、マジで出してなかった」

「ビビさん?」

「さっさと男になる決意は固めちまえよ。ちなみに俺には娘が二人居る」

「ビビさん!」


 ゲラゲラ笑うビビさんのことを強めに小突いて、今度こそ健人は掃除の仕事に集中することにした。






 その後二十分ほどをかけて、トイレの消毒までを終わらせた健人はビビさんに礼をした。

「ありがとうございました。おかげさまで、思っていたよりもかなり早く終わりました」

「良いってことよ。なかなか楽しかったしな」

「私はすごく疲れた気がしています。どうしてですかね」

「どうしてだろうなぁ」


 このまま話を続けてもろくなことにならない気がして、健人は手を振って話を無理矢理切り上げた。唇を尖らせたビビさんは大げさに残念がる振りをしながらも、引き際はわきまえているのか、「次は中庭の雑草でも抜いてくるかね」と健人と別れる方向に体を向けた。

 そうして歩き始めたビビさんは、しかしすぐに足を止め、


「そういえばだが、どうして相田君はそんなに元気でいられるんだ?」


 と疑問を発した。それは少し前に健人がビビさんに聞いた質問ととても似ていた。


「どうして、ですか。……私はあくまでもここの職員な訳ですので、乗り越えなくてはならないものを沢山経験してきました。だから、という答えで十分ですか?」


 不思議なほど真剣な声色だったので、健人はバケツにたわしを詰め込んでいた手を止めてしっかりとした答えを返した。元気であるか否か、と一義的に考えるなら、おそらく今の健人は元気ではない。ただ、入所者に安心感を与えるという職務を背負っている以上、疲れはなるべく隠すように振る舞ってきた。おそらくビビさんは気付かなかったのだろう。


 そう推測しつつ彼の顔を窺うと、彼の眉が少し揺れ動いたのが分かった。まるで何か子どもに諭そうとしているかのようだった。


「違う違う、もっと兄ちゃん自身の話だ。10%の命を奪う、って宣言があった訳だろ? 日本ブロック全体の人口に対して終の住処居住者はせいぜいが数%って所だ。あんたらだってすぐに殺されてもおかしくないんだぞ」


 彼が口にした「10%」という数字。

 ギデオンの右手の声明文の一部。


 それが意味するものを理解した瞬間、血の引く思いがした。

 

「……!」


 今生きている全ての人間が、もうすぐ10%の確率で死ぬのだ。健人自身も、周りの人たちも。


 どうして今まで気付かなかったのだろうか。疲れていて理解力が落ちていた、ということなのだろうか。それとも、目の前で亡くなっていった人たちが多すぎて、現実味を感じられていなかったのか。


 突然震えだした健人を心配するように、ビビさんは健人の肩に手を置いた。

「すまねえ、余計なことを言ったかもしれない」

「いや、全然余計ではない、です」

「そうか。その分だとまず間違いなく昨日から奥さんとまともに連絡取り合ってないだろう。すぐにでも帰ってやるんだな」


 彼の発した言葉は、数秒前から健人の心を埋め尽くしていた恐れに、更に締め付けるような絶望を加えた。


 そうだ。

 花菜と会わなくてはいけない。

 どちらも生きていられる内に。


「っ、はい! ありがとうございました!」


 片手を差し上げて軽く振ったビビさんに焦る気持ちを隠さないままに礼を述べて、健人は掃除道具を掴んで走り出した。


 昨日花菜と交わした少しばかりのチャットを読み込んで、振り返る。


【大丈夫?】

【大丈夫!!!】

【良かった、元気そうだ】

【健人連絡付かなくて心配してたの】

【生きてるからあんしんして】

【良かった、本当に良かった】

【こっちは沢山の人が倒れてしまったから、今日は帰れなさそう】

【やっぱり?ニュースが言ってるみたいな感じ?】

【ニュースのことはよくわからない

 でも、20人以上が殺された】

【うわぁ】

【ごめん、しばらく忙しいから、次いつ連絡できるか】

【分かった

 今日は帰ってこれないってことでいい?】

【うん。明日のことは分かったら連絡する】

【頑張って……!!】



 ここまでが、事件の直後だ。


【ねぇ、声明文なんだけど】

【見た。何が悪魔様だ、ギデオンは旧約聖書における信仰の人だって奴らも知ってるだろ】

【ね、ほんと。】

【マジでふざけてる。大量殺人に敬意もクソも無いに決まってる。もし悪魔様ってのが本当にいるとしてなんで神の枷を壊す方に行かないんだよ、神の枷の中で遊んでんじゃねえよ】

【人の心を誑かして悪事に手を染めさせる、って意味では最高に悪魔らしいね】

【駄目だ、暴言しか出てこない。止めよう】

【仕事は落ち着いてきた?】

【なんとか。あとは朝ご飯を無事だった皆さんに配って、それを片付けたら、一眠りできそう】

【そう。帰りはいつ頃か分かる?】

【まだわかんない。今日中には、って信じてる】

【分かった。仕事中に帰ってきてもいいようにご飯は温めるだけにして用意しておきます】

【ありがとう!】



 ここまでが、声明文が公開された後の、今日の朝。心配の言葉の一つも見当たらない。


 いくら見返してみても、花菜がこちらの精神状態を汲んでくれていることだけが読み取れ、自分が花菜に何かを与えたという形跡は何一つ出てこなかった。

 バケツの取っ手を強く握り込んだ左手が鈍い痛みを発していた。

 一刻も早く仕事を片付けて、花菜と話をしなくてはならない。きっと彼女は健人の浅薄さのために、大きな不安を一人で抱えているのだから。

 


 その後健人は所長に帰宅を申請したが、許可が下りたのは結局その日の夜遅くだった。それまでの時間、健人は何度もチャットに何かを打とうと試みたが、結局意味のある言葉を書き出すことはできなかった。謝罪と、これから訪れるかもしれない喪失に向かうために満ち足りるだけの感情を文字によって表現しようとすると、それはどうしても空虚に映ってしまうのだった。

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