第二次解放作戦
今日も今日とて、終の住処では入所者たちが先の短い人生を目一杯に満喫するためのプログラムが実施されている。単に入所者と一口で纏めても、彼等彼女等は年代も性別も人種も様々であり、よって様々な種類のアクティビティを提供しなくては全員を満足させることなど到底不可能なのであった。
現在のプログラムは入所者を何人かでグループ分けし、ボードゲームで遊んでもらうという趣旨の物だった。勿論終の住処には古今東西多種多様なボードゲームが揃っており、頭を使った遊びを楽しみたい入所者たちにはパズルゲームを、賭け事に興じたい入所者たちには(当然現実の金は扱わせないものの)麻雀の卓をそれぞれあてがうと言った具合に大体の希望には対応できるようになっている。
「リーチだ」
「攻めるねぇイシダさん」
「馬鹿言え、攻めねえともうあんたに勝つ手がないのは分かっとろうに」
「つまり攻めないと点が稼げない役というわけだ」
「お、お、揺さぶりか?」
「イシダさんって本当に嘘つけないねえ」
「うるさいうるさい」
「安パイが結構残っとるのよ。ちょいと早計だったのと違うか?」
「は、どちらにしろテンパイはテンパイよ」
「甘い甘い、考えなしに突っ走る内は勝てんよ」
麻雀で遊ぶ組が一番騒がしいのはいつものことだ。皆に慕われているイシダさんが生粋の賭け事好きというのも相まって、常に麻雀には希望者が殺到する。
「相田君ちょっといいですかー?」
その微笑ましい光景を眺めていると、ふと遠くから声が掛けられた。振り返ると、豊かな白髪を後頭部で結んだ所長が健人に向かって集会場の入り口で手を振っていた。何かまずいことをした記憶はないし、声色からしても相談事があると考えるのが妥当だろう。
「今行きますー!」
健人はすぐに呼びかけに応じた。入り口で所長と向き合うと、彼は「ありがとう」と述べそのまま要件を口にした。
「少しキッチンまで来ていただけますか? 相談したいことがありまして」
「あ、はい。少しお待ちいただけますか? ここの監督役を交代してきますので」
「はい、よろしくお願いします。それでは、私は先にキッチンに入っていますね」
集会場の監督役を近くに座っていた同僚に任せてキッチンに向かうと、所長を筆頭として何人かの調理師、更には入所者の一人が椅子に腰掛けていた。
「こんにちはビビさん」
軽く挨拶すると、ビビさんはひょいと片手を上げて指をぱらぱらと前後に震わせた。立派な髭をたくわえた彼はパキスタン移民の間に生まれた、いわゆる移民二世だ。
「何でしょう?」
「相談というのはですね、相田君の豊富な知識と高い事務処理能力に頼ってしまおうということでして。今度ハラルのご飯でイスラム文化パーティーを行うことを計画しているのですが、今はそれに向けた料理の試作をしようとしているのですよ」
「ああ、なるほど。それでビビさんがここにいらっしゃるという訳ですか」
「ええ。彼には味見役の一人として協力を仰ぎました。今日は料理を実際につくるというよりは、その前準備というのが正しいので、実際に味見をするのはまた今度になるのですがね。あとはインドネシア担当でエディさんがいるのですが、今日は体調が優れないらしく、ここにはいらっしゃいません。それはそうとしてですね、相田君には」
そこで言葉を切った所長は、一枚の紙を取り出した。見ると、様々な食材や調味料がリスト化されて並んでいる。
「普段私達はハラルフードを外部の工場から取り寄せる形を取っているのですが、今回ばかりは自分たちで調理することにこだわりたくてですね。それで、これらの材料は基本的に全て最新のハラル基準に照らしてOKとされている物のはずです。なのですが、どうしてもハラルの基準は私達には理解しきれませんでして」
そう言って所長は恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻いた。
それは合成食糧が一般に普及して以降、イスラム教に限らず全世界の各宗教に関わる人間の共通の悩みであった。遙かな昔より、例えば豚由来のゼラチンを添加物とした食糧はイスラム文化で許容されるのか、などといった化学と戒律との折衝問題とは社会共通の議題の一つであったが、生命量上限を圧迫しないための化学的食糧生産が畜産業を駆逐してしまった今、何を持って「不浄性」「神聖性」が付与されるのかを判断することはそれに輪を掛けて難しくなってしまっているのだった。研究室の中で培養された豚の細胞から抽出された成分は「一度は豚という姿をとった細胞を受け継ぎ複製されて生まれるものなのだから、豚と同様に食べてはいけない」のか、それとも「神は”不浄な豚”を食べるなと仰せなのだから、無菌環境で生まれた、しかも豚の体を成してすらいない物質を食すことがその意思に反する訳がない」のか、今も全世界で似たような議論が燃え上がり決着し、そして新しい技術が生まれる度に再燃し続けている。こうした討議が戒律に関わる全ての食材について日々繰り返されて行く中で、ハラル基準は全世界に散らばったムスリムたちによって各地固有の文化を反映する形で頻繁に更新され、その結果一年前の禁忌リストすら全く使い物にならないというような状況が生まれていた。
「私達のチェックをくぐり抜けてしまっている物があった場合にビビさん始めムスリムの方々に申し訳ないので、その辺りを相田君に二重チェックをかけて頂ければと考えているのです。皆も私もビビさんも、相田君なら間違いないだろうと」
「了解です。そこまで期待されても、とは思いますが……いつまでに終えれば良いでしょうか?」
「そうですね、来週木曜日の食材買い付けまでには確証が欲しいので、来週の火曜日までとさせてもらえますか?」
「分かりました。……ざっと見た限りだと問題ないように思いますけど、禁忌食材リストが和訳されるまでのタイムラグとかもあるらしいですしね。しっかり裏とっておきます」
「頼みます」
所長からリストを受け取った健人は、それを折りたたんで胸ポケットにしまった。
その直後だった。
椅子が大きくがたつく音にガラスが割れて散乱する音、それに続いて沢山の悲鳴が、遠くからキッチンに届いた。
「!?」
並々ならぬ雰囲気を感じ取って、キッチンにいた全員が音の聞こえてきたドアの方向に注目する。そのドアから顔を強ばらせた職員が現れるまでに、そう長い時間はかからなかった。
焦りのあまり咳き込んだ新人職員の肩をさすりながら、所長は彼に尋ねた。
「どうしたんですか」
「分かりません、何人かが一斉に倒れて、それで、意識がないんです!」
キッチンに緊張が走った。すぐに正常な呼吸を取り戻した職員は、しかし焦燥感を隠すことはなく、所長と健人を集会室の方へ誘導した。
彼について小走りになりながら、所長は矢継ぎ早にいくつかの質問を投げかけた。
「意識がない、というのは?」
「そのままです! 床に崩れ落ちたり机に突っ伏したりして、ピクリとも動いてくれないんです!」
「寿命が来た、という訳ではないのですね」
「十人以上も一斉に寿命を迎えるなんて見たことないです、あり得ません!」
「一斉に、というと、本当に同じタイミングでということですか」
「はい、全く同じでした!」
「……救急車は」
「和田さんが電話掛けてます!」
質問毎に所長の眉間に刻まれた皺が深くなっていくのが、健人にはありありと認識できた。最終的に、これは、と小声で呟き、それっきり彼は黙り込んでしまった。
そして、三人は集会場に辿り着いた。
そこはまさしく阿鼻叫喚の図だった。
たった数分前までゲームに興じていたはずの入所者たちがそこかしこで寝かされており、男性職員たちが必死の形相で心臓マッサージと人工呼吸による蘇生を試みていた。手が足りなかったのか、無事だった入所者のうちの数人も蘇生措置に加担していた。気の弱い入所者は窓の外に向かってえづいていて、それを支える女性職員たちもこみ上げてくる物をこらえられない有様だった。
割れたコップの破片にこぼれた飲み物、ボードゲームの駒やトランプ、果ては血までがぶちまけられ踏み場のなくなった床を進み、健人は現状の把握を試みた。
「イシダさん! おい、イシダさん!」
寝かされている入所者の内の一人に、イシダさんがいた。心臓マッサージの振動で上下に力なく揺れ動き焦点の定まらない双眸は、彼の普段の活力に満ちた姿から想起されるものからはほど遠かった。
倒れているのは十五人。健人の記憶によれば、この集会場には六十人と少しの入所者たちが集まっていたはずだ。その内の四分の一が倒れている、という計算になる。
あまりにも異常な光景だった。それだけの数が同時に寿命を迎えるというのを、健人もこれまでの終の住処での勤務で経験したことがなかった。
事件性があるのかもしれない、というところまで思考が巡った時、彼の脳裏に絶望的な予想がちらついた。
「まさか……」
それを確かめなくてはいけない、と思った。できるだけ早く。
この現象はこの集会場に限定された物なのか? それとも、施設の他の場所でも発生してしまっているのか?
「所長、私は三階の各個室を見て回ってきます。木戸くん、二階を頼めますか」
「は、はい」
「急ぎましょう」
報告のタイミングで近くに居た後輩を引き込み、健人は施設の各個室にいる入所者たちの安否確認を行うことにした。風のように駆けて階段を三段飛ばしで登り、死んでいてくれるな、と願いながら最も階段に近い個室の扉を開けた。
この部屋の主の趣味である、白を基調としたインテリアの真ん中に鎮座する安楽椅子が、腰を折り曲げた窮屈な前屈姿勢で動かない老年の女性を静かに受け止めていた。
「ミツイさん!」
彼女の体を楽な姿勢へと速やかに移し、その右手首に指を当てる。
脈が、ない。
息もしていない。
既に彼女は事切れている。それを理解した健人はゆっくりと彼女の手首から手を離し、そっと手を合わせた。
吐き出した息が掠れていることが、自分でもよく分かった。集会場以外における犠牲者の存在は、最悪の予想が当たってしまっている可能性を極めて大きい物とした。おそらく、焦ったようにして全員の安否を確認する必要はもうないだろう。とっくのとうに、手が下されているのだから。
次の部屋の住人は部屋を留守にしていた。その次の部屋の住人は引き続いて響き渡る悲鳴と怒号に酷く怯えていたので、健人は彼に当面の身の安全が保障されていることを伝え、決して部屋から出ないよう言いつけた。
同じようにしていくつかの部屋で入所者を落ち着かせ、また、いくつかの死体に手を合わせた後、健人は三階の最も奥の部屋に辿り着いた。表札にはタカイの文字があった。廊下に微かに漂う臭気の原因であるここの部屋の住人が生き残っているのかどうかだけが、今の健人の気がかりだった。
手の震えをどうにかこうにか押さえつけ、扉に手を掛けて引き開ける。
「タカイさん!」
タカイさんは傾斜機能によって座椅子のようになったベッドにもたれて本を読んでいた。部屋に入ってきた健人に気付いた彼女は普段通りの顔をして、初めて会う職員に対して普段通りに振る舞った。
「あら、そんなに焦ってどうなさったの?」
健人は大きく息を吐いた。今度のものは安堵による横隔膜の解放だった。
「あ、いえ、何でもない、です。……その、定期巡回中でして。失礼しました」
「そう。ご苦労様」
鋭い目線がふっと緩められ、タカイさんは定期巡回を取り繕う健人を送り出した。
扉を閉めた後、思わず健人は廊下に崩れ落ちた。絶望と安堵がない交ぜになって、健人の頭を酷く締め付けていた。
集会場に戻ると、まだ蘇生の試みが続けられていた。
健人は若手の職員たちに交じって入所者の胸を押し続けていた所長に交代を申し出て、そのまま心臓マッサージをしながら三階の入所者たちについての報告を行った。
「ミツイさん、ヒラトさん、ニイボリさん、テヅカさんが似たような状態です。呼吸、脈拍共に停止しています」
「そうですか。……やはり、そうなのか」
おそらく所長は健人と同じ結論に至っているのだろう、その顔には諦めの色が濃く浮かんでいた。
そこに和田が落ち込んだ顔でやって来た。
「119だけじゃ埒があかなくてあちこちの病院に電話をかけて来たんですけれど、今はどこも全部の救急車が出払っていて、すぐにここには回せないそうです……」
どこも全部の救急車が出払っている。つまり、都内の各所で大量の急病人が同時に発生した、ということだ。
もう間違いない。
「……わかりました。ありがとう」
「いえ……もう少し、頑張ってみます」
和田が疲れた顔でまたウェアラブルデバイスに119を打ち込もうとしたところを、所長が引き留めてテレビの方を指さした。
「臨時ニュースをお伝えします」
集会場の隅でずっとのどかな田園風景を流していたテレビが、緊迫感のあるアナウンサーの声を送り始めた。
「全国の、現在確認が取れた限りでは百三十カ所以上の終の住処において、入所者複数名が同時刻に意識を喪失する現象が発生しました。また、先ほど、「ギデオンの右手」を名乗る団体によって、「第二次解放作戦」の発動を主旨とする声明が各報道機関に対して送付されています。繰り返します。全国百三十カ所以上の終の住処において入所者複数名が同時刻に意識を喪失する現象が発生し、また、「ギデオンの右手」を自称する団体から「第二次解放作戦」の発動声明が各報道機関に対して送付されています。情報が入り次第詳しくお伝えします。身の回りの方々の安否を確認してください。直接連絡が付かない場合、職場や学校へ電話を掛けることはしないでください。特に必要でない場合に救急車を呼ぶことを控えてください。東テレ系各放送局によりますと、全国二百カ所以上の終の住処において、入所者複数名が同時刻に意識を喪失する現象が発生しました。また、先ほど――」
不思議なくらいに静まりかえった集会場に響き渡ったアナウンサーの声は、心臓マッサージを続けていた職員たちの手の動きを全て止めるのに十分な力を持っていた。
「あの時と非常に似た現象です。二十五年前も、こういう風に入所者の皆さんや同僚たちがみんな一斉に倒れて、そのまま亡くなりました。二度と見たくないと思っていました。でも、間違いないでしょう」
二十五年前の解放事件を終の住処の職員として経験している所長の発言には、相当な重みがあった。健人には、少し俯いた彼の握られた拳から力が抜けたのが見えた。
しかしながら、顔を上げた所長の両目には、僅かながらも光が戻っていた。
「あの時と違って、私達は全員を喪った訳ではありません。従って、私達には施設の正常な運営を維持する義務があります。力のある職員の皆さんは全館から被害者と予備のベッドを医務室の隣の空き部屋に集めてください。お身体が腐ってしまわないよう、処置をとらなくてはなりません。その後の扱いについては、追って検討します。それ以外の職員は、無事だった入所者の方一人一人にメンタルケアを行ってください。それと片岡君は事務室に応援に行って電話番を担当してください。おそらく、ご家族の方々から沢山の電話がかかってくるはずです。これは皆さんに共通ですが、決して誰が死んだ、誰が生きている、と言ったような情報を未確定段階で口にしないように。以上、皆さん取りかかってください」
その言葉に続いて所長は手を思い切り叩き、生気を失っていたようだった職員たちは響き渡った破裂音によって我に返り各々の任務を全うすべく動き始めた。