「愛していました」
呼吸と代謝が健人の全てだった。
部屋の隅で膝を抱える健人の視線の先ではのっぺりとした床をクリーム色の明かりが均質に照らし、装飾のない壁との境目を曖昧にしていた。本当はそこに微細な石理や目地が織りなす僅かな模様があったとしても、眼球の視細胞が送り出す電気信号は健人にとってとうに何の意味を持つこともなかった。惨めに小さく丸まった体の中で擦り合う腿と腹とが熱の放射を向け合っているというだけで時間が溶けていく程度には、健人は外の世界から切り離されていた。
そうやって静かにしていれば、たまに粗末なサンドイッチやペットボトルの水が健人の前に出現した。健人はそれに気付いて手をつけたり、つけなかったりした。いつの間にか寝ていたり、いつの間にかトイレに座ったりしていた。
時折、健人は震えた。一度震えが始まれば、それはとても長い時間続き、そして体からエネルギーが失われることで止まった。
自分がどうして震えているのか分かっているのに、どうして震えているのか分からなくなることがあった。自分が自分に拒絶されていると感じたのは、七回目の眠りが尿意によって妨げられ、初めて意識的に起き上がった時だった。しかしその理解はすぐに彼から外部化され、また彼は訳もわからず震えた。
全ては健人にとって外界の出来事だった。
ある日、気付けば部屋の外に連れ出されていた。
足がもつれて崩れた後、乱暴に背中をつかみ上げられどんと突き放されたとき、そこが外の光の差し込む場所であることが分かった。
「歩け」
命じられたとおり、前に進む。
そこで、健人は手錠がかけられていないという違和感に気付いた。
数日前に一度収監される場所が変わったときは、終始後ろに纏められた両手は動かすことなどできなかったし、おそらく夜だったであろう外の景色を見ることも許されなかった。いま、周囲を埋め尽くすかのように囲む男たちは、みな一様に健人の一挙手一投足に注意を向けるだけで、一向に健人のことを拘束しようとしない。
ぼんやりと抱いた疑問が解消されないままに進む内に、素足だった健人にサンダルが与えられ、健人はそれを履くこととなった。さらに取り上げられていた上着の代わりに厚手のパーカーが与えられ、健人はそれを言われるがままに着た。
そのまま歩いていると、建物の外に繋がる両開きの自動ドアが現れた。
困ったように周りを見ても、誰も足を止める気配がない。
外に出る。振り返ると、そこはどうやら川崎の警察署であるらしかった。
乗せられた車に数分揺られた後に、健人は降りろという指示を受けた。車のドアの外には、何の変哲もない住宅街が広がっていた。
また周囲を無数の警官たちに囲まれ、歩く。
天幕の張られたテントに入ると、中には驚いたことに花菜が待っていた。
会えないでいた間に何があったのか、彼女の顔には無数のひっかき傷がついていて、その上健人の知る姿からはかなりやつれてしまっているように見えた。その姿を直視できず、健人は力なくうなだれた。
程なくして、花菜の朗々とした声が響いた。
「今から私が行う行為は、常に勲さんによって監視・判断されています。もし皆さんの違反行動が確認された場合に何が起こるのかは、皆さんの想像するとおりです」
何を言っているんだろう、と素直に不思議に思った。
親父が監視するも何も、親父は捕まっているのではなかったのか。
風を感じて健人は顔を上げた。
目の前に花菜が立っていた。
喜びとも悲しみともつかない感情を顔に浮かべた彼女は、すぐにきゅっと唇を結んで表情を引き締めた。
花菜は右手の人差し指を伸ばした。
「……え?」
「私の指先に注目して」
健人は身体に刻み込まれた記憶に従って、殆ど自動的に花菜の誘導に従った。
驚く健人の前で、花菜は伸ばした指を時計回り・反時計回りに一度ずつ回し、そしてそっと眉間に触れた。
「指令。コード1・電脳プログラム干渉・自我系項・制限項・削除」
聞いたことのないコマンドだった。
「なに、を?」
花菜はふっと笑った。
「これで、健人は自由になった」
「……自由?」
「そう、自由。定めも呪いもなにもない、完璧な自由」
温かな笑みと共に、花菜は懐から小さく折りたたまれた紙を取り出した。
健人の前で、花菜は丁寧にそれを広げて、健人に手渡した。
「読んで。そして、貴方の答えを聞かせて」
受け取ったA4の紙には、罫線とその上に花菜が手書きしたらしい綺麗な字が並んでいた。手紙のようだ。
警官たちを脅迫しながらその手紙を読ませることが花菜にとって何を意味するのか、健人には皆目見当も付かなかった。
「これを読んだら、どうなるの?」
「それは、健人が決めることかな。でも、私は健人を信じているから」
まるで答えになっていない答えに、健人は最早手紙を読むこと以外に残された選択肢はないのだと理解した。
逆さに持っていたらしい紙をひっくり返し、表裏を確認して文章の先頭から目を通す。
[ 健人へ
本当は、こんな小さな紙に収まらないくらい沢山の言葉をここに書きたいです。もっと深い言葉を使って、どれだけ健人が辛く思っていたのかについて一緒に悲しんであげたいし、健人を生かしてくれないこの酷い世界について一緒に嘆きたいし、私がどれだけ健人のことを死なせたくなかったのか、どれだけ今も健人のことを思っているのか、知らせてあげたい。
でも、そうやってちゃんとした手紙を書くだけの時間は、もう私と勲さんにはありません。いつ、勲さんの最後の一手が警察の手で無力化されてしまうか、分からないからです。
だから、簡単に私のお願いだけをここに書きます。私が愛した健人なら、きっと応えてくれると信じています。
最初に私がやったのは、貴方の中から全ての行動原理を取り除くコマンドの導入です。昔、もう二度と機械的な操作をして欲しくないと言っていたのは、よく覚えています。約束を守れなくてごめんなさい。それでも、どうしても、こうしなくてはいけませんでした。
既に貴方から『全ての人を愛さなくてはいけない』という義務は消え去り、貴方を縛るものはもうなにもありません。いま、健人は、純粋に健人自身の望むことを、自由に実行できるはずです。それを踏まえて、これを読んで、私に答えを教えてください。
私は、健人が全てを知った上で一度は死を望んだことを、父(中沢のほう)経由で知っています。健人がもう自分の死以外の何を選ぶことができないというのも、知っています。でも、私にはそれがどうしても受け入れられなかった。あんなに人でありたいともがいていた健人が、他人に「機械」としての無慈悲な終焉を規定されて、それを受け入れさせられるという事実が、私にはどうしても許せなかった。
だから、これは私から貴方への、死に方の提案です。
私は、健人に「正しく人間として生きたんだ」、と人生を振り返って欲しい。こうやって捕まってしまう前にとてもさっぱりした顔で言っていた、「いつか来る最期の時に胸を張っていたい」という言葉を、現実のものにして欲しいんです。そのために、今の健人に何ができるのかを、伝えます。
もし、健人が普通の死に方をしたとします。(こんな仮定を置いてしまって、ごめんなさい) この世界にはとある生体アンドロイドの死体だけが残り、警察はそれを国に報告するはずです。そうすれば、きっと沢山の研究者や企業が群がってきて、「テロの手口を知るため」とかの口実をつけて、科学技術の塊であるその死体に詰まったものを必死に暴こうとするでしょう。そんなことになってしまえば、もしかしたら、健人の電脳(つまり、この国の人口の3割を消してしまった技術)の構造までも周知のものとなって、これからの世界に核兵器よりも恐ろしい殺戮兵器を遺してしまうことになるかもしれません。そんな未来を、私は望みません。誰も望まないでしょう。
だからこそ、貴方は「私たちの未来を守る」という決断をすることができます。健人が跡形もなく自分を消し去ることができたなら、私達が苦しむ要因となった、健人を形作った電脳は、二度とこの世界に再現されることはないでしょう。健人がそうやっていなくなれば、この国に沢山の生命リソースが戻ってくるだけではなくて、二度とこの世界から25年前のように無実の人たちの魂が失われることはなくなるし、二度と人々が理不尽に家族を失って嘆き悲しむこともなくなる。これが健人という人間が実現できる最大の成果で、私が最も望むことです。
そのために、勲さんがこの駐車場の隣にある武蔵組鋳造所という場所で、健人の身体を完全に焼き捨てる準備を整えて、健人を待っています。私は健人の身体から、昔あの川べりで女の子を助けるためにそうしたみたいに、全ての制限を取り払います。ここから力ずくで逃げ出して、溶鉱炉に身を投げてください。
きっと、とても辛い死に方になると思います。
鉄すら溶かすような高温の中に生きたまま身を捧げるというのが、どんな苦痛となるのか、私には想像もつきません。健人自身には何のメリットもないどころか、苦痛というデメリットしかない死に方となるでしょう。
そもそも今、健人には、人を愛する必要はありません。私と健人とをつなぐ「呪い」も、すでに消え去っています。だから、他人より自分の命が惜しいと思うことも自由で、この場から逃げ出すことだって自由です。死ぬのが怖ければ、私を人質にして、山や森の中で逃亡生活を送ることもできます。
そして、この場に留まって、ただ座して「機械」として「処分」されるという選択を取ることもできます。先に書いた最も苦痛に満ちた最期を受け入れられないというなら、その選択を取ることも、もちろん健人の自由です。
だから、私は、ただ健人に願います。どんな選択も自由に取ることができるようになった今、『人を愛する』義務を失った今、むしろその愛のために、私たちを愛するために、私の願いを叶えて、一番辛い方法で、命を絶ってください。そうしたなら、私は健人が作るこれからの明るい未来を、かつて健人というかけがえのない存在と共に在ったのだと胸を張って生きていくことができます。胸の中にいつまでも健人の愛を大事に抱えながら生きていくことができます。私は健人という優しい人に愛して貰えて幸せだったんだと、いつか振り返ることができます。
一度は受け入れた死という運命を、引っかき回そうとするのは完全に私のわがままです。だから、決してこれはお返しにはならないけれど、私はいつまでも私達のために最期まで生きた健人のことを覚えています。私はいつまでも私を愛してくれた健人のことを愛しています。
愛していました、と言って欲しいです。 ]
最後までを読み終えた健人は、一度手紙の最初に戻り、全体をじっくりと眺めた。
所々に雑な取り消し線があったり、後から足されたらしい注釈が書き込まれていたその手紙からは、文面通り時間の無い中で必死に書き上げたのだろう努力の跡が感じられた。
健人は、はらり、と手紙を支えていた両手を下ろした。
「「僕のことを信じている」、か」
呟くように花菜のメッセージを復唱する。
手紙の内容を照らし合わせるなら、僕にはどうやらまだ、やらなくてはならないことが残っているらしい。
「こんなことを言うなんて、本当に我儘だね」
思わず笑いがこぼれて、しかしその笑みは自嘲的なものでは全くなくて、それで健人は自分を取り戻したような心地がした。
またこうやって笑うことができるとは思ってもみなかったな、と独りごちる。
「……ごめんね」
「もちろん、僕は今も皆を、花菜を、愛している。答えなんて最初から決まってたようなもんじゃないか」
「ごめんね、ごめんね」
謝る花菜の両目には大粒の涙が浮かんでいた。彼女はそれを必死に隠そうとしながら、しかし表情には隠しきれない陰が浮かんでいた。健人は手を伸ばし、花菜の頬の筋を拭った。
「僕は君の願いを叶える」
そう言った瞬間だった。健人の視界は一瞬で真っ白に染まって、そして身体の感覚が曖昧になった。
気付けば、健人は木の上にいた。
枝に囲まれた狭い空間のなかで、周りでは自分と同じ黒いふわふわを身に纏った生き物が静かに息をしていた。
僕のきょうだいだ、と直感的に分かった。
高い空の彼方から羽音が近づいてきて、一瞬横切り、また帰ってきた。それで健人は食べ物にありつくために思いきり首を伸ばして、大きな口を目一杯開いた。
「……!」
健人は我に帰った。目の前にはもう親鳥ではなく、さっきと全く同じ顔をした花菜がいた。まるで時が止まっていたかのようだった。
それで、健人は何が起こったのかを理解した。
「どう、したの?」
「『知らせ』が見えたんだ。どうやら、僕は最期に人間として神サマに認めて貰えたらしい。カラスの姿をしていたと思う。こんな嫌われてしまった僕には丁度良いね」
花菜がいつかカラスを見かけた時に思い出してくれればいいな、と祈りながら、健人は花菜を安心させるために必要な言葉を探した。
「……タカイさんと一緒だと思えばさみしくはないかな。空を自由に飛べることが今から楽しみで仕方ないよ」
それで何度も花菜は頷いてくれた。
これで、もう語れることはなくなった。
健人は手紙を折り目の通りに綺麗に小さくたたんで、左手の中に握りしめた。これから自らを襲う苦難の中で、それだけは手放さないという決意を固めた。
花菜と目を合わせる。今にも泣き崩れてしまいそうな彼女は、しかしまだやらねばならないことを残しているからか、両の足でしっかりと地を踏みしめて健人を見つめていた。
なにを言えばいいのかは、自然と分かった。
「最後に、これだけ。僕が先に逝くはずではなかったから、本当は花菜から聞きたかったな」
周囲に詰めたまま今にも襲いかかってきそうな警官たちにわざわざ聞かせることもないと思ったから、健人はそっと花菜を抱きしめて、耳元で小さく囁いた。
「愛していました。僕のことを愛してくれて、ありがとう」
一瞬だけ花菜の体に力が入って、すぐに抜けていった。
それが何を意味するか分かっていたから、健人は抱擁を解いて、額を差し出した。
花菜は辛うじて儚げに笑って、指を構えた。
「指先に注目して」
これで花菜の声を聞けるのも最後になる、ということか。
「指令。コード1・電脳プログラム干渉・筋組織項・出力制限項・削除」
ああ、もっと長いコマンドだったらよかったのに。
たったの六十六音節しかない。
「指令。コード5・神経ネットワーク介入・痛覚削除……いってらっしゃい」
いってきます。
健人は思いきり背後の警官たちに飛びかかり、厳重に構えていた彼らを力でなぎ払いながらテントを飛び出した。警棒で殴られたり横から首を掴まれたりしたのは全くダメージにもならなかったから無視して押し通り、スタンガンのような物を突きつけられたときだけは丁寧に思考クロックを引き上げて回避行動をとった。
ちらりと背後を伺うと、ようやく花菜は力を抜くことができたようで、地面にぺたりと座り込んで涙をぽろぽろとこぼしていた。
花菜が、さようなら、ではなく、いってらっしゃい、という言葉を選んでくれた意味を、大事にしよう。
銃声が響いて足下で砂利がはじけたので、健人は後ろ髪を引かれそうな思いを無理矢理断ち切って、前に進むことに集中した。
出入り口を守っていた重装備の機動隊員たちに撃たれた傷を抱え、身体のあちらこちらから血を噴き出しながら、健人は鋳造所の中を突き進んだ。
バリケードのように何重にも工作機械が並べられているのを軽く飛び越え熱気の源泉に降り立つと、そこには勲が待っていた。
「本当に来たのか」
驚いた顔で言われたから、少し健人はむっとした。
「何、親父と花菜が作った計画だったんじゃないの?」
「……多くは語らないでおくよ」
「そう」
この反応から察するに、きっと花菜との間でいろいろあったのだろう。時間があるのなら根掘り葉掘り聞いてみたいが、残念なことに、既に背後から男たちがバリケードを突破しようと連携を図っている声が聞こえてきている。
土壇場で、一つ忘れていたことを健人は思い出した。
「そういえば、親父はどうするの?」
「お前が飛び込んでもう助からないと確信したタイミングで毒を飲む」
そう言った勲はズボンのポケットから二つのタブレットが入ったケースを取り出した。
カプセルタイプでないということは、すぐに溶け出して効果が発揮されるように配慮がなされているのだろう。
「じゃあさ。『知らせ』は見た?」
「猿系の何かだったかな。どうやら動物園で飼われるらしい」
「良かった、親父みたいな最悪のマッドサイエンティストはしばらくこの世界には現れなさそうだ」
「神は気まぐれだ。また立花のような人間をこの世界に降臨させるかもしれない」
「ま、こうすることでその確率が少しでも小さくなれば良いね」
勲が思っていたよりも小さな溶鉱炉のふたを開けると、真っ赤な光と熱気が溢れ出した。
熱量に顔をしかめながら、勲が振り返り、健人を手招きした。
健人は穴の縁から足を内側に伸ばした。
痛覚削除の効果すら突き抜けるほどの熱が健人の肌を刺した。ジュッ、と釜に直接触れる部分の肌が焼ける音と焦げ臭い臭いがした。
飛び込んでしまおう、と思ったが、その時勲が突然わざとらしい咳払いをしたので、健人は彼の方を向いた。
「何から何まで、すまなかった」
急にしおらしい態度になるものだから、健人は思わず笑ってしまった。
「いいさ。僕だって十分に「生きた」。今まで育ててくれてありがとう」
「私には似つかわしくない言葉だ、さようならと言ってくれるだけでいい」
「そっか。別に嘘はついてないんだけどな」
すぐ近くでバリケードが破壊される音がして、二人は顔を見合わせた。
健人は下半身全体を釜の中に突っ込んだ。足先がどろりとしたものに触れた気がして、その直後に膝から先の感覚が消滅した。
勲はタブレットをケースから取り出し、口に含んだ。
「またどこかで巡り会うことがあれば、その時はもっと真っ当な親子でありたいね」
「そうだな」
さようなら、と言うかわりに健人は体を支えていた右手を離して手を振った。
勲の姿が遠のいていって、すぐに健人の体は燃え上がった。
身体が溶けて崩れていく感覚を一瞬も途切れることなく認識し続ける電脳の片隅で、「正しく僕は生きたんだ」、という思考が生まれた。その感慨はやがて溶ける身体から五感すらも奪われた分の空いた思考演算領域を満たして、最後に健人は動かない顔で笑うことができた。
壊れていく意識が消え失せるその瞬間まで、健人は握った左手を開かなかった。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。




