「愛」と「想い」と「理由」
ぱちぱち、と泡がはじけるような音が聞こえたと思ったのがその始まりだった。
奇妙にくぐもっていたその音の出所は、彼女自身の首の裏側からだった。
慌ててそこを手でまさぐっても、何も触れる物はなかった。
「!?」
次の瞬間、花菜は目に映る物全てを好きになっていた。壁、天井、机、白い機械、画面、勲、床に落ちた紙切れ、自分の髪の毛、腕、指、爪、親指の付け根の窪み、数年前の切り傷の跡、しわ、全てに対して情が湧いた。
その次の瞬間、花菜は思いつく物全てを好きになっていた。自分を襲う好きという感情の嵐、髪の毛が風に揺蕩う姿、自らが置かれた悲劇的な状況、勲が健人をモルモットのように扱っていたこと、神路が花菜を大事に思ってくれていたこと、健人がもう助からないこと、こうして色々なことを考えること、全て等しく彼女にとって大切なものだと思えた。
その次の瞬間、花菜は全てが好きではなくなった。さっきまで抱えていたあの感情はなんだったのだという恐怖が花菜を満たして、花菜はその場でうずくまり、声の限り叫んだ。
その次の瞬間、花菜は という感情を忘れた。彼女の前に広がる小さな世界には花菜と勲が存在しているだけで、他の全ては生きていくために適切に利用されなければならない小道具だった。
その次の瞬間、花菜 は うれしかった。
その次の瞬間、花菜
そして、花菜の世界は元の色を取り戻した。
花菜は、自分が白い台の上に寝かされているのに気付いた。
強ばって満足に動かない首を捻ってみれば、側で勲が心配そうに花菜を見下ろしていた。
「嫌ッ!!」
花菜は叫んで、手足をひたすらに振り回そうとした。
あのあまりに悍ましい現象を引き起こした下手人を少しでも遠ざけなくてはいけない、そういう本能が花菜を突き動かした。
台の上でもぞもぞと体を動かすのがやっとだった。
「まだ動けないはずだろう。無理はしない方が身のためだ」
勲が優しく声を掛けてきた。
それで花菜の心は安らぎを覚えた。
「こうして意識のあるまま処置をするのは情報処理量の観点から避けられなければいけなかったんだが、これ以外の方法はなかった。申し訳ない」
謝られたことで、心からまた警戒の色が薄れていくのが知覚された。そうなることは自然なことのように思えた。
「……落ち着いてきたかい?」
落ち着いている、ような気がする。多分。
「はい。なんとか」
そうか、と勲は小さく呟いて、そして笑顔と共に語りかけてきた。
「もう一度確認する。健人に、私と共に死ねと命じてくれ。それが唯一の正しい未来を導く方法だ」
答えは一つしかない。
「嫌です」
「……そうか。貴女もか」
何のこと? という素直な疑問が喉を通過する前に、「すまなかった」と聞こえてきて、直後に花菜は意識を失った。
花菜は目を覚ました。今度は白い台ではなく、さっきも座っていた椅子の上にいた。
意味も分からず頭を抱えたとき、側の机にかたん、と音を立てて湯気を立てるマグカップが置かれた。
「ただのハーブティーだ。気持ちを鎮める効能がある、と言われている。飲みたいと思ったら、飲みなさい」
「あ、ありがとう、ございます」
たどたどしく礼を述べ、花菜は素直にカップに口をつけた。
爽やかな香りが鼻腔を満たした。
カップを置くまで、勲はただ黙って花菜の少し横の虚空を見つめていた。
「お口にあったかい?」
「……おいしかったです」
「良かった」
短い会話はそこで終わり、静寂が降りた。勲は動かなかった。
会話の主題を決定する権利を委ねられたらしいと察した花菜は、おそるおそる聞いた。
「さっきのは、何だったんですか?」
「花菜さんの大脳から脳幹にかけての各所に選択嗜好的な反応を導くための刺激を加えた。興奮性シナプスの指向的誘導によってニューロンの発火を誘発した、というのがより正しい表現になる」
「……何を言ってるのか、よく分かりません」
勲は困ったようにも、疲れたようにも取れる笑いを浮かべた。
「花菜さんの中で大きく育った健人への想いは、小手先の技術に対して小揺るぎもしなかった。それ以上は、私にも分からない」
私の想いが、揺るがなかった?
「何が、言いたいんですか」
「人の意思とは、細かくミクロ的に観察すれば、全てはニューロンの発火というゼロイチの情報が集合して生まれる物なんだ。マクロとして発現する「意思」を、ミクロの全数分析によってパターンを解明しコントロールできると思ったかつての私や、立花が、傲慢だったというだけの話さ。私が、立花が遺した技術を二十年突き詰めて得た答えが、「心とはかくも難解なものである」なんだ。笑ってくれ」
勲が自嘲的に笑う横で、花菜は彼の施そうとした理不尽についてようやく結論に辿り着いた。
「私の意思を操ろうとした、と?」
「ああ。そして、花菜さんの中で健人への愛は既に本物に育っていて、操りようもなかった。私の負けだ」
一瞬の躊躇いすらなく、勲は花菜の問いを肯定した。それにより、さっき味合わされた形容することすらしたくない感覚から、突然の問答に至るまでの流れについて、花菜は自動的に説明をつけられてしまった。
私の心の中にある健人に対する気持ちを書き換えることで、私に「健人を排除せよ」という理不尽な要求を飲ませようとしたのだ。そして目の前に座るこの男は、力なく笑うこの外道は、人の心をも己のエゴのためにかき消そうとして、それを何でもないことであるかのように語っている。
壊れている。
この男の心は、完全に壊れきっている。
そうやって勲についての理解が更新されたとき、花菜は別の恐るべき可能性に気付いた。
"既に本物に育っていて"、と彼は言った。
まるで、本物ではなかった時があったというような、私の中の感情が育っていったものと知っているような、そんな言葉の使い方だった。
ここから導かれる結論は一つしかない。
花菜が健人を愛するようになったのは、勲にそうなるように定められたから。
「っ、ぁ、ぅぁ…っ、っぁ」
自らのアイデンティティそのものを否定された花菜の体は恐怖の余りに震え上がり、喉からひゅっ、ひゅっ、と悲鳴にもならない空気の流れの音が断続的に漏れた。
想像を巡らせることを、止められない。
私の感情は、私のものではなくなっていたのか。
だとすれば、それはいつからなのか。
どこからが私の感情で、どこからが操作された感情なのか。
この怯えすらも、私の思いだと言い切れるのか。
これまでの人生の全てが勲の手の上だったとすれば?
私が生きた意味も、消え失せる。私はただの傀儡だったのだから。
私は傀儡じゃない。
私は私なのに。
じゃあ、私の中の「私」はどこにあるの?
悪霊に取り憑かれたようにガタガタと震える花菜を前に、勲は再びハーブティーを勧めてきた。
「貴女がそうやって怖がる理由については、想像ができる。同情を口にすることが許されるならそうしたいところでもあるが、私が犯した罪であるからには、私にはもう何を伝えることもできないだろう。花菜さんが、自分の力で立ち上がってくれることを祈っている」
彼自身の言葉通り、勲はそれだけ言って、花菜の向かいに座った状態から動かなくなった。
震え、涙すら浮かべながら、霧のように拡散してしまった己のアイデンティティを必死に腕の中にたぐり寄せようとする花菜と、それを黙って観察する勲という構図が、大きくもない部屋の中に残った。
どれほどの時間が経っただろうか。
「私は、どこまでが、私なんですか」
考えるのに疲れ果てた花菜は、散漫となった自己の容れ物を欲した。例えそれが勲に与えられる物でも構わなかった。いつか考えることもできなくなってしまうと悟ってしまった花菜には、そのとき心に形を構えられていなければ悲しみに押し潰されてしまうという恐怖が生まれ、その未来への怯えが勲に対する恨みを上回った。
「何が「私」で、何が「私になったもの」なんですか」
勲は静かに答えた。
「今は、一切操作を加えていない。ただ、どこまでを花菜さんと定義するかは、難しい。ついさっきまで、健人に忠実であることを好ましく感じられるような回路が花菜さんの中に存在したから、その影響が色濃く残っているという分析が成り立ってしまう。希望的観測をするのなら、さっき質問をしたとき、花菜さんには健人を切り捨ててもらうつもりで設定を組んでいた。花菜さんはその設定を撥ね付け、健人の味方であり続けた。それは、きっと花菜さんの本心と呼ぶことができるとも思う」
「そう、ですか」
本心、という言葉に、ほんの僅かに花菜は救われた気がした。
まだ、私は健人のことを大切に思うことができている。
私にとって健人は今もかけがえのないひとでいてくれる。
どれほど幼稚で青い想いであっても、何度も唱えていればそれらは正しく花菜という人間を表してくれると思い込むことができた。それが十分なものであるわけもなかったが、それでもなりふり構わず花菜は「健人の味方であったこと」を寄る辺とすることにした。そうすれば、頬を伝う涙がもたらす微細なむず痒さに気付くことや、俯いたままだった体が息苦しさに喘いでいると思い至ることができるようになった。
涙を拭い、身を起こして息を整える。身体の感覚が、ゆっくりと戻ってくる心地がした。
そのとき、勲が切り出した。
「本心、というものについて、一つ花菜さんが知っておくべき話がある。健人のことだ」
一つの単語に吸い寄せられて、花菜は勲の顔を見た。
「健人は『機械でありたくない』といったね。健人が単なる機械でないことを、私はこの世界の誰よりもよく知っているよ。彼は私の意図に反して自らそれを証明して見せたのだから」
花菜は息を飲んだ。
勲が健人について語るとき、それは常に「健人はこうなんだ」という設計者の設計思想を形にした物でしかなかった。
いま、勲は初めて「勲の知らない健人」について語ろうとしている。
「花菜さん、これは質問というより確認なんだが、健人はきっと『人間でありたいから私に都合良く記憶を弄られていたことを認められない』という葛藤に苦しんだだろう?」
「……」
今はもう遠い記憶になってしまった健人の姿が蘇った。
――僕は僕という人間じゃなくて、犯罪者の作り上げた都合の良いアンドロイドになるんだ
健人が壮絶な笑顔と共に吐き出した一言を、花菜は間違いなく鮮明に覚えている。
花菜が何かを思い出したと見てとったのか、勲は花菜の肯定を待たずして話を続けた。
「他人に尽くすべく事件を解決するためには私を犯罪者として扱うこととなる、しかし私が罪人だと確定してしまえば健人は自分の人間性を信じられなくなる。『人を愛する』と『人間でありたい』の二つの行動原理が干渉し合って、健人は身動きがとれなくなるはずだった」
「人間でありたい、という願いすら、健人が自分で持った物ではなかったんですか?」
思わず花菜は疑問を差し挟んだ。
健人を健人たらしめる葛藤までも勲に与えられた物であったなら、もう花菜は健人の何を信じれば良いのか分からなくなると思った。健人を信じられなくなることは、今の花菜にとって、自分を信じられなくなることと同義だった。
勲はゆっくりと首を振った。
「いや、元は健人自身の感情だった。いつしか彼の中で大きく育っていたのを行動原理にアップグレードした形になる。こういう表現をするのも、憚られるが」
花菜はほっと息を吐いた。
少し間をおいて、勲は再び語り始めた。
「その行動原理に縛られていたはずが、健人はものの見事に定められた思考という軛から外れ、自分が人間ではないと定義されてしまうことも構わず第三フェーズの前に私を助けに来た。どうしてそんなことが起こりえたのか、私には到底分からないよ。第三フェーズ後に初めて警察に「相田勲は脅されて捕らわれています」という情報を与えて、健人のジレンマを解消し、第四フェーズの前に石川で救出させる。それまでに、私は自らの記憶までも含めて全ての証拠を消し去っておく。これが本来の計画だった。わざわざそのためだけに健人に思考回路を仕込むことまでしておいたんだ。だというのに、想定外のタイミングで健人が動いた結果がこのザマだ。私は記憶の調整に失敗し、拷問に屈して決定的な情報を吐き出してしまった。健人の想いの強さによって私の計画は全て狂っている」
第二次解放事件の裏側に隠されていた意図が、全て健人という存在を念頭に置かれた上で緻密に編まれたはずだった計画が、明かされていく。
花菜は警察から渡された後隠したままだったレコーダーを勲に悟られないように確かめた。健人の名誉を回復するための情報が得られるかもしれない、と思った。
一方で、花菜はある違和感に気付いた。
健人が勲を救いに行こうと決意したとき、健人は「人間でないと定義される」ことへの怯えを克服したからこそ警察に連絡することができたはずだった。その悩みを引きずってボロボロになりながら動くことは許さないと健人を引き留めたのは、むしろ花菜の方だ。
「いくら強力にニューロンの発火を誘導しようと、結局その起動プロセスは強い感情にいとも簡単に敗北する。どんなに理由を考えてみても、私にはなぜそんなことが起こりうるのか分からない。花菜さんが私の干渉を受け付けなかったことも、ギデオン信者たちの滾りを抑えきれずに起こさざるを得なくなった第二次解放作戦も、健人が行動原理の制限に反して東京の拠点に辿り着いたことも、私にはもう想いの強さが上回ったとしか説明しようがない」
一度違和感に気付いてしまえば、勲の口にする「想いの強さ」という聞き心地の良い言葉も決して正しいものとは思えなくなった。
健人がジレンマを解消できたのは、彼がそうしたいと強く願った上で、タカイさんという存在が彼に大切なものを教えてくれたからだった。健人自身で全てを乗り越えられたというわけではない。
そこに何かの答えを見出すならば。
健人がタカイさんの大切な教えを自分のものにしようと決意したからこそ、ああして立ち上がることができたように。私が健人を大切に思う自分を失わなかったからこそ、今もこうして考えることができているように。私達は「誰か」を理由として私達を定義することができるんだ、と言えるのかもしれない。
だとすれば、一度自らを見失ってしまった健人も、誰かを理由として彼自身のことをまた真っ直ぐに見つめなおすことができるのかもしれない。
何かを、つかめそうな気がする。
「そして、最早私に打てる手はなくなった。この世で健人の味方になれるのは花菜さんしかいないから、その花菜さんに拒絶されてしまえば、私の中に策は残らない」
自らを見失う、というあの壮絶な体験を知るのは、この世で健人の他には私しかいない。健人の人生を形作った苦しみを、その一端を、私は身をもって思い知った。
だから、私が、私こそが、今の健人が何を必要としているのかを理解しているはずなんだ。
私が健人にとっての「理由」となることで、健人は救われる。
どうすればいい?
「好きに出て行くといい。私ももう出頭しようと思う。健人は警察の手によって始末され、私はただの悪人として処されることになるだろう。これからのことはこの世界の人々の良心に託すことになるな」
「――もし」
「うん?」
「もし、健人の良心に全てを託してくれるなら」
花菜はたった今不要となったレコーダーを地面に放り捨てた。からからと音を立てて転がったそれを認識して、勲は驚いた顔で花菜を見つめた。
「一度健人の想いと貴方が呼ぶものに狂わされたこの計画の行く末を、その想いに委ねてみるつもりはありませんか?」




