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機械と愛と烏  作者: 諭吉
四章
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半身

 花菜は一人になった。 

 健人とは「後悔」である、という定義が花菜の心に降りて、それが花菜を深い海の底に追いやった。かけがえのない存在だと信じていた健人が自ら放棄した「人間」の名と共に、花菜は自分の愛までもが丸めてうち捨てられたように感じた。一度そう思ってしまえば、悪い癖が働いて、彼女はどこまでも思索の中に沈んでいった。健人と一緒にいたこの時間とは、私にとって何だったのか。嘘の感情に満ちていたはずもないのに、虚な物に思えて、それが酷く悲しかった。二人で呪いをかけ合ったあの時から、間違いなく花菜は世界を一つ違う方法で、より豊かな色彩で、見ることができていた。それが、一つ考える度にその世界の記憶が色あせていく。ただの赤青緑の合成情報に成り下がっていく。

 そうして一度全ての色が抜け落ちてから、花菜に残ったのは孤独だった。そこにいるはずのもう一人がいなくなったことが、花菜に例えようもない辛さの伴う孤独を与えた。花菜が独房に閉じ込められてから二晩目に初めて泣いたのは、ようやく彼女の中にある喪失が彼女に痛みを与えだしたからだった。

 涙の中目を閉じ、眠り、起きてから、花菜は健人が生きた意味を探すようになった。愛を奪われた彼女には、愛を証明する何かが必要だった。

 生まれながらにして一人のみで背負うには重すぎる罪を背負い、そして今死ぬことによって罪を償おうとしている健人が、この世に存在した意味とは何だろうか。虚ろな心に吹く冷たい風の中で、痛みを養分とし何度赤いバラを掲げようとしても、そのたびそれは簡単にしおれていった。そうして枯れたバラはまた腐り果て、痛みとなり、次のバラを育てるための土となった。そうやって考え続けるほかに、孤独を埋め合わせる方法は残っていなかった。彼は既に自分が人間でないと認めさせられてしまったから、この世界で健人の血の通った愛を証明できるのは最早ただ一人、それを一度心の底から信じた花菜しかいなかった。

 得られるもののない努力を続けることを感情と定義できたならいいのに、と花菜は思った。そうすれば、花菜は自分の中にある動機そのものを愛と呼び、それに依存し、心の平穏を確保することができたはずだった。しかし、彼女一人だけで完結してしまうその歪な感情では、二人の中を巡り合う完全な情熱を知っていた彼女にとっては十分ではなかった。

 いつしか、花菜は何かに祈るようになっていた。神でも悪魔でも良い、もし本当にそうした存在がいるのならば、今の私にこそ救いの手が差し伸べられるべきだ。そうしたら、その手を掴み骨までしゃぶってでも、この身を捧げてでも、健人の愛を取り戻してみせるのに。


 独房に閉じ込められてから四日目の朝のことだった。

「相田さん、出てください」

 花菜は食事を持ってきて回収していくときにしか交流のなかった鉄格子の外から、初めて意味を持った言葉を聞いた。顔を上げると、既に鉄格子に取り付けられた扉は開け放たれていて、その先に何人かの男の顔が見えた。整髪料で似たような形に固められた前髪の下にあった顔は、どれも声の響きから想像していたものよりもやや若いように思えた。

「お話しすることがあります」

 花菜は動かなかった。

 目の前に立つ男たちは皆味方ではないのだという前提の下で動くには、まず何が企まれているのか知らなくてはならないと思った。

 鋭い目つきで睨まれた彼らは、一度顔を見合わせた後、一人の最も若い見た目をした刑事を独房の中に送り込んだ。外交官に選ばれた彼は花菜の前で屈み、片膝をついた。

「これは貴女のことを裁判に掛けるためとか、別の牢屋に送るとか、そういうことではなく、もっと大切なお話があってのことです。我々は急いでいて、今すぐに花菜さんの助けを必要としています。どうか、素直に着いてきて欲しい」

 その言葉に嘘の成分を感じることはできなかった。しかし花菜には彼らを無条件に信用することもできなかったから、差し出された手を無視して立ち上がり、さっと無言で歩き出すことで、相手にその意志を示した。


 通された部屋には、花菜にも見覚えのある顔ぶれが並んでいた。

 無遠慮に彼らのことを観察しているうちに、背後で通ってきた扉が閉まる音がした。

「座ってくれ」

 父の口から出てきたその言葉が、座りなさい、という命令口調でないことに花菜はやや拍子抜けした。

「何の用ですか」

 努めて感情を表に出さないようにしながら、花菜は静かに敬語で聞き返した。

「状況を打破するために、花菜の助けが必要になった」

「今更助けってなんですか。健人に直接死ねとでも説得させるつもりですか」

 うっすらと笑いながら撥ね返す。

 神路は深いため息をついた。

「……端的に言うと、我々は今、相田健人の身柄を巡って、相田勲と取引をさせられている」

 花菜は眉をひそめた。彼女の知る限り勲も健人も共に警察の手の中にあったはずで、そのような構図の争いが起こっているというのは想像しにくかった。

 更に彼女のことを混乱させたのは、神路が次に告げた一言だった。

「その取引材料の一つとして、花菜、お前が指名された」

「取引材料? 私が?」

「ああ」


 神妙な顔で頷いた神路を前に、花菜は彼の発言を必死で咀嚼した。

 勲が健人を巡って取引をしているというなら、その構図はおそらく二つ。勲が健人を救い出そうとしているか、勲が健人をダシにして警察から譲歩を引き出そうとしているか。

 どちらのパターンにおいても、花菜が介入しなくてはならないシチュエーションの想像は付かない。

 あまりに情報が足りないことに思い至り、花菜は「続けてください」と発した。


「質問は自由にしてくれ。かいつまんで説明すると、彼の手には、日本から一瞬で生命を半分以上消し去ることのできるボタンが握られている。そのボタンを使って、相田勲は我々を脅している。既に我々は一度その脅しに屈して、彼の身柄を自由にした。その上で、相田勲は我々に「相田健人を自由にしろ」と言っている。そちらに関しては、今のところ辛うじて応じずに済んでいる。本当に辛うじて、だが」

 思っていたよりも切迫していた状況は、しかし花菜にはどうしても他人事のように感じられて仕方がなかった。そのような事態を引き起こされるに至ってしまったという警察の愚鈍な失態を哀れむ感情すら湧いた。

「それで状況が膠着した後、しびれを切らしたのか、相田勲の要求が「相田花菜を交渉の仲介人としてこちらに寄越せ」という物に変化した。我々としては、花菜に向こうに行ってもらおうという判断をしている」

「仲介人、ですか」

 健人を救い出すことができないから、代わりに私を通じて交渉する。

 勲が辿ったその思考の裏にあるロジックは、いくら考えてみても花菜には分からなかった。

「なんでこんなことをするんですか?国民全員を人質にとっておいて今更私一人を欲しがる理由もなさそうですし、連絡するだけなら通話でもなんでもすれば良いと思うんですけど」

「それが私達にも分からないんだ」

 聞けば、神路もいともあっさりと白旗を揚げた。

 お前が味方になると思っているのかもな、と神路は付け加え、そして

「我々は健人君を渡せない。仮に健人君が勲さんの手に渡ってしまった場合に、どんな事態になるか想像もできない。そのようなリスクをとる訳にはいかない」

と立場を表明した。

「行って、できることなら彼のことを説得して欲しいし、それが叶わなければなんとか彼を怒らせないように帰ってきて欲しい。彼には人を傷つけようという意思がないようだから、お前の身に危険が及ぶことはおそらくないだろう」


 最後についでといった具合に身を案じる言葉が付け加えられたが、実際の所は被害を出すわけにも行かないが一人で済むなら十分儲けもの、という解釈が成り立つだろうか。

 そこまで想像したとき、思わず笑いがこみ上げた。

 なるほど、捨て駒にするなら、私のような既に半分死んでいる人間ほど適したものもないだろう。


「やります」

「……ありがとう」

 特に断る理由も思いつかず、花菜は素直に神路の願いを受け入れることにした。そのとき神路が渋い顔をしたのは、まだ娘に対する情が残っているのだろうな、と思われた。


 


 数日間の拘留で衰弱した体を引きずるようにしながら花菜は護送車から降り、そして言われたとおりにレコーダーを服の中に隠し持ったことを改めて確認した。


 一軒家や小さなアパートの並ぶ何の変哲もない住宅街の中に無数のパトカーや警官たちが詰めかけていて、非日常が街を覆っていることが感じられた。駐車場の前で、花菜を送り届けるべく厳重に武装した男たちが待っていた。頭を下げて「よろしくお願いします」と小さく挨拶すると、彼らは見事なまでの敬礼で答えてくれた。自分のようなただの小娘にもそうした所作で対応してくれるものか、と花菜は面白く思った。


 勲がいるというシャッターの降りた鋳造所の前に辿り着いたとき、背後から追いすがってきた刑事によって神路からの伝言が届いた。

「「お前が無事に帰ってくることが最優先だ。それを覚えておいてくれ」だそうです。どうか、ご無事で」

 たったそれだけを伝えるためにわざわざ人間を一人走らせたのだと思うと、それはどうにもおかしく感じられた。


 つい数日前に、お父さんの前で私は自分の喉をかききろうとしたんだけどなぁ。


 神路という人間が自分に向ける愛情を、花菜はこれまで絞りかすのようなものだと思い続けてきた。神路にとって最も大事なのは仕事であり、次に立場であり、そして最後に家族が来る物だという理解は、幼い頃から家で母親と二人で過ごしてきた彼女にとっては疑うべくもないものだった。そして、それは今も変わりない。今更そんなことを言われたところで二十五年も積み上げてきた解釈を簡単に変えられてしまうほど、花菜は神路という人間を知らないわけではない。

 ただ、こうして手間を掛けて届けられる言葉には裏表など存在しないということも、花菜はよく知っていた。どれほど仲が悪かろうと、何度「私は貴方が嫌いです」という言葉をぶつけられようと、神路は花菜の前で花菜や花菜の大事にする何かを貶すことを一度もしなかった。それが気味悪いと思ったことこそあれ、花菜は父親が娘に向ける情そのものを蔑むような幼稚な思考回路を持ち得なかった。


 だからこそ、と花菜は目の前にそびえるシャッターを見上げ、その中にいるもう一人の父親のことを思った。


 勲は花菜にとって警戒すべき対象になり得ないタイプの人間として映っていた。何度も顔を合わせたことがあるわけではないが、短い交流の中で垣間見えた少し間の抜けたところ、年相応に砕けた人となり、誠実な受け答え、その中に邪なものを感じたことは一度もない。

 初めて会った時に健人がいないところで「健人は、学校ではちゃんと良い子でいるかい?」と不安げに彼から聞かれたとき、子どもがどんな日々を送っているのかに興味を抱いてくれる父親を持った健人のことを、当時の花菜は羨ましくすら思った。大学を卒業する前に健人とパートナー申請を出すと伝えたとき、世間一般からして相当に時期の早い申請であったにもかかわらず、勲が真っ先に「ありがとう」と言ってくれたのを、花菜は今でもよく覚えている。

 あれは、どういう感情の発露だったのだろうか。全て嘘にまみれた、虚飾の言葉だったのだろうか。健人が罪の証明であり、勲の後悔であるなら、日々大きく成長していく彼の中に、果たして勲はちゃんと愛情を注ぐことができていたのだろうか。

 父親から決して正しくはなくとも真っ直ぐな想いを受けて育った花菜には、想像できるはずもなかった。


 だからこそ、花菜はそれを知りたいと思った。

 勲は健人に、何を求め、何を願っているのか。健人の中に何を見ているのか。

 知れば、健人のことをもっと理解できると思った。そうすれば、健人の中に再び火をともせるかもしれないとも思った。

 

 「生きて帰ってこい」という、お前さえ生きていれば他の誰がどうなってもいいんだ、というようにすら解釈できそうな神路からの伝言は、ひとつ大事な点を見落としてしまっている。

 与えられた仲介人としての立場を、彼女は全て健人のために使ってしまうつもりでいた。そのために彼女自身がどうなっても、そんなことはどうでもよかった。


 既に花菜は愛という呪いに一度身を侵され、それを奪い取られた後に残った、半身と呼ぶのが正しい人間なのだ。

 花菜はもう神路の知る花菜ではない。

 だから、神路の言葉も、そして勲の言葉も、もう花菜の半分にしか届かない。

 残りの半分が何を思うのか、それはもう誰にも分からない。


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