取引
事の始まりはあまりに唐突だった。
「相田勲が我々を脅し、交渉を要求しています」
日が傾き始めた頃合いにごくごく一部の上層部にのみ上申されたその情報は、最初は取るに足らない悪あがきだろうという楽観的な観測の下に扱われた。神路も、その時点では脅しの存在すら知らなかった。
それがたった一〇分後に「緊急」という題名を帯びて、解散の準備すら進められていた捜査本部の関係者全員に共有された。ここに至って、事態の切迫性を理解できていない人間は誰一人として存在を許されなかった。
神路が指定された部屋に入ったとき、スクリーン上には既に問題の映像が投影されていた。
一般的な動画配信サイトを経由してリアルタイムで更新されていくその映像には、得体の知れない機械群が十二基、暗闇の中に不気味に浮かび上がっていた。
「これが、奴の言う「生体脳と電脳の接続体」だと?」
「そのようです。相田勲の告げたリンクから自由にアクセスできます。発信元は特定できていません」
神路は思い切り歯ぎしりした。
感情を表にする力を完全に絶たれてしまった娘の哀れな姿に心を痛めていた神路にとって、それ以上に悪くなることはないだろうと思っていた一日は、更に悪い方へと転がり落ちていくのだった。
神路の到着から少しして対話に必要な人員が揃い、勲の独房との直接通信が確立された。
「あー、聞こえるか。こちらは警察庁第二次解放事件捜査本部である」
「聞こえています」
静かな、怒気も狂気も何も孕んでいないと感じさせる、淡泊な声だった。
その声の主が今まさにこの国の行く末をかけた大立ち回りをしてみせようとしていることなど、神路には全く実感できなかった。
「私の方が名乗る必要はないでしょうから、単刀直入にこちらの手札を明かさせて頂きます。既に私からお伝えしたリンクについては開いて頂けていることかと思いますが、間違いないですね?」
「暗闇と何かの機械が見えている」
「よろしい。……それらは、計画が失敗したときの予備として用意しておいた、生体脳と電脳を接続するための装置です。接続のための準備は既に終わっていて、あと信号一つで全ての装置が動き出すような設定となっています。一基一基が第二次解放作戦で使用された機器よりも高いスペックを有しているので、全十二基の稼働は日本ブロックから少なくとも半分程度、ともすれば全ての命を奪い去るのに十分な生命リソース消費を実現するでしょう。そして、この装置の場所は健人にも知られていませんから、皆さんには絶対に辿り着くことができません」
遠藤が鬼のような形相でスクリーンを眺めていた。
勲への”聞き取り”の指揮を執った遠藤にとって、このあまりにも強大な一手の存在を暴くことができなかったのが明確な失態であるからだろうか。それとも、遠藤の施した拷問すらも交わしてみせるほどの策が勲の中には残っていたというのだろうか。
「私の定期的な認証がなければ、この装置は自動的に動き出します。次の認証期限は、今日、十一月十四日の二十四時です」
その一言に刑事たちはざわついた。
勲を収容している独房にはカレンダーも時計も置かれてはいない。それどころか、そもそも勲には昏睡状態から目覚めてから一度も日付を確認できる機会はなかったはずなのだ。にも関わらず日付を特定していることを何でもないかのようにひけらかすという底知れなさが、何よりも雄弁に勲の保持する優位性を証明していた。
勲の発言が正しいのなら、この国に住まう全ての人に明日は訪れないということとなる。そして、恐るべき脅迫を淡々と口にするこの男の手には、それを可能とする技術が備わっている。
「今日があと何時間あるかは知りませんが、せいぜいが八時間といったところでしょう。その時間で私からまた情報を奪い取り、僻地に置かれたこれらの装置に辿り着き、核シェルターにも匹敵する堅牢さを持つ隔壁を突破できるという自信がおありなら、今からお伝えする私の希望は無視して頂いても構いません」
その言葉に込められた意味合いは全く正反対で、挑発という形ですらあるように神路には感じられた。
「要求は何だ」
「どうせ既に健人も捕らえられていることでしょう。私と健人とを川崎にある武蔵組鋳造所という場所で解放してください。そこに認証装置がありますから、我々二人の身柄が解放され次第、私の方で事を丸く収めます」
即座に武蔵組鋳造所についての調査を行うべく指示が発せられた。
「その後どうするつもりだ」
スクリーンに次々と調査結果の速報が並んでいく。
――立地は神奈川県川崎市幸区、現役の施設であり、産業用ロボットの機械部品や船舶機械部品の製造を得意とする中小企業。従業員数二十八名、企業評価は可もなく不可もなく、採用情報に不審点無し。
「言えません。皆さんの害になることはしないと約束することはできますが」
「害になることはしないと言いながら、何故このような強硬手段に出ようと思った。お前の行動はただ罪状を積み上げていくだけの物に過ぎないぞ」
「こうなってしまった以上、私には最早他にとれる手を思いつけません。そうですね、もう少し譲歩するなら、用事が済んだなら私も健人もまたお縄に着くこととしましょう」
「どういう意味だ。息子に会いたいというなら、彼をお前の独房に連れて行くこともできるんだぞ」
「ああ、言葉が足りませんでしたね。たった一度でも私と健人の二人を自由にしてくれないというのなら、残念ですが、この国は滅びます。私は既に死刑となることが殆ど確定している身ですから別に大差はありませんが、皆さんにとってはそうではないでしょう? 一時の間だけ、私と健人の二人を、自由にしてくれればそれで十分です」
勲は独房の床にぐったりと座ったまま、淡々と語り続ける。
――本日・明日臨時休業、理由は現時点で不明。代表取締役社長ヒロシ・エトー・スルップ、現時点でギデオン系組織との関わりを確認できず。関係者のSNSアカウントを複数特定、十月末に従業員が二人失踪している主旨の投稿を確認、調査続行。立ち入りの妥当性を確認中。
「……信じられる訳がないだろうが」
「はは、奇遇ですね。私も国際条約によって明白に禁じられた所業でもって犯罪者を遇する皆さんの言葉を全く信用できません。ですから、私は口約束ではなく、実際の成果をこの手にすることを望みます」
勲の乾いた笑いが響いた。
警察と勲との交渉は交渉の体を成すことなく、警察側の単なる時間稼ぎと化していった。勲はそれに感づきながらも特に打つ手もなかったようで、夜になっても二者の不毛な会話は終わらなかった。
そしてタイムリミットが迫ったとき、警察は辛うじて一つの案を完成させた。
〈相田勲に知られぬように相田健人を護送し、先に相田勲を武蔵組鋳造所に送り込む。二十四時の直前まで相田健人の身柄は渡さない。先に相田勲が根負けして認証をしてしまえば、相田健人をこちらの手に置いたまま、少なくともまた次の認証までは時間的猶予ができる〉
それは相田勲という人間の人格に全てをベットする、一種の賭けだった。
「奴の目的が何かは知れないが、それを達するまで奴自身も死ぬことを選べないと信じれば、ボールはまだ我々の手の中にある。相田勲は本来猟奇的殺人者ではないから、能動的に人をその手に掛けることはできないはずだろう。そうやって時間を稼ぐ間に、問題の装置の置かれた場所を見つければ、我々の勝ちだ」
この言葉を血走った目つきで絞り出した遠藤こそ、この世の中で最も相田勲という人間を網羅的に理解しているはずだという認識は共有されていたから、それに否を突きつけられる人間はいなかった。
そうして舞台は武蔵組鋳造所の中に移った。
厳戒態勢の中銃を突きつけられながら鋳造所に入り、巧妙に隠されていた機器類の側に陣取った勲は、限界を見極めようと刑事たちが見守る中、果たして、刻限である二十四時の僅かに前になって慌てて機器の操作を始めた。
ひとまず時間を確保できたことへの安堵と歓喜が刑事たちの輪に満ちて、彼らは日本全国を虱潰しにする探査の手続きをとるために、意気揚々とJAXAを始めとするリモートセンシングを扱う専門家たちや勲の利用している配信サイトの運営企業などとコンタクトを取り始めた。
状況は一昼夜の間完全に膠着し、警察側はその時間で全国の衛星観測データなどを一日ベースで比較検討しつつ不審な空間の確認された箇所を浚うというプロセスを確立した。AIがはじき出す要検討ポイント数は非常に多く、その全てを詳細に調べるのには途方もない時間がかかると考えられたが、それでも確実に勲の最後の一手を封じ込めるのに十分な成果を得られる見通しが立っていた。
事態が再び急転したのは、勲が鋳造所に入ってから三日目の朝のことだった。
突如、それまでただ暗闇の中の機器類を映していただけだったライブ映像が、セピア色に褪せた色彩の、かつ画角の周縁部が酷くピンボケしている、奇異な映像に切り替わった。丁度顔の辺りで固定された一人称のカメラから撮影された物なのか、撮影者の腕や胸、足が度々映像に入り込んできていた。ブレが大きい上に時折極彩色の放射と呼べるようなノイズがパルス的に画面全体を覆い、そのあまりの気味悪さに、映像を視聴しただけで吐き気を訴える者も現れる始末だった。
しかし、何よりも刑事たちを慄かせたのは、その見た目ではなく内容そのものであった。
おそらく白いベッドに寝かされている撮影者は、明らかに二三人の男に囲まれて、暴行を受けていた。
食事の入った椀ごと「食え」と投げつけられる、腕に刺さっているらしい点滴の針を何度も抜き刺しされる、明らかに医療従事者でない人間が持ち込む薬を無理矢理服用させられる、時折投げかけられる質問への回答を拒めば罵詈雑言を浴びせられ、話に応じれば男たちの満足できる自白が出るまで延々人格ごと否定され続ける、疲れ果て脱力しようとすれば顔に水を浴びせられる、
およそ人並みの価値観を持つ者が見れば誰しもが目を背けたくなる光景が、いつまでも続いていた。
交渉の続きをしよう、という申し出が勲からあったのはそれからすぐのことだった。
「皆さんが今ご覧になっているのは、皆さんが私にした仕打ちをそのまま私の記憶から再現した映像になります。これが公開されれば、きっと皆さんの立場は地に墜ちること請け合いでしょうね。かつて私と立花は界隈ではそれなりに名の通る人間でしたから、もしもこの映像を立花の遺した《海馬からの映像転写》と題された研究レポートと共に適切なフォーラムに投稿すれば、たちまち全世界の研究者の注目の的となるでしょう。ああ、ついでですから、《日本国の警察の所業》というラベルも貼っておきますか。研究のためには状況は正確に記録されておかねばなりませんから」
勲は暗い光を湛えた目で刑事たちに語りかけた。
その意図が、新たな交渉材料としてこの映像を用いようとしていることにあるのは明白だった。
何が望みだ、と聞かれた勲は、疲れた顔でこう答えた。
「今また健人の身柄を差し出せと願うのは、おそらく無駄なのでしょうね。皆さんはどうも臆面もなく国民の命を危険にさらせるほどには健人のことを気に入っているらしい。だから、今度は少し簡単なお願いです。一人、交渉の仲介役を指定します。その人をここに連れてきて、彼女と話をさせてください」




