『全ての人を愛する』
日が暮れようと、夜が更けようと、日付が変わろうと、朝日が昇ろうと、いつまで経とうと、健人が帰ってくることはおろか、連絡の一つが送られてくることすらなかった。安否を確認するメッセージを送っても、既読がつけられることもなかった。
花菜は何度も何度も健人が別れ際に「晩ご飯どうするか連絡する」と言っていたことを思い返し、それが確かな記憶であることを確かめた。約束を訳もなく反故にするというのが健人という人間の振るまいとして起こりえない物事であるのは彼女にとって当然の知識だった。だから、警察と共に姿を消した健人に何らかの異変が起こっているのだという結論が常に花菜の脳裏にちらついて、その影を時と共に段々と大きくしていった。
気乗りはしなかったが背に腹は代えられぬと何度か神路に電話を掛けてみたものの、一度も応答されることはなかった。それも更に花菜の心に浮かんでいた疑念を大きくした。
健人が音信不通となって三日が経つ頃には、花菜は警察と健人とが何らかのトラブルに陥ったのだという確信を築き上げていた。
その確信が予想だにしない方向から裏付けられたのは、五日目の朝のことだった。
《警察は第一次解放事件の主犯を特定し、身柄を確保することに成功した》
《容疑者が開発したアンドロイドがこの国から数千万の命を奪った》
《既にアンドロイド機体は警察庁の管理下にあり、容疑が確定し次第破壊される》
《この国の生命リソース上限は元の数字に戻る》
あらゆるサイト・番組・新聞・その他媒体の見出しに踊っていたこれらのフレーズは、花菜の心を取り返しようもないほどに傷つけ、打ちのめし、そして行く先のない無限の憤りを彼女の中に植え付けた。
気付けば、彼女は衝動のままに動き出していた。
目的の場所に辿り着くまで誰にも怪しまれなかったのは、殆ど奇跡だった。
花菜は守衛の腕を振りほどきながら警察庁の正面玄関を走り抜け、ホールの中で叫んだ。
「中沢神路を出して!」
後ろから追いすがってきた守衛に捕まえられる前に、花菜は鞄から包丁を取り出し、自分の首元に突きつけた。
「さもないと、そいつの娘はここで死ぬから!」
辺りは騒然となった。花菜は近くに人の気配を感じる度に首や頬の皮膚を刃で引っ掻いたから、すぐに彼女の頭からはいくつもの血の跡が糸のように胴に垂れ落ちるようになり、その修羅めいた姿にやがて誰も手を出せなくなった。
「お前、なんてことを!」
数分もしないうちに神路が現れた。花菜はどたどたと近寄ろうとする彼にも文字通り歯をむき出しにし、触れ合いを拒絶した。それで神路は酷く傷ついた顔をしたが、花菜にとってはそのようなことはどうでも良かった。
「健人は紛れもなく人間でっ! お前らにその命を好き勝手できる権利がある訳がない! 今すぐに健人を自由にしなさい!」
吠えるようにして要求を叩きつけると、周囲にいた大人たちの何人かが顔を俯かせたのが分かった。それは彼らも後ろめたさを覚えているということの証明に他ならなかったから、花菜の怒りはさらにヒートアップした。
「頼む、その包丁を下ろしてくれないか。冷静になってくれ。話はしよう、約束するから」
「答えて! 健人を解放してくれるなら、私は死なない! 健人を殺すというなら、私もここで死んでやる!」
「お前が死んでどうするんだ、話を聞いてくれ、なあ!」
「どうせ健人の前で死ねないのなら、今死んだって何も違わない!」
「頼むから!」
神路は花菜の前で膝をついて、頭を地面に擦り付けた。背中が弱々しく震えているのが花菜にはよく分かった。それは花菜にとっては当然初めて見る父親の一面で、花菜の心に若干の動揺が生まれた。
花菜が静かになったのを理解してか、神路が頭を上げた。
「話を、聞いてくれ。お願いだ。我々の方にも理屈はある。……死ぬのはそれを全部聞いてからでも遅くはないだろう?」
死ぬのは、という一句が喉を通過するとき、神路は明確に苦しそうな顔をした。
それに僅かながらも憐れみを覚えたとき、花菜は自分が絆されてしまったことを悟った。最早彼女の中から先までの荒れ狂う激情は消え去っており、従って彼女には神路の助言に従うという選択肢しか残されていなかった。
「言ってみてよ、その理屈とか言うのを」
花菜は包丁を少しだけ首から遠ざけた。
神路は分かりやすく安堵の表情を浮かべ、そしてこの上なく真剣に言葉を探し出した。
十秒ほども経っただろうか。神路がようやく口を開いた。
「花菜は知らなかったかもしれないが、健人君は本当に人間じゃないんだ」
ふざけるな、と思った。
そのようなことなど、私達はずっとずっと前に分かち合っている。
「いいえ。彼は身体の中に機械としての性質を持って生まれてしまっただけの、普通の人間です。健人が人間らしく生きようとずっと悩んでもがいていたのを、私はよく知っている。もし単に健人がロボットの特徴を持ってるからって理由でこの決断を下したのなら、私は死んでからもお父さんのことを軽蔑するけど?」
「……知っていたんだな」
「昔、ちょっとね。そんな話をしに来たんじゃない」
ぐっと首に包丁を押し当てると、面白いように神路の顔は歪んだ。
「健人君の脳に電脳が接続されたとき、この国の生命リソースの三割が彼一人のために消費された。勲さんがこれを証言していて、その発言は嘘でないことが確定している。分かってくれるか、健人君の存在は数千万の命の上にあるんだ」
「だからといって簡単に人の命を奪える訳がない。殺すことが許される訳がないでしょう、健人だってれっきとした人間なのに」
「電脳が接続した瞬間、生体脳の中に存在したかもしれない「自意識」は機械的な人格に乗っ取られたという解釈はできないか?」
「あり得ない。乗っ取られたっていうなら、じゃあ健人がお義母さんのお腹が温かかったころの記憶も持っているのをどうやって説明するの? その人は第一次解放事件の時に亡くなったのに」
「記憶を人格と同格とは見なせない。そうするなら記憶という形式のデータを持つ媒体全てに人格を与えなくてはならなくなるし、データを学習し決定プロセスを鍛えるAIの人格を否定できなくなる。人格とは記憶に依拠する物ではなく、我々人類が天然のヒト脳を生まれ持ち、育てたからこそ、そこに「存在する」と初めて見做すことができるものなんだ。分かるか。「相田健人」というアンドロイドは、ヒトの記憶を持ち、それを元に学習して成長したAIを有するロボットに過ぎない、というのが我々の立場なんだ」
何故かは分からなかったが、そこで神路は少しトーンダウンした。一瞬の沈黙があって、それで花菜は神路が彼の意見を伝え終わったことを理解し、そのあまりの稚拙さに思わず笑いがこみ上げた。
ああ、この人たちは何も分かっていない。健人が大切にしてきたものを、何も理解しようとすらしていないのだ。
「そんな詭弁は通用しないから。健人は間違いなく私達と同じ感情を心に兼ね備えていた。私は、彼の愛に救われてここにいるの。確かに健人はプログラムされた情動を持つロボットだったかもしれない。けれどそれは彼の人格を構成する要素に過ぎないもので、彼は悩み、考え、私の言葉を聞き入れて自らのプログラムに定められた行動原理を否定することさえしてみせた。それを人格と言えないのなら、何が人格なの?」
ぐっ、と情けない音が神路の喉から漏れた。
神路から反論が出るまでに、たっぷり数十秒もかかっただろうか。
「他者に操作されるのが人格であって良い訳がないんだ。既に勲さんは健人君の記憶や感情を定期的に改変していたことを吐いている」
成程、分が悪いと判断して別の論点を持ち出してきたらしい。
そして、それもまた、粗だらけの、お粗末な主張でしかない。
「じゃあ人間は絶対に他者に操作されないって言いたいの? 教育、洗脳、嘘、説得、扇動、私達の思考を左右するものなんて幾らでも思いつくけど。一度も操作されたことのない「天然の人格」を正確に定義することなんて、社会的生物である私達には到底不可能に決まってる」
「……それでも、健人君は、人ではない。もうこの決断は動かせないんだ」
はあ、と花菜は失望の息を吐いた。
話を聞くだけ無駄だったのだ。既に全体善の論理が神路の骨の髄までを満たしていて、それを取り除くことは、どれだけ叫んでみても、永遠に叶わない。
最後に、花菜は消極的な解決案を一つ投げつけてみることにした。これで受け入れられなければ、本当にここで死んでしまおうという決意が完成していた。
「たかだか七十年もすれば、健人も普通のヒトのように朽ち果てる。それも待てないの?」
そもそも、今すぐに健人を殺さなくてはならない理由などどこにもない。第一次解放事件からの二十五年でこの国は限られた生命リソースの中でうまくやっていく方法を確立していて、事件後の世界しか知らない花菜にとっては、今更急いで元に戻す必然性など全く感じられなかった。
神路は答えない。
答えられない、という方が正しいのかもしれない。
つまり、健人を始末してしまうことに最初から筋の通った理屈などなかったのだ。
花菜は神路に見せ付けるように包丁を持ち上げ、上を向いて首筋をさらけ出した。
さようならだなんて別れの言葉を告げてやる義理すら感じなかった。
そうして重力に任せて刃を突き立てようとしたときだった。
「待てない。理由はある」
突如、神路とは違う方から別の人間が割り込んできた。冷たい声色は花菜の心にそれまで忘れていた恐怖を与え、そのため花菜は本能的な反射でもってそちらを向いた。割れた人混みの中を堂々と進む一人の男がいた。
「聞きたいか? 貴女が知れば傷つくだろうと貴女の父親は必死に隠し通しているのだが、その献身を無駄にしてもいいのか?」
微かな記憶から名前を探れば、遠藤とかいう背の高い男がいたと思い出すことができた。
花菜の知る遠藤は常に敬語を崩さない丁寧な物腰の人間だったから、こうして高圧的な口調で語られるのはざわざわとした虫の居所の悪さを花菜に与えた。
「聞かせて」
その感情に任せ、花菜はぶっきらぼうに遠藤に答えた。
遠藤は小さくため息をついて、そして神路を一瞥し、「いいな」とだけ言った。
神路は目をそらし、それを遠藤は許可と受け取ったらしかった。
遠藤は、真っ直ぐに花菜の目を見据えて、言った。
「殺されることを、相田健人自身が望んでいる」
「……え?」
静けさが警察庁のホールを満たした。
「相田勲は全てを吐き出している。相田健人は彼にとって、「後悔」だった。自らのエゴ故に数多の命を奪ってしまったことの証明に他ならなかった。しかし、彼は一度この世に生み出してしまった可愛い「息子」をその手にかけることもできなかった。せめてもの罪滅ぼしにと、彼は息子に自分の願いをプログラムとして刻み込んで、育て上げた」
そこまで言われれば、花菜にも全てが理解できた。
「『全ての人を、愛する』……っ!」
それは、あまりにも残酷な真実だった。
健人が生まれてからずっと彼と共にあった、彼にとって唯一絶対の価値。健人を苦しめ続けた、彼にとっての呪い。花菜が健人を愛する理由となり、健人と花菜が一生を添い遂げると誓い合う端緒となった、他でもない、健人の行動原理。
それが今、健人を縛って、健人から「生きる」という選択肢を、奪い去ってしまっている。
「相田健人は全ての事情を知って、瞬き一つせずに「私のことを殺してください」と言い切って見せた。彼は全ての人を愛せよというプログラム上の命令のために、多くの命を奪って生まれた自らの存在は否定されなければならないという結論に達し、生存本能など一切無視し自らを消去することを望んだんだ。それが、我々が彼を”人間ではない”と言い切れる所以だ」
言葉が出なかった。
「彼自身には何の罪もない。彼はただこの世に生まれ落ちただけなのだから。だが、最早彼が生きていくことは、社会的にも、そして彼自身にも、認められないのだよ」
花菜の手から包丁が滑り落ち、硬質な床材の上を何度か跳ねて、キンキンという耳障りな音を立てた。
四方八方から男たちが花菜を取り囲み、彼女の両手を後ろに回し、乱暴に手錠を掛けた。
それを花菜はただなされるがままに受け入れた。
連行されていく間、隣に神路が付き添っていた。
「この間のことは、よく覚えている。命の危機があるというのに、すぐに「私を死地に送り込んでください」と言えてしまうのは、尋常なことではない。私は彼に畏怖を抱いたが、それに説明がついたことにある意味では安堵もしているんだ」
「健人君は、お前に「ごめん」と言っていたよ。「今まで楽しい時間をありがとう。こんな結末になってしまって、本当に申し訳ない。もしできるなら、誰か他に愛せる人を見つけて欲しい」だそうだ」
「……落ち着いたら、また話をしよう。な?」
男は、窓も時計もない冷たい部屋の中で、何かの音を聞いた。
自らの身体に仕込まれていた安全装置が正しく壊れる音を聞いたのだと”思い出した”。それをきっかけとして、歯欠けの櫛のように散り散りで散漫だった記憶が彼の中に溢れていって、一つの連続体を成した。
男の目に暗い光が宿った。




