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機械と愛と烏  作者: 諭吉
四章
38/45

呪い-[5]

 過労、という予想通りの診断が下りたのは検査入院の二日目のことだった。

 搬送から入院の支度を済ませるところまで付き添った健人によって全ての仕事から遠ざけられていた花菜は、六人部屋の白い寝台の上でただ呆然と窓の外を眺めて入院期間を過ごした。


 一報を受けて東京から飛んできた母親が『知らせ』を見ていないかどうか何度も何度も確認してきたとき、ようやく花菜は自身の健康状態が健人ではなく自分の問題として捉えられることに気が付いた。その心境の変化はすぐに母親に感づかれ、花菜はそれでもっと自分を大切にしなさいとこっぴどく叱られることとなった。


 



 四日間の入院の後、花菜は家に戻った。

 おそるおそるパソコンを立ち上げ各所に復帰の連絡を飛ばすも、仲間たちは既に彼女の開けた穴を埋めていて、彼女は病人として壊れ物のような扱いを受けた。

 健人からは退院を祝いつつも「小さなことでも頼ってくれ」ということが書かれたメッセージが届いていた。


 三ヶ月で積み上げた物が全て花菜から失われていた。

 そのような現実を許容できるわけがなかった。


【四日もただ寝ていたのでむしろ元気になったくらいです! 議事録や資料あれば共有してください、すぐ追いつきます!】

【心配掛けてごめんね。これからはちゃんと休みを取るようにするよ】


 一切の躊躇いなく、花菜は二種類の顔を用意した。仕事をセーブするつもりも、健人にこれ以上の配慮をさせるつもりも毛頭なかったから、更に自分の時間を削ればいいと考えた。花菜にとっては幸いなことに、大学が夏休みに入っていた。空いた講義の時間を休養に回せば、より長い時間活動することができる。


 危機感に煽られるままに、花菜は再び激務の中にその身を置くべく動き始めた。


 健人が「できる限りすぐに会いたい」と持ちかけてきたのは、それから程なくしてからだった。

 健人が他人に無理を押しつけるのは珍しいな、と不思議に思いつつ、花菜はなんとか都合をつけた。



 夜も遅い時間だというのに鳴き止まない蝉の声の騒音のなか健人の家までやってきた花菜は、チャイムを鳴らし、汗を拭った。そういえばここに来るのは倒れてからぶりだな、と気ままに考えを巡らせているうちに、健人が玄関を開けた。中からは光と涼しい空気がこぼれてきた。

 しかし、それとは違った理由で、花菜の体から少し熱が失われた。


「いらっしゃい。上がって」


 そういう健人の顔は、心なしか陰っているように見えた。

 花菜の記憶に、健人がそういう表情を浮かべる場面は存在しなかった。


「えっと……どうしたの?」

「後で。とりあえず暑いから中入りなよ」


 健人の言葉に滲む不審な含みは、明らかにこれから彼が何らかの真剣な話題を持ち出そうとしていることを感じさせた。



 様々に想像を巡らせる花菜の前に冷たいお茶の入ったグラスが二つ置かれた。

「ありがとう」

 不安を募らせる花菜の感謝の言葉は少し震えていた。

 健人は花菜を見ずに小さく頷いた。座卓を挟んで花菜の向かいに腰を下ろした健人は、コップに口をつけ、中身を少しだけ飲んで、そして意を決したようだった。


「今から話すことは、全部、花菜のことを思って言うんだってのを前置きしておくね」


 健人は静かに語った。


「知り合い経由で、花菜がもうオーバーワーク気味だって言われてね。どうしたって止められないから、また身体を壊す前に僕になんとかしてくれって頼まれた。最初は、頭を下げて頼み込むとか二人で会う回数を減らそうとかそういうことを考えてたけど、それじゃ根本的な解決にならないって思って、こういう形にしようって決めたんだ。僕はすぐにでも休んで欲しいって思ってる。けど、花菜がやりたいことを支えてあげるのも僕の役割だっていう気持ちもある。いつでも僕は花菜の味方でありたいし、そうあって来たって信じてる。

 でも、退院したその日から仕事を始めてたって聞いてさ。花菜が僕に「ちゃんと休みを取る」って言ってくれたのと合わせて考えると、どうしても僕に感づかれないようにしている、隠れて頑張ろうとしている、っていう結論になるんだ。これをどう解釈したら良いのか、僕には分からない。僕は花菜にとって味方だって思われているのか、それとも束縛してくる奴だって思われているのか、それとももっと別の理由があるのか。こんなことを気にするのかって笑われてもいい。でももしできることなら、花菜が何を考えているのかを知って、何が花菜にとって一番なのかを一緒に考えたいんだ」


 そこで健人はようやく思いを吐き出し終えた。

 なにを言えばいいかすぐに整理することができず、花菜は黙ってただ健人のことを見つめた。


 沈黙を否定と受け取ったのか、健人はばつの悪そうな顔になった。

「分からないままでいた方が花菜にとって気持ちが楽なんだったら、言わなくてもいい。これは僕の我儘だから」


 全てを正直に答えなくてはいけない、健人にこんな顔をさせるわけにはいかない、と体中がわめき立てる。健人の優しさにまた甘えてしまうなんて許さない、と心と頭がスクラムを組んでそれを必死に押し留める。


 矛盾した思いがぶつかり合う中で、完璧な未来を選ぶ権利など私には残されていないのだ、と理解したとき、花菜は一つの結論を得てしまった。


「ねえ、私のことをどうして好きでいてくれるの?」

「……え?」

「私はいつもいつも健人に甘えてばかりで、健人を喜ばせてあげることなんて何にもできないただの子どもみたいで。最初から、私と健人の関係は、健人が私を支えるっていう形で、今も変わってない。私が健人をどうしようもないくらい好きなのは健人が私に優しくしてくれるからだけど、健人が私を好きでいてくれることには、何の裏付けもなくて、もしかしたらただ健人が優しさのあまり私の感情を否定できないからなのかもしれないって思ったこともある。そう気付いてしまってから、私は変わろうって思った。健人が私にしてくれたみたいに、健人に「幸せ」を与えてあげようって、頑張った。いつか健人が私にしてくれたことに釣り合うくらいの何かをあげられれば、きっと健人は私と同じくらいに私のことを愛してくれるって信じて、それで、頑張ろうとしたんだ。

 健人はきっと私が自分の力で生きられるようになれば嬉しいだろうって考えて、単位は全部とったし、ITの資格もとったし、インターンの予定も入れて、私、一人でももう大丈夫だよって胸を張って言えるようになれたって思った。健人に笑ってもらうために、考えられることは全部やった。でも、私の力は足りなかったみたいで、ああやって倒れてしまって、健人は私のことをまた心配するようになってしまった」


 次に発する言葉を頭の中で転がしてみる。心が引き裂かれるような痛みがあったくらいで、それは中沢花奈という人間を適切に表す最良の言葉だという実感が湧いた。

「私は健人にふさわしい人にはなれないって思う」


 小さな声は見つめ合う二人の狭間に確実に一つの線を引いた。


「そんなこと、言うなよ」

「私より良い人なんてきっとこの世界には沢山いる」

「花菜が僕のことを好きでいてくれるなら、他に何も望まない」

「それだけじゃ足りないんだって!」

「じゃあ!」


 花菜の叫びを更に大きな声で圧倒して、健人は立ち上がった。花菜の両脇に腕を差し込み担ぎ上げ、ベッドにその身を突き放した。突然のことに慌てふためく花菜は健人に強い力で押さえつけられ、気が付けば、二人は上と下に組み合って身体を重ねていた。

 この体勢を取らされたことの意味が分からない程、花菜は性に無知ではなかった。


「これでも、分からない?」


 彼の身体がヘテロセクシュアルの本能に従い己の身体を求め始めているのを、花菜も正しく感じ取った。

 その上で、花菜は一切の怯えをそこに抱くことができなかった。

 

「私が嫌って言ったら健人は絶対にこの先に進まない」


 一つの事実を端的に口にすれば、たちまち健人の表情に歪みが生まれた。


 ああ、結局こんな顔をさせてしまった。

 

「そもそも、こうするのだって私のためなんだって、分かるの。私のために健人の心は縛られてしまうんだって、想像できる。私が健人を好きなことが、こんなに健人に迷惑を掛けて、私はただ健人の人生の邪魔をしてしまうだけで」


 きっとこれで健人は私のことを見捨ててくれるだろう。

 そう思うだけで、涙がこぼれた。


「もう、私になんて構わなくていいよ。今まで、ありがとう、ね?」


 健人の身体から力が抜け、彼の体温が隙間なく埋めていた花菜の下半身を冷たい空気の刃が走り回り、彼女の肌を温もりから切り離していった。

 ゆっくりと立ち上がる健人をぼやける視界の隅に捉えながら、花菜はただただ天井を見つめた。

 

 これでよかったのだ。

 健人にこそ幸せを掴む権利があるのだから。


「なら」

 低い声が花菜のとめどない悲しみを遮った。


「最後に一つ、僕の願いを聞いてくれないか」

 花菜はゆっくりと健人の声がする方に首を動かした。

「願い?」

「僕が君にしたことなんかじゃ絶対に釣り合わない願いが一つある。それを聞いて、どうするか決めて欲しい。今まで誰にも言えなかったことなんだ」


 少し俯いた健人の顔は、天井の照明の光に照らされることなく少し彩度が落ちていて、しかしその中で二つの黒い瞳は際だち、揺らぐことなく爛々と、花菜のことを捉えていた。

「……分かった」

 有無を言わさぬ視線に気圧された花菜は健人のいう「願い」を聞き届けることに同意し、その後健人は黙って花菜を外に連れ出した。



 三十分後、花菜は健人の運転する車に揺られていた。

 既に市街地からは遠く離れ、車はうねる山道をひたすらに駆け上り続けていた。

 ハンドルを握る健人の表情は硬く、軽薄な質問が許される雰囲気ではなかった。

 無力な花菜は、窓の外の漆黒の景色の中に何かを見つけ出そうとただ無益な努力を続けた。


 やがて健人は山道の只中にある小さな駐車場に車を停めた。


「降りて」

 健人は短く花菜に指示を出した。

「どうしてこんなところに?」

「男に二言はないから」


 男に二言はないとは一体何なのかとそっくり聞き返す前に、健人は運転席のドアを開けて出て行ってしまった。

 外に出ると、標高が高い場所に来たからか、思っていたほど暑さは気にならなかった。


「こっち」


 既に歩き始めていた健人に導かれるがまま、花菜は駐車場の柵の隙間を通り抜け、雑草の生い茂る中を遠くの道路照明の僅かな明かりを頼りに進み、そして木々の中に広がる開けた空間に辿り着いた。


 息を整えつつ健人の顔を伺うと、彼は真っ直ぐにある方向を眺めているようだった。

 彼が見ている方に花菜も意識を向けてみると、二人の住む街の夜景が山の狭間に浮かび上がっていた。人工的な光と自然の闇のコントラストが幻想的な光景を生んでいた。


「……綺麗」


 思わずそう呟くと、健人がすっと花菜の隣に近づいてきた。

「免許を取った後一人でドライブしてたときにたまたま見つけたんだ。昼間でも良い眺めだったけど、夜に来るともっと綺麗だろうなって思えたから、いつかまた行こうってずっと思ってた」


「それが、どうして今なの?」

「花菜に僕の願いを聞いてもらうため」


 答えになっているようでなっていない答えは再び花菜の頭に疑問符を浮かべたが、この期に及んで聞き返せるわけもなかった。


「大事な話だから、最後まで聞き届けて欲しい。花菜にしか言えないし、これから花菜以外に言うつもりも絶対にない、そういう話なんだ」


 小さく頷くと、健人は花菜の目にしっかりと視線を合わせて、語り始めた。


「ずっと前、最初に花菜を助けたのは、花菜が昔言っていたように、特別な思いか何かがあった訳でもなく、単に僕の行動原理に従って動いたってだけだったのかもしれない。それでも、それからずっと話をしている内に、間違いなく僕は君に惹かれていった。あの日、僕に「ロボットとしての部分まで含めて好きなんだ」って言ってくれたとき、どれほど僕が安心したか、救われたか、嬉しかったか、言葉ではとても言い尽くせないよ。それだけでも、花菜を助けて本当に良かったって思ったくらいだった。

 でもその後、人を好きになったことで色々想像してね、分かったことがあった。僕は一度誰かを伴侶として選んでしまえば、そしてその誰かが僕のことを選び返してしまえば、永遠にその人を離すことができないんだ。僕は人を不幸にすることができない。僕は自動的に一生を相手のために尽くすことが決まってしまう。逆に、相手はいつでも僕のことを好きでなくなることができる。酷い話だろ、僕は永遠の愛を義務づけられるのに相手はその気になればいつだって僕を裏切ることができるんだ。こんなのはもう呪いと変わらない」


 呪い、と花菜は思わず小さく口にした。

 強烈な意味を持った言葉だった。


「それに気付いてしまったから、僕は誰か一人を選ばないようにしようって一度は心に決めたんだ。非対称な愛を自覚してしまえば、それは酷く悲しいものにしか思えなかった。花菜のことは大好きだけど、一線は踏み越えないようにしようってずっと自分の感情をこらえてたんだ。花菜が僕のことを好きでなくなった瞬間に、僕はきっとこの世の終わりみたいな空虚感に向き合うことになるから。

 花菜は僕のことが好きと言ってくれたけど、それはきっと鳥の雛が親鳥のことを追い求めるみたいな感情なんだろうって思ってた。花菜が僕を好きでいてくれるのはたまたま花菜を助けたのが僕だったからってだけで、いつか他にもっと好きな人を見つけてしまうんだろうって怯えが僕の頭の中のどこかにずっとこびりついて離れなかった」


 そこで一度健人は目を閉じ、深く息を吸った。

 目が開かれた。


「ついさっき、花菜があんな顔を浮かべるまでは。君の気持ちを信じてみることにしたんだ。そうさせられた」


 私の心に語りかけようとしているのだ、と花菜は気付いた。

 一度固く閉ざした心の扉をこじ開けるための言葉が、きっと彼の電脳の中には無数に渦巻いているのだ。


「僕はね、ずっと花菜に特別な感情を抱いていたんだ。高校二年生のあのときからずっと。好きだったんだと思う。最近まで意識したことはなかったけど、やっと理解できた。この世界でたった一人の理解者がこんな心優しい人で、好きにならない訳がないんだ。だから花菜が傷ついたと知ったときはほかの何を差し置いてでも助けたいって強く思ったし、治ってからもその気持ちは変わらない。花菜のためなら何だってできる。花菜を愛したい。一生をかけて愛したい。この想いは絶対に僕のものだ。

 それでも僕の愛が信じられないっていうなら、僕に何かを与えなければ気が済まないっていうなら、僕が今から言う願いを叶えてくれないか。それで、貸し借りなんて何も考えなくて良い、対等な関係になろう」


 愛の告白以上に、対等な関係、という言葉に花菜は震えた。

 それこそ、花菜が強く強く望み、そして決して得られないのだと思い知って打ちのめされた、彼女にとって何にも代えられない価値を持つものだった。


 健人は跪いて、右の手を花菜に向かって差し出した。


「僕の願いは一つ。僕のこの想いを受け入れて、そして僕のことを一生愛してみせると、僕と同じ呪いを背負って生きていくと、今ここで誓って欲しい。僕には花菜以外あり得ないんだ。僕の『秘密』を知る君以外に、この呪いを共有してくれるひとはもう二度と現れないから。

 もし、そんな約束はできない、怖いって思うなら、僕の手を取ってくれなくても、それでも僕は今まで通り君のことを大切に扱う。それは絶対に保証する。もし、今のを聞いて気持ち悪いと思ったなら、もう僕のことを忘れて他の普通の人間を好きになって欲しい。それなら、僕も幸せだ。花菜にはまだこの先いくらでも出会いがあるはずだから、今、こんなところでこんな人生を左右する決断をする必要なんて一切無い。

 でももし、この手を取ってくれるなら。僕と共に生きて、僕の前で「愛していました」と言い残して死ぬと誓ってくれるなら。そのための対価に、僕は永遠に褪せることのない愛を花菜に約束することができる。僕は絶対に花菜を失望させないし、二度と花菜を一人になんてしない。この世の誰よりも花菜を幸せにしてみせる。だから、どうか」


 健人の長い長い「願い」はそこでようやく終わりを迎えた。

 健人はもう何を口にするつもりもないようで、ただ静かに、手を伸ばしたまま動かなかった。

 彼に課せられた「願いを聞いてくれ」という義務から解放された花菜は、たった一つの単純な問いに対して自分の中に答えを探した。

 夜の闇の中で、街の夜景より、星より、月明かりより、健人の瞳の輝きが花菜には一番煌めいて見えた。それが花菜の全てを物語っていた。


 花菜は健人の手をそっと取って、両手で柔らかく包み込んだ。


「貴方のことを、一生をかけて愛して見せます。全部を二人で背負って、分かち合って、二人で生きて行ければ、それ以上のことはありません」


 健人の顔がほころんで、彼はゆっくりと立ち上がり、そして花菜にそっと口づけた。

 それで二人の運命はひとつになった。


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