呪い-[4]
---2183年 5月
晴れて健人の恋人となった花菜は、堂々と日常の一部を彼のものとして差し出すようになった。電話を繋ぐことも、大学から一緒に帰ることも、もう健人だけが主導するものではなく、花菜からの望みとしての二人の時間となった。
告白の後から二人で一晩を飲み明かしたとき、酒の趣味が驚くほど合うことが分かり、それから二人は余裕がある日には決まって近くのバーやどちらかの家に集まって、グラスを傍らにいつまでも続く話をするようになった。
花菜にとって、毎日は幸福に満ちあふれていた。
自分が好きな相手の心を射止められたことへの喜びも、健人が自分に向けてくれる感情の色が濃くなったのも、万が一にも互いの気持ちが冷めてしまわないよう色々な物事に気を配ることも、全ては彼女の日々を鮮やかに彩っていた。
それでも、健人はあくまで花菜にとっての最善を追い求めるというスタンスを崩さなかったから、時折彼は花菜が一人でできることを取り戻していくための時間を設けていた。
その日、花菜は朝から一人で大学に向かい、健人が勧めてくれた全学対象の集中ゼミに出席していた。当の健人は一人でやることがあるとのことで、二人は特に会う予定を立てずに一日を過ごしていた。
昼休みを迎え、グループのメンバーで一緒に昼食を食べようという流れになった。キャンパス内を歩いて学食を目指していたとき、ふと花菜は健人の姿を視界に捉えた。健人は建物の一階にある学生用ラウンジでパソコンを広げ、何やら作業に集中しているようだった。窓越しに少し目を凝らしてみると、机には食べかけらしいサンドイッチが置かれていて、どうやらまともに食事をする暇もないらしい。
二歳下の一年生が親しげに話しかけてきてくれたので、花菜は健人が無事に仕事にケリをつけられることを祈りつつ、彼女と話をするべくそちらに向き直った。
夜の九時を過ぎた頃、ようやくゼミのプログラムが終わり、花菜は家に向かって一人歩いていた。昼に健人を見かけた学生用ラウンジの前を通る道を選んだのは、なんということのない気まぐれからだった。流石にもう帰っただろうと思いつつちらと中に視線をやると、全く同じ位置に健人がいた。サンドイッチは流石に食べきったのか机の上に包装が小さくたたまれていたが、どうやら仕事はまだ片付いていないようで、脇目も振らずに何やらレポートを書いている様子だった。
花菜は声を掛けることも考えたが、流石に彼に迷惑だろうと思い踏みとどまった。
健人は半分ロボットであるからには他人より集中力が高かったりするのかもしれないが、それにしても丸一日全力を注いで終わりきらないタスクの量というのは尋常ではない。
翌日に二人は花菜の希望で日帰りでの旅行を計画していたから、おそらく健人はそれに間に合わせるために少し無理をしてくれているのだろうと想像がついた。彼の頑張りに感謝しつつ、花菜は一人で家路に就いた。
次の日、目の下に大きな隈を作った健人が花菜を迎えに現れた。
「大丈夫? 昨日ちゃんと寝た?」
「平気、平気。それなりに寝てるし普通に元気だよ。写真映りはちょっと酷いかもしれないけど」
「そ、そう……無理させてごめんね」
「いいんだ、僕も今日は楽しみにしてたからさ」
そう言って健人が浮かべた笑みにも疲れが滲んでいて、花菜は歩き出そうとする健人の服を心配のあまりに掴み留めた。
「しんどかったらうちで寝てても良いんだよ。ほら、丁度最近いいクッション買ったって話したでしょう」
「いや、でも」
「旅行はまた行けるから。身体を壊す方がダメだよ」
「花菜が行きたいって言ってくれたのを大事にしたいんだけど、それでも?」
「健人が元気でいた方が嬉しい」
「……わかった」
説得を続けると、健人は少し唸ってから計画を断念することを決めてくれた。
自室の中に健人を連れて帰りベッドを彼のために整えるまでに、花菜は健人に本当はどれくらいの睡眠をとったのかと確認して、その答えに唖然とすることとなった。
「昨日と一昨日が殆ど徹夜で、今日は二時間くらい」
「なんで!? そんなの絶対だめだって、身体壊すどころじゃないよ!」
「……ごめん」
そうやって弱々しく謝る健人をこれ以上責め立てるのも申し訳なく、花菜は唇をきゅっと結んでいきり立った心を落ち着かせた。
「そもそもどうしてそんな無茶をしたの?」
「……知り合いが質の悪いバイトに引っかけられたらしくてさ。足を洗いたいって言うから色々手伝ってあげてたんだ」
「……そっか」
健人をベッドに寝かせながら最後に聞いてみると、返ってきたのはいかにも健人らしい返事だった。
それならそうと最初から言ってくれれば、いつでも今日の旅行は延期しようと言えたのに。
目を閉じるなりすぐに寝息を立て始めた健人を見下ろし、花菜は苦い感情を噛みしめた。
とは言え、あらゆる人間を愛さなくてはならない健人にとっては、例えどれほど身体を酷使することになろうと、花菜との約束を反故にするという選択も、知り合いを見捨てるという選択も、最初からとれるものではなかったのだろう。健人が多少の無茶を気にすることはないというのを、花菜はかつての経験からよく理解していた。
そこまで想像が巡ったとき、ふと花菜は己の重大な理解の欠如に思い至った。
花菜が健人に差し出した時間は、そのまま健人が花菜のために差し出した時間と同義である。花菜は恋人という立場によって健人と共に長い時間を過ごすことを正当化した。一方で、健人は常に『全ての人を愛する』のだから、花菜だけでなく彼の手の届く全ての人のために彼の時間を割こうとするはずなのだ。しかし時間は有限であり、健人が花菜のために拘束されるようになった時間の分だけ、彼の私生活にしわ寄せがいっているという構図が出来上がっている。
健人が一人で力を尽くして生み出した時間を感謝もせずに貪りながら、わたしは「幸せ」を味わっている。
一度そういう結論に到達してしまえば、あとは奈落への階段を転げ落ちるように、どこまでも悲観的な論理が連鎖していった。
思えば、花菜はいつも健人が自分と共にいることを当たり前と思って疑ってこなかった。
それは何故か。
健人が今に至るまで、たったの一度も、花菜の希望を拒んでこなかったから。
健人が花菜の幸せを実現するために、彼自身のことを犠牲にできるから。
思えば、健人は最初からずっと花菜に対して何かを与えてきた。それなのに、花菜は健人に何も与えられていない。
それはつまり、健人の人生の一部を構成する人間として、花菜が全くふさわしくないことを意味するのだ。
花菜は健人が眠るベッドからよろめくようにして離れ、リビングの隣の洗面所に崩れ込んで扉に鍵を掛けた。一度自分を健人が存在する空間から切り離したかった。
恩人である健人にただ寄生している自分が許せなかった。
独りで立たなくてはいけない。
健人に幸せを与える存在にならなくてはいけない。
鏡に映る自分の顔を睨み付ける。
花菜はそこに覚悟を刻んだ。
次の週から、花菜は健人のサポートを「もう大丈夫」と断り、完全に一人で講義に出席し始めた。花菜が自分の力で歩き始めたことを健人はまるで自分のことのように喜んでくれたから、それならばと更に社会的な能力を磨くため学外にプロジェクトを探し、教育支援団体に学生ボランティアとして席を確保した。健人と同じように、困っている人を見かければ、力の及ぶ限り手を差し伸べるようになった。
同時に、健人に対する向き合い方も、「与える」側になるべく、変えた。会うことができる時間を減らした分より積極的に触れ合い、甘え、甘えさせることを心がけ、事ある毎にさりげなく健人の琴線に触れるような優しさを醸し出した。
花菜は自分の進む道が正しいことを信じて、人間としての成熟を追い求めた。健人と並び立つに値する人間となろうとがむしゃらに努力を重ねた。
---2183年 8月
花菜は息を切らして健人の家のチャイムを鳴らした。すぐにチェーンが外れる摩擦音がして、家の主が顔を出した。
「お待たせ、ごめんね」
「全然。言ってた仕事は終わったの?」
健人がドアを手で押さえてくれているのに感謝のジェスチャーを送りつつ、花菜は玄関に上がって靴を脱いだ。
「なんとか。あとは先輩がなんとかしてくれると思う」
乱れた呼吸を整えながら小さなワンルームの中の定位置に鞄を置き、花菜は袖をまくった。
「それより、材料は揃えてくれた?」
健人はその質問に応じて、冷蔵庫から程よく解凍されたパッケージを取り出した。二人は花菜の実家から届いたカタログギフトを分け合うことにしていて、今日はかつおのたたきを堪能する日だった。
「一応。大葉を探すのにちょっと苦労したけど」
「あれ、野菜のとことかに普通に置いてなかった?」
「近所のスーパーで探したら売り切れててさ。ちょっと遠出した」
「ありがとー」
花菜はキッチンに立ち、必要な調理器具を探して並べていった。既に何度か健人の家で料理をする機会はあったから、大体の配置は把握できていた。
「もうすっかり我が家の主だね。僕より使い方分かってそうだ」
「そりゃ私が買ったお皿とかもあるしね。それと普段健人が料理しなさすぎるんだと思うよ」
「面目ないです……でもあれだから、できないわけじゃないから。しないだけだから」
「もう聞き飽きたって。ま、どんと任せなさいな」
「よろしくー」
健人が首を引っ込めたのを合図に、花菜は予め調べておいた綺麗な盛り付けのテクニックを思い返しながら食材の下処理を始めた。一人暮らし用のキッチンは二人で立つには狭すぎたから、花菜が一人で全部を済ませてしまうのがお決まりの流れとなっていた。
(――!)
付け合わせの野菜類を切ろうとしたとき、不意に鋭い頭痛が花菜を襲った。
反射的に目を閉じ、包丁を持っていない方の手でこめかみを押さえ、不快な感覚をやり過ごす。
頭痛が消えた後ゆっくりと目を開くと、物が二重に見えていた。
またか、と花菜はため息をついた。七月の頭くらいから何の前触れもなく頭痛が出るようになって、最近になって頻度が上がっていた。
原因については、おそらく疲労やストレスからのものだろうという見当が付いていた。ここ最近の花菜は日常的に何らかのデッドラインに追われていて、気が休まる時間がとても少なくなっていた。とはいえ、それは成長への渇望がもたらしたものでもあったから、花菜自身はそのことについて特に問題視はしていなかった。
強いて言えばこの不調を健人に悟られて心配を掛けるわけにはいかないという気持ちがあったから、彼の側に居るときにこの症状が発現してしまうことだけは嫌だった。
不明瞭な視界では刃物を使った作業はできないと判断して、花菜は先に調味料を合わせておくためにコンロの下の棚を開こうとした。
頭に急速に血が巡る感覚がした後、ふっと体から力が抜け、花菜は自らの体が床に崩れ落ちるところまでを遠のく意識の中にぼんやりと感じ取った。
柔らかい感触を背中に感じるのを不思議に思い、花菜は目を開いた。白い天井が見えたから、どうやらベッドに寝かされているらしい。
「……ぅ」
「花菜!」
小さな掠れ声に健人が反応して、頬に手を当ててきた。顔をのぞき込んでくる彼の表情はとても真剣で、どうやら自分の身に何かが起こったらしいというのが段々と理解できてきた。
「私、もしかして」
「いいから、寝てて。すぐに救急車が来るから」
「え、救急車?」
「さっきキッチンで倒れてから意識がなかったんだ。目を覚ましてくれて本当に良かった。今は動かないで、頼むから」
指示を受け入れて小さく頷いたまさにそのときに、外からサイレンの音が小さく聞こえてきた。
せわしなく歩き回っては何度も花菜の表情を確認する健人の姿はあまりにも悲壮感に満ちていて、花菜は自分が考えられる限り最悪の失態を演じてしまったことを思い知り、心の底からそれを悔やんだ。




