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機械と愛と烏  作者: 諭吉
四章
36/45

呪い-[3]

---2183年 1月


 新年の挨拶もそこそこに、受講生の少ない講義を選んで教室の隅に二人は陣取った。

 好奇の目にさらされるのは覚悟の上で、花菜は隣に座ってくれた健人に身を寄せるようにして九十分の講義時間を過ごした。

 健人を拠り所とすれば自分を保つことができると、花菜は本能的に理解していた。 


「どうだった?」

「なんとかなりそう、って感じ。人が少なかったからかも」

「本当に焦る必要はないからね。それにどっちみちあと少しで秋学期も終わるんだから、ストレスは最小限でいこう」

「うん、分かってる」


 かつて近い関係にあった人間、特にサークルの知り合いのいる講義は精神的に耐えられないだろうと伝えてあったので、健人は他学科の物も含めて実に様々な講義を調べて、花菜のことを連れて行った。


 出席人数のそれなりに多い講義にも出席した。

 花菜はそこで知り合いの何人かに声を掛けられた。花菜は健人が近くにいることを数秒おきに心の中で確認しながら、その事実を精神安定剤として、彼女たちと向き合った。

 花菜のトラウマに関係する人間ではなかったから、彼女たちは長い間姿を見せなかったことへの心からの心配を花菜に向けてくれ、花菜も素直にその気持ちを受け取ることができた。

 その日、健人はとびきりの笑顔で花菜をマンションまで送ってくれた。


 少しずつ、少しずつ、花菜は自信を取り戻していった。 



「四月からは学年も変わっちゃうし、一人でも講義に出られるようになりたいね」

 だから、春休み前の最後の講義を受け終わった後に健人がこう口にすることも、当然の帰結だった。




---2183年 4月


 大学生特有の長い長い春休みが終わり、新学期が始まった。

 半年間殆どまともに大学に通えなかったために単位が不足し、両親と相談して自主留年をすることを選択した花菜は、二度目の二年生として大学に通い出した。教室から知り合いが消えたことで、花菜はより肩の力を抜いて講義に臨めるようになった。


 一つだけ、花菜が嘆いていたことがあるとすれば、それは健人が段々と花菜の近くから姿を消そうとしていることだった。 


 健人は先学期の最後に告げたとおり、花菜が一人でも講義を受けられるように少しずつ花菜から離れた場所に座るようになり、通学も花菜一人だけで完遂してしまえるように誘導していた。

 花菜も頭ではそれが正しい行動なのだと理解していた。彼女にとって最良の結末は完全に自立した一人の大学生にまで立ち直ることであって、決して健人に依存しなければ生きていけない人間という歪な形に安定してしまうことではない。何より、健人自身にも受けなければならない講義があるのだから、彼も花菜のためにいつまでも時間を割いてはいられない。


 それでも、そうだと分かっていても、日に日に健人の存在が自らの日常から薄れていくのは、どうしても寂しかった。

 暗い世界に閉じこめられていた自分を照らしてくれたあの温かい感情を忘れることなど到底できなかったし、忘れたくないと強く思った。


 だから、花菜は自分と健人が共に過ごしていられるだけの理由を探し求めた。

 そして、それはあまりにも簡単に、自分の中に見つけられた。



「ねえ、今月の二十六日ってまだ空いてる?」

 花菜は三日ぶりに二人で帰路に就いたとき、何でもない風を装って健人に聞いた。


「空けられるけど、どうして?」

「私の誕生日を祝ってくれたお返しをまだしてなかったなって思って。私に相田くんの誕生日をお祝いさせて欲しいの」

「え、本当に?やった、頼むよ!」


 健人は食い気味に了承してくれて、既に予定が入っていたならどうしようと恐れていた花菜は心の中でガッツポーズをした。


「じゃあ、私がお店を選ぶからさ、希望のジャンルだけ教えてよ」


 もう一歩、踏み込んでみよう。多少声がうわずろうとも、気にしてなどいられない。


「二人っきりで、美味しいお酒を飲みたいな」

 ここで押さなければ女が廃る。


 健人の動きが一瞬止まって、すぐに彼の視線が自分の顔の上を踊ったのがはっきりと分かった。


「そうだなぁ……和食で、もしお金に余裕があるなら、美味しいお肉が食べられるところ、とか。どう? 難しければ普通に魚系で」


 花菜は健人が口を閉じるまでの一秒一瞬を健人の表情を観察することに費やした。そこには、間違いなく、一切の曇りも浮かばなかった。


 つまり、これは、受け入れてくれるということでいいのだろうか。

 いいのかもしれない。


「分かった、探しとくね」





 花菜は健人の希望通りに、二人の住む場所からはやや遠くにあるすき焼き店を選んだ。値段は目が飛び出るほどとまでは行かずともやはり天然肉の店らしくそれなりのもので、これはいよいよ失敗できないぞ、と花菜は覚悟を決めることとなった。

 酒を入れることを決めていたから、車を持っている健人にはちゃんとタクシーかバスで来るようにと念押ししておいた。それを伝えたとき、電話の先で健人は笑って「そんな無粋なことはしないよ」と言ったから、きっと花菜の意志は既にある程度悟られていて、それでもなお応じてくれようとしているのだろうという期待が募った。




 通された個室で注文を済ませると、すぐにお通しと飲み物が届いた。乾杯の前に花菜は時間を掛けて選んだ万年筆を贈り物として差し出し、健人はそれに破顔した。


 盃を重ね、花菜は中の液体を少し口に含んで舌を慣らしてから、半分くらいまで一息に呷った。日本酒独特の香りが肺から鼻腔までを満たし、息をして空気が循環するにつれ段々とまろやかになり、消えていった。

「甘いね」

「そうだね。僕はあまり辛口は得意じゃないから、これくらいが一番好きかもな」

「へー、意外」

「僕の飲んだことがあるのが安いコンビニ酒だったせいかもしれないけど、ああいうお酒を飲むと味覚じゃなくて痛覚が反応するんだよね。美味しさよりも先に痛さが来ると、ちょっとこれじゃないなって思うタイプでさ」

「まあ言いたいことは分かるかも。私も苦手とかはないけど普通に甘いのが好きだから、丁度良い感じだね」

「あれ、引きこもり中に二十になったはずのにもう自分の好みを知ってるんだね、不思議だなあ」

「あれえなんでだろうねー」

 花菜は分が悪くなったので、飲んじゃえ、と健人の手の盃になみなみと酒を注いだ。



 すき焼きの鍋を二人でつつきながら四合くらいを空け、酩酊と呼べる状態に辿り着いた丁度その頃、花菜と健人は連れ合って店を出た。春の陽気が微かに香る夜の空気に火照る顔をさらしつつ、二人はどこを目指すでもなく街の中を歩いた。

 ふっと会話が途切れたタイミングがあった。

 酒の力も借りつつ、花菜は本題を切り出すことにした。


「ね、私が今日相田くんを呼んだ理由って、わかったりする?」


 たっぷりと時間をおいてから、健人は答えを絞り出した。

「……すごい質問するね」


 花菜はその答え方に満足した。


「いや、答えなくていいよ。今ので覚悟できたから」


 息を吸って、腹に力を込める。


「私がここにいられるのは相田くんのおかげだってことを、私は一日も忘れたことはないし、絶対にこれからも忘れないって心に決めてるんだ。だから、まず改めてありがとうございました、って言わせて」

「いいんだよ、中沢さんが一番頑張ったんだから」

 健人は困ったように笑って、自分ではなく花菜を立てた。

「きっとそういうと思った」

「分かっちゃうか」

「分かるよ。だって、ずっと私のことを大切にしてくれたから」


 花菜は少し足を速めて横並びで歩いていた健人の前に体を滑り込ませ、どこの街にもあるような路地の中で、彼と二人で立ち止まった。


「そういう人のことを特別に感じるようになっちゃうのは、悪いことじゃないって思うんだ」


 振り返ると、建物と建物の狭間を埋める鈍い色をした夜空の下に、健人の優しい顔が待っていた。


 こんななんでもない場所でも、きっといつかふと思い出して懐かしさを覚えるような、特別な場所になるんだろう。

 胸を張って、真っ直ぐに顔を見上げて、でも少し顎は引いて。さあ、伝えよう。


「好きです。私と付き合ってくれませんか」

 

 健人の顔に浮かぶ笑みが少し深くなったのが分かった。


「……こんな僕でも、いいの?中沢さんを最初に助けようとしたのは、その」

「分かってる」

 健人が口にした言葉は、きっと彼にとって当たり前の「無償の愛」を「たった一人だけへの恋慕」に取り違えてもいいのかと許しを請うためのもので、それを一瞬で感じ取った花菜は彼の台詞を彼の望み通りに遮った。


「『全ての人を愛する』って宿命があるから、特別な感情なんてなかったのに私に手を差し出さないといけなくなったことくらい、とっくに想像ついてる。それでも、相田くんが私にくれた幸せは全部本物だから。私は相田くんの全部をひっくるめて、好きになったの」


 それを言い終わったとき、花菜は自分の体に力強く健人の両腕が回されたのを感じた。

 花菜が体格差から思わず後ろによろけかけたのを、健人は一瞬腕から力を抜いて支えとすることで防ぎ、そして少しの間を置いて再び強く抱きしめた。


「君みたいな人を、僕はずっと探していたんだ」


 それがずっと前に聞いた言葉の焼き直しであることはすぐに分かった。そして、そこに込められた意味が、その時よりも遙かに大きいものであることも。


「ありがとう」


 花菜も腕を健人の背中に回した。人間にしか持ち得ない温もりを、確かに健人の中に感じた。


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