呪い-[1]
---2182年 9月
チャットの通知が枕元のウェアラブルデバイスを揺らしたので、花菜は一日を過ごすベッドの上から億劫に腕を伸ばした。
大学関係の知人の連絡先は心を守るため既に殆ど全員ブロックリストに突っ込まれていたから、その通知は母親か、それか花菜がトラブルに陥ったことを知らない中高時代の友人が発したもののはずだった。
デバイスを探り当てるまでの間に動き回った腕が、机の端に散乱した、最早いつのものかもわからない講義レジュメをまた引っかき回す。
ようやく手元に引き寄せたデバイスが、丁度のタイミングで再びチャットを受信した。カーテンが締め切られ昼間であるのに薄暗い部屋の中で、画面の明るさが花菜の目を灼いた。
【中沢さんに何が起こったのか聞きました】
【これから色々送ってみようと思ってます】
花菜は落胆のあまりため息をついた。
文面から察するに、めっきり少なくなってしまった話し相手の一人が気まぐれに自分を暇つぶしの相手に選んでくれたというわけではなさそうだった。大学の誰かがまた見え透いた善意という罠で以て泥沼の中の私を観察しようと画策しているらしい。
このようなメッセージを送りつけてくるような相手に心当たりはなかったが、友人たちには詳しいことは伝えていないし、両親には箝口令を敷いているから、それが花菜の置かれた状況を知ることが可能な大学の関係者のものであることは明白だった。花菜はさっさとブロックリストにこの不埒な人物を放り込もうと、送信主の名前を確認することもせず、既に慣れてしまった手つきでチャットアプリを立ち上げた。
【中沢さんがまた幸せになれるように、できることをやらせて欲しい】
出会い系でももっと上手いことを言えると思う。
【迷惑と思ったら、いつでもブロックしてくれて構わない】
ご愁傷様。今からそうしてあげるから。
【これだけは思い出して欲しい 僕は中沢さんを苦しめる振る舞いをとることはしない というか、生まれつき絶対にできない】
なんだこいつ。
花菜は思わず手を止めた。
そこで初めて花菜は送信主の名前を見た。
相田健人、という記名がなされていた。
【心の底から中沢さんの力になりたいって思うことしかできないんだ】
確かに、相田くんはそういう意味合いのことを昔言っていた気がする。
半分ロボットでできた身体と頭のせいで『人の不幸に反応して幸せに導く』本能があるとか、どうとか。
一度懐かしい記憶を再生してみれば、それに連ねて花菜の脳裏に高校二年生の夏の思い出が蘇った。
一人の女の子が命の危機にさらされたのを見てその身を捧げると決心した健人のために、見よう見まねで呪文をかけたこと。必死の思いで彼を消防の手から救い出し、しまいには動けなくなった彼について不思議な施設に連れて行かれたこと。「全部二人だけの秘密にしてくれ」と頼み込まれたこと。
楽しかったな、という思いが頭をよぎり、花菜は自分の中にそんなポジティブな感情を生み出す力が残っていたことに驚いた。
【つらいことは何も考えなくて良いよ ちょっとずつ、楽しいことを「楽しいんだ」って感じられるようになっていって】
……まあ、いいか。
花菜は健人をブロックしようとしていた手を止めた。
それから毎日のように健人はチャットを送ってくるようになった。
【能登半島の先っぽに行ってきたよ 写真見せるね】
【キャンパスの近くにおいしい定食屋さん見つけたんだ トンカツがこのサイズでしかも安いってすごくすごい、ほんとすごい なんで今まで知らなかったんだろう】
【これ知ってる?「このマンガが今アツい!」ランキングの6位なんだけど、ストーリーが緻密すぎて一生読んでられそう】
【今日の宗教論で教授が言ってたんだけど、動物たちに宗教を与えるとしたら、「強さ」を中心にして設計しなきゃいけないんだって 面白くない? だって「神を信じればお前はこの世の中で一番強くなれる」ってことでしょ、そんなの悪の親玉じゃん】
話のトピックは日によってまちまちで、チャット欄を健人が日記として使っているかのようだった。
一つだけ共通していたのは、健人が「快さ」を中心とした話題を選ぶようにしていたことだった。その配慮の裏側にある意図はあまりにも明白で、そのために花菜は裏返しに自分の置かれた境遇を嘆くような心境に陥ることも何度かあった。
しかし、花菜は健人の言うことを素直に快い物として受け取ることに務めた。そうするまでの義理はなかったとしても、それは健人にとっても同じなのだという理解もあった。
---2182年 10月
【親父の古いお下がりが壊れちゃったから新しいオーブンレンジ買ってきたんだけど、これでお菓子も作れるって言うからクッキー焼いてみた 結構上手くできたと思う バターってあんな入れるもんなんだね、知らなかったなぁ 何か男子大学生一人暮らしにお勧めのお菓子とかってあったりする?】
ある日唐突に、健人は花菜に返事を求めてきた。
今まで一度も健人に対して何かを送り返したことはなかったが、自分の趣味の範囲の話でもあったから、花菜は素直に返事を打ち込んだ。
――バターは入れれば入れるほど良いからね お菓子っていっても色々あるよ レンジはどれくらいの大きさなの?
送信ボタンを押そうとしたとき、花菜は自分の心拍数が急激に上がっていくのを知覚した。人と触れ合うということが恐ろしくなって以来、この身体はただ友人とチャットをしようとするだけで震えるようになってしまった。
自分が送り返そうとする文面が気持ち悪い物でないか、もっと気の利いたことを言えないのか、なんでもない一言だと分かっていても繰り返し振り返って自分の非を探してしまう。
このふざけた症状は健人という安心が保障された人間を相手としているときでも変わらないらしい。
やがて意を決して人差し指で画面を押して、健人が何を打ち返してくるか祈るような気持ちで待ちわびる。
【結構大きい】
健人はそれほどの間をおかずに写真を送り返してきて、それで花菜はベッドの上でほっと息を吐いた。
【じゃあ、ゆくゆくはケーキとか焼くのかもね まず手始めにカップケーキとかから始めてみたらいいんじゃないかな】
【なるほど 手頃なカップ探してみよ】
【百均で売ってる使い捨てのやつでも十分だよ】
それからしばらくお菓子談義が続き、メッセージを一つ作る度に緊張は小さくなっていった。
【今日のお勧め~ 古本屋で見つけたんだけど、ストーリーというよりはほんとに言葉の使い方が上品で綺麗だった】
【古いね 何それ】
【2083年出版、って書いてある】
【100年前!?】
【すごいや、調べても全然ヒットしないんだけど この時代にこんな本が生き残ってるなんてなぁ】
【あ、でもそうしたら私は読めないな 残念 データベースにないし通販にもないなら探しようがないよ】
【……そうじゃん うわあ勿体ないなぁ】
花菜は一度ウェアラブルデバイスを傍らに置き、音を鳴らしたレンジから朝食のお粥を取り出した。
毎日決まった時間に送られてくる健人のチャットのおかげで、花菜は昼夜逆転こそ治せなかったもののそれなりに規則正しい生活を取り戻しつつあった。それが社会復帰に向けた決して小さくない前進であるのは明らかで、花菜は健人に対して感謝の気持ちを持ちつつあった。
机に戻り、再び健人とのチャットを開く。
【この本送って良い?】
健人から思いがけない申し出があった。
【え、いいの?】
【もともと中沢さんに読んで欲しいからって選んだ本だからさ】
【そっか、ありがとう】
送るとすれば、住所が必要となるだろう。
時間を掛けて住所を打ち込んでいるうちに、健人の方が先に新しい文を書き上げたようで、花菜は手を止めて新着のメッセージに意識を向けた。
【フリマアプリやってる?】
発言の意図が分からなかったので素直にそう伝えると、健人から思ってもいない答えが返ってきた。
【匿名のフリマアプリ経由ならお互いの住所を知らなくても宅急便使えるなって ライフハック的な】
【住所教えるよ】
【無理しないで 他人に教えたくなければ、言わなくたって良いんだよ】
なるほど、どうやらこの面倒な発想は思いやりが行きすぎてしまった結果らしい。
花菜は小さく笑って、一度途中で消してしまった住所を再度打ち直した。
【ありがとう でも普通にここに送って 私は気にしないから】
その一件以来、健人はそれなりの頻度で本や漫画を直接花菜の家に送るようになった。彼が勧めるものはネット上に見つけ出すのが難しい場合も多かったから、花菜は素直にそれらをありがたく受け取り続けた。
そうしてしばらく経ったある日。
【今日は少し、新しいことをしてみない?】
【新しいことって?】
【社会復帰に向けた慣らし運転の、準備の準備の準備、みたいなこと もし中沢さんが復帰を望むのなら、だけど】
きゅう、と心臓が強く収縮するような感覚がした。花菜はしばらくの間その不快な感覚に耐えてどうにかやり過ごしてから、【なにをするの】とだけ返した。受け入れるも断るも、とにかく健人の考えを聞いてからにしようと思えるだけの冷静さは取り戻せていた。
【直接中沢さんの家に本を届けに行こうと思っててさ その時帰る前にインターホンを鳴らしていくから、応答ボタンだけでも押して欲しいんだ もし辛かったら、僕が勝手にしゃべるだけしゃべっているのをただ聞き流してくれればそれで十分だと思う いつか慣れてきたら、話をしよう】
それは、花菜のトラウマの根源についに手を伸ばそうという健人からの提案だった。かつて人間が抱きうるあらゆる種類の憎しみをたった一人で受け止めさせられた花菜にとって、人と話すことはそのままその口から浴びせられる害意との対面を意味していた。そうではない、世界はもっと優しい場所だ、と自分を騙そうとしても、心の奥底にまで染みついた怖れは花菜の耳にかかったフィルターを外そうとはしてくれなかった。
このふざけた思考回路を取り除かない限り、自分は二度と太陽の下を歩くことができないのだということを、花菜は痛いほどよく分かっていた。
花菜はたっぷり時間をかけて心を落ち着かせてから、自分の理性が望むほうに舵を切ることにした。
【お願いします】
【ありがとう 一時間くらい待ってて】
きっかり一時間後に、健人は花菜の住むマンションのエントランスに着いたと連絡をよこしてきて、少し後に予告通りインターホンが鳴った。
ボタンに手を伸ばそうとする思いと、それを拒絶する本能が、花菜の体の中で衝突を繰り返した。
自分を知る人間がそこにいると考えただけで、遠い過去に封じて忘れ去ろうとした怯えがまるでいつもそこにいたかのように顔を出す。花菜は寒くもない部屋の中で歯がカチカチと音を立てるのを止められずにいた。荒くなった呼吸だけでもどうにか制御しようと努めているうちに、時間だけがどんどんと過ぎていった。
しばらくの間じりじりと手を伸ばしては引き攣るように引っ込めてとしているうちに、チャットが届いた。
【僕のことは見える?】
おそるおそるインターホンの画面に目を向けると、画面には優しい表情の健人が映っていた。
高校を卒業して以来久々に見た彼は記憶にあるものよりやや明るい髪色をしていて、それが時の流れを感じさせた。
【うん】
【それで十分だ 頑張ったね】
画面の中の健人がカメラに向かって微笑んで、同じように「頑張ったね」と口を動かしたのが分かった。
花菜の心に根を張る冷たいトラウマが、彼の温かな感情に触れた。
思わず花菜は手を伸ばした。
ブツッ。
「えっ」
ボタンに指先が届く直前に、インターホンの応答期限が切れ、健人の姿は見えなくなった。
【また明日も来ていいかな】
花菜の姿を見ることができない健人は、既に未来の話を始めていた。
花菜は健人が送ってきた短いメッセージを呆然として眺めた。
明日じゃなくて、今、あと数秒あれば。
きっと貴方は私のことをもっと褒めてくれたのに。
【もう一度、呼んで】
衝動的に花菜は健人に願いを届けた。
間髪入れず、インターホンが鳴った。
今度の手の動きは、何に遮られることもなかった。
「――本当によく頑張ったね」
怖くない。ああ、全然怖くなんてない。
くぐもった音で健人の声が聞こえたとき、自分の中にこみ上げてくる感情が怖れではなかったことに打ち震え、花菜は気付けば泣き出していた。




