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機械と愛と烏  作者: 諭吉
三章
25/45

 仕事に命を捧げてきた中沢神路の人生とは、その実、字面とは真逆であり、無謀な夢をひたむきに追いかける青臭いものであったと表現することができる。幼い頃、移民たちを受け入れたことで日本社会に生じたさまざまな軋轢の中で心ない大人たちによってたかっていじめられた彼が始めに抱いた夢とは、彼らを見返して一個人としての誇りを実現することであった。中沢家は決して裕福な家ではなかったから、彼は苦労して家から遠くの公立の高校に通い、奨学金を得ながら東京大学の法学部を卒業し、警察庁への就職を勝ち取った。成功への基盤を手にして以来、彼は猛然と前だけを向いて進み続けた。いつしか彼には守るべき家族ができた。気が付けば彼のことを大勢の祈りが後押しするようになっていた。大切にする物が増え、彼の夢はその分だけ膨らんだ。そのために一人ひとりに振り向けられる愛情が減っていったとしても、彼は自分一人のものでなくなった夢のために、あらゆる犠牲を受け入れてきた。


 それが、中沢神路という男を形作った歴史であり、そして今、彼にとって絶望の根源となっていた。


 昨日、二つの大きな出来事が彼に訪れた。

 一つは、数日前にも見た差出人不明の白い封筒だ。今回は通用門に直接挟むのではなく、一般の郵便として中沢家のメールボックスに投函されていた。前回、リークの首謀者の素性を暴くことができなかったことを悔やんだ神路は、すぐに業者を頼んで家の周りに防犯カメラを数台配置していたのだが、それらをあざ笑うかのような手口だった。

 内容は前回のものと酷似していた。第二次解放事件第二フェーズの犯行が実行された茨城県常総市の貸倉庫地下に位置する拠点についての情報と、「切実な事情により」それ以上の情報は公開できないという締めの文言。一度目のリークによって無様に踊らされたことを忘れていなかった神路にとってみれば、挑発以外の何にも思えなかった。当然虚偽や囮の情報である可能性は意識しながらも、しかし手を打たないという選択をすることもできず、神路はリークに従い捜査の手続きをとるように部下たちに指示を送った。


 もう一つは、十八の時地方大学への通学のために家を出て行って以来あまり連絡をよこしてこなかった一人娘からの電話で、ストレスに膿んだ心への清凉剤となるかと思われた彼女との会話で判明した諸々は現在の神路が抱える最大の問題となっていた。


「岡山県にあったギデオンの拠点、健人のお父さんが作ったんだって」


 電話先が父親であることを確認した花菜は、二言目には本題に踏み込んできた。

 花菜が世間話をするでもなく言いたいことをズバッと言うのは娘にそこまで好かれていないという自覚のある神路にとっては慣れたものだったが、流石に目玉が飛び出るほどの衝撃を受けることになるとは思ってもいなかった。


 電話越しに積まれていく超が付くほどの重要証言を、勲は必死に脳内のメモに書き留めていった。花菜のパートナーである相田健人は生まれてから数年間岡山県津山市に居住しており、その期間中彼の父親である相田勲は近くに自ら建設した問題の研究所に勤めていた。相田健人と相田勲との生活の中で、相田勲の研究が話題に上ることは不自然なほど少なく、相田健人はそれを怪しんでいる。相田健人は一昨日の記者会見で研究室がギデオンの右手の拠点として使われていたことを知り、自らの知り得る限りの物事を警察に明かす決意をした。


 捜査本部に相談することもなく、神路は彼の独断で、翌朝に健人に事情聴取を行うことを決定した。彼自身のことも含め、仕事量が多少増えることを気にしてなどいられなかった。仮に全てが真実であれば、リークと呼ぶにもおこがましい舐め腐ったあの怪文書に頼ることもなく、事件が完全解決にまで一気に進展しうることはあまりにも明白であった。神路はその事実にしばらく打ち震えた。


 花菜との電話が切れた後、意気揚々と翌朝九時にアポを取り付けたことを関係各所に連絡しようとして、ふと神路は全くベクトルの違う問題が発生していることに気が付いた。


 相田勲とは、彼の娘が持つことになったもう一人の父親であり、つまるところ、彼にとっても身内と呼べる存在である。いま、相田勲は一連の解放事件の首謀者として急浮上した訳だが、これはつまり、神路の身内が数千万人を殺害したという構図が出来上がろうとしていることになるのだった。そして、身内に世紀の大犯罪者が生まれることは、自身のキャリアに取り返しようのない傷をつけることになる。


 神路は青ざめた。警察の一員として喉から手が出るほど欲しかった解放事件の解決と、多くの移民系国民の期待を背負う自身の警察の長への就任という、これまで分かたれることのなかった二つの到達点が突如として空中分解し、彼に二者択一を迫ってきたのだった。


 仮にこの一件を握りつぶせば、神路はギデオンの右手によって命を奪われない限り、遅かれ早かれ最後の昇進を果たすことができる。これから失われる一千万の命と、数千万のかつて失われた命に、唾を吐きかけることを代償として。

 仮に健人に事情聴取を行い勲を逮捕できれば、この国に二十五年ぶりの安寧が訪れる。自身の数十年にわたる専心と、五千万を越える移民系国民から託された希望を、灰燼に帰すことを代償として。

 

 どちらをとっても、神路は自らの積み重ねてきた人生を「負け」として定義することになると思われた。当然彼にとってはどちらも受け入れがたく、何らかの決断を下すことができないまま時間だけが過ぎていこうとした。


 時間すらも彼の味方ではなかった。



 寝られずにいた深夜の一時頃、指定された茨城県の貸倉庫地下に岡山県のものと酷似した空間が存在することが確認されたとの知らせが神路の元に届いた。既に一度通った路であり、神路や本部長の指示を待たずして捜査本部は必要な手続きをとるために動き始めていた。

 確実に誰もが忙しくしているであろう翌朝に健人の事情聴取をねじ込むなら、その時点で要件を共有するしかなかった。


「重要な情報源を確保した。明朝九時に事情聴取をセッティングしたい」


 結果、神路は全体善を選択した。それは誇り高き警察としての彼の矜持であった。



 




「報告します。ターゲット施設内における指名手配被疑者及びその他推定ギデオンの右手構成員の不在が断定されました。また、岡山県旧工場跡地案件と同様、機器類の持ち出し等による隠蔽工作の形跡を確認しています」

「……よくやってくれた」


 数日前にも見たような白い内装を背景に送られてきた、ある種予想通りの捜査結果を受けて沈黙した会議室に捜査本部長の低い声が響いたのは、夜が明ける直前のことだった。


「皆、落ち込んでいる暇はない。やるべきことをやろう」


 重々しいその響きが意味するところは誰しもが共有していた。このままでは、また何も得ることなく次の犠牲者が生まれてしまう。かといって、与えられた餌を頼りに僅かな糸を探り当てられることを祈る以外に有効な捜査の目処の立っていない現状には、何も変わりはなかった。


 だから、神路が持ち込んだ「重要な情報源」という新たな一縷の希望について、彼らは大きな期待を寄せていた。


 遠藤の率いる公安課の発案によって、拠点の制圧を公表するのは健人との面会を待つことが決まっていた。テロ対策組織の長としてギデオンの右手の手腕や情報管理能力にある意味での信頼を置いていた遠藤は、健人が何らかのエピソードを騙るために警察に派遣された可能性があると主張した。


「仮に相田健人というその証言者が虚偽の情報を吹き込まれていた場合、我々は再び無駄骨を折ることになりかねない。持てるカードは伏せておいて、彼の発言の整合性を確認することに使うべきだろう」


 そのため、約束の朝九時までの数時間、捜査本部には奇妙な落ち着きが訪れていた。








 窓の外を眺め呆然としていた神路は、いつからか隣にいた遠藤に零した。


「なあ遠藤」

「何だ」

「俺の分までお前は立派にやってくれよな」

「女々しいぞ、らしくもない」


 北西を向いた窓からは、皇居の濠の風にさざめく水面がよく見える。国会前庭と皇居の御府の織りなす緑とその狭間のきらめきは、荒んだ心を均すような風景となって神路を融かしていた。


「女々しくもなるさ。俺のキャリアは終わったんだ。人生が終わったと言い換えても良い」

「まだ決まった訳じゃないだろう」

「決まったようなものだろうさ」


 憮然としたまま神路は続けた。


「どうして俺の家に直接リークが来たのか、何故俺や家族が玄関を普段使いしていないと知っていたかのように勝手口に手紙が挟まれていたのか、いま考えてみれば簡単なことだ。リークをした奴がそのことを直接知っていたんだよ。相田勲は一度だけうちに娘を送りに来たことがあるんだ。その時に知った俺の立場を使われたと考えれば全てに得心がいく。ひょっとすれば花菜を利用したあの時から、すでに計画は進行していたのかもな」


 ふと過去のことを思い返すだけでやるせない気持ちがこみ上げ、神路はこの夜を一睡もできずに過ごしていた。一つ目の手紙を発見して検分したときに感じた高揚感がそのままひっくり返って神路を打ちのめすかのようだった。


「何にしても、相田勲はクロだ。状況証拠から経歴に既存の証言まで、全てが怪しすぎる」


 既に勲の経歴については警察内で粗方調査が済んでいた。相田勲は第一次解放事件の一年後にそれまで勤めていた研究機関を突如辞め、岡山県津山市に移り住んでいる。勤務先は不明なまま論文をいくつか上梓し、そして二年後に今度は茨城県常総市に移住したとの記録がある。こちらでも勤務先は不明。津山市と常総市とは、まさに二度の犯行が実行された現場である。


 これだけの情報が揃えば、小学生ですら彼とギデオンの右手との間に何らかの関連があると察知することができるだろう。


「そうだな。相田勲は間違いなくギデオンの右手の関係者だろう」


 遠藤もそれについては認めざるを得ないのか、静かな声で呟いた。


「な、決まってるんだ。俺はもう終わりなんだよ」


 神路は乾いた声で笑って吐き捨てた。


「喜べ、お前の勝ちだ」

「ほう」


 遠藤から返ってきたのは、拍子抜けなほどに気の籠もらない相づちがひとつだけだった。それは数十年の競争関係そのものを空疎なものに損なわせるようにも感じられ、神路は遠藤に対して素直に苛立ちを覚えた。


「勝者には勝者らしく振る舞う義務がある。どうだ、慰めるなり嘲るなり笑うなりしてみれば良いだろうが。それともお前はそんなことすら思い浮かばない人外だったか?」


 神路は遠藤を挑発し、彼に言葉での介錯を求めた。自らの立場を、これまで二人で築いてきた歴史を、自らの青春の延長が帯びる意味を、遠藤の勝利宣言で定義させようと促した。

 神路は楽になろうとしたのだった。


 その望みが叶えられることはなかった。


「お前はいつからこの事件がそう単純なものだと決めつけるようになったんだ?」


 遠藤は表情を崩すことなく淡々と言った。

 何らかの嘲笑が降ってくると考えていた神路にとって、それはあまりにも予想外の言葉だった。


「あ?」

「お前はいつからこの事件をそう単純化して捉えるようになったんだと聞いている」


 遠藤の口調に乗せられた思惑を読み切れず、神路は怪訝な顔になった。


「どういう意味だ」

「俺はギデオンの行動全てに何らかの思惑、事情、理由があると考えて捜査に当たっている。なら、相田勲というノーマークだった存在が突如捜査線上に浮上することになったこの状況すらも奴らの思惑の中であるという可能性は捨てられない」

「そうだな、だから何だと言うんだ」


 合理的な思考を是とする遠藤らしい物事の受け止め方だ。だが、それが何を意味するというのだろう。


「相田勲が奴らのスケープゴートという可能性を俺は真剣に検討している」

「……は?」


 煮詰まり続け絶望に凝り固まっていた神路の思考回路に、遠藤は爆弾を投下した。


「もう少し状況を大きく捉えるのなら、第二次解放作戦と奴らが呼ぶこの一連の殺人事件自体に、何かしらの裏事情が潜んでいるとすら考えている」


 遠藤は唖然とする神路を見下しながら語り続ける。


「元々の奴らの主張では、全部で四つのフェーズで合わせて日本ブロックから10%の生命を消し去るという話だったな。それがどうだ、計画全体の半分に当たる二回のフェーズが過ぎた現状、奴らは終の住処からすら人間を消し去り切れていない。実績で言えば全人口の僅か1%強だ。計画が失敗していると言うこともできる。だが、俺はそうは思わない」


 ここまでのお膳立てがあれば、流石に目の前の男が言いたいことは察知できた。


「何か別の目的がある、と」

「そうだ」


 神路の背筋が伸びたのを見て、遠藤は少し口角を捻り上げた。


「奴らの思惑が何かは分からないさ。だが、明らかに失敗しているように見える作戦に、一見意味のない仕組まれたリーク、二十五年もの間存在を認知されていなかった男の突然の急浮上。不可解なことばかりだ。これら全てを踏まえて物事を捉えるなら、たまたま都合良く名前が挙がっているにすぎない被疑者Aがたまたま都合良く表に出ているにすぎない事件Bの首謀者である、と短絡的に決めつけるにはまだ早すぎる」


 なるほど、よく出来た論理だ。

 

 神路は心の中で舌を巻いた。同時に、しなびていた心身に活力が戻ってくるのが感じられた。そのきっかけをくれたのが遠藤だという事実はやや癪に障ったが、しかし同時に彼らの間には疑うことのできない信頼関係があるのだった。


「事件の全貌解明までの道のりは遠く、か」

「それが分かったなら十分だ」


 素直に感謝するのには抵抗があったので、神路は遠藤の発言を少しだけ拡大解釈して新たな観点を追加したというポーズをとった。遠藤はマウントをとっているという立場を崩さないながらも、薄く笑って神路の変容を賞賛した。二人にとって慣れ親しんだ、居心地の良いかみ合わせがその場に戻っていた。


 その時、二人のウェアラブルデバイスがほぼ同時に通知を発した。神路は画面に表示された要件にちらりと目を通した。


「お前の娘たちが到着したようだな」

「ああ。自分の娘を取り調べることになるとは思いもしなかった」


 二人は招集に応じるため、窓に背を向け歩き出した。


「中沢」

「何だ」

「これから俺に合わせてくれ。悪いようにはしない」


 それとなく、といった口調で遠藤が言うことはあまりにも多くの含みを孕んでいた。

 神路は少し考え、


「一度だけなら」


 と返した。例え遠藤の手によって何が引き起こされるにしても、神路には借りを一つ返す必要があった。


「それでいい」


 遠藤は細い笑みを浮かべていた。


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