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機械と愛と烏  作者: 諭吉
三章
21/45

MemoryLog: 2179 07 13 -[4]

 岸に辿り着くと、別のやや年配の消防士が大きなタオルを広げて健人を迎え入れた。

「お疲れ様だ。本当によく頑張った」


 素直にタオルにくるまり、彼がわしゃわしゃと体を拭き上げるのに身を任せる。先ほどまで体を取り囲んでいた無秩序な水の流れとは異なる、手荒い中にも意図と呼べるものが存在するその祝福は、健人に大きな安堵と、そして達成感を与えた。

 確かに、僕は一人の命を救ったのだ。


「救助してくださって、ありがとうございます」

「我々は別に何もしてないさ。できた人間だな、君は。怪我は?」


 河川沿いの小道には丁度救急車がサイレンを鳴らして到着しており、健人と女の子の二人を搬送する支度が進んでいるようだった。

 それはまさに健人が想定していた、どちらかといえば悪い方のケースの一つだった。今の状態で病院にかかったなら、いよいよこれまで守られてきた健人の身体に隠された秘密が暴かれてしまうかもしれない。この十分弱の乱暴な肉体の運用によって、人間が普通に生きていては起こり得ない現象が起こっていてもおかしくないだろう。だから、この問いには、予め「怪我はしていない」と答えるつもりで動いてきた。今の状況なら、話題を逸らしてしまうことが有効だろう。

「いえ特に。それより、救急車が来てますけど、あの子は無事でしたか?」


 健人は何でもないというように飄々と返し、女の子の心配をしているふりをした。それも半分以上は本音だったこともあり上手な演技ができたらしく、消防士は狙い通りそちらの話題に気をとられてくれた。

「ああ、大きな怪我はない。君のおかげだ。擦り傷があちこちにあるから、しばらくは下水由来の菌が悪さをするだろうけれど、ちゃんと処置をすれば命に関わる問題にはならないな。まあ大事をとっての入院といったところか」

「そうですか。よかったです」

「ああ。君もどっかの水道で傷口を洗ってから帰るんだぞ。体力があるとは言え明日明後日辺りは熱が出てもおかしくない」

「分かりました」


 めったなことでは風邪など引かない体質ではあったが、それでも一応気をつけておこうと健人は心に決めた。


「よし。では詳しいいきさつを聞きたいんだが……ああいや、後回しだ」


 消防士は健人の背後に女の子の母親が立っていることに気付き、健人に彼女と向き合うように促した。


 何度も何度も頭を下げ、繰り返し感謝を述べ、終いにはお礼に何かさせてくれと言い出した彼女をなだめすかして、健人はなんとかその場を収めた。正義感がほとばしったというよりも、脳内の行動原理に従って体が動いた結果の救助劇であったため、健人としてはそれほどまでに感謝されるのは居心地が悪かった。せめて連絡先だけでも、と彼女が言って聞かなかったので仕方なく電話番号を共有したから、おそらく数日か一週間くらい経てばまた彼女と会うことになるのだろう。その時になんと声を掛ければ良いのか、今から考えておくべきかもしれない。


 救急車に乗って娘と一緒に病院へ向かった母親を見送って、健人は再び先ほどの消防士と二人になった。近くに花菜も来ていたが、神妙な面持ちの彼女はしばらく会話に口を挟むつもりはないようだった。


「そんじゃあ、何があったのか聞いても良いかい?」

 何があったか、と聞かれても、健人の方で答えられることはそう多くない。

「ああ、細かいことはあっちの人たちが答えてくれると思います。僕はたまたま居合わせたので、飛び込んでなんとか彼女を拾い上げただけです」

 いつの間にかアーチ橋の辺りからこちらに移ってきていた子連れの集団を指し示しながら素直な答えを返すと、消防士はとても驚いた顔をした。

「飛び込んで拾い上げたって、あの川で? 君、そんな細身でどんな身体能力してるんだ……今からでも消防士にならないか?」

「考えておきますってことで良いですか?」


 健人は苦笑いを浮かべつつ、そう返した。消防士は大げさに悔しがって見せて、残念だ、といった。


「そうだな、考えておいてくれ。ただ、本当のことを言えば人助けであっても増水した川に飛び込むのは危険だから止めとくのがいい。我々の仕事も増えるしな。ま、何にせよ素晴らしい救命活動だった。多分感謝状が出るぞ。誇れ、青年」


 そう言って彼は健人の背中をバンバンと叩いた。


「……? ちょっと待て」


 背中から手を離そうとした消防士は不意に動きを止め、そして今度は叩くためでなく何か明確な目的を持って彼の両手が健人の体に伸ばされた。


「どうかしましたか?」


 何度か背中の各部を撫でながら行き来した後にぱっと両手が離され、次いで消防士の顔がやや暗いものになった。


「君、肋骨折れてるぞ」

「え」

「右の肩甲骨下あたりだ」

「本当ですか?」


 そう言いながら、左手で言われた辺りを探ったが、医療関係の知識に疎い健人にはそれだけでは骨が折れているのか判断がつかなかった。痛みがあればまた違ったのかもしれないが、今の健人はそれを感じようがない。


 大きな問題が浮上していると気付いたのは、心配そうな顔になった消防士が健人の左手をそっと患部から引き離しながら次の言葉を発したときだった。


「本当ですか、なんて次元の問題じゃないな、これは。すぐに病院に行った方が良い」


 まずい。

 消防隊の責任で病院行きの手配でもされてしまえば、逃げ道がなくなってしまう。


 健人は笑顔で体を揺らして、怪我が重大でないとみせかけることを試みた。


「まあそんなに大きな怪我でもないですし、それに家が遠いので、近所の病院でなんとかしますよ」


 しかし、そうやって取り繕ってみても、目の前の男は更に心配の顔色が深まった顔を横に振った。彼は体を動かす健人の肩にそっと手を乗せ、動かないように、と告げた。


「触るだけで分かるレベルなんだ、痛くないはずがないだろ。すぐに処置した方が良い、他に傷めた場所はないか?」

「いやほんとに大丈夫なんです、特に痛くないんですよ」

「強がる必要なんてないんだ、正直に言ってくれ。場合によっちゃ救急車をもう一回呼ぶ」

「痛かったらそう言ってますから! 本当に!」


 問題ないと言い張り続ける健人に向けて消防士は意味が分からない、というようなジェスチャーをしてから、ぽん、と手を打った。


「あれか、お金の心配か? なら大丈夫だ、救急搬送にお金なんてほぼかからないし、ひょっとすれば娘さんのご家族が払ってくれるかもしれない」

「いえ、お金とかでもなくて、僕は大丈夫ですって言いたいんですよ」

「お金の問題でないなら病院にかかっておいて損はないだろう。何が問題なんだ?」

「肋骨くらいほっとけば治りますって。その、ええと」


 いくら会話を続けても状況は改善されなかった。どうにかしてこの場をやり過ごさなくてはならないのだが、まるでだだをこねるかのような自分の発言の方が苦しいことは明らかだった。


 苦境を打破する策を必死に探っていると、突然ひらひらと手を振りながら健人と消防士の間に一人分の影が割り込んだ。

「あのぉ、お取り込み中失礼するんですけどぉ、うちらそろそろ帰らないといけないんでー、連絡先だけ置いていくって感じでいいですかぁ?」


 花菜だ。

 彼女は露骨に腰を折り背中をそらし、上目遣いで消防士に話しかけた。

 普段の彼女からは聞いたことのない気だるそうな声色からは、明らかに花菜が何かを目論んでこの場に突撃してきたことが理解できた。


「……君は?」

「この人の同級生ですー。私が責任持って送るんで、普通に帰してくれませんかぁ?」


 なるほど、彼女は健人の意図するところを汲んでこの場から離脱するための手助けをしようとしてくれているらしい。

 

「いや、とは言ってもそういう訳にもいかないだろう」

「でももう六限終わっちゃうしぃ。こう見えてうちら進学校の生徒なんですよぉ、結構ルールとか大事なんですってばー」

「ル、ルールぅ?」


 花菜がわざとらしく指を一本立て、ゆったりと振ったり口元に持って行ったりして話しているうちに、消防士の視線が宙に泳ぎだして、彼の注意が健人から逸れていったのが分かった。

 花菜は中年の男性という人種が最も扱いに困るであろうタイプの生き物に身をやつしていて、それは絶大な効果を発揮していた。


「もう帰らないとうちら先生に怒られちゃうの嫌なんでー。ねー、健人くん?」


 花菜の手腕に心の内で舌を巻いていると、突然彼女は振り返りこちらを向いて問いかけてきた。


「うん。そうだね」


 ロールプレイの一環なのか、下の名前で呼ばれたことに動揺しつつもなんとか怪しまれない程度に自然な答えを返すと、こくりと頷いた花菜は健人の手を取った。


「ってことなんでー、なんかあったらこれに連絡くださいー」


 そう言って花菜は予め準備しておいたのか、小さなメモ用紙を懐から取り出して消防士の手に握らせ、そして早足で歩き出した。健人も逆らわず彼女の手に連れられて歩みを進める。


「え、ちょ、おい!」


 消防士は動き出した二人に遅れて手を伸ばすも、花菜の手がそれをぴしゃりとたたき落とした。


「帰ろ帰ろー」


 それで彼は完全に呆気にとられて動きを止めたので、健人は軽く会釈をしてわざとらしく川に背中を向けた。近くに住宅街の入り組んだ街路の入り口があったので、そこを曲がり、歩く速度を早めた。




 何度か適当に路地を折れ、増水した川からすっかり離れ何の音も聞こえなくなったころに、健人は初めて後ろを振り向いて追っ手の姿がないことを確認した。


 どうやら窮地は脱せたらしい。


「もう大丈夫みたい」


 花菜と繋がれている方とは反対側の手で彼女の気を引きながらそう言うと、ぴっ、という効果音がつくような勢いで彼女の手は引っ込められていった。


「その……勝手に色々やっちゃったのはごめん」

「いや、完璧。本当に助かったよ」


 やがて細い声で花菜が聞いてきたので、健人は心からの感謝を込めて返事をした。彼女は「そっか」と言ってまた静かになった。


 そっと目線だけを彼女の方に向けると、表情は背けられた顔からは伺えなかったが、耳に少し朱が混じっているのが見て取れた。その原因は先ほどの熱演だろうか、それとも今まで繋がれていた手のことだろうか。

 考えている内に自分も少し照れてしまったので、健人は前に向き直り、それに触れないことにした。


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