終の住処
窓の拭き掃除をせっせとこなしていた健人の耳に、外の中庭からだろう、大きな歓声が届いた。掃除の手を止めて中庭で開催されているゲートボール大会を眺めていると、横に和田という名前の同僚がやって来て立ち止まった。健人とは同期の職員であり、よく話す仲になったのは自然なことだった。
「イシダさん、今日も元気そうね」
そういう和田の視線の先では、紅白に分かれた二チームのうち白チームを率いる老年の男性が手を天に突き上げていた。やや黒髪の残る頭には汗すら流れ、御年八十五とは到底想像も付かないほどの息巻きようだった。
「そうだね。風邪で伏せった時はいよいよかと思ったけど、まだお迎えは遠そうだ」
健人が大学を卒業してから勤務することになったここ「終の住処」は、死を目前にした人間を精神面のケアのために収容し、そして安寧の中での死を迎えさせることを目的とした全国各地に存在する施設のうちの一つである。西東京という比較的人口が多い地区に位置することも相まって、施設には常に百数十人が居住しており、週に数人の見送りを執り行うことが当たり前の環境だった。
イシダさんは終の住処の入所者の中で最も歴の長い人物であり、本人の明るい性格もあってか入所者達にとっての精神的支柱となっていた。それだけに留まらず、その長い人生経験を元に職員達の相談にも気軽に乗ってくれる、誰にとっても頼れる存在だった。
「もうここに来て五年になるのかあ、そろそろ国内記録更新が本格的に狙えるんじゃないかな?」
「六年半だっけか。四十年前に四国のおばあさんが出したんだよね。果たして更新することが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、あと一年半か。イシダさんならやりかねないな」
健人は言葉の繋ぎ方に気をつけて自らの持つ情報を口にした。完璧な記憶能力を持つ健人にとって、「だっけ」は存在しない。
「悪いことじゃないよ、少なくとも。『知らせ』を見てから一年もしないうちに死んじゃうのが普通だって思うと、イシダさんを見てると常識が崩れていくのを感じるなあ。あの人のおかげかどうかは知らないけど、最近ここの施設の平均余命も伸びてる気がするしね」
和田の感覚的な発想に興味を持った健人は、電脳から過去の入居者達の滞在期間のデータを呼び出し、それらを年度別に並べ替えて平均をとった。なるほど、確かにイシダさんが来てから二年ほど経った頃から、平均余命は有意な上昇を見せているようだ。
「確かに、イシダさんが来る前から比較すると二ヶ月くらい伸びてるみたい。面白いね」
「へー、ほんとにそうなんだ。相田くんどこでそんな話拾ってきたの?」
そうやって計算結果を伝えると、和田は驚きの表情を浮かべた。その顔を見て、健人は自らのミスに気が付いた。既に言ってしまったものは仕方がないので、言い逃れる方法を考える。自分の中にある人間ではない部分を恥じる感情から、自分が生体アンドロイドであることを、健人はある一人の例外を除いて誰にも伝えてはいない。だから、たまにこうやって人外じみた振る舞いを顕にしてしまっては、怪しまれるということが起こる。
「最近ちょっと入所記録のフォルダ見たときに気になって計算してみたんだよね。一週間くらい前だったかな」
雑巾を両手で弄りながら何でもない風を装って言い訳をすると、和田はいつものか、とため息をついて遠い所を見るような目をした。
「ええ、あの紙媒体の? そんな、イシダさんが居る期間にいた人の数なんて数百人じゃ下らないのに。頭の回転が速いのは知ってるけど、改めてすごいよねぇ」
「いやいや、ギフテッドだからこそだよ」
「はぁ。私も欲しいな、その便利能力。分けてよ」
自らの人間離れした能力を他人に感づかれてしまったときに、ギフテッドとは本当に便利な言葉だ。生まれてからこの方何度お世話になったか分からない。記憶能力、運動能力、計算能力。とにかくなんでもギフテッドだと言っておけば、ひとまず相手は納得してくれた。
ただ、その代わりに、いつもこうやって相手に劣等感を植え付けることになるのが健人にとっては心苦しかった。人を愛するように生まれ育った健人にとって、人を苦しめるのは全く本望ではなかった。
「和田さんにだって和田さんの良いところがあるんだから、ね? 例えば僕には若い入所者の人たちと上手く付き合う能力は全くないんだ。その点、和田さんはどんな人とだって上手く打ち解けてしまうし、すぐにみんなを明るくしてしまう。本当に凄いことだよ」
「……ありがとう」
和田は複雑な感情を取り繕うように薄い笑いを浮かべた。もう少し上手い言葉があったかもしれないが、ぱっと思いついた褒めるポイントを使い切ってしまった今、健人にはどうしようもない。
僅かな時間の沈黙の後、和田が再び中庭を眺めて口を開いた。
「本当はさ。死を受け入れさせることは死神みたいに鎌を得意げに振り回してる気がしてあまり好きじゃないんだけど。相田君にそう言ってもらえるんだから頑張って自己肯定感上げてみる。じゃあね、仕事に戻る。掃除の邪魔してごめんなさい」
健人の瞳は和田の顔に一瞬だけ差し込んだ苦悩を敏感に感じ取った。どうやら、先の褒め言葉は完全に的外れのものだったらしい。人の心を理解するのは本当に難しい。そういう出来事一つをとっても、自分の性質が嫌いになる。
「いいや、楽しい時間をありがとう。それじゃ」
手を振った和田に微笑み返し、健人は中断していた掃除を再開した。中庭ではゲートボールがいよいよ終盤戦に突入したのか、老人達が一層の盛り上がりを見せていた。
夜七時、入所者達が夕食を摂る時間だ。個室での食事を希望する入所者もいれば身体機能の衰えのために特別な介護を必要とする入所者もいるため、全てのニーズをなるべく満たすべく職員達はてんやわんやの大忙しになる。
「こんばんは、お兄さん」
「こんばんはタカイさん。初めまして、相田です。本日はよろしくお願いします」
健人の最近の担当の一人は、入所して三ヶ月になるタカイさんだった。小柄な女性で、鋭い視線をたたえる瞳に表われているようにとても洞察力の高い人である。ただし、特殊な健忘症を発症しており、毎食食事の世話をする健人のことを数時間と覚えていられない。そのため、健人は毎回個室のドアを開けては、「初めまして」と挨拶することにしている。最初の頃は自分が毎回の担当である事を彼女になんとかして理解してもらおうとした。だが、
―――ごめんなさい、また、忘れてしまったのね……
病の自覚があるタカイさんにとって、自分が人のことを忘れてしまうという現象に直面するのはとても辛いことのようだった。何度かそうやって悲しげな表情をさせてしまった後に、健人はいつも初対面であるかのように振る舞うことにした。そうする方が、タカイさんを傷つけないだろう、と考えたからだ。
手がしびれて動かないタカイさんの代わりにスプーンを使って粥を口に運び、それが嚥下されるのを待つ間、健人は部屋の隅を眺めた。今朝持ってきた生ゴミが饐えた匂いを発していた。
「ああ、お気になさらないで。私、来世がカラスらしいの。それを知ってからというもの、なんだか生ゴミのことが好きになっちゃって。変な話よね、ほんと。今ではもうあの匂いがないと落ち着かないの」
タカイさんに訪れた『知らせ』の姿はカラスだった。鳥の中でも嫌われ者であるカラスに生まれ変わることを、本人は気にしてはいないかのように振る舞っているが、昼間ふとしたときに生ゴミの方を眺めてはため息をついているのを健人は目撃したことがある。
「いえいえ、しっかり担当の者から伝え聞いておりますので、お気になさらず。そういうこともありますよ。例えば以前、毎晩のように集会場にある掲示板の張り紙がなくなっていたことがありまして。不思議に思って調べたら、『知らせ』として山羊を見た入所者の方が夜な夜なこっそり集会場にやって来てはその紙を口にしていたんです。本当の山羊は紙なんて食べないのに、ですよ」
「まあ、面白いわね。私は生ゴミを食べたくはないけれど、似たような物なのかしらね」
「生ゴミを口にすることは流石にお控えくださいね、私達でも責任がとれませんから」
不意に咳き込んだタカイさんの背を撫でながら、健人は攻撃的にならないよう努めて穏やかに注意した。ただでさえ個室に籠もる臭気のために他の職員達に敬遠されているタカイさんが健人すらも頼れなくなったなら、いよいよ弱り切ってしまうのではないかという怖れがあった。
「大丈夫よ、そこまで耄碌してはいないわ。それに、そうでなくとも私はもうすぐに死んでしまうのだから、ね?」
「……そう悲しいことを仰らないでください。私だってタカイさんには長く生きていて欲しいのですから。ほら、お粥が冷めてしまいます」
「ごめんなさい、つまらない話をしてしまったわね」
自分の悪い冗談を紛らわすようにひとしきり笑った後、タカイさんは目を閉じて口を開いた。餌を与えられるのを待つ雛鳥のようだ、と考えてしまうのはカラスの話をしたからだろうか。
再び長い時間をかけて口内の穀物を飲み込んだ後、少しだけ時間をおいて考え込んでから、タカイさんは顔を上げた。
「まあ、なんにしてもよ。こうやって『知らせ』を受けてから時間をおいて逝けるというのは、それだけで幸せなことだと思うの」
その目は閉じられたままで、僅かに曲げられた唇からはタカイさんが懐かしい思い出に浸っている様子が感じ取れた。
「息子と夫の話をしてもいいかしら」
目を開いたタカイさんは、そのまま笑みを浮かべて健人の両目を見つめた。鋭さの中に暖かさが垣間見える、そんなタカイさんの人生の深みを感じられる視線が健人は好きだった。
「ええ、お聞かせください」
健人の同意に感謝するように少し首をかがめ、そしてタカイさんは何度もこの個室の中で繰り返されてきた昔話を語り始めた。
「私にはね、自慢の息子が二人と最愛の夫が一人居たの。……夫が一人というのは、なんというか、私にとっては大事なことで、変に聞こえたならごめんなさいね。夫とは社内恋愛で、会社で出会ってすぐに恋に落ちたわ。あの時、夫は大学で出会ってきた男達とはまるで違って見えた。人間としての芯を感じた、って今なら分かるのだけど、当時のまだ若かった私にはそんな具体的には彼の魅力は見えていなかったのよね。それでも、あの人に見られているかもしれないって思うと私も大人の女性にならなくちゃ、って感じたわ。それで頑張って背伸びをしてみたら、幸いなことにあの人の方も私に吸い寄せられてくれた。でも面白いのが、夫が後になって言うには「君がたまに見せる子供みたいな一面がとても素敵だったんだ」って。私の頑張りは夫の気を惹くことには成功したけど、私の狙いとは全く逆に働いたらしいのね。
それで、自然と付き合うようになって、一年くらい経った頃だった。プロポーズは海沿いのホテルだったの。夫が全部手配してくれて、高いホテルだったから私も流石に何かを察してね。でもいざ向かってみたら丁度嵐がやって来たの。なんて運が悪いんだろう、って思ったけど、私以上に目に見えるほどに落胆した夫を見てどう言えば良いか分からなくなったのを覚えているわ。それでとても海なんて行ってる場合じゃなかったのに、あの人がどうしてもって言うものだから、ちょっと風が弱くなった隙をみて海岸まで出て行って。予約していたのは一泊二日のコースだったから、あまり時間がなかったので焦っていたのでしょうね。ああ、勿論砂浜みたいに波の当たるところじゃなくて、ちょっとした崖の上よ。それで、あの人なんて言ったと思う?」
―――僕と一緒にこんな風の中でも前に進んでいけるような、そんな二人になってくれませんか?
もう両手両足の指では数えきれないほど投げかけられてきた質問に対し、健人はいつもそうするように、脳内で一字一句違わない完璧な正答をタカイさんの声で再生した。想像上のタカイさんの夫の声はどのような風に響かせてみても、言葉の流れに似つかわしくないような気がした。自分の声を当てはめることはもっと気味が悪かった。
「安直に、僕のパートナーになってください、とかですか?」
上機嫌に自分の方を見つめるタカイさんの楽しみを奪ってしまうほど無神経ではないつもりだった。
「ふふ、まあ当たるものでもないわよね。……「僕と一緒にこんな風の中でも前に進んでいけるような、そんな二人になってくれませんか?」、だったわ」
「そうですか、とてもお洒落な言葉です」
健人にとっては何度も繰り返されてきた会話において、毎回異なる感嘆表現を用いなくても良いのはありがたかった。褒め言葉のレパートリーは幼い頃からの人を傷つけたくないという習性のため決して少なくはなかったが、それでも毎日のように繰り返される同じ内容の会話に対していちいち別の表現を絞り出すのは苦しいことだろう。
タカイさんは健人の返しに満足したのか、得意げな顔で話を再開した。
「風の中だしムードもへったくれもなかったけれど、それでも私はその手を取った。否なんてとっくのとうに私の中になかったもの、当然よね。ムードよりも、あの人が私を選んでくれた、それを口に出してくれた。それが一番大事だった。そしたらね、びっくりしたことに、雲が切れて私達の周りを日の光が照らしてくれたの。嵐のまっただ中で、よ? その瞬間、私達二人は絶対に上手くいくって分かったの。そして、その確信は外れることはなかったわ。私達は突然訪れた最後までずっと仲が良かったし、それは子供が産まれても変わらなかった。おしどり夫婦なんて言葉はきっと私達のために存在していた、そんな気すらするほどに。息子達も、とても真っ直ぐな青年に成長してくれたわ。二年離れた兄弟で、あまり喧嘩はしてなかった。兄の方は夫に似て、弟は私に似たの。二人の背丈が同じくらいだってこともあって、二人が並んで歩いていても誰にも兄弟だとは思われなかったのよね。でも、二人とも人を思いやることのできる人になってくれたのは本当に嬉しかった。兄の方は放送部で全国大会まで行った後に良い大学を出て、一流の企業に就職して。別に起業するって色気を出したって良いのに、その辺は保守的だったのかもしれないわ。就職してすぐ兄は添い遂げる人を見つけて、体育会系一筋だった弟の方もすぐに彼を追いかける物だとばかり思ってた」
タカイさんは一度口を閉じ、息を整えた。
「相田さん、で合ってたかしら?」
「はい、相田です」
「良かった。相田さん、今おいくつ?」
「今年で二十五になります」
「じゃあ、解放事件のことは覚えてないわね」
「はい。ですが、解放事件によって母が亡くなりました。私は当時まだお腹の中にいたらしく、緊急的な処置によって救い出されたそうです」
途端に、タカイさんの顔が陰った。
「それは本当に、お気の毒なことに。話を止めた方が良いかしら、お気に障るようなら何も無理に私の独り言なんかに付き合う必要はないのよ」
「いいえ、構いません。私は正直な所、母親に対して何らかの感傷があるという訳でもありませんから。父が私に注いでくれた愛情で私は十分に満足しています」
健人は警戒を強めたタカイさんの心を解すように柔らかな声色で続きを促した。全部を吐き出しきらないとタカイさんが満足しないのは把握していたし、何より、この後の話こそがタカイさんという人物が健人を惹きつけるものだった。
「そう……私もね、あのテロで三人を一度に亡くしたの。夫は休日で家にいたわ。突然立ち上がって何事かと思ったら、「見えた」って叫んでそのまま倒れ込んだの。それで二度と起き上がらなかった。慌てて救急車を呼んだけれど、何度かけてもつながらなくて。日本中であれだけの数の人間が同時に殺されたのだから仕方のないことではあったのだけれど、それでも当時の何も知らない私は夫を助けられない不甲斐ない社会を呪ったわ。息子たちも死んだとわかったのはその日の夕方ごろだった。動かない夫を車に乗せようとしたとき、兄のほうの奥さんから電話があってね。「病院へ連れていきたいので手を貸してください」、って切羽詰まった声で話されるものだから、私のほうも焦っていたし、もう会話にならなかったのを覚えているわ。そっちでは弟がたまたま兄の家を訪ねていたらしくて、二人とも同じタイミングで倒れ伏したんですって。父親と同じように、「見えた」って叫んで。そして、私だけ一人残されたの。酷く空しかった。私の中に思い出として三人の姿はちゃんと残っている。でも、足りないの。私にとって、あの三人は思い出の中で私が知っている姿でしかない、終わることなんて知らなかった無垢な魂のまま。私は、三人が何に生まれ変わったのかすら知ることができなかった。道ばたで若い親が連れ歩く赤子にあの子たちとの共通点を見つけて愛おしさを感じたり、野良猫の子供を見つけてひょっとしたら、なんて思うこともできないの。私や他のみんなの中からは三人がそっくりそのまま消え去って、おしまい。三人にとって、何の前触れもなく訪れた終わりは、どれだけの無念だったか分からない。だって、自分の人生を生きたと確認する間もなく無慈悲に無機質に終わりを迎えさせられたのだから」
死ぬときに苦しまなかったのが唯一の救いね、と小声で呟いて、長話は一旦の区切りを迎えた。そのタイミングを見計らって、健人は大分少なくなってきた粥の残りをさりげなくタカイさんに差し出した。ありがとうと述べてそれを口に含んだタカイさんを見守りながら、健人は生涯を共にしてきた疑問がいつものように自分の中で形を帯びていくのを感じた。
「生きる」とはどういう感覚なんだろう。僕は生きているのだろうか。
最早自身の肉体的側面の観察からは到達できなくなったその答えを得るために、健人は終の住処に就職し、沢山の死を観察し理解することで自分が生きていることを確かめようとした。何度か、前者の答えに近づいたと感じられるときもあった。しかし、そのたびに、自分のことが分からなくなった。どんな人に話を聞いても、人の生を定義しようとすると精神や心の話に帰着されてしまう節があったからだ。
僕の心は僕の物なのか、父と母がデザインしたのだから僕の物ではないのか。『人を愛して生きる』ことを電脳に刻み込まれ行動原理としている生体アンドロイドとしての健人の存在は、心という事象を考察する基盤としてはあまりにも不安定だった。
「湿っぽい話をしてしまったわね。何だか思い出話の押し売りみたいになってしまったけれど、何が言いたいかというと、私はほら、酷く忘れっぽくなってしまった。けれど、それでもこうやって自分の人生を振り返って思い出に浸ることができるし、私が一緒にこの世界に生きていたのだと他の人に確認してもらうことができる。私はこの世に何かを残して旅立てるのだと実感することができる。それがどれだけ幸せなことか。きっと、大切だった三人を失って空っぽになった私だから感じるのでしょう」
そこに、タカイさんの言葉はある一つの物差しを与えてくれた。「終わり方」。どういう性質だったのかではなく、過ごした時間や分かち合った経験を自分や周囲の人たちと確かめ合う、その課程を生として尊ぶべきだという考え方だと健人は理解している。作られた心であっても、立派に生きたことを証明することは可能かもしれない。その解釈は、健人にとって大きな希望となっていた。
そして今日もまた、タカイさんの口から語られる昔話を、健人は勝手に生命の解説に変換しながら聞き届けた。最後の言葉の余韻が部屋から遠ざかったところでタカイさんがお茶を要求したので、健人の思索はそこで一旦区切りとなった。火傷しないよう少し冷ましておいた湯飲みにストローを刺し、タカイさんに差し出す。
「ご馳走様、美味しかったわ。付き合ってくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ実りあるお話をして頂いたこと、本当に感謝しています。何か他にお手伝いできることはありますでしょうか?」
「いいえ、今はないわ。何かあればコールボタンを押すから。また明日も来てくださる? 私、相田さんといるとずっと親しくしていたみたいにリラックスできるみたいなの」
つん、と胸を刺す空虚感を隠すことには、もう慣れてしまった。
「そうですか、それは嬉しいお言葉です。分かりました、では明日以降も私がタカイさんの担当になれるよう、シフトを調整してみますね。今日はありがとうございました、また明日」
タカイさんには理解されない感謝の念をせめて一心に込めて別れの挨拶として、健人は個室のドアを開け外に出た。
「ええ、また明日」
そして、扉を閉める。
これで、今日のタカイさんとはもう二度と会えなくなるのだった。
それから少しデスクワークを行なってから、夜シフトの職員に軽く引き継ぎを行ない、健人は家路についた。夜の九時だった。周囲は住宅街とはいえまだ明るく、人々の息づかいが感じられた。
【仕事終わった 帰ってる】
【了解 ご飯温めとく】
数分前に送ったチャットに返信が来ていることを確認して、健人は視界からウェアラブルデバイスの画面を切り離した。そして健人はいつもそうするように、周囲に立ち並ぶ一軒家たちのなかで育まれている一家団欒の姿を想像することを始めた。
いま通りすぎた家からは、天然肉の焼けるいい香りと子どもたちのはしゃぎ回る声がした。きっと今日は誰かの誕生日なのだろう。