表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
機械と愛と烏  作者: 諭吉
三章
19/45

MemoryLog: 2179 07 13 -[2]

〈Loading: MemoryLog: 2179 07 13: Section a:14-16〉




 雨が降り出したのは、二人がカフェに入って一息ついてからすぐのことだった。雨脚は地面が水玉模様に染まるという程度だったのもつかの間にあれよあれよと強まり、注文したカフェオレが二つとドーナツにチーズケーキが届く頃には、滝が地面を打つかのような轟音が鳴り響いていた。雨雲自体は非常に小さかったのか、日光は雨の降る間も差し込み続けて、窓を流れ落ちる水の流れによって乱雑に屈折しカフェの店内をでたらめに染めていた。三十分後には予報通り雨は上がり、その頃に丁度花菜がチーズケーキを完食したのを機に二人は席を立った。



 外に出るなり、健人は顔をしかめた。相変わらず日差しはギラギラと照りつけていたが、そこに雨が降ったことで湿度が増し、先ほどにも増して過酷な環境が生まれていた。

 会計とお手洗いを済ませてから遅れて出てきた花菜も、すぐに似たような顔になった。


「暑ぅ! 中戻らない!?」

「時間あるなら僕もそうしたいよ。クーラー最高」

「クーラー作ってくれたご先祖様ありがとうございます……」

「変な話していいかな」

「いいけど何の話?」

「技術開発の果てに地球を温暖化させたのもご先祖様たちだから、ある意味クーラーってマッチポンプだと思ってるって話。どう?」

「……うわ。うーわ、うわぁぁ、やだ、それ気付きたくなかったって」


 健人の言葉に受けた衝撃があまりにも大きかったのか、それとも既に熱にやられてしまったのか、花菜が顔を落として呻きながら戻ってこなくなったので、健人は少しの間その姿を楽しませてもらってから本題に触れることにした。


「とりあえず橋の上から景色を眺めて写真撮るよね、あとは何をすればいいと思う?」


 そう声を掛けると、花菜はえっと、と呟き、自分に活を入れるためか、勢いよく顔を上げた。


「さっきあった「これは重要文化財です」の文章って記録した?」

「あ、してないや。画像とってAI分析して、ついでに橋の裏側も覗いて、それであとは……なんかあるかな」


少しの間があって、他の可能性に思い当たらなかった二人はうなずき合った。どちらかと言えば、暑さから早く逃げ出したいという欲求が先行したような感じがあったが、自己防衛のためと思えば問題はないだろう。


「もういいよね、さっさと帰ろ」

「じゃああと少しがんば」


「キャーー!!」


 突如周囲に響き渡った耳をつんざくような悲鳴のために、健人の言葉は尻切れになった。

 

 川の方から聞こえてきたその悲鳴に続いて、沢山の子どもが騒ぎ立てる声と大きな水音が閑静な住宅街にこだました。そして、健人と花菜が完全に川に意識を向けた直後に、「逃げて!」という明確な意図をもった叫びが上がった。

 何らかの緊急事態が起こっていることは明らかだった。


「何!?」

「川の方だ」


 思わず健人は駆け出した。カフェの正面に小高い丘のようにそびえる堤防を大股で登り河川敷の一帯を見回すと、叫びを上げたであろう子連れグループの姿がすぐに見つかった。

 雨宿りのために橋の桁下に逃げ込んだのだろうか、二人のフィールドワークの目的であった橋のたもとに子どもが数人。堤防の土手を少し上ったところで水浸しの服を絞っているのが数人。母親たちは河川敷に立ち、雨のために増水してすっかり濁った川の中央に向けて手を伸ばしながら何度も上流側に目線を遣っていた。彼女たちが手を伸ばす先、橋の中央部にある橋脚の下流側にできた小さな島のようになった場所には、一人の女の子が取り残されていた。雨と水しぶきに濡れた髪が張り付く顔面は蒼白で、恐怖のためか彼女は涙を浮かべているように見える。


 状況としてはおそらく、彼女は水の勢いに怯えてしまい川を渡ることができないでいるのだろう。突然の嵐に見舞われ仕方なく雨宿りをしているうちに、想像以上に水の勢いが増してしまったのかもしれない。目の前を流れる川は、確かにたった三十分前とは同じ川と思えないほどに風貌を変えている。

 母親たちは口々に声を掛けるが、しかし彼女たちも女の子も増水した川の流れに阻まれ動けないままで、それどころか段々と水位が上がっていくのに従ってさらに離されてしまう有様だった。


「うわ、雨の時に川の中にいちゃだめだって」

「突然降り始めた上にすごい強かったからね。そんなこと考える暇もなかったのかも。なんにしても、まずいな」

 健人は周囲を見渡してみたが、自分以外に体力のある成人男性かそれに近い体格を持った人間は見当たらなかった。

 であれば、自分が手助けする必要がありそうだ。


 健人は背中に背負っていた鞄を下ろし、汗拭き用にと持ってきていたタオルを取り出してその上に置いた。


「後でそのタオル持ってきてくれない?ちょっと行ってくる」

「え、助けに行くの? 危なくない?」


 体を動かして筋肉をほぐしつつ、心配そうな声色の花菜に答える。


「危ないけど他に頼れそうな男の人もいないし、仕方ないかなって」

「……まあそれもそうだけど。気をつけてね」

「大丈夫、へまはしないよ」


 振り返ってそれだけ言い残し、心配に少しの呆れが混じったような顔の花菜を背後に、健人は堤防の土手を駆け下りた。


 遊歩道的に整備されている部分を進み少しでも水深が浅い箇所を探そうとするも、水の濁りのためにそれは上手くいかなかった。仕方なく、健人は単純に橋脚へ川を直角に突っ切る最短距離を進むことを決め、橋の近くへと移動しようとした。


 その時だった。健人はずっと鳴り響いていたごうごうという音が突如音圧を上げたのを感じ取って、思わず立ち止まり音の出所を探した。


 答えは、橋の反対側、川の上流にあった。


 橋のたもとにいて声をかけ続けていた母親たちが悲鳴を上げてその場から逃げ出した。直後、それまで水を被っていなかった河川敷までもを覆う勢いで、大量の水が濁流となって橋の上流側からごうごうと音を立てて流れ込んだ。その水はすぐに健人の立ちすくむ地点にまで到達し、強烈な勢いで健人の足下を掠った。


 川の中から大きな泣き声が届いた。見ると、女の子は橋脚にしがみついて流されまいと必死に抵抗している。既に先ほどまで陸地となっていた辺りには大きな渦ができていて、今は奇跡的にその渦によって彼女を橋脚に押しつけるような流れが生まれていた。

 しかし、彼女の運が尽きたとき、その後に待っているものはあまりにも明白だった。


 健人は足を一歩踏み出そうとした。しかし、その踏み出した足が川の少し深い部分に降ろされようとしたとき、予想以上の横向きの力が加わりバランスを保つことができず、健人は慌てて両手と膝を地面につくことになった。動かないでいるのがやっと、といった具合にまで一気に水位が上昇しており、健人の前に最早救助の術は残されていなかった。


 打つ手無く、健人は堤防の土手まで撤退した。


 無力なまま見ている間にも、水位はじわじわと上がり続け、あまり背の高くない女の子のすねの辺りにまで水が届くようになっていた。


「あの、大丈夫? 倒れかけてたけど」


 ふと目の前に真っ白いタオルが差し出された。


 健人は一瞬それが何を意味するのか測りかねた後、自分の体が濡れそぼっているのを思い出し、躊躇いながらも差し出されたタオルを受け取った。


「その、ありがとう」


 助けられなかったことを自分の責任だとは思わなかったが、それでも自分の手が彼女のもとに届くことを疑っていなかった健人にとって、今の状況は歯がゆく、そして恥ずかしいものだった。


「いいよ」

「……どうしよう。なんとかならないかな」

「さっきお母さんたちの誰かが電話してるのが見えたから、きっと救助隊はすぐ来ると思う」

「……それは良いんだけどさ、」

「私達みたいな一般人にはもう厳しいんじゃないかな」


 暗にお前には無理だろうと言われたことが理解できた。

 暗い顔色の花菜はまるで健人を諦めさせるかのように話し、そして、健人にはそれを否定できるだけの力はなかった。


「そう、かもしれない」


 消防が到着するまでにどれほど時間がかかるだろうか、と健人はウェアラブルデバイスから地図で確かめ、そしてその検索結果に歯ぎしりした。


 近くにある消防署から車でここまで辿り着くには、どれほど早くても5分はかかる。


 それまで彼女は保つだろうか? 水位は下がるだろうか?


 どちらの問いについても、健人はすぐに否定的な答えを得た。

 先の雨を降らせた雨雲の移動経路は、まさにこの川の流路の上流から下流に向かってのものだったらしい。都市空間の表層はアスファルトに覆われており、降った雨水は地面に染みこむことなくそのまま側溝を伝って排水される。その先にあるのは決まっている。川だ。

 つまり、今後この川は流域に降った大量の雨水を殆ど全て単独で受け止めることになる。水位の上昇が始まったすぐ後の時点でこれなのだ、更に水勢が増すということは想像に難くない。そうなったとき、彼女が消防の到着までの時間を耐え切れる可能性は、極めて小さいだろう。

 


 ふと、健人は自らのシャツが弱々しく引っ張られるのを感じた。

「ねえ」


 そう言って花菜は心配そうに女の子の方をみて、そして目を伏せ、空いている方の手で堤防の上を指さした。


「ちょっと離れない?」


 意図するところは明らかだった。

 女の子が流され、ともすれば命を落とすところを目の当たりにしたくないのだ。


 そして、それは健人も同様だった。


「……そうしようか」


 小さな声で、健人は同意の意を口にし、全てを諦めることを宣言した。自らの無力を呪いつつ後ろ髪を引かれる思いで堤防を上り、川を後にしようとする。



「おがぁーざぁーん!」

「頑張って、もうすぐ助けが来るから、消防士さん呼んだから! 頑張って!」


 背後から痛烈に響いてきた悲鳴に捕らわれて、健人は振り返った。女の子は一層激しく泣きわめき、膝から崩れ落ちようとしているのは彼女の母親だろうか、無力にそれを眺めるしかない大人たちの叫びは耳をつんざくばかりだった。


 そこにいる誰もが、女の子が生きて帰れないというとても現実的で差し迫った未来に怯え、絶望を突きつけられて、激情を全身から立ち上らせていた。



その光景を目の当たりにして、健人の頭のなかに一つの言葉が踊った。


「いいかい、健人。お前は、全ての人を愛するために生まれてきたんだ。手の届く限りあらゆる人間に降りかかった不幸に立ち向かい、隣に在り、そして幸せに導くんだ」


 全ての人を愛して生きる。あらゆる人間の不幸に立ち向かい、幸せに導く。


 それに従わなくてはいけない、彼女たちを愛する健人は、彼女たちの不幸を見逃すことなどできない。



 一気に健人の思考はクリアになった。


 女の子の身に降りかかった不幸に立ち向かうには何をすればいい?

 そんなの、決まっている。助ければいいだけだ。


 健人は立ち止まり、考え始めた。

 そのためにはどんな方法があるだろうか。


「近所にこういうときの対処法を知ってるひととか、すごく屈強な大人の人とか、いたりしないかな」

「……どうかしたの?」

怪訝な顔で花菜が質問してきて、それで健人は自分の思考が口に出てしまっていたことに気が付いた。

 ただ、そんなことは些細なことだ。むしろ彼女の知恵も借りられればより効果の高い手段が見つかるかもしれない。


「絶対に助けなきゃいけないから、そのための方法を考えてる。一緒に考えてくれる?」

「……助かると良いねとは思うけど、さっき私達には無理だって話したじゃん」


 花菜は一瞬何を言っているのか分からないというような顔を浮かべて、そして首を横に振った。

 健人はそれに反発した。

「助かると良いね、じゃないよ、助けなきゃいけないんだ」

「突然どうしたの?さっきまでと言ってること全然違うって」

「考え直したんだ。助けなきゃいけないんだ」

「えぇ?」


 花菜が戸惑いの顔を浮かべていたが、取るに足らない自分の思考などというものを説明するよりも考えることに時間を割くべきと判断した健人は、彼女の抱える困惑を放置することにした。


「とにかく、あの子を助けるための方法が要る。考えないと」

「どうやって?無理だよ、諦めようよ。もうすぐ消防が来るらしいじゃん、任せれば良いって」


 それを聞いて、健人は既に彼女の中で確定した結論が、ちょっとやそっとでは動かないということを理解した。


 なら仕方ない。自分一人だけでもいいから、とにかく思考を巡らせなくては。 


「近所からこういう時の対処法を知ってる人を探してくるとか」

「見つかるわけないよ」

「脚立とかロープとか、そういうのであの子の所に行って支えるとか、」

「二人とも流されるに決まってるって」

「じゃあ、大人たちで手を繋いで川の中まで手を伸ばせば」

「誰が? あのお母さんたちにやらせるの? 男の相田くんが立てないような川で?」


 言い合いのようになったが、上手く全てを解決しうるような策は思い浮かばず、対照的に健人の態度にいらついているのか花菜の声は段々と大きくなっていった。


「そもそも相田くん、さっきあんな浅いところでも何もできなかったんじゃん! ねえ帰ろ、すぐに消防士が来てくれるって!」

「そう」


 花菜が叫ぶようにして健人に否を叩きつけたところで、健人は彼女に計画の立案に加わってもらうことを諦めた。

 彼女から視線を外し、思考クロックを加速する。スローになった世界の中で、乾坤一擲のひらめきが自らを訪うのを信じ考え続ける。


 しかし、彼女の言うことはあまりにも的を射ていた。この場で最も力があるであろう健人自身ですら、あの濁流に対してはまるで歯が立たなかったのだ。今の手札だけで実行に移せる策など、まるで思い浮かばない。


 何か、思いも寄らないような一手はないだろうか。



「ねえ、帰ろうよ!」



 花菜が動かなくなった健人を揺さぶり川の外に連れだそうと引っ張るのを、スローになった世界で捉えながら、考え続ける。

 そして、なにも思い浮かばないままに時間だけが過ぎていく。


 あらゆるものを観察する。使えるものがあるかもしれない。


 鳩、川辺に生えている植物、河原の石、流れてくるゴミ、橋の上を通る電線、石碑、橋脚の形状、自然に置かれた風に装われた大きな岩。


 どれも女の子にとっての助けになりそうもない。

 他には。


 水の流れの時間的推移、午後の遅い時間となりやや傾いた太陽、雨水を垂れ流す何らかの排水パイプ、対岸に見える細い水位標、橋の欄干から何が起こっているのかと身を乗り出すお年寄り、


「ねえったら!」


 うなりを上げて勢いを増し続けている水の流れ、踏み込むことができないその勢い、辛うじて橋脚にしがみつくも左右に揺さぶられ今にも力尽きそうな女の子の両腕、間に合いそうもない消防の救助、どんどんと広がっていく女の子と大人たちとの距離。


 状況は絶望的で、


 自分の幅跳びの期待できる距離と川幅の関係、二十五メートルを十七秒で泳げる自分が川幅の半分を泳ぎ切るのに必要な流下距離の計算、高校二年の平均値からやや上程度に設定されているであろう現在の身体スペックにおける予測不可能な流れに対抗できるだけの身体コントロールの想定、非現実的、環境設定変更の後再度想定、非現実的、アプローチ手法変更の後再度想定、非現実的、


 そして健人はあまりにも無力だった。




 いつしか、健人は思索を巡らせるより、自分の無力さを嘆くことに思考リソースを割くようになっていた。


 僕にもっと力があれば物事はもっと単純だった。

 こんな弱い肉体でなければ。


 だが、小学校の運動会で起こった一件のために、弱くなることを望んだのは健人自身だ。



「……もう、」


 

 あの時、もっとあらゆることを考えられていたなら、勲に頼んで強い力を身につけさせてもらうこともできたかもしれないというのに。弱いよりも、強い方が、何かあったときに有用なのは明らかだとどうして思い至れなかったのだろう。


 しかし、いくら悔やんでも、あの時に勲が書き換えた出力制限の閾値設定は、反対に、健人の身体から力を失わせてしまっている。今から帰って勲に身体の調整を任せる時間などあるはずもない。



「勝手にすれば!?」






 その時。


 天啓が健人の頭に降りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ